反転青春 - タテ書き小説ネット

反転青春
伊川なつ
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
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︻小説タイトル︼
反転青春
︻Nコード︼
N2454BO
︻作者名︼
伊川なつ
︻あらすじ︼
幼馴染最愛な女子高生、春香。そんな春香は何故かある日突然男
の体に!
春香の幼馴染、メイは男性恐怖症。
さぁ、春香はこれからどうしましょう。
◇
1
NLなのかGLなのか作者はいまいち分かりません。
1話の登場人物は名前のみ載せているので読まなくても問題ありま
せん
2
名前︵前書き︶
名前確認のページです。ネタバレはなし。
読まなくても問題ありません。
まだ登場していないキャラクターの名前も載せることがあります。
3
名前
※随時更新・追加
反転青春登場人物一覧
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1年2組所属
春香
ハルカ
入江
メイ
イリエ
永瀬
由里
タカオ
ナガセ
高尾
誠
トダ
マコト
ユリ
戸田
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1年5組所属
春美
ハルミ
入江
かえで
ハラダ
原田
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
モモ
1年1組所属
ミズウチ
桃
ユメ
水内
夢
アラフキ
荒吹
4
鞠
マリ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その他
カワサキ
川崎
入江
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
未登場
聖太郎
セイタロウ
入江
勝正
カツマサ
荒吹
5
ふわり、微笑み
何で仲良いの?
そう聞かれることがたびたびある。
小学校からの付き合いなんだ。そう答えると気のない相槌が返され
一緒にいて楽しい
とちょっと嘲笑が入ったような笑みを向けられた。
る。そしてその後、でも全然タイプ違うよね?
の?
ここでキレるなんて子どもっぽいことはしてはいけない。もう高校
生だしね。女子の中で生きる術はだいたい身につけてる。この場合
はにっこり笑って、そうかなーって相槌。
﹁たしかに人見知りだけど、優しい子だよ﹂
ついでにちょっとフォローを入れなきゃ気が済まないなんて、やっ
ぱり私もまだ子どもなのかもね。
昼下がりの教室。ほとんどのクラスメイトは昼食を済ませ、学食に
行っていた生徒も戻ってきている。春の暖かい空気を感じつつ、友
達と談笑する者、昼寝をする者、次の授業の予習をする者など様々
だ。
私のフォローに若干いぶかしげな表情をするクラスメイト、高尾か
ら、不自然にはならない程度にゆっくりと視線を外す。
目を向けるは黒板の前。話題の当事者が、小さい背丈をうんと伸ば
して黒板を消していた。
本日の日直にして私の幼馴染、永瀬メイ。
その小柄な体躯は細すぎず太すぎず。伸ばす手の動きにつられてひ
ょこひょこ跳ねるのは、黒のショートボブ。ふわふわに巻いたロン
グヘアがご自慢の高尾からしたら、恐らく小学生のようなやぼった
い髪型だ。
でもあの子はあれがいいのよー。心の中でうむうむと頷く。気分は
親バカだ。正しくは身内バカか。
﹁春香、何にやにやしてんの﹂
﹁え、してた?﹂
6
高尾が半眼できめーよ、と呆れる。
﹁いや、メイが全然届いてないからつい﹂
﹁確かに。本当あの子、小動物っぽいよね。ちょっとぶってるって
いうか。つーか今日の日直の片割れ誰よ。助けてやりゃいいのに﹂
高尾がぐるりと教室を見渡す。
この子、口は悪いけどそんな悪い子じゃないな。メイを庇ってくれ
てるようなので、ちょっとだけ株アップ。
頭の隅にそんなメモをしていると、ふらりと一人の男子が黒板に近
づいた。日直の片割れ、戸田だ。黒板消しを手に取り、メイが苦戦
していた白文字をさっと消す。その瞬間、メイの肩が大げさに跳ね
た。彼女の手からは黒板消しが一緒に跳ねて、思った以上に大きな
音を立てて、床に粉を撒き散らした。
﹁あらら﹂
﹁何やってんの、アイツ﹂
私はため息。高尾はまた呆れ顏。
メイは焦って﹁ごめんなさい﹂を連呼しつつ、黒板消しと床の粉を
片している。
あれは後で優しい親友が慰めてやらないとね。
﹁ハルちゃん∼﹂
あの後の授業とHRがつつがなく終わり、すぐさまううーっと呻き
ながらメイが近づいてきた。私もカバンを手に取り、二人で教室を
後にする。
ナチュラルに甘えてくる小動物代表なメイ。彼女のああいった声を、
可愛いと評するかうざいと評するかは男女ともに半々くらいだ。私
は当然前者代表である。
メイの場合は、そのぱっちりした瞳の人好きする顔が功をなしてい
る。もしこれで今以上に綺麗な顔立ちをしていたとしたら、女子か
7
らは確実、ぶりっ子の勘違い女と非難轟々だろう。私だって今みた
いに仲良くできている自信はない。美少女と並んでも平気なほどの
顔立ちはしておりませんもの。そんなことを考えつつ、目の前のシ
ョートボブをぐしゃりと撫でた。
﹁泣くな泣くな∼﹂
﹁泣いてないよ!﹂
きっと上目遣いで睨まれる。確かに涙は浮かんでないが、鼻が微か
に赤い。堪えていたのだろう。
﹁ああもう⋮⋮またやっちゃったよ⋮⋮変だと思われたかも﹂
全身で落ち込むメイ。心なしかどんよりと周囲の空気も淀んでいる。
﹁まぁまぁ叫び声出さなかっただけいいじゃない﹂
﹁そうだけど⋮⋮﹂
戸田くんに悪かったなぁ⋮⋮と呟いている。確かにねぇと私は相槌
をうち、戸田の驚いた顔を思い浮かべ、苦笑した。
戸田の名誉のために言うが、メイが戸田との接触に驚き、チョーク
の粉を撒き散らしたのは彼のせいではない。
ひとえにメイの男性恐怖症のせいである。
共学に通っていることから分かるように、そこまで重度ではないが。
彼女曰く、女子高に行きたかったが成績と学費の関係上、親から反
対されたとのこと。
おかげで彼女は、クラスメイトの約半分に極力触れないよう、警戒
しつつ過ごしている。難儀なことだ。
﹁あーあ、はやく治したいなぁ﹂
﹁そうね。このままじゃ彼氏も出来ないでしょうし﹂
﹁それは別にいいけど⋮⋮﹂
拗ねたように唇を尖らせている。男性恐怖症な彼女はどうやらまだ
恋愛にセンサーが向かない模様。そもそも具体的な接触が恐怖のた
め、イメージも憧れもあったものじゃないようだ。
彼女にも淡い初恋はあったように聞いているが、それも遠い過去の
こと。
8
若い身空でもったいないなぁ。これから青春真っ盛りのぴちぴち女
子高生だというのに。かくいう私も今はフリーであるが。
﹁まぁ、私にできることあれば協力するよ。のんびり治してこ﹂
そう言うと、メイはようやく顔をあげて笑顔を見せた。ぱぁっと綻
ぶような。
﹁ありがと﹂
控えめに呟かれたお礼も喜びが滲んでいる。
あーもう可愛いな私の幼馴染は!
内心で叫び声を挙げつつ、私はメイに微笑み返した。
9
ふわり、微笑み︵後書き︶
息抜き小説なので更新は遅いですがどうぞよしなに
10
くるり、反転︵前書き︶
連続で失礼します
11
くるり、反転
﹁ただいまー﹂
玄関を開けてローファーを脱ぐ。中学はスニーカーだったから、履
き慣れていない硬い靴はちょっとだけ足が痛い。けれど高校生にな
ったんだなぁと実感し、唇が緩む。
キッチンから﹁おかえりー﹂と母親の声だけが響いた。
自室の扉を開けて、重いスクールバックをベッドに放り投げる。
﹁あれ?﹂
ブレザーのリボンを外しつつ、ふと、クローゼットの奥に置いてい
るボックスの蓋がずれていることに気づき、手をかけた。
﹁もう切らしてたっけー?﹂
買いだめしている生理用品の袋が空だ。トイレにいって戸棚を開け
て確認。こっちもなくなっていた。
﹁おかーさーん、私のナプキン使ったー?﹂
キッチンに届くよう叫ぶ。すぐさま否定の言葉が帰ってくるが、絶
対嘘だ。減りが速いもの。私の買ってるやつの方が高いんだから勘
弁してほしい。まだしばらく周期は後だけれど、買いにいかなきゃ。
﹁女って本当めんどくさぁ⋮⋮﹂
部屋に戻りながらぼやいていると、私の隣の部屋の扉が開いた。
﹁お、ただいま﹂
﹁⋮⋮おかえり﹂
高校生にしては澄んだ中性的な声が返って来た。相変わらず無駄に
いい声である。
扉の隙間からこっちを見てくるのは、私の双子の片割れ、春美だ。
いつものように毛布をすっぽり被っているくつろぎスタイル。女っ
ぽい名前だが、この春から私と同じ高校に入った男子高校生である。
といっても春美は一度も学校には行っていない。中学の途中から絶
賛引きこもり続行中だ。よく私と同じ高校に受かったものだと感心
12
する。もともとの頭がよろしいのでしょう、と僻み半分。
双子だけれど私たちはあまり似てない。
春美はおっとりしていて、あまり大きな声を出すことはない子ども
だった。男のくせに私よりもずっと長い睫毛をぱさぱささせて、黙
って微笑んでいることが多い。たまに引っこ抜いてやりたくなる。
対して私は子どものころから活発で大人たちに怒られることも褒め
られることも多かった。男女逆だったらねぇ、なんて親戚のおばさ
んたちに笑われることはしょっちゅうだった。
﹁どしたの。部屋から出てくるなんて﹂
﹁春香が変なこと叫んでたから﹂
﹁やっだ、聞かないでよ﹂
﹁⋮⋮そう思うなら叫ぶなよ﹂
真っ当な反論に、私は舌を出して誤魔化した。
ふわりと意識が浮上し、身じろぎする。自分口から漏れた声で完璧
に目が覚めた。くあ、とあくびを一つ。ケータイを見るとアラーム
をかけた時間よりも随分早い。
晩御飯をたべたあと、いつの間にか寝ていたらしい。歯も磨きそこ
ねてた。やだなぁ、最悪、と思いつつ取り敢えず起きる。
ぐーっとベッドの上で、猫のように伸びをする。睡眠で固まってい
た体をほぐしてーー違和感。
あれ?痩せた?
妙に骨が当たる肩をぐりぐりと揉む。それから足の付け根、まあぶ
っちゃければ股に引っかかるような違和感。
じーっと観察。
ああうん。朝だもんね。本当になるんだぁ。そっかそっかぁ。
﹁⋮⋮うっそぉ⋮⋮﹂
さーっと血が引いていく感覚。
13
慌ててトイレにいって駆け込み、確認。ふむ。ふむ、わけわからん。
取り敢えず用を足して、なんとか対処。
﹁ええーうっそこれまじかぁ⋮⋮なんのドッキリよぅ﹂
うずくまり、呻くこと数分。
取り敢えずこんなとこにいてもしょーがない、と自室に戻る。
さて、どうしましょ。まじまじとパジャマの上からであるが、自分
の姿確認。
骨がね、ごつっとしてて、下には男の人の証があって。そういえば
声も心なしかいつもより低かった。べたべたと自分の体をあちこち
さわる。ここの手首、いいよねぇ。男の手首のごつごつはきゅんポ
イント。腕の上の筋肉も薄めだけどなかなか。自分のフェチをぼや
きつつ軽く現実逃避。と、胸に手を当てたとき、私は戦慄した。露
骨な変化を遂げた下ばっか気になっていて気づかなかったが⋮⋮⋮
胸筋?
⋮胸がない。いやあるにはあるけどあのふんわり柔らかな脂肪の塊
がない。なんか硬い。なにこれ筋肉?
﹁えええええ、そんなぁ!﹂
起きて一番のショックである。下が付いたよりもかと呆れられるか
私の自慢のCカップどこいった!
そんなに大きくはな
もしれないが、それはそれ。私的にはプラスよりもマイナスの方が
衝撃よ!
いけど形はなかなか結構なものだったのよ!?
脳内でわぁわぁ叫んで混乱していると、ケータイのアラームがなっ
た。いつもの起床時間。
素朴な疑問が湧いてきた。こんな事態では
﹁⋮⋮これからどうしよう﹂
これ学校いけるのか?
そもそも学校どころではないのだが、今の私に冷静な思考をしろな
んて無茶難題である。
学校。そこからふと思い出すのは、可愛い可愛いショートボブの幼
馴染。男性恐怖症の小動物。
⋮⋮これ、私、嫌われるんじゃね?
14
ちゃんちゃんと鳴り続ける無駄にハイテンションなアラームの音が、
急に遠くなった気がした。
15
さっぱり、チェンジ
とりあえず学校には休みの電話をいれた。いつまでも起きてこない
ことを心配して部屋まで来た母に、布団かぶって﹁今日休む﹂と言
えば、いつもとちょっと違う声のおかげか、とくに怪しまれること
もなかった。母が仕事に出たのを見計らって、布団から這い出る。
父は単身赴任で不在だし、春美はたまにしか部屋から出てこないか
らもう大丈夫だろう。
クローゼットから着古したジャージを引っ張り出し手早く着替える。
肩のラインが合わない。下の裾もちょっと浮いている。ぱっと見の
体型に大きな変化はないが、こうして服を着ると、やはり男なのだ
なぁと感心した。⋮⋮いや、感心してる場合じゃない。
部屋の姿見の前に立つ。こうやって明るいところで見ると違和感ば
りばりだ。顔つきもそんなに変化はない。自分だとギリギリ認識で
きる、と思う。けどまごうかたなく男。
顎の骨が昨日よりも少し浮き出ている気がする。喉にはぽっこり喉
筋?
まぁいいや。
仏。試しにぐりっと押してみると﹁ぐぇっ﹂っと声が出た。これ謎
だったのよね。骨?
﹁こうしてみると春美に似てなくもない⋮⋮かな?﹂
あまり自信がないが。
姿見の前で、まるでデートの前の乙女のように︵実際はボロいジャ
ージ姿の男だ︶くるくる回って全身チェック。私の髪も一緒にくー
るくる。
⋮⋮違和感はこれか?
動きを止めて、胸元までのびる明るめの色の髪をひとつまみ。昨日
と変わらぬ髪型。ロン毛の男なんて今時珍しくもないけれど、やっ
ぱりここだけ浮いている気がする。
16
﹁というわけで来ました﹂
﹁どういうわけ?﹂
突撃隣の春美さん。ちょいと髪を切ってくださいな。
そんなことをいって春美の部屋をノック。困惑顔の春美が扉の隙間
から顔を出す。いつもの毛布スタイル。魔法使いのローブみたいよ
ね、それ。だいぶカッコ悪いけど。今度の誕生日プレゼントは着る
毛布にしようかしら。去年、嫌味で贈った靴よりは喜ばれそうだ。
そんなことを考えつつ、無理矢理体を部屋に滑り込ませる。﹁ちょ
私の姿とか声になん
っと!﹂と春美が抗議の声をあげるが、こちとら緊急事態なのです
よ。
﹁どうしたのさ、急に﹂
﹁だってほら、この髪型似合わないでしょ?
か思うことないわけ?﹂
私の言葉に、春美は頭に引っ掛けた毛布をはいだ。魔法使いの次は
てるてる坊主みたいだ。じろじろと私の姿をくまなく観察。
あんた今まで誰と話してたつもり?﹂
﹁⋮⋮えっ、誰?﹂
﹁遅いよ!
﹁いやいやいやだってなんで?!﹂
﹁それは私がききたいわ﹂
なんでそんな落ち着いてるの?﹂
あわあわなってる春美に私はため息をつく。
﹁⋮⋮春香、だよね?
﹁いやだって⋮⋮慌てて元に戻るなら全力で慌てるけど﹂
放心している春美。
﹁ちょっと、春美?﹂
﹁⋮⋮あぁ、うん⋮⋮そうだね、春香はそんなコだったね⋮⋮﹂
そんなに驚くか。
﹁もー、とりあえず髪切って。洋服もろくなのもってないしこんな
んじゃ美容室いけないの!﹂
﹁⋮⋮ええー⋮⋮俺が切っていいの?﹂
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﹁いいよ、あんた上手いじゃん﹂
春美はここ何年も美容室には行かず、自分で髪を切っている。引き
こもり上級者は格が違うのだ。その腕を見込んでの頼みだ。
春美に言われた通りにバスタオルと霧吹き、ブラシに散髪用のハサ
ミ、髪留めを脱衣所から調達してきた。春美はそれらを手早く動か
し、さっさと私の髪を整えてくる。毛布スタイルのままで。
﹁動きづらくないの、それ﹂
﹁毛布とは一心同体だから﹂
さいで。
ちゃきちゃきと女の命が切られていく。まぁ男ですからね。春美の
動きは淀みなく、綺麗だ。全く日に当たっていない指先は白い。
﹁春香はさ、どうしてすぐ俺に話したの?﹂
﹁んあ?﹂
髪を触られうとうとしていたので、春美の言っていることがすぐに
は理解できず、首を傾げる。すぐに﹁動かないで﹂と髪を引っ張ら
れた。
いきなり性別が変わるなんて。頭お
﹁話したってこの体のこと?﹂
﹁うん⋮⋮普通、怖くない?
かしな男が不法侵入してきたと疑われてもおかしくないよ?﹂
﹁いや、それは春美が鈍くて助かったわ﹂
あんまり深く考えてなかったけどーと笑う。しかし春美は唇も眉一
つも動かさず、心配そうに瞳を揺らしている。
﹁なんであんたがそんな顔すんの﹂
﹁だって⋮⋮いつ戻るか分からないなんて怖いだろ﹂
﹁それは春美じゃなくて私が心配することよ!﹂
そんな顔しない!と切り捨てる。
﹁大丈夫よ。なったもんはしょーがないんだから。なんとかやって
18
く﹂
今は男だけどね。
そのために、いま髪を切ってもらってるのだ。
細かいことは気にしない。女は度胸よ!
﹁それに春美、私はあんただからこのことを打ち明けたの﹂
小さい頃、母さんにさんざん
目をつぶる。流石にこの言葉は、目を開いて春美の反応を伺うのは
こっぱずかしい。
﹁体調不良は家族にすばやく相談!
言われたでしょ?﹂
﹁⋮⋮性別変わるのと体調不良を一緒にするなよ﹂
ようやく微かにだけど、春美が微笑んだ気がして、私は目を開いた。
思ったとおり、いつも通りの穏やかな春美の顔。
うん、良かった。
やっぱり笑顔の方がいいよね。
﹁これでどう?﹂
春美が鏡を差し出してきたので受け取る。
覗き込むと、短髪の男がこちらを見てふんわり微笑んでいた。
19
さっぱり、チェンジ︵後書き︶
展開遅いけどよろしくお願いします。
20
ぴかり、名案
﹁結構雰囲気変わるなぁ﹂
こんなに短い髪型にしたのは初めてだ。中性的な顔つきはいかんと
もし難いが、違和感はだいぶ薄まった。変身した気分で少し楽しい。
﹁ありがとね春美、お礼はまた今度﹂
隣に突っ立ったままの春美の肩を軽く叩く。反応がない。首を傾げ
ると、春美はまた少し不安げな顔をしていた。
﹁母さんにはなんて言う?﹂
心配性な人だ。春美が心配することじゃないと言ったばかりなのに。
﹁ちゃんと言うよ。言わなきゃ生活できないでしょ。変な目で見ら
れるかもしれないけど、まぁその時は味方してね﹂
﹁⋮⋮うん、まぁ﹂
春美はもぞもぞと体を動かし、また頭から毛布をかぶった。その動
きがプールの日の女の子の着替えのようで、笑ってしまう。
﹁ねえ、春美、もう一つ大事な相談﹂
春美が、今度なに?と怪訝な顔をする。いい加減迷惑そうだ。
﹁パンツ貸して﹂
春美が咳き込んだ。
言い出しづらいことだったので、本当はずっと我慢していた。しか
し流石に限界。言ってしまうのならいっそ一息に⋮⋮と思ったのだ
が、予想以上のオーバーリアクションを受けてしまった。
﹁春美、大丈夫?﹂
いきなり!﹂
咳き込む春美の背中をさする。と、手を振り払われた。
﹁何いってるの!
﹁いやだって⋮⋮ちょっと考えてみなさいよ。女の子の下着の表面
21
正直はみ出て⋮⋮﹂
と猛烈な制止。
オブラート!
積の狭さなめんじゃないわよ。母さんとかが履いてるのとは違うの
よ?
ストップ!!
女だろう?!﹂
﹁春香、そういうことはもうちょっとあれだよ!
包もう!
﹁男だよ﹂
﹁昨日までは女だったでしょう!﹂
春美がはあはあと肩を揺らす。引きこもりに突然の発声は辛いもの
だったようだ。
あーもう、とぼやきつつ、春美はがっくりと項垂れ
﹁分かった。使ってないやつ探しておくから、春香、風呂はいって
きな﹂
﹁お風呂?﹂
いきなりの単語だったので鸚鵡返し。
﹁昨日入ってないでしょ。下着変えるのなら体洗った方がいいよ﹂
﹁あー確かにそうね。沸かしてくるわ。ありがとね∼﹂
散髪に使った諸々をビニール袋に突っ込んでから、春美の部屋をあ
とにする。
あとあと聞くと、春美は﹁あ、でも、そういえば男の体⋮⋮!﹂と
慌てていたらしいけれど、早々にお風呂目指していた行動力のある
私の耳に届くことはなかったのである。
入ってきました、お風呂。バスタオルで体を包み手早く乾かす。春
美が出してくれた下着が脱衣所のカゴに入っていたので、さっそく
を履いてみた。
⋮⋮すーすーする。なんか収まりが悪い。まぁ、慣れるしかないか。
お風呂では、実は
﹁⋮⋮洗い方分からない⋮⋮春美手伝って﹂というわけで、男二人
22
で洗いっこ。
みたいな展開はもちろんなかった。
洗うときは流石に羞恥が優って、目の前の鏡には真っ赤なゆでダコ
顔の男がいて﹁きゃーいやーん恥ずかしいよー!﹂
みたいな乙女な展開もなし。
イマドキの女子高生をなめちゃいけない。わっしわっしと容赦なく
淀みなく洗ってすっきりしてきた。
とはいうものの、私も明るい場所で見るのは初めてだったので、戸
惑いはあった。感想としてはやはり内蔵系器官だなぁといったとこ
ろ。見た目いいものではない。
ついでにお湯に浸かっている時に、その見た目に軽く引きつつも色
々試してみた。
女に戻って彼氏ができたら実践してみよう。
男になって初めてのバスタイムをそれなりの満足感を持って済ませ、
私はまたジャージ姿に戻ったのだった。
ドライヤーを当てて、髪を乾かす。その間にこれからのことを﹁さ
てさて⋮⋮﹂とぼんやりと考えてみた。
﹁春美には打ち明けたし、母さんには夜言うか。問題は学校よね⋮
⋮﹂
このままでは学校にいけない。つまりメイに会えない。まぁ会わな
きゃ死ぬってわけでもないが、男性恐怖症を発症してないか正直心
配だ。いざという時のフォローは幼馴染である私の使命なのである。
﹁まぁ、今じゃ私が恐怖の対象になっちゃってますけどねー﹂
うふふふー。悲しすぎて謎の笑い声を発してしまった。
﹁いやでももしかしたら、元女、っていうか私だし、大丈夫かも?﹂
ふと謎の自信まで浮かんできた。
23
どっちに転ぶのだろうか。それを知るためには、学校にいかなけれ
ばならない。メイに会わないければならない。
突然、ぴーんと頭上に豆電球が光り輝くようなアイディアが浮かん
だ。
同時に短くなった髪も早々に乾いてきたようだ。やはり乾くのが早
い。
﹁よし!明日は学校だ!﹂
待ってて私の可愛い小動物!
急激に浮上した気分を鼻歌に乗せつつ、私はまた、春美の部屋へと
突撃した。
24
くらり、動揺︵前書き︶
誤字があったので修正しました
25
くらり、動揺
見慣れた教室。どのクラスもつくりや配置にそう変わりはない。教
室に足を踏み入れた際も、周囲は変わらず談笑していた。しかし私
が教卓の席番号を確認し椅子に座ったあたりから、空気が変わった。
周りが円状に声を潜め、困惑の色を滲ませている。
逆にこっちが申し訳なくなってきた。これが不登校児の扱いかぁと
実感。居心地悪いことこの上なし。
そのちくちくと刺さるような空気から顔を背ける。窓の外の空は白
を垂らしたような、穏やかな春の色。窓際、前から三番目の席はな
かなかいいポジションだ。しかし
︵あー、メイに会いたい⋮⋮︶
既に辛くなってきた。いつもの教室に戻って友人たちと和やかな朝
の挨拶を交わしたい。
そこでふと思ったが、これからはこの場所でそうしていけばいいだ
けではないか。
有言実行の春香さん。前の席に座ってもぞもぞとこちらをチラ見し
てくる男子生徒の背中を指で叩いた。叩かれた彼はぴくりと反応。
それから、さも何も気にしてないよ、といった能面を作ってこちら
に体を向けた。
男ってこういう嘘下手よね。
軽く呆れつつ、﹁おはよう﹂と挨拶。微かに面食らいつつ彼も挨拶
を返してくれた。
﹁あのさ、今日初めてくるから時間割分からないんだけど。一限目
ってなに?﹂
﹁あー、化学だよ﹂
苦手教科につい﹁うえ﹂と顔をしかめてしまった。しかしすぐさま
顔を戻す。危ない危ない、ファーストコンタクトは大事なのに。
﹁教科書もってきてないや。隣って見せてくれそうな人?﹂
26
ちょい、と空席の隣を指差す。
﹁ああ、大丈夫だと思うけど。でも化学の大木なら言えば教科書貸
してくれるぞ﹂
﹁そうなの、か。ありがと。﹂
ついいつもの言葉を使ってしまいそうになり、声がつっかえた。気
をつけなければ、不登校でアッチ系だなんて噂されたら大変なこと
になってしまう。
﹁あ、俺、知ってるかもしれないけど入江春美。よろしく﹂
なるべく爽やかに、けれどあえて笑顔はあまり出さないように表情
を調節。人好きのする顔を目指す。
﹁うん、よろしく。俺は安藤﹂
安藤は自己紹介が終わるや否や、くるりと体を反転した。
やはり警戒されているのだろうか。目の前の背中からは拒絶の色し
か感じられず、物悲しい。
︵ま、少しずつ慣れていけばいいか︶
このクラスにも、体にも、
入江春美という立場にも。
担任に熱心に話しかけられたり、教科の教師に一ヶ月遅れの自己紹
介をされたりと、所々で居心地の悪い思いをしながらも無事午前の
授業を終えた。
昼休みということで、男子数人は食堂や購買へのスタートダッシュ
をきり、女子はグループで集まり始める。
私はさぁどうしようと教室をぐるりと見渡した。
男子は女子よりもグループ行動をしないというイメージはあったが、
意外と一人でいるタイプは少なく、だいたい二、三人で談笑してい
る。
27
︵お弁当ないし、とりあえず購買行くかなぁ︶
いつも欠かさず弁当を用意する優しい母だが、今日ばかりは無理だ
ったようだ。夜の衝撃告白からまだ頭がついていかず、ふらふらと
職場へいくのがやっと、といった様子だった。
春美から借りた男物の財布を鞄から引っ張り出し、席を立つ。
しかし丁度そのタイミングで、教室の扉は小柄な女子生徒によって
塞がれた。
艶やかな黒髪ショートボブ。愛らしい瞳は見開かれ、息は上がって
いる。ここから向こうの教室、結構離れてるからなぁ。
﹁ハルくん!﹂
珍しく大声。普段の引っ込み思案な様子は掻き消え、メイは飛びつ
くかのごとく春美の教室に入ってきた。
⋮⋮相変わらずの懐かれっぷりですこと。
抱きつくギリギリのラインで動きを止めたメイに、私は﹁久しぶり
∼﹂と笑いつつ、強引に彼女の手を引いて教室をあとにした。
さすがに﹁何事だ﹂と興味を隠しもしないクラスメイトの視線が痛
い。
後でいじめられたりしませんように、とげんなりしつつ、歩みを進
めた。
とりあえず、ひと気が少ない階段の踊り場で立ち止まる。
﹁ハルくん!﹂
メイの抗議が混じった声で、自分が思ったより強い力でメイの腕を
掴んでいたことに気づく。
﹁ご、ごめん!﹂
慌てて手を離す。力もやはり強くなっているのか。気をつけなけれ
28
ば。メイの腕を引っ張るなんて、いつものことなのに。
胸に一瞬苛立ちが掠めた気がしたが、気にしないふりをした。
それよりも、今は目の前の彼女が問題である。
﹁あー⋮⋮と、メイ、あのさ﹂
改めて、二人で向き合う。やはり緊張してしまった。
さすがに目の前で顔をみれば気づくだろう。双子とはいえ、そこま
で私たちは似ていないはずだ。
少しの沈黙。
メイは足を引きずるように体を引いた。
﹁あの、メイ?﹂
強張る彼女の表情に、いつもの癖で手を伸ばす。
誰?!﹂
ひゅっと、メイの喉がなった。
﹁いやっ⋮⋮!
メイの口から出たのは紛れもなく拒絶の声。
どこいったの?!﹂
﹁いや、ちょっとメイ、声抑えて!﹂
﹁ハルくんは!?
プチパニックに入ってしまったメイに、私は慄く。
彼女の男性恐怖症はここまで酷かっただろうか。確かに身体的接触
や不意の接触には声を上げて嫌がっていたが、隣り合っての会話や
作業は問題なかったはずである。そうでなければ共学なんかには通
わず、病院かカウンセラーにでも通っている。
拒絶と恐怖しかないメイの様子に、私はすうっと血が足に落ちたよ
うな気がした。
メイの瞳が滲んで揺れる。
とん、と細い腕が、私とメイの間に入った。
でしゃばんのも悪いかと思
ベージュのカーディガンに包まれたそれは、私からメイを守り、背
後にやる。
﹁ちょっと強引すぎなんじゃないの?
ったけど、泣かすくらいなら諦めたら?﹂
29
持ち前の切れ長な瞳で睨まれる。彼女の綺麗なはっきりとした顔立
ちとすらりとした長身は、怒るとさらに際立つように感じられた。
以前より若干近い位置にある彼女の顔をじっと見つめていると、
﹁なんなの、キモい﹂
と眉をひそめられた。相変わらずの口の悪さである。初対面にここ
までいうか、普通。
﹁⋮⋮高尾﹂
﹁え、なんで私の名前知ってんの、キモい﹂
﹁キモい言い過ぎだよ!﹂
さすがに抗議の声をあげてしまった。高尾の背後にいるメイが、私
の大声にびくりと震える。高尾はそれをちらりと見て、また私を睨
む。
﹁私のクラスメイト、泣かせないで﹂
ぐっと喉が詰まった。
メイが背後にいて、彼女を気遣って。慰めて。
その位置は私のものだ。
﹁ごめん、泣かせるつもりじゃなくて⋮⋮。話聞いて欲しいんだけ
ど⋮⋮﹂
﹁しつこい男は嫌われるよ﹂
﹁男じゃない!﹂
ついまた声を荒げてしまった。
しかも、ここで言うべき言葉ではない。失敗した、と青ざめる。男
子生徒の制服を着た男が、こんなことを廊下で叫ぶなんて頭がおか
しくなったとしか思われないだろう。
しかし、その言葉に反応したのか、ひょこりと高尾の影からメイが
顔を出した。
ぱちりと、目が合う。
﹁メイ、あの、驚かしてごめん。あと春美じゃなくでごめん。私⋮
30
⋮﹂
﹁ーーハルちゃん?﹂
慌ててまくし立てた謝罪が、メイの一言で阻まれる。
ぱちり、ぱちりと瞬きを繰り返す。
呆気に取られる私と高尾を置いてきぼりにして、メイは突然怯えを
引っ込めた。
31
やっぱり、動揺
﹁朝起きたら男になってたの﹂
﹁頭おかしいんじゃない?﹂
返答はにべもなかった。
場所は階段の踊り場から少し移動して、校内でも数少ない廊下側の
ベランダ。打ちっ放しコンクリートのごく狭い空間だ。
こんな場所にわざわざくる生徒はいないし、窓を閉めておけば話を
入江春香なの!
顔そんな変わってないでし
聞かれることもないだろうと二人に頼み込んで移動した。
﹁本当なんだって!
ょ?﹂
うろんげな顔を隠そうともしない高尾に、自分の顔をぴっと指差し
つつ顔を近づける。すぐさま﹁近寄るな﹂と押しのけられた。
埒が明かないと、眉を下げつつメイへ助けを求める。ちらりと視線
を向けると、微かにぴくりと彼女の肩が揺れた。
﹁ね、メイ。私、春香だよね?﹂
5組だったけ。そいつじゃな
﹁⋮⋮うん。ハルちゃんだと、思うけど⋮⋮﹂
﹁春香って双子の弟いるんでしょ?
いの﹂
﹁ううん、違う﹂
メイは先ほどとは違い、きっぱりと否定した。高尾の眉間が寄る。
﹁じゃあこれが春香の弟じゃないとして、春香本人だっていう理由
は?﹂
メイはううん⋮⋮と眉をハの字にして小首を傾げた。小鳥のような
その動作。
可愛いなぁと私の頬が緩む。
﹁なんでか分からないけど、そんな気がするの。目があった時とか﹂
﹁ああ、なんか私も今わかったわ﹂
高尾はさらに目を細めて、突然手のひらを返した。ぐにっと私の頬
32
をつねってきたので、驚いて体を引いてしまう。
﹁見覚えがあった。今の顔﹂
と頬を摩りながら抗議。
﹁だからってつねらなくても!﹂
信じてくれたのは嬉しいけど!
﹁いや、まだ信じたわけじゃないし﹂
高尾はなかなかに疑り深い。まぁ信じられないのが当たり前だと思
うものの、ここまで否定され続けるのも面白くない。
というか、未だにメイが高尾の傍、守られるような位置に立ってい
ることが、まるで信用ないと言われているようで腹立たしい。
私は高尾の腕をぐいと引っ張った。その耳に口を寄せる。
﹁な、なにす﹂
ぼそり、と囁く。かっと高尾の耳が赤くなった。その内容は、入江
高尾の﹂
何で知ってんのよ。誰から聞いたの!
春香だけが知ってるはずの秘密。
﹁⋮⋮でしょ?
﹁なっ⋮⋮な、なんでっ!
?﹂
﹁だからいい加減信じてよー。私にしか言ってなかったんでしょ?﹂
﹁そうだけど!!﹂
お、信じたっぽい、と胸の内でガッツポーズ。
真っ赤に顔を染めた高尾に、メイがまたもや首を傾げる。
こいつに言う必要ないでしょ!﹂
捏造すんな
﹁んふふー。高尾の好きな人当てたのよ。前言ってたから﹂
﹁ちょっと!
﹁えーいいじゃん、別に﹂
﹁ていうかそもそも好きなんて言ってなかっただろ!
!﹂
どうだこれで私が春香だと分かっただろう。満足して、ぎゃあぎゃ
あと取り乱す高尾に向かってふふんと笑顔。
やおらにメイが目を伏せた。もちろんそんな様子には、即座に気づ
く私である。
﹁どしたの、メイ﹂
33
何か気になることでもあるのだろうか、声を掛ける。
﹁好きな人いるんだぁって思って。ハルちゃんもいるの?﹂
話題が予想外の方向へとかっ飛んで、へっと裏返った声をあげてし
などとい
まった。メイがこんな突拍子もないことを言い出すのは珍しい。
﹁今はいないけど⋮⋮?﹂
隣の高尾もメイの様子に首を傾げている。
﹁あ、ごめんね。いきなり変なこと言っちゃって﹂
えへへ、と照れ隠しにはにかむ小動物めっちゃ可愛い!
もしかして永瀬も好きな人いるの?﹂
う雑念が
﹁何?
そうだったの!?﹂
高尾の爆弾発言に吹っ飛ばされた。
﹁え!
思わず自分の男になったどうこうの重大問題も吹っ飛んで、メイに
詰め寄る。
﹁ややややや、そんなわけないよ!﹂
すぐにぶんぶんと千切れんばかりに首を振るメイ。
男の人に
ただ、好きな人がいるのってや
恐怖症直したいなって!
﹁だってまだ男の人無理だもん!
っぱ当たり前なのかなって!
も迷惑かけ⋮⋮る、し⋮⋮﹂
勢いよく口から流れるメイの否定が、突然鈍った。視線が、私の顔
から少し下にずれ、
﹁⋮⋮﹂
詰め寄った勢いでメイの手を握った私の手へと移動する。
﹁ん?何か﹂
﹁ひゃあ、わっ、わわわ!﹂
メイが小さく悲鳴をあげながらぶるぶると唇を震わせ、目に涙を貯
めた。
きゅっと加減して握った手は小さく、思った以上に柔らかい。そこ
でようやく、自分の体が男のものだったのだと思い出した。
やはり私の手が以前より骨っぽくなっているからだろうか。女の子
34
ってこんな柔らかいのか。今までメイの手を握った数はそれはもう
腐る程あるが、初めての感動だ。これは男も触るわ。女の子やーら
けー。と軽く現実逃避。
﹁いや、手、離してやれよ﹂
ぺしっと高尾に頭を叩かれた。
メイは変わらずふるふると震えており、表情は固まっている。
﹁これは確かに、治した方がいいね﹂
男性目線から見て、改めて強く思った。
こんな反応、する方もされる方もストレスはんぱない。謎の罪悪感
がっすがす刺激される。
今までこれでよく共学で生きてこれたものだと、逆に感心した。
﹁あ、で、でもねっ、ハルちゃんだから、まだあの平気っ、ほらこ
んなに長く手、て、繋げてててて﹂
﹁ああ、ごめん。もう離すから!﹂
限界を迎えたのか、言語崩壊しかけているメイの手を慌てて離した。
﹁ほら離したよ∼﹂とおどけたように手をひらひらさせると、少し
ずつメイは落ち着きを取り戻した。涙も乾いていく。
その露骨な様子に、高尾は﹁ほんと、触られるの駄目なのね﹂と目
を丸くしていた。
﹁これ治すのは、少しずつ慣らしていくとかすればいいのかな﹂
﹁うう⋮⋮ごめんね、ハルちゃん。ハルちゃんなのに⋮⋮﹂
﹁まぁまぁ、気にしなさんな﹂
目の前の小さな黒髪に手を伸ばす。ゆっくりと髪をかき混ぜる様に
撫ぜるのは、いつものこと。
だったのだが、
﹁あわ、わぁっ!﹂
⋮⋮見事なバックステップで逃げられた。なんだその綺麗な動き。
﹁ああ、ごめん、癖で!﹂
﹁違うの!私もごめん!﹂
無駄に声を張り上げ、必死に謝り合う。
35
高尾はその様子にため息をついていた。
メイの男性恐怖症。
思ったよりも、治すのは至難のようだった。
36
ころり、情動
﹁よし、じゃあいくよ?﹂
メイが力強く頷くのを確認して、私はぎゅっと彼女の小さな手を包
むように握った。メイの目には鬼気迫るものが宿っている。
その手の柔らかな感触を確認し、するりと指を動かしてみる。
その途端に、メイがバッと私の手を振り払った。
﹁や、やっぱだめー!﹂
バンザイでもするかのように手を挙げ、逃げられる。
手が骨っぽい!
あ
真っ赤に熟れた頬は引きつった唇とともに歪んでいる。ぎゅうっと
なんかやっぱりだめだよ!
閉じた彼女の目元が微かに濡れていた。
﹁な、なんか!
と触り方が!﹂
力一杯、精一杯、拒否された。
⋮⋮泣いてなんかない。
﹁⋮⋮ていう感じだった。﹂
﹁あ、そう﹂
帰宅し、入れ替わり一日目の学校生活を春美に報告すると、盛大に
呆れられた。
﹁はたから見たら不審だよ、それ﹂
﹁ちゃんと階段の死角でやったわよ。そこは抜かりなく﹂
ふふんとしたり顔をしてみたが、春美はゆっくり首を横にふった。
あるからメイの恐怖症治そうとしてんじゃない﹂
﹁それこそだよ、春香。自分が男の体だって自覚ある?﹂
﹁?
と私は大声を上げてしまった。
﹁階段の死角、男女、それで手を握ってるってさ⋮⋮﹂
ああ!
37
その反動でずるりと腰が滑り、座っていた春美のベッドから滑り落
ちる。ごつっと尻を打った。痛い。なんでこんな尻の骨出っ張って
んのよ。
﹁メイのために頑張るのはいいけど、変な噂広がらないようにしな
よ﹂
釘を刺され、私はうな垂れた。
﹁どうしよう。あらぬ噂が流れたらメイが可哀想!﹂
﹁俺のことも考えてよ。俺の名前使ってるんだから⋮⋮﹂
﹁いいじゃんアンタはメイ好きでしょ!﹂
若干滲んだ視界にいる春美に吐き捨てると、なんとも苦い顔をされ
た。
私がメイ好きであんたがメイ嫌いなわけない
﹁変な勘違いを大声で言うなよ﹂
﹁勘違いじゃない!
でしょ!﹂
学校で﹁ハルくん!﹂と叫び、飛びついてきたメイの姿を思い出す。
私たち三人は、小学校時代からの幼馴染なのだ。今更嫌いだなんて
言わせない。特に昔、それこそ幼い子どもだったころ、メイは私よ
り春美にべったりだったのだから。
﹁⋮⋮まぁ、いいけどさ⋮⋮春香ってそういうとこあるよね﹂
﹁どういうとこよ﹂
﹁男と女は別だってこと。だからあんまり目立たないようにね。た
だでさえ、不登校だったんだから周りからよく見られるんじゃない
?﹂
春美の言葉に私はぐっと喉をつまらせた。クラスのちらちら冷たい、
しかし愉が混じったような視線を思い出す。正直、気持ちのいいも
のではない。
﹁5組の人とはあんまり関わらないようにする。もし春美がこの先
学校行くことなっても問題ないように、なるべく気配消しとくわ⋮
⋮﹂
﹁まぁ、それは難しいだろうけど⋮⋮そうしてくれると助かる﹂
38
﹁あ、そうだ。大切なこと忘れてた﹂
部屋の脇に投げ捨てたスクールバッグを引きずり、引き寄せる。﹁
横着しない﹂という春美の咎めに気のない返事をしつつ、一枚の藁
半紙を取り出した。5組のクラス名簿のコピーである。担任にクラ
なんか話しかけられたりしたら困るこ
スメイトの名前を覚えるという理由つけて、用意してもらった。春
美の隣に座り、差し出す。
﹁この中に同中の人いる?
とあるかもしれないし、聞いておきたくて﹂
春美の視線が藁半紙を撫でる。
覚えてない﹂
しばらくして白い人差し指が、﹁原田かえで﹂の名を差した。
﹁こんな子いたっけ?
﹁結構有名な人だよ。中一、二の時同じクラスだった。もう二年近
く会ってないから多分顔は忘れられてると思うけど﹂
﹁おっけ、その子だけね?﹂
頷くのを確認し、藁半紙を受け取る。
﹁しかし目立たないようにかぁ。そう考えるとメイにべったりも問
題かなぁ⋮⋮﹂
私は男、私は男、変な噂がたたないように、と頭の中に刻み付ける
ように呟いた。
またうっかり自分の体のことを忘れて、メイに抱きつきでもしたら
大変である。
二重の意味で。
今それをすれば、私の可愛い幼馴染は泡を吹いて倒れかねない。
﹁あー⋮⋮もっとクラスの男子と仲良くしておけば良かったかなぁ。
そうしたらいろいろ助けてもらえたかもしれないのに﹂
私は友達がそんなに多い方ではない。基本メイにべったりで、男友
自分は女だって﹂
達とはちょっと話す程度、顔見知り程度だ。
﹁男友達にも言うつもりなの?
やめた方がいいよ、と春美は珍しく硬い声を出した。
﹁分かってるけどさー⋮⋮でもー﹂
39
いざという時同性︵?︶の相談役が身近にいないのは痛い。今の状
況、楽しんではいるが、不安がないわけではないのだ。
春美のような毛布お化けを学校に引きずっていくわけにもいかない。
春香として﹂
と笑ったが、﹁なにいってんの﹂という冷ややかな声に一
﹁あっ、春美、女装して学校来ない?
名案!
蹴された。
﹁それなら春香が女の格好するほうが自然でしょ﹂
確かに。
﹁だーってさぁ、女の子だけじゃいざって時相談できるか分からな
いじゃん⋮⋮﹂
叫びつつ、再び春美のベッドにダイブした。スプリングがきしむ。
﹁制服しわになるよ﹂
と春美が咎めたが知らんふりをきめた。
どうでもいいが、絶対にこの制服、春美の背丈にあっていない。私
は元が女なので、裾が余るのはしょうがないが、春美も今の私に比
べてそんなに身長は変わらないはずである。高く見積もって160
半ばってところだ。
この隠れ見栄っ張りめ、と胸の内で毒吐く。
しばらくベッドの上をごろごろと転がり、布団の柔らかさを楽しむ。
よく考えたら春美は私がベッドにいるの、嫌じゃないのだろうか。
オトコノコにとってはめくるめく一人の夜も使用する、結構なプラ
イベートゾーンだと思うが。
﹁ねーぇ、春美﹂
布団に顔を埋めながら、呼びかける。声は当然篭っていた。
﹁うん?﹂
﹁なんで学校行かなくなったの⋮⋮?﹂
突然の私の問いかけ。
一瞬の静寂。
﹁だから太陽の光浴びたら灰になるんだって、俺﹂
﹁まぁたそうやって茶化す!﹂
40
ばんっと両腕を突っ張って、ベッドから跳ね起きた。ついでに八つ
ニコニコ笑って適当言って!
この狸が!﹂
当たりとして枕を蹴り落とす。なかなかいい音をたてて、あらぬ方
向に飛んで行った。
﹁春美はいつもそう!
吐き捨てて、スクールバックを引っ掴む。勢いに任せて乱暴な音を
たてて、部屋を後にした。
人がせっかく心配しているというのに。馬鹿春美!
心の中でこき下ろす。しかし熱しやすく冷めやすいといわれる春香
さん。扉を一枚隔てて一人になるだけで、すぐさま冷静になった。
帰宅後すぐに、気の向くままに話し、ベッドを占領し枕を投げ落と
して最後に暴言。
なかなか勝手である。
そっと扉を開ける。隙間から覗くとばっちり春美と目が合った。
﹁話聞いてくれてありがとー﹂
小声で呟き、返事は聞かないままに、またすばやく扉を閉めた。
お礼一つ、それだけで罪悪感は掻き消え気分が良くなった。我なが
ら単純である。
すっきりした心持ちで階段を駆け下り、夕食の用意のためキッチン
へと向う。
﹁ありがとーなぁんて。ふふ⋮っ、昔だったら絶対言ってなかった
でしょうね﹂
ふんふんと鼻歌交じりに冷蔵庫の扉を開ける。
今日の夕食は特別に、春美の好物を作ってやってもバチは当たらな
いだろう。
41
ほんのり、片想い?
新たな高校生活と緩やかな春の陽気に、どこかそわそわと浮ついて
いた校内だったが、ゴールデンウィークを過ぎる頃になれば、ある
程度落ち着きを取り戻していた。かたい制服の生地にも慣れはじめ
た生徒が、次第に着崩すようになり、教師の小言が増えた。
教室の中でもクラスメイトを探るような視線はぱったりやみ、それ
ぞれ気が合う同士、同じ顔ぶれの固まりが固定化している。
そんな様子で、今日も教室では、メイと高尾の二人が机を並べ弁当
を広げていた。
﹁永瀬、今日はお弁当なんだ?﹂
﹁うん、お母さんが今日はお仕事お休みだったの。私も由里ちゃん
みたいに料理できたらいいんだけど⋮⋮﹂
メイはきゅっと眉を寄せつつ笑った。
二人で共にいるのはこの数週間で慣れた。
さばさばしており言動がキツい高尾と、どこまでも気弱なメイ。お
互い性格が合わないだろうな、と最初はよそよそしかった二人。特
に合う趣味もなかったが、しかし不思議と会話が詰まることはなか
った。高尾もメイも話し上手には程遠かったが、沈黙を苦痛に感じ
ないタイプだったことが幸いだったのかもしれない。
ここに春香が加われば、春香がどこまでも気ままに口を開き、メイ
と高尾が聞き役︵もといツッコミ役︶に徹することになる。
︵由里ちゃんとハルちゃんはもともと仲良しだったから、私も話し
やすいかもしれない︶
メイはそんなことを考えつつ箸を動かした。
ぼんやりと彼女の脳裏に浮かぶのは、この教室にはいない幼馴染。
急に髪が短くなり、肩が広くなって、声がハスキーになって、背も
また伸びはじめてーーそれよりも、なによりも、手が包むように大
きくなったーー。
42
﹁永瀬、永瀬﹂
春香の姿を思い浮かべていたメイは、急に滑り込んできた声にびく
りと肩を震わせた。
﹁え、あわっ、何!?﹂
ガタンとイスを鳴らして反応。
﹁いい加減、ビビるなよ⋮⋮﹂
ウンザリした表情を浮かべて、いつの間にか隣に立っていた戸田が、
薄い学級日誌を彼女に突きつけていた。今日は日直だった。
﹁あ、ごめんね、ありがとう﹂
おどおどと日誌を受け取るメイに、戸田はため息をつく。完全に俯
いてしまったメイと、助けの視線を求めてもつれない様子の高尾か
ら、そそくさと逃げるように去って行った。
﹁由里ちゃん!私、ちゃんと喋れてたかなっ!?﹂
戸田がいなくなったとたん、俯いてた顔をあげ、メイは高尾に詰め
寄った。赤い頬がかすかに緩んでいる。
﹁うーん、ビビってたし、声は震えてたけど⋮⋮まぁ及第点﹂
高尾の評価に、メイはさらに頬を緩め、目を細めた。ペットボトル
を手に取りお茶を口に含んだが、照れ笑いを隠すためという意図が
はたから見ればありありと分かる。
﹁由里ちゃんみたいに、戸田くんとも普通に話せるようになれるか
な﹂
小さく呟いた声を、高尾の耳はしっかり拾っていた。
︵これも、ハルちゃんのおかげかなぁ。ハルちゃんの手も男の子だ
もんなぁ︶
だらしなく頬を赤らめ続けるメイは、その時、高尾が固く唇を閉じ
たことに気づくことはなかった。
きりーつ、きをつけぇー、れー。
43
間延びした号令にあわせて頭を下げて、私はその瞬間ほっと息をつ
いた。今日も一日無事に、春美としての生活が終わったのだ。あと
は教科書をバッグに詰め、帰るだけ。
学校からしばらく離れれば、メイと合流して家まで一緒に帰ること
ができる。まるで秘密に付き合っている芸能人のような行動だが、
この身体でいる以上は仕方がない。
クラスの誰からも話しかけられないうちにと、乱雑にバッグを扱っ
ていると、女子生徒が近寄ってきた。
見覚えのある顔に、つい身を固くする。
﹁ごめんなさい、入江くん、ちょっと聞きたいことが⋮⋮﹂
バァン、と教室の前扉が勢い良く開き、反動で閉まった。
その激しい音に春香は顔をあげ、女子生徒は話しかけた言葉を引っ
込める。
再び開いた扉から、ずかずかと突っ込んできたのは、他のクラスの
女子生徒。長身に、加えて長く細い足を大股で動かすものだから、
圧倒されてしまう。綺麗に整えられた髪が一拍遅れて揺れるのは大
層美しいのだが、強張った彼女自身の顔つきが台無しにしていた。
美人が鬼気迫った顔をすると怖い。
おそらくクラスメイトの多くがそう思っただろう。
﹁緊急事態!﹂
あ、ごめん原田さん!
話はまた今度
そういって無理矢理、腕を引っ張ってきた高尾に、私は慌ててバッ
グを掴んだ。
﹁ちょっと待ってよ高尾!
!﹂
困るってあんないきなり!﹂
突然のプチ騒動に呆気にとられるクラスメイトを残して、二人は教
室から出て行った。
﹁ちょっといきなりどうしたのよ!?
44
目立たないように、浮かないようにと気をつけて学校生活を送り、
メイに会うのも控えているのにこれでは意味がない。私は抗議に声
をあげるが、高尾に聞く耳はなかった。
ようやく彼女が落ち着いたのは、学校から離れたファミレスの一角
に座ってからである。
メールでメイに、一緒に下校できないことを伝える。メイと会えな
いことは惜しかったが、どうもただならぬ様子の高尾に、私は大人
しく従った。
﹁⋮⋮で、どうしたの?﹂
ソファに尻を落ち着け、ドリンクバーのジュースを啜る。
高尾はまだ俯いているし、自分は男の身体。もしかしたら別れ話で
もしているように見えるだろうかと思ったが、中途半端な時間だか
らか周りに他の客の姿は見えない。私は少し気を緩めた。
﹁ほらー、高尾、どうしたのかって。何かあった⋮⋮?﹂
声にほんの少しだけ、労わる色を加えると、高尾はゆるゆると顔を
あげた。
﹁永瀬のことなんだけど⋮⋮﹂
﹁え、メイ?﹂
思わぬ名前に身を正した。
﹁うん、あの⋮⋮永瀬が、さ⋮⋮﹂
口ごもっている高尾は、普段の様子とはかけ離れている。瞳は揺れ、
形のいい唇は歪んでいる。
︵そういえば、こんな高尾、前も見たなぁ︶
あれは入学してすぐだったか、と思い出す。
偶然、高尾のおかしな様子に気づいた私が、彼女に声をかけた時。
どうしたの、と声をかけると、散々言い淀んだ後に確かこう言った
のだ。
ーー戸田のことが、好き⋮⋮かも。
﹁戸田のこと、好きなのかもしれない﹂
⋮⋮。
45
⋮⋮⋮⋮。
﹁は?﹂
だって、なんかそんな感じだったの!﹂
脳内の声と高尾の声が重なって、私は頓狂な声を漏らしてしまった。
﹁う、嘘じゃないのよ!
﹁いやいやいや、ちょっと待って﹂
開き直ったように大声をあげた高尾に、私は手のひらを突きつけ制
止した。
﹁勘違いでしょ、それ。何をどうしたらそうなるの。あの子の男性
恐怖症どこいった﹂
﹁だって、今日、永瀬が、戸田と話せるようになりたいって⋮⋮!﹂
ええ∼、と疑いの声をあげる。
メイが一番ダメな
﹁よく考えなよ。戸田ってあの戸田でしょ。身長超デカイじゃん。
ガタイあるし。いかにも男∼って感じでしょ?
タイプだよ﹂
﹁でも、あの二人、日直当番はペアだから、永瀬も慣れてきてるし
⋮⋮﹂
高尾は眉をひそめ、険しい顔をしている。涙は見えないが、声は完
全に泣いていた。
﹁慣れてきたから男性恐怖症この調子で治したいって意味じゃない
の?﹂
﹁違うと思う。⋮⋮あの顔は、恋してた、と思う﹂
毒を吐く唇とは思えないほど乙女な言葉に、私は辟易した。
恋してるっつー顔は今の高尾みたいな顔を言うのよ、と心のうちで
呟きつつ、メイの顔を思い浮かべた。
顔を赤らめ、うっすらと涙の膜を持ったメイを想像する。
⋮⋮⋮⋮いつも通りテンパって、自分に助けを求める姿しか思い浮
かばなかった。
︵勘違いだと思うけどねぇ︶
﹁そう思うなら、試してみよっか﹂
私の言葉に、首を傾げる高尾。
46
そういうとこで見たら好きかどうか
﹁どっかに私と高尾とメイ、戸田の四人で遊びに行ってさ、観察す
るの。遊園地とか映画とか?
わかるかもしれないし!﹂
﹁⋮⋮春香、自分が遊び行きたいだけとかじゃないわよね?﹂
鋭い指摘に、私はぐっと喉をつまらせた。正直、春美のフリしての
生活に、いい加減疲れてきて気分転換したかったことは事実である。
たまには!
メイと戸田のこともわかるし、
確かに近いうちにメイを誘ってぱーっと遊ぼうかと考えてはいたの
だが、
﹁い、いいじゃん!
私はメイと、高尾は戸田とダブルデートで一石二鳥!﹂
﹁な、なんで私と戸田がセットなのよ!﹂
顔を赤くして反駁する高尾に、いやそこは問題じゃねーよと呆れつ
つ、私は笑った。
なんで私がそんなこと!
⋮⋮無理だよ⋮⋮﹂
﹁じゃあ私はメイ誘っとくから、高尾は戸田に声かけといてね﹂
﹁はぁ?!
とたんに声が細くなる高尾に、やれやれと思いつつ、ジュースをま
た啜る。
﹁じゃあ私が誘おうか?﹂
﹁え⋮⋮いや無理でしょ。あんたその姿で戸田と面識ないじゃん﹂
﹁あ、そうだった﹂
話したこともない男が他のクラスの男にダブルデートを申し込む︵
その上誰も付き合っていない︶図はなかなかにシュールだ。
﹁⋮⋮が、頑張ってみる﹂
ついに高尾が宣言したことにより、その場はまとまった。
会計をすませ、高尾とは別れ、駅へと向かう。
︵メイが恋、ねぇ⋮⋮︶
やはりいくら想像してもしっくりこない。メイが、自分の知らない
ところで人を好きになるということ自体、あり得ないことではない
かと笑ってしまった。
ケータイを開き、いつもの番号にダイアル。
47
﹁あ、ねぇメイ、今から家行っていい?
したいんだけど⋮⋮﹂
その日のうちに
遊
週末のことでちょっと話
﹁今度の日曜か来週あたり空いてたら、どっか遊びいかない?
わーハルちゃんと遊園地、久しぶり!﹂
園地とか行きたいんだけど﹂
﹁行く!
もちろんフォローはするけどさ⋮⋮﹂
ハルちゃんとなら大丈夫だよ﹂
﹁男一人誘うけど、平気?
﹁うーん⋮⋮うん!
と約束を取り付けた私に対してーー。
ちょっと話、が﹂
どうかした?﹂
﹁あの、戸田!
﹁何?
﹁あ、いやその別に、いやあるけど﹂
いやほらええっと
いやそのほら⋮⋮⋮⋮あー﹂
あんたなんか知るか!
あるの!
﹁⋮⋮どっちだよ﹂
﹁あるわよ!
﹁何?﹂
﹁⋮⋮いやもういい!
用はその⋮⋮教科書貸して!﹂
﹁席遠いから無理だろ。他のクラスの人に借りれよ﹂
高尾がこんな調子で五日間頑張ったのはまた別の話。
48
こっそり、恋バナ
ゴォっと風を斬って駆け抜ける音と肌を揺らす振動に、四人の胸は
高鳴った。頭上から、一拍遅れて﹁きゃーっ﹂と高い声。悲鳴かそ
れとも歓声か。
地元の遊園地は小さいながらも、今年から新しくなったジェットコ
ースターを目玉にそれなりの賑わいを見せていた。パステルカラー
を基調としたおもちゃのようなゲートをくぐると、アップテンポな
曲が耳に届き、心臓がそれに合わせて躍る。目の前にはパンフレッ
トを小さな手でぐちゃぐちゃに握って、走り去る小さな子どもたち。
﹁ゆーえんち!!﹂
私が堪らず叫んで両手を天に伸ばすと、隣でメイがくすくすと微笑
んだ。前を歩く高尾と戸田は呆れた顔して振り返ったが、その顔に
も喜色が混じっている。
本日晴天。今の季節にしては、珍しくぎらぎらとした太陽が暑い。
先日からの計画通り、私とメイ、高尾、戸田は高校から電車とバス
で二時間ほどかけた所にある遊園地に来ていた。
普段の制服姿ではなく、それぞれ個性の出た私服姿だ。
私は春美のクローゼットから漁ったシャツに、自分の女物パーカー
を重ね、下は細身のジーンズ。ユニセックスな格好は、女の体だっ
たころに戻ったようで気楽だ。普段外ではサイズの合わない男物の
制服を着ているためか、それだけで気分は上々、浮き足立った。
メイはよく着ているゆったりしたチュニックにショートパンツ。
鎖骨のあたりに、彼女にしては珍しくピンクゴールドのネックレス
が乗っかっている。そのことを指摘すると、
﹁お休みだから、たまにはいいかなって﹂
49
ほんのり頬を上気させた。
﹁いいね、可愛い﹂
と頷くと、彼女はまたさらに赤らめる。
︵うーん⋮⋮メイが恋ねぇ⋮⋮。今の反応はなかなかだけど決定打
ってほどじゃないし︶
私は内心でううんと呻いた。戸田との外出に気合いを入れてきた、
という見方も出来るかもしれない。しかし、メイは四人で固まって
いるにも関わらず、戸田との接触は会った際の挨拶のみだ。いつも
通り私に︵触れないようにしつつも︶べったり、ときどき高尾、と
いう具合だ。
そもそもメイが昔からの赤面症であることを知っているので、彼女
あとこれとこれも⋮⋮いいかな
がちょっと頬を染めたくらいでは恋うんぬんとは思えないのである。
﹁ねぇ、ハルちゃん﹂
﹁うん?﹂
﹁これ、どうしても乗りたいの!
?﹂
遊園地のパンフレットを広げ、次々に指差していくメイ。高尾はそ
れを覗き込んでぱちりと瞬きした。
﹁あんた、意外と絶叫系好きなのね⋮⋮﹂
その呆れた声に、メイは顔を赤くして照れ笑い。
﹁高尾はジェットコースターとか得意?﹂
﹁うん、好きな方よ﹂
﹁なら良かった﹂
私はパンフレットのマップを眺め、一日の順路をイメージ。隣に立
っていた戸田も﹁行くところ決めて順番に行かねーとまわりきれな
いな⋮⋮﹂と同じくマップを睨んでいた。
﹁よし、まずは向こうの青いコースターから行こう。そんで右手の
通路からぐるっとまわればいいと思う﹂
じゃあみんな!いってらっしゃい!﹂
戸田が﹁空の稲妻﹂と書かれた看板を指差した。
﹁よしっ!
50
私は片手を高らかに上げた。高尾と戸田が﹁はぁ?﹂と口を開けた。
メイだけは眉を下げて申し訳なさそうな顔をしている。
私、入江春香、絶叫系だけは勘弁願いたいタイプなのである。
﹁あれ、入江﹂
二時間ほどして、嬉しくないことにトイレの目の前で、戸田と合流
二人並んでなかった?﹂
した。もちろん男子トイレである。
﹁あれ、休憩?
﹁ああ、まだ別のやつ乗ってる。あいつらすげーよ。連続休みなし
でガンガン絶叫系。いい加減、俺は疲れた﹂
そう言って戸田は眼鏡を外し、ぐりっとこめかみをさすった。
⋮⋮⋮⋮高尾は当初の目的を忘れたのだろうか。まぁ、楽しんでい
るなら結構なことだが。
内心飽きれつつ、男子トイレへの扉をあけた。
誰一人利用者がいない様子にほっとして、個室へと進む。足早にな
ってしまうのは仕方のないことだろう。
﹁うう⋮⋮﹂
つい情けない声を出してしまった。素早く座って用を足す。立って
したことはないし、これからもする予定はない。断じて。
男になってこれまで、違和感はあっても、それほどの抵抗や嫌悪は
感じなかった。それはおそらく春香自身の楽観的すぎる性格と、片
剥き出しす
割れの春美、それから元カレの影響あってのものだ。しかし、唯一
苦手なものがある。
ーー自分以外がいる公共の男子トイレだ。
︵なんで男子トイレってこんなオープンなのよぉ!!
ぎる!︶
あの立っている男たちの後ろを通る気まずさはないし、自分があの
狭い感覚で隣り合って用を足す場面を想像するとぞっとするものが
51
ある。
︵もう戸田は終わったかな?︶
そろそろと扉を開いて、スパイのように音を立てずに外を窺う。
手を洗っていた戸田と鏡ごしにばっちり目があった。
﹁何やってんの、お前﹂
﹁ナンデモナイッス﹂
せっかく遊園地来たのにつまらなくないか?﹂
あ、ハンカチ使う?﹂
はは、と乾いた笑いで誤魔化し、私も手を洗う。
﹁なぁ、入江﹂
﹁んー、なに?
﹁いや、いらん。
﹁いや、俺、遊園地は好き⋮⋮ていうかジェットコースターに乗っ
てるメイを見てるの好きなんだよね﹂
戸田が怪訝な表情をしたので
まぁ、わた、いや俺といる時は普通
﹁だって普段はあの蚊の鳴くような声でボソボソしゃべるメイがた
っかい声で叫んでんだよ?!
に喋るけどそれでも大声で喋ったり笑ったりなんてレアだし、アク
乗り終わったあと乱れた髪を直すんだけど完璧に直
ティブなメイはたまにしか見られないしでこっちのテンションも上
がるよね!!
しきれてないんだよ横髪とか跳ねてるの!﹂
力説したところ、さらに怪訝な表情が深まった。あと物理的に一歩
引かれた。
﹁ま、まぁ、楽しんでるならいいな。あとさ⋮⋮﹂戸田はなにやら
口ごもり、視線をうろつかせた。
話すならさっさとして欲しい。正直、戸田ほどの長身と並んて話す
のはいかに男の身体だろうと首か辛い。
﹁今日さ、入江は⋮⋮あ、うちのクラスの方。姉の入江春香。あい
つ来なかったけどやっぱどこか悪いのか?﹂
﹁んあ?!⋮⋮ああ、春香ね﹂
自分の名前が戸田の口から出るとは思わず、奇声をあげてしまった。
﹁学校にも急に全然来なくなって⋮⋮体調でも悪いのか?﹂
52
﹁ああー⋮⋮うん、まぁ体調がね、ちょっとね﹂男になっちゃった
りして今貴方の目の前にいます。⋮⋮とは流石に言えない。
﹁そうか、大変だな﹂
春香のこと気になっちゃったりしてんの?﹂
なにやら納得してくれたようで、戸田はすこし眉を顰めつつも頷い
た。
﹁なになにー?
つい悪ノリでにやにやしながら問うと、
﹁クラスメイトが来ないなんてそりゃ気になるだろ。心配だよ﹂
と返された。きょとん、とした顔つきで。
なんだこいつ、若干眩しい。不埒な想像をしてからかった自分が汚
れてみえる。心に受けた小さなダメージに耐えた。
次は俺が聞
不思議そうな顔をしながら、トイレから出ようとする戸田。はっと
まだ話は終わってないよ!
して私は慌ててその腕をつかんだ。
﹁ストップ、ストップ!
いやそれはいいけど、いい加減こんな場所で長々話し込
きたいことがある!﹂
﹁はぁ?
まなくても⋮⋮﹂
﹁お・と・こ・ど・う・し!の大切な話があるんだよ!﹂
高尾とメイには絶対に聞かせるわけにいかない。
﹁こっちは冗談とかじゃないから真面目にこたえてよ?﹂
戸田は、私の気迫に押されてか﹁ん、おお﹂とたじろぎつつ頷く。
﹁メイと、高尾、どっちが気になってる?﹂
しん、と静寂。私は真面目な顔つきで、睨むように戸田を見上げる。
戸田はぽかんと口を開けた。はたから見れば、男子トイレで男が二
一体何の話⋮⋮﹂
人、無言となかなかシュールな状況だが、当人たちはそれどころで
はない。
﹁は⋮⋮?
戸惑いを隠しきれない戸田。しかし、ふと思い当たることがあった
のか、肩を震わせ笑った。
﹁あはは、ちょっと落ち着け、お前。別に俺は永瀬を狙ったりして
53
あ、そう?﹂
ねーよ﹂
﹁え?
﹁だから安心しろ。別に邪魔したりしないよ﹂
邪魔とはなんのこっちゃ、と首を傾げる。しかしその疑問は端へ追
ほら、二人、クラスでそんなに一
いやった。本題はそっちではない。
﹁じゃあさ、高尾の方は⋮⋮?
緒にいるとこ見なかったけど、今日誘われて来たってことは、さ⋮
⋮﹂
途中から言葉を濁す。以前、ファミレスでの高尾の涙声を思い出し
てしまい、私は顔を伏せた。
﹁高尾か。うーん⋮⋮別に気になってるわけじゃないけど。とっつ
どっち?﹂
きにくいけど、話しやすいヤツ⋮⋮て感じかな﹂
﹁んん?
相反する評価に、私は顔を上げ、眉を寄せる。
﹁ほら、俺、無駄に図体デカイだろ。永瀬はちっこいしなんか怖が
られてるしで正直苦手だよ。高尾は女にしては背ぇデカイから話す
時首が疲れない﹂
﹁話しやすいってそっちかよ!﹂
好感ありかと期待した分、力が抜け、がっくりと肩を落とした。
﹁あーもう⋮⋮わた、俺も戸田と話してて疲れたわ﹂
﹁入江も結構小さいもんな﹂
﹁うるっさい、お前が大きいんだよ﹂
二人連れ立ってトイレを後にする。
﹁あ、ハルちゃん!﹂
トイレから出てきた二人に気づいたメイが、手を振りながら駆け寄
って来た。遊園地を存分に満喫しているのだろう、目が輝き、頬は
上気している。やはり、先ほどのイメージ通り、左側の髪が不自然
にぴょこんと跳ねていた。眼鏡の朴念仁の相手をした後だと輝いて
見える。女神か。私は口のにやけを隠そうともせず手を振りかえし
た。
54
﹁そろそろご飯にしようよ!﹂
﹁向こうにレストランとか揃ってるみたいよ﹂
女子二人も流石に休憩したいようだ。
ナイフとフォークが書かれた看板が示す矢印の方向へ、四人で向か
う。
取り敢えず、ミッション1つ目クリア。ーー次はメイね。
私がそんなことを考えているとはつゆ知らず、メイはジェットコー
スターの楽しさを身振り手振りで語っていた。
55
ことり、落下
遊園地内の西寄りにあるオープンカフェで、四人はホットドッグや
から揚げをかじった。高尾とメイはジュースでめいっぱい叫んだノ
ドを潤しつつ、近くにあるクレープ屋のフラッグに目を輝かせてい
る。私も甘いものが欲しいなぁと思い、それを眺めていた。
﹁午後は絶叫系以外に乗ろうぜ。入江もいるし﹂
戸田の一言に、三人は異もなく頷く。
食べた後のカップや袋をかき集め、テーブルを後にした。歩きなが
らクレープにアイスを入れるかどうかを話し合う三人に、戸田が﹁
よく食べるな﹂とあきれる。
そんな時、﹁わああ﹂と驚愕の高い声が、私たち四人の耳に飛び込
んできた。何事だと声の方を見ると、﹁射的﹂と書かれたポップな
看板の周りに小さな子どもが集まって騒いでいた。
なんだ、なんだと、私は小走りにそちらへ駆け寄る。
﹁おねーちゃん、すっげぇ!﹂と興奮して叫ぶ男の子に、自分と同
世代の少女が﹁当然よ!﹂と顎を突きあげ、得意げに笑っていた。
その少女が歓声の中心のようで、見るとおもちゃの銃を右手に、お
菓子やぬいぐるみが詰め込まれた袋を左手にふんぞり返っている。
﹁射的﹂の看板下にある、景品が並べられていたであろう台は空っ
ぽになっており、その台の傍らに立つ職員のおばさんは顔をひきつ
らせて笑っていた。
﹁うわあ⋮⋮すごいけど⋮⋮﹂
思わず呟いた私に、追いついてきたメイたちも肯く。あれが、騒い
でいる子どもたちと同じ年齢であったら拍手でも贈ったかもしれな
い。しかし明らかに、周りより頭ひとつぶん飛び出した少女の様子
に、なぜか自分たちが恥ずかしく感じる。
﹁あいつ、うちの学校のやつじゃん﹂
ぼそりと漏らした戸田の言葉に、私は﹁は!?﹂と叫んでしまった。
56
﹁知らないか? 隣のクラスの水内
桃。有名人だぞ﹂
﹁知らないよ。ちょっとここ離れよう。なんか恥ずかしい﹂
高尾がぐいぐいと私と戸田の背中を押す。私もメイに﹁行こ﹂とメ
イを手招きする。
しかし、この瞬間、私はあることをすっかり忘れていた。
歩み寄って来たメイの腕に、抱きつくように手を絡める。
﹁わぁっ!﹂
メイがぶわっと顔に朱を集める。私は自分の失態に気付くが、既に
遅し。
﹁だ、ハルちゃん、駄目!!﹂
メイが絶叫し、私の手を振りほどこうと身を引く。しかし私はその
動きにつられ、バランスを崩した。さらにメイの身体に寄りかかる
ような体勢になってしまう。﹁ハ、ハルちゃん⋮⋮!﹂と軽いパニ
ックを起こしたメイは、当然周囲の視線を集める。
﹁わああ! ごめんメイ! 忘れてた!﹂
慌てて弁解する。戸田と高尾が呆れて、私たち二人の傍に寄ろうと
すると︱︱
﹁動くな!!﹂
するどいソプラノボイスが周囲の動きを止めた。次の瞬間、シュッ
と風の音が、私の耳を震わせた。
先程の少女、水内が射的の銃口を私に向けていた。今の音は耳元す
れすれを飛んだコルクのものだろう。
﹁な、なにす﹂文句を言おうと口を開く。
しかし、水内はそれに構わず、銃口にまたコルクをつめた。職員の
おばさんが止めるのを跳ねのけ、﹁警備員呼んでください!﹂と一
喝。ロング丈のワンピースに、リボンのついたハットを被った彼女
が、︵おもちゃとはいえ︶銃を扱っている様は何ともアンバランス
だ。
何よ、私、痴漢にでも間違われたの⋮⋮!?
茫然としていると、後ろから高尾が短い悲鳴をあげた。
57
﹁やめて!﹂
﹁え?﹂
振り向くと、大柄の男が高尾を突き飛ばし、私とメイの目の前に来
ていた。視界の端で、戸田に支えられる高尾の姿が見える。お、や
ったじゃん高尾、とその場にそぐわない感想を抱く。
水内が銃を構えたまま﹁荒吹!﹂と叫んだ。するとどこからか、茶
髪の男が飛び出して、こちらへ走って来た。しかし、大男までには
距離がある。
ふらふらと緩慢な動きで腕を振り上げ、こちらを睨みつける大男に、
﹁ヒッ﹂とメイがのどを鳴らした。私の身体が男のものであること
も忘れたのか、先ほどとは逆に抱きつくように身を寄せてくる。
そのメイの姿に、私の頬がひくりと痙攣した。
すばやくメイを振りほどく。ふらつく男の懐に飛び込み、思い切り
足の外側をすくうように払った。もともと足取りの覚束なかった男
は、その少し傾いた体に向かって全力で掌を突きだせば、あっけな
く倒れた。
派手に石畳に肩をうちつけ悶絶しているところに、私はのしかかる
ように男の動きを抑える。さすがにこの大柄な男が暴れると、私に
は止められない。ガッと左腕を殴られた。戸田が加勢し腕を抑え、
荒吹と呼ばれた茶髪がベルトでその腕をしばったところで、ようや
く男は動きをとめた。
ほっとして、男から離れた場所に移動し、座り込む。
突然の乱闘騒ぎに、子どもたちは親に連れられてどこかに消えてい
た。周りは遊園地の職員や警備員、若者の野次馬が何組か。
﹁いったぁー⋮⋮﹂
殴られた腕をさする。かすっただけなのでそこまでひどくはないが、
殴られるなんて久しぶりだ。じわりと涙が浮かぶ。
﹁ハルちゃん!!﹂
メイが私の元へ駈け寄って抱きついてきた。
待って、メイ、痛い。そっちの腕に抱きつかれるのは痛い。その文
58
句は、メイのぼろぼろ零れる涙をみて引っ込めた。﹁ごめん、あり
がと、ごめん﹂とくぐもった声で呟き続けるメイに、﹁私が勝手に
飛びこんだんだからいーのよ﹂と彼女の頭をなでた。
﹁ほんとだよ。アレ、過剰防衛じゃねーの﹂
毒つく高尾だが、表情はほっと安堵している。その瞳にはいたわり
の色を感じた。
﹁高尾は大丈夫なの? 叫んでたけど﹂
﹁うん、びっくりしただけ。二人ともありがと﹂
高尾がにっこりと私と戸田に微笑む。おお、高尾の満面の笑みなん
てレア。私が内心驚いていると、
﹁えー、二人︱? 俺には?﹂
﹁私にも何か言うべきじゃないの?﹂
と二人分の声が入りこんできた。
目の前に来て、仁王立ち。明るい茶髪の男女が二人並んでいた。水
内はまだその手に銃を持っている。
﹁ああ、ありがとう。水内さんだっけ? いきなりこっち撃ってき
たからびびったよ﹂
あら、と頓狂な声をあげ、水内は口元に手をやった。
﹁でもちゃんとあの男に当てたでしょう? 同じ学校の人を撃つわ
けないじゃない﹂
向こうは私たちの顔に覚えがあったようだ。
﹁それにしてもおもちゃで応戦すんなよ。あの距離飛んで目に当た
ったなんて奇跡じゃん。最初から俺呼んでよ。﹂
荒吹が呆れたように自身を指差す。水内は﹁奇跡じゃないわ。当然
の実力よ﹂と言い放つ。
なにやら私たちを目の前に口論になりそうな気配を感じた。戸田も
それに気づいたのか、被せるように口を開いた。
﹁結局なんだったんだ、あの男﹂
﹁さっき警備員に渡した後聞いたけど、酔っ払いらしい﹂
荒吹がため息をついて、首を横にふった。いちいちの動作がわざと
59
らしい男だ。
﹁遊園地なんかで暴れる? 飲酒禁止でしょ?﹂
﹁持ち込んだんだろ。迷惑な話だ﹂
眉をひそめる高尾と戸田。
﹁ともかく、私狙いじゃなくてよかったわ﹂
銃をいじりながら、水内が笑う。首を傾げる私たちに、彼女は気に
かけるふうもなく、踵をかえした。
﹁そろそろこのおもちゃを返して来るわ。警察なんかがきたら面倒
だしね。それじゃあね、入江春美。学校でまた﹂
ワンピースの裾をひるがえし、悠然と去って行った。荒吹も﹁また
なー﹂とひらひらと手を振り、彼女のあとにつづく。なぜ私のこと
だけ名指し?
﹁⋮⋮一体何だったの﹂
気がぬけて私はがっくりと肩を落とした。メイはまだ傍で瞳を潤ま
せている。遊園地で遊ぶ気分はすっかり削られてしまった。
﹁戸田、あの変な人、結局何なの?﹂
高尾が首を傾げる。私とメイも彼に視線をやる。女子のわりに私た
ち三人は噂に疎い。高尾はどちらかといえば単独行動を好むし、私
とメイはお互い友達が少ない。戸田は﹁俺も詳しくは知らねーけど﹂
と前置きした。
﹁水内はかなりの金持ちでここらへんじゃ有名らしい。だからかか
げで姫って呼ばれてるとか⋮⋮﹂
﹁いや、家うんぬんより本人の性格じゃない?﹂
高尾のつっこみに、三人は苦笑いをした。あれほど得意げにふんぞ
り返るポーズが似会う女子高生もなかなかいない気がする。
﹁入江のクラスに原田ってやついるだろ。そいつもすごい金持ちで、
クラスは別だけどいつも水内と一緒にいるらしい﹂
60
へえ、と私は声をあげた。そういえば春美が﹁有名な人だった﹂と
いつか言っていた気がする。
私は立ち上がって、足についた汚れをはらった。
﹁とりあえず私たちもここ離れよ。水内さんも言ってたけど、警察
とか警備員が来たらめんどくさい﹂
まだおどおどと震えているメイと疲れを訴える私の提案で、四人分
のクレープを購入してから、そうそうと遊園地から出ることとなっ
た。
駅で戸田と高尾に別れをつげ、メイと帰路につく。ときどき横目で
メイの様子をうかがうが、彼女はずっと俯いてだんまりだ。
﹁メイ、大丈夫? 怖かった?﹂
いたわる言葉に対しても、ゆるゆると首を横にふるだけだ。顔を覗
き込むように身をかがめる。するとメイは露骨にびくりと肩をふる
わせた。しかし一向に視線は合わない。やはり男性恐怖症に今日の
出来事はショックが強かったのか。
ややあってメイが顔をあげた。紅潮した頬とハの字に寄った眉。
﹁ハルちゃん、守ってくれたの、ありがとう﹂
﹁うん、別にいいよ﹂
﹁昔みたいだった﹂
﹁え?﹂と首をかしげる私に、メイは右手をあげて立ち止まった。
﹁じゃあまたね﹂
我に返って辺りをみると、自宅とメイの家へ別れる交差点に差し掛
かっていた。
﹁ああ、メイに、戸田のことを聞くの⋮⋮忘れてた﹂
61
あんな騒ぎでは、まあしょうがないだろう。今度聞けばいい。そも
そも戸田がメイに好意を抱いていないのならば、特に懸案だとも思
えない。
信号が青になるまで、待つ。ふと、高尾の声が蘇った。
︱︱﹁あの顔は、恋してた、と思う﹂
高尾は一体どんな顔をみたのだろう。
恋してる顔ってどんな顔?
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さらり、爆弾
扉をノックし、しばし待つ。片手で支えるには手元のお盆は重く、
こちらから入室するのは危険だ。蒸した魚のにおいが、眼前でゆら
ゆら漂っている。
ややあって向こう側から扉が開かれた。相変わらずの全身毛布ルッ
ク。
﹁はい、夕食。骨はこっちのお皿に入れてね。ポン酢か醤油、お好
きな方で﹂
﹁ありがと﹂
いつものように、春美は毛布を汚さないよう、慎重にお盆を受け取
った。
﹁ねえ、食べながらでいいからちょっと話聞いてくれない?﹂
母さん帰ってきてるだろ?﹂
そう持ちかけると、春美は﹁いいけど⋮⋮﹂と了承しつつ、眉をよ
せた。
﹁春香はもう食べたの?
﹁食べたわよ。ちゃんと一緒に。母さんは今、持ち帰りの仕事して
る﹂
その言葉に安心したのか、春美は表情を緩めた。ぺたりと床に座り、
お盆の前で手を合わせ、食べ始める。
魚をほぐしつつ、春美はちらりと私に視線をやった。春美のベッド
にどっかり居座る私は、上下スウェットの楽な格好。下は膝までま
くり上げているので、薄くはあるが、すね毛が露出している。その
格好に春美が若干目を細くしたので、私は唇を尖らせた。あんたも
どうせ生えてるくせに。
﹁母さん、まだ混乱してる?﹂
﹁うーん、以前よりは慣れたみたい。頑張って今まで通り、普通に
接してくれてるわ﹂
﹁今も病院行けって言われてるの?﹂
63
私は首を横に振った。男になったことを告げた日に一度だけ言われ
たが、私が拒否してからは、一度も﹁病院﹂を口にしたことはない。
とりあえず様子見といったところだ。
ちなみに母親には、春美として登校していることは秘密にしている。
あ、この漬物美味しい﹂
これ以上、心配はかけたくない。
﹁で、話って何?
﹁親戚から送って貰ったんだって﹂
気のない相槌をうつ春美の声を聞きつつ、私はぐっと手に力をこめ
た。生唾を飲み、覚悟を決める
﹁あのね⋮⋮﹂
私の低い声に、春美はきょとんと眼を開く。重大な話だと思ったの
だろう、箸が止まった。
﹁⋮⋮メイに、避けられてる﹂
遊園地の一件の翌週、私は意気揚々とメイに話しかけた。学内で人
目もあったが、そんなことは気にせずに堂々と。彼女のクラスに乗
り込み、声をかける。
﹁メイ、急にごめんね、今ちょっといい?﹂
浮ついた気分を隠すことなく誘う。すると、予想外にメイは﹁ごめ
ん﹂と眉を下げた。
﹁一限、移動教室だから﹂
﹁あ、そう?﹂
クラスの背面黒板を見やると、確かに一限目は美術と書かれていた。
なら、しょーがないとその時は深く考えず、手を振って別れた。だ
が、それ以降、掌からするりするりと抜けるように、ある時は強引
一週間!
ろくにメイと話してない!!﹂
に付き離されるように避けられ続けて︱︱
﹁もう一週間だよ!
私の力の籠った叫びは、春美を半眼にさせた。﹁一週間くらい⋮⋮﹂
64
だって私たち毎日一緒だったのよ!?
という呟きに私は目を剥く。
﹁なによその言い方!
れが急に⋮⋮!﹂
そ
ぶんぶんと拳を振り回し、空をきる。しかし、すぐに力が抜け、だ
らりと手を下ろした。その勢いのまま、ばふっとベッドに横たわる。
熱を込めて叫んだ分、すぐに頭は醒めた。急に空しさが押し寄せ、
視界がにじむ。体をまるめ、枕︵もちろん春美のものだ︶を抱き寄
せた︵何故かいい匂いがしたので若干腹立たしい︶。ぐすりと鼻を
すする。はたから見たら、男子高校生がベッドの上で拗ねている図
である。想像してみると我ながら滑稽だ。
﹁⋮⋮こないだの、遊園地のこと話したよね﹂
春美からは背を向けて寝そべっているが、頷く気配がしたので、構
わず続ける。
﹁あの時、ショックはあったみたいだけど、私に触ってくれたから
⋮⋮前進だと思ったの﹂
助けを求めるように、身を寄せてきたメイを思い出す。その状況を
久しぶりだ、と思うと同時に、メイにあんな顔をさせた酔っ払い男
に我慢が出来ず、反射のように飛び込んだ。
﹁男性恐怖症、私にならもう大丈夫だって思って⋮⋮これを期にも
っと、他の、たとえば戸田とかクラスメイトとも普通に仲良くなる
かなって⋮⋮﹂
けれどそれはぬか喜びだったようだ。
それどころか私自身が避けられている。何故だろう、身に覚えがな
い。いや、もしかして目の前で乱闘やらかしたことが、実はドン引
きだったとか⋮⋮?
泥にはまったように、どんどん思考が降下していく。
﹁メイに避けられるなんて、はじめてだからどうしたらいいか分か
らん﹂
﹁あぁもう﹂とにじんだ視界を振り払うように、叫ぶ。すると春美
に名前を呼ばれた。寝返りを打ち、そちらに向きなおる。春美はぽ
65
りぽりと漬物をかじっていた。淀みなく箸を動かしながらも、言葉
を続ける。
﹁春香は、メイの何?﹂
予想外の問いに、私はぱちりとまばたきをした。
﹁何って、幼馴染みでしょ﹂
何を今さら、と呟いて私は身を起こした。春美の質問に一気に毒気
をぬかれた。
﹁そう、幼馴染み。小中高、ずっと一緒だよね、俺ら﹂
まあ、俺はヒキコモリだからしばらく会えてないけど、と春美が微
かに笑う。
﹁ずっと何年も一緒なんだ。ケンカだってするし、すれ違いだって
当たり前だよ。むしろ春香とメイが、今まで一度も離れなかったの
が、異常﹂
春美のその言葉に、私はかっと頬が染まるのを感じた。
﹁なによその言い方!﹂
激昂して、ベッドから立ち上がる。自分が想像してたより、ずっと
太く響く声が出た。そうだ、男の体だった、とこんなところで感じ
られる。体中の血が一気に泡立ったような気がして、唇が震えた。
そんな言い方される筋合いな
ずっと一緒で、仲良くして、普通だよ!﹂
﹁なんで離れなきゃいけないの!?
い!
﹁普通じゃない﹂
私の勢いに怯むことなく、春美はきっぱりと言い切った。細められ
たその瞳、それを縁取る長いまつげ。ゆるく結ばれた唇。凛とした
その態度に、私はざっくり傷つけられた気持ちがした。怯んだのは
私の方で、くうっと喉が鳴る。
その様子に、春美ははりつめた空気を緩めた。困ったように眉を下
げ、箸を置く。いつもの穏やかな表情で、私の目の前に歩み寄って
きた。
﹁春香、落ち着いて﹂
春美が、そっと私の瞳を覗き込む。その動作に、私はいつの間にか
66
男になったから⋮⋮?﹂
春美の身長を越えていることに気付いた。ほんのわずかだが、確実
に。
﹁私、メイと、距離を置いた方がいいの?
私の細い声に、春美はゆっくりと首を振った。横に。
﹁二人の性別うんぬんじゃないよ。⋮⋮まあ、最初は距離を置いた
方がいいって俺は思ってたけど﹂
突然、くしゃりと春美の顔がゆがんだ。なんでそんな顔をするの、
と私は唇をかんだ。春美はしぼりだすように、ゆっくり言葉を重ね
る。
﹁距離を置くべき、じゃないんだ。距離が開くのが、普通なんだよ。
幼馴染みでも、他人だから。⋮⋮だから、距離が開いた後、どうす
るか、本人たち次第なんだ﹂
︱︱幼馴染みって立場にかまけて、﹁どうしたらいいか分からない﹂
だなんて、甘えちゃだめ。
﹁あ⋮⋮﹂
春美のその言葉がトドメだった。
一気に、体の力が抜ける。自分がどれほど動揺していたのかがよく
感じられた。反動でくすくすと唇から笑みがこぼれた。発作のよう
に止まらない。
﹁春香?﹂
訝る春美を、私はぎゅうと抱きしめる。毛布にくるまってるせいで、
抱き枕に抱きついた様な感覚だ。それがまたさらに笑いを引き起こ
す。
抱きつかれた春美は、まるでクマにでも襲われたように叫び、暴れ
た。失礼なやつだ。
私は春美を解放し、﹁ありがと!﹂と叫んだ。
春美は私の急な変化に付いていけてないようで、瞳をきょどきょど
と動かしている。
﹁春美のおかげですっきりした!そうよね、ケンカかどうか、いま
67
いち分らないけど、離れた後は仲直りよね!﹂
﹁食事の邪魔してごめん!ありがと!﹂と叫ぶように言い遺して、
私は春美の部屋を飛び出した。
階段を下りると、母親がひょこりと顔を見せ、﹁ケンカ?﹂と聞い
てきた。叫び声が階下まで響いていたのだろう。﹁仲直り!﹂と胸
をはると﹁あ、そう﹂とまた仕事に戻っていった。
私は﹁明日こそ﹂とメイの顔を思い浮かべた。
﹁春香はいつも走って出て行くね⋮⋮﹂
自室に残った春美はため息をつく。
あの飛び出すような勢いは、春美には持っていないものだ。性格の
違いだろう。自分たち双子は、昔から﹁似ていない﹂と親戚にから
かわれていた。親戚のおばさんに褒められるのは、いつも大人しい
春美だった。けれど春美は、春香の性格が羨ましいと思ってしまう。
それも昔からのこと。
﹁離れて、俺もどうすればいいか分からなかったから⋮⋮﹂
春美はぽつりとつぶやく。当然、その声を聞く者はいない。
︱︱春香まで、メイから離れてしまわないで。
夕飯はもう冷めてしまっていた。
◇
ふむう、と私は小さくうなった。今日こそメイと仲直り、と胸に刻
んで登校したはいいが、方法を決めていなかった。仲直りというワ
ードそれのみが脳内をしめており、頭が働いていなかったのだ。
68
︵友達と仲直りってどーすんだっけ︶
机に突っ伏し、記憶をさぐる。昔から傍にいる友達の顔を思い浮か
べると、それはメイばかりだ。いや、もちろんメイ以外にも友達は
大勢いた。しかし、ケンカの思い出が出てこない。ケンカをするほ
ど仲のよかった友達がいなかったのだと気付き、愕然とした。
︵私、やっぱり、メイに依存しすぎなんだ⋮⋮︶
メイは自分が傍にいないと。泣き虫だから。男性恐怖症だから。
メイが自分に依存していると上から目線で思っていたが、それは裏
返してそのまま自分に当てはまる。
︵うっわー、私、性格悪い⋮⋮でもまあ、それに気づけたから良い
か︶
体を起こし、腕組をしてうんうんと一人頷く。
すっと机に影が掛かった。
﹁入江くん、今、いいかしら?﹂
私の横に、いつの間にやら静かに立たずむクラスメイト。私は﹁う
おっ﹂と叫んでしまった。気配を感じなかったんだけど。
見ると、穏やかに微笑んだ、どこか春美に雰囲気が似ている顔。さ
らりと流れる黒髪は、腰までと、大変目立つ長さ。春美のクラスメ
イトにして、中学からの知り合い︱︱原田かえで。戸田の情報によ
ると、あの水内桃の親友。
私は﹁あー﹂と意味のない声を出して、ひきつる頬を隠した。春美
の中学生時代を知っている人間ということで、私はこれまで、彼女
を徹底的に避けていた。正直、自分が春美を上手く演じ切れている
自信はないので︵なにせ性格が全然似ていない︶、ばれるのではと
いう恐怖があったのだ。
﹁何の用かな?﹂
﹁そんなに構えないで。大した用じゃないの﹂
原田は苦笑いをして、子首を傾げた。肩にかかっていた髪がするり
と滑る。その様子に、私は﹁あ⋮⋮﹂と小さく声を出してしまった。
自分がメイに避けられていることを思い出した。
69
︵そうだよ、私、春美とこの子が仲良かったのか知らない。もし昔
仲良かったとしたら、避けられるのはきつい︶
避けられる原因が分からないのならなおさらだ。その辛さは身にし
みて分かっているつもりである。
﹁ごめん、じゃあ、ちょっと向こう行こう﹂
席を立ち、二人で教室を後にする。後ろからついてくる原田は目の
前の背中をじっと見つめていた。
教室から少し離れて、廊下の端側の階段。私はその近くの壁に寄り
かかった。昼休みは残り十五分程度。人通りが多くなるのはもう少
し後だろう。
﹁ええっと、話を聞く前に言いたいんだけど⋮⋮﹂
私は、少し口ごもり、かるく頭を下げた。
﹁今まで避けてて、ごめん。⋮⋮いや、その、俺、中学のころから
学校行ってなかったから、なんか顔合わせづらくてさ⋮⋮﹂
もごもごと即興のいい訳を絞り出す。これならなんとか納得してく
れるだろう。⋮⋮多分。
﹁ううん、いいの⋮⋮気にしてない﹂
顔を上げると、原田とばっちり目が合う。目を細め、薄い唇は弧を
描き、微笑んでいる。良かった、と私は内心ため息をついた。しか
しそれも一瞬。
﹁入江くん本人に避けられたわけじゃないもの。それに入江くん以
外の人にそんなことを謝られたって、なにも嬉しくありません﹂
突然のその言葉に、声も出なかった。何を言われているのか、脳が
混乱、体がフリーズ。
原田は泰然と微笑みつづけていた。
70
さらに、爆弾
貼り付けたような笑顔に、ぶわりと肌が粟立つ。警戒、の二文字が
脳内でちかちかと光った。
﹁ちょっと言ってる意味が分からないよ、原田さん﹂
首を傾げてみせるが、この仕草がわざとらしかっただろうか。すぐ
後悔した。
二人、目線は合わせたまま。逸らすことは意地が許さない。
﹁そのままの意味よ。それより、入江春美について聞きたいことが
あるの﹂
﹁⋮⋮なにかな?﹂
ぐいっと原田は距離を詰めてきた。思わず﹁近い﹂と目を瞬いてし
まう。微かにかかとを浮かせ、顔を寄せるその姿はまるでキスする
かのようだった。しかし彼女の唇はそんな甘いものではなく、爆弾
だ。一体何を言われるのだろう、背筋に緊張が走る。
﹁入江くんはどこ?﹂
﹁だから、俺だってば﹂
﹁そうね、場所はいいわ。入江くんは無事なの?﹂
⋮⋮会話が成り立っていない気がする。
﹁だからさっきから何の話をしてるのさ!﹂
思わず原田の肩に手を置く。しかし、その細い肩は意外にもびくと
もしない。
﹁⋮⋮大丈夫よ。この学校の盗聴器は全て処分したわ。人に聞かれ
ることはない﹂
﹁うん?﹂
耳慣れない単語に、私はつい腕の力を緩めた。ちらりと原田は肩に
置かれたままの私の腕を見たが、気にせず言葉を続けた。
﹁別に詳しいことを聞くつもりじゃないの。家の事情はいろいろだ
もの﹂
71
原田のあまりの必死なその瞳の色に、ふと引き込まれた。何の話を
しているかは正直さっぱりだが、彼女は芯から真剣らしい。
また、じいと瞳を見返してみる。彼女のそれはゆらと揺らいだと思
った瞬間、ついに逸らされた。
原田が俯く。メイほどではないが、原田も小柄なほうで、頭を垂れ
るとかわいらしい頭頂部が見えた。
﹁ただ、ほんとうに入江くんが無事か知りたいだけなんです。ずっ
と中学も来てなかったし﹂
﹁無事だよ﹂
私の一言に、ぱっと顔があげられる。
私は、降参、とでも言うように左手を軽く挙げてみせた。
﹁心配かけたみたいだから、もういいや。春美は無事だよ。事情が
あって学校には来られないけど、ぴんぴんしてる﹂
﹁⋮⋮そう﹂
原田は、私の一言だけであきらかに安堵を見せた。﹁ありがとうご
ざいます﹂と頭が下げられ、それにともなって長い髪が零れるよう
に揺れる。
ずいぶん可愛い子に好かれてるじゃん、春美。
﹁でも、やっぱ私って、春美に見えない? 同中だと隠しようない
かな﹂
肩をすくめる。ばれたのならと、開き直って口調も自分のものにす
る。
原田は要注意人物だと思っていたが、こうもあっさりとばれてしま
うなら、やはり入れ替わりは苦しいのだろうか。これからの学校生
活はあきらめるべきだろうか。
しかし原田は首を横に振った。
﹁確かにあなたは入江くんじゃありません。でもきっと他の人には
わからないわ。うちのクラスに同じ中学だった人は他にいないし⋮
⋮顔もそっくりだもの﹂
﹁そっくり? はじめて言われたけど﹂
72
﹁そんなはず⋮⋮。まるで双子みたいよ﹂
似ている影なんて、そうそう
原田のその言葉に思わず笑ってしまった。みたい、と言われるのこ
とがあろうなんて。
﹁笑うことかしら。羨ましいのよ?
見つかるものじゃないわ﹂
あなた﹂
原田は私の笑いを、何に勘違いしたのか、眉を寄せた。
﹁影?﹂
﹁そう、影でしょう?
突然、原田は素早く私の手をとった。ぎゅうと握られる。
﹁入江くんに、彼の家に何があったかは聞かない。けれど、影を使
うほど大変な事態なら⋮⋮あなた、必要ならば私をいつでも使って。
頼って。何をしてでも、原田は助けます﹂
﹁なんの話﹂
﹁入江くんに、原田がそう言ったと伝えてくれればいいわ。入江く
んには恩があるの﹂
原田はその言葉を最後に、踵をかえし、去っていった。
廊下に一人、残される。最初から最後まで、彼女のペースに巻き込
まれた気しかしない。
タイミングを図ったように予鈴の鐘がなり、ばたばたと階下から生
徒たちが走ってくる音がした。ひとりふたりと、私の前を通り過ぎ、
教室へと向かっている。
﹁⋮⋮⋮⋮原田さんって、電波?﹂
﹁それは聞きずれならんかなー﹂
﹁うわぁ!?﹂
隣から突然かけられた声に、心臓が跳ねた。体を引き、左隣を見や
る。へらりと緩んだ顔がいつの間にか居座っていた。
あ、俺の名前覚えてる?﹂
﹁いい反応、いい反応。でももうちょっと周りに気ぃつけないと駄
目だろ。気配感じるの苦手?
﹁⋮⋮荒吹﹂
﹁正解!﹂
73
先日の遊園地で出会った、身軽な男。ぱっと見は今時どこにでもい
るような細い男だが、暴漢の両腕を片手でくるりと縛り上げた手際
は鮮やかだった。
彼が唇をにいと広げて笑う。
原田さんって荒吹と面識あるの?﹂
一瞬、その笑顔が全く似ていないはずの原田のものと重なった。
﹁⋮⋮さっきのは何だったの?
金持ちだし、おじょーひんって
﹁うん。俺の親父が嬢の父親に雇われてる﹂
﹁じょう?﹂
﹁お嬢様の嬢。それっぽいだろ?
感じで﹂
⋮⋮私に詰め寄る様にはお淑やかさやお上品さのカケラも感じなか
ったけど。私はううんと小さく呻いた。
隣で何が面白いのか、荒吹がまだにやにや笑い続けている。若干鬱
陶しい。彼は細面のせいか、色素が薄めの髪のせいか、軽薄に感じ
られた。
﹁荒吹ってどっちかというと、水内さんのところに雇われてるっぽ
かったのに。こないだの遊園地のときとか﹂
水内の一言で素早く動いた彼を思い浮かべる。その姿はまるで、
﹁あー俺らの息が合いすぎてまるで夫婦みた﹂
﹁顎で使われてたよね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そっすね﹂
分かりやすく、荒吹の表情が固まった。あまりの分かりやすさに私
はつい笑みを漏らしてしまい、それがまた荒吹の表情を情けなく動
かした。
﹁ねぇ、さっき原田さんが言ってた影って何のことかわかる?﹂
﹁影武者っていえば分かるか?﹂
お
さっぱり分からん。いや、影武者の意味を知らないわけじゃないけ
荒吹のほうもわた、⋮⋮俺に何かいいに来たの?
ど。やはり電波っぽいなぁと私は眉を寄せた。
﹁それで?
嬢様が話してる相手をチェックするのがお仕事?﹂
74
﹁いやいや、俺がここいるのは嬢とは関係ねーよ。いや、完全にな
くはないんだけど⋮⋮﹂
﹁どういうこと﹂
﹁いやーちょっと伝えたいことがあって。んで、お前探してたらな
んか嬢が暴走してたみたいだから、止めたほうがいいのかなーと﹂
見てたなら止めろよ、と思ったが、まぁいい。
用件を問うと、荒吹は途端に緩んだ表情を引き締めた。すっと目を
伏せる。真剣な話のようで、私はわずかに彼と距離を詰める。﹁こ
ないだの遊園地のことだけど﹂と口が開かれる。
﹁あの襲って来た男、ただの酔っ払いじゃなかった。水内を狙って
雇われたやつらしい﹂
﹁⋮⋮さっきから映画みたいな話ね﹂
原田といい、水内といい⋮⋮と私は唇を歪めて笑いとばした。しか
し、荒吹は﹁映画みたいな金持ちだからな﹂と動じない。
﹁だから、一応詫びに来たんだ。こっちのごたごたに巻き込んで、
悪かったな﹂
﹁こっちって⋮⋮荒吹の謝ることでもないでしょ﹂
﹁いやーだってほら姫のことなら将来的に恋人になる俺のことでも﹂
﹁伝えたかったことはそれだけ?﹂
妙な惚気を、ぶった斬る勢いで止める。ていうか恋人じゃなかった
のか。随分とポジティブな片思いだと呆れる。
ちらと左手を持ち上げ、腕時計を覗くと、本鈴まであと3分を切っ
ていた。急いで話を終え、教室に戻らなければならない。
既に足が教室へ向いている私を、荒吹は﹁あと1個!﹂と引き止め
る。
言うなら手短にお願い﹂
﹁いやこれは別に俺が伝えなくてもいいことかもしれないんだけど
さ﹂
﹁何?
﹁さっき、嬢とお前が話してるところ、遠くからだけど、お前がい
つも一緒にいる子が見てたよ﹂
75
ほら、あのおかっぱの子、と荒吹が言う。
は、と私は口を開けた。
﹁あの角度だともしかしたらキスしてるように見えたかもーーって
このこと伝えてよかった?﹂
腹の底から叫んだ私の声は
﹁最重要すぎるだろなんだそれぇーーーーーー!!!!﹂
遊園地の男の話なんぞどうでもいい!
廊下に響き渡たり、階段を上がってきていた教師がぎょっと目を向
いた。
荒吹をその場に置いて、ばたばたと全力疾走。右手に並ぶ教室の窓
から、私の勢いに驚いた生徒が顔を向ける。﹁廊下走るな!﹂と何
処からか教師の叱責が飛んだが、私が足を緩めることはなかった。
﹁いやぁーあんなに驚くとは。青春、青春。あー俺もお姫様に会う
ために、教室まで走るかなー﹂
一人残された荒吹の戯言は、チャイムの音にかき消された。
76
ゆっくり、氷解?
急いでメイたちの教室に滑り込んだが、授業をはじめる準備をして
いた教師に即、﹁早く自分の教室に戻りなさい!﹂と閉め出された。
ガラス窓ごしに、一瞬メイと目があう。久しぶりに顔を見た気がし
たが、あまりのもどかしさに舌打ちしてしまった。
早く、ちゃんと向き合って、話をしたい。
5組の教室にもどり、教科書を開く。教師が黒板に並べる数式を見
ながら、何度もシャーペンの頭をカチカチと叩いた。
しかし、ただいらいらするだけには、授業時間はあまりに長い。ふ
と、自分は一体なにに対して怒っているのかと冷静になった。
朝からずっとメイと仲直りするために迷っていて、でも時間が過ぎ
ていって、昼になった。そのことには確かに焦りがあった。仲直り
が予定通りできなかったからか。否、それにしても、昼休みに引き
止めてきた原田や荒吹に不満はない。
私は今、男の体ではある。それは認めよ
問題はやはり、荒吹からの最後の言葉。
﹁キス﹂
こっそり口の中で呟く。
いやいやいやいやいや!
う。かつ男の体の生活をそれなりに楽しんでいる。それも認める。
楽しまなきゃ、やってられないし。
﹁入江﹂
女の子とキスなんて、あの可愛らしい幼馴染に誤解
しかし、しかしだ。心は完全に入江春香である。女だ。ぴっちぴち
の女子高生!
されたくないのだ。
確かに原田のあの柔らかな黒髪は魅力的だとは思うが。しかし、中
身まで男になったなんて、メイに思われたくない。だから、私は誤
解を受けたままである今の状況に、こんなに焦っているのだ。ほか
に他意はない。
77
﹁入江﹂
じゃあ、もし誤解相手が男だったら?
ふとそんな命題が浮かぶ。
廊下で男子制服を着た二人がキスする姿を想像して、慌てて首を横
に振った。これは違う。そうではない、私が女の体のままであった
として、男とキスしている姿をメイに︱︱
﹁入江!﹂
﹁は、はい!﹂
大声で思考がぶった切られ、私はひっくり返った声で返事をした。
﹁ぼーっとして、大丈夫か。体調が悪いのか﹂
いつの間にか目の前にたっていた教師が、厳しい声で問う。﹁いい
え﹂とため息のように言うと、﹁しっかり話をきけ﹂と睨まれた。
首をすくめてみせる。私の代わりに、後ろの席の生徒が指名され、
黒板の数式をとき始めた。内心で、身代わりとなった男子に謝る。
遠くの席に座った原田と、ぱちりと目が合った。かすかに微笑まれ、
先ほどの自分の情けない姿を恥じた。原田の視線を避けるように、
ノートに向かい、板書を移す。
結局、授業が終わって放課後、急いでメイの教室に向かったが、彼
女に会うことはできなかった。
﹁永瀬ならもう帰ったぞ﹂
戸田の言葉に、がっくりとうなだれる。
﹁うう⋮⋮やっぱり避けられてる⋮⋮﹂
教室の入口に寄りかかり、ごつっと自分の頭を押し当てる。この調
子ではケータイに連絡しても、今まで通り話を拒否されるか躱され
るかのどちらかだ。
﹁喧嘩してるのか、お前ら﹂
珍しいと戸田が目を丸くした。﹁だから高尾がイラついてるのか⋮
78
⋮?﹂ともごもご呟く。
﹁喧嘩なんかしてないし⋮⋮多分。メイが誤解してんの!﹂
八つ当たりに叫ぶ。高いところにある戸田の顔を、ぐっと首を反ら
して睨む。戸田は私の目を見て、何か考える素振りを見せた。
﹁誤解なら、永瀬を捕まえて話せば、収まるか?﹂
多分、と再び口から溢れかけて、私は一度口を閉じた。多分ではな
い。
﹁収まる。絶対﹂
あれだけ春美に諫められたのだ。このままになんて意地でもさせな
捕まえてくれるの?﹂
い。挑むように、ぐっと拳を握ってみせた。
﹁何?
﹁5組のショウカ祭クラス委員、もう決まったか?﹂
と口を開けた。
一体何のアドバイスをくれるのかと期待していたのに、思わぬ方向
に話が飛び、私ははっ?
ショウカ祭とは我が高校の文化祭﹁紫陽花祭﹂をもじった別名だ。
毎年6月の後半にあるらしく、今の時期は、文化部と、学年全員で
出し物をしなければならないと決められている二年生が校内を駆け
回っている。ちなみに紫陽花は昔、この高校が女子高だった名残の
シンボルだ。雨の多い時期にわざわざ文化祭が行われているのもそ
のためである。
﹁明日のホームルームで決めるらしいけど、何、いきなり﹂
﹁うちのクラスは今日決まったんだが、永瀬がじゃんけんに負けて
なった﹂
﹁何よ、それかわい、可哀想!﹂
危ない、可愛い、と言いかけた。
しょんぼりしていただろうメイを慰めたい。ああ、私が春香のまま
だったら、﹁私も手伝うから大丈夫よ﹂と髪を撫でるのに!
咄嗟に女言葉で叫んでしまった。私ははっと気づき口を手で覆う。
戸田の背後から、高尾がすっと現れた。
﹁あんた、声でかい。あと男二人が入口塞いでたら邪魔よ。特に戸
79
田は体でかいんだから﹂
﹁あれ、高尾、まだ残ってたの﹂
﹁当番だったの。さっき掃除が終わったとこ﹂
なるほど、その手にはゴミ袋が握られていた。下の倉庫に片付けに
行くのだろう。
いい加減、苦しいでしょ﹂
モデルと見紛うほどの顔つきとスタイルの彼女がゴミ袋を持ってい
るのは、なかなか似合わない。
﹁戸田には言ってもいいんじゃない?
先ほどの私の言葉を聞いていたらしい高尾が、そっと耳打ちしてき
た。
﹁あんた、意外と言葉遣いとか仕草、女っぽいから﹂
﹁え、うっそ﹂
高尾の言葉に私は顔を歪めた。一層気を引き締めなければならない。
原田にバレただけでも冷や汗をかいたというのに。
私は首を横にふって、高尾の提案をはねのけた。
さらに私の正体を知る人が増えてしまうのは、気が進まなかった。
別に戸田が信用ならないのではない。ただ、私の気がさらに緩みそ
うだから。春美にも止められているし。
高尾はかすかに気落ちしたようだが﹁そう﹂と頷き、その場をあと
にした。
﹁話の途中でごめん、戸田。ええと、つまり、私も文化祭のクラス
委員になればってこと?﹂
﹁ああ。それなら話すチャンスもあるかも知れないだろ。作業する
にも、あいつの男性恐怖症知ってる奴がそばにいたほうがいいし﹂
﹁当たり前だよ﹂
たとえ仲違いしていなかったとしても、メイがそんな事態になって
いて、春香さんがそばにいないわけがない。
﹁情報ありがと、戸田。助かるよ﹂
﹁仲直りできるといいな﹂
ああ、と頷く。しかし、それにしても
80
﹁でも、戸田ってメイのこと苦手って言ってたわりには優しいじゃ
ない﹂
﹁ああ⋮⋮なんか、高尾が微妙に機嫌悪いんだよ。お前ら二人のせ
いもあるんじゃないか﹂
戸田の言葉に私はううんと呻いた。最近、高尾とメイは仲良くなっ
たようだし、その可能性はあるかもしれない。
もしかしたら、高尾はメイが私を避けている理由を知っているので
はないかと思い浮かんだ。しかし意外と世話焼きな高尾だ。それな
ら仲を取り持ってくれそうなものだが⋮⋮。
﹁メイが男性恐怖症だってのも、高尾から聞いたの?﹂
﹁まあ、皆そうじゃないかとは思ってるけど。はっきりとは高尾か
ら聞いた﹂
﹁そう﹂
とりあえず、戸田と高尾が仲良くしているようで、私はほっと笑っ
てしまった。
遊園地のダブルデートはなかなか効果アリだったようだ。
◇
ショウカ祭のクラス委員の仕事は、言ってしまえば雑用だった。
クラス委員とは別に、学年に二人、文化祭実行員が既に決められて
いる。クラス委員は連絡など、実行委員とクラスを繋ぐ役割のよう
だ。特に私たち一学年は、クラスごとの出し物も任意であり、仕事
は自然、出し物をするクラスや二年の手伝いとなる。
立候補者がなかなか出ないわけだ。5組での立候補は私一人で、な
んの揉め事もなくスムーズに決まった。
﹁あら、また会えたわね、入江春美!﹂
﹁先日ぶりだなー﹂
クラス委員話し合いの教室に入ると、真っ先に見覚えのある茶髪の
81
二人、水内と荒吹につかまった。
﹁⋮⋮二人ともクラス委員?﹂
﹁クラス委員は私だけよ。荒吹は無視していいわ﹂
﹁なーんでショウカ祭クラス委員はクラスに一人かねー。エスコー
さっさと仕事終わらせて私はかえでのところ
トしにくいことこの上なし﹂
﹁しなくて結構よ!
に行きたいわ。ほら、おとなしく外で待ってなさいよ﹂
﹁二人で仕事すればそのぶん早く嬢のとこいけるって!﹂
集まっている他のクラス委員を気にすることなしに、ぎゃいぎゃい
と口論を始めた二人から離れた。夫婦喧嘩は犬も食わない触らぬ神
に祟りなし!
メイの姿を探す。教室の奥の席に既に座っていた。
﹁メイ﹂
一応、声をかける。かたくなにこちらを見ようとしないその姿から、
もう私には気づいているだろう。
了承はとらず、隣へ行き、椅子に座った。
﹁⋮⋮ハルちゃんも、クラス委員?﹂
しばらく待つと、ようやくメイが口を開いた。
﹁そうだよ、偶然⋮⋮ってわけじゃないけど﹂
頷くが、そこで会話は途切れた。一瞬の静寂。
﹁あのね﹂
﹁あのさ⋮⋮っ﹂
﹁あ、ごめん﹂
﹁いや、そっちが先に﹂
言葉が重なり、なんだか無性に慌ててしまう。私は譲って、メイの
発言を促した。
メイはためらいに瞳を揺らす。
﹁あのね、ハルちゃん、私⋮⋮﹂
久しぶりに、メイと向き合う。メイのためらいや緊張がうつったの
か、急に私の心臓がはねた。彼女の言葉を聞き漏らすまいと、じっ
82
と唇を見つめ︱︱
パーンと勢いよく、教室のドアが開けられた。
話し合いはじめるぞ!
その音に、びくりとメイが口を閉じる。
﹁さーあ集まったか!
!﹂
ほら委員長前出て
ごうごうと腹から声を出す、色黒の体育教師。彼がショウカ祭クラ
ス委員の受け持ちか。
なんとも嫌なタイミングに邪魔をされて、私は顔を引きつらせつつ、
メイの顔色を伺う。予想通り、苦手なタイプの教師の姿に、表情を
固めていた。
⋮⋮とりあえず、本当に、クラス委員に立候補しておいて良かった。
先ほどのメイの様子を見ると、どうしてか私を避ける姿勢が軟化し
たようだ。とりあえずそのことに満足した私は、大人しく、話し始
めた委員長に耳を向けた。
83
ばったり、再会
私とメイの仲直りは結局、すっぱりとした解決なく、収まることに
なってしまった。時間が解決したのだろうか、久しぶりに声をかけ
たメイからは拒絶が消えていた。ショウカ祭クラス委員会を利用し
て、ちょっとずつ距離を探りながら、話しかける。すると、歓迎す
る雰囲気じゃないものの、全て受け入れられた。
原田とのキスの誤解も、見間違いだというと、メイは微妙に引きつ
った顔ではあったが、頷いた。
久しぶりの会話から二日後、ようやくタイミングを見計らって、﹁
ごめん﹂と頭を下げることができた。
﹁原因は分からないけど、それもごめん。俺、メイに何かしたかな﹂
許しをこう私に、メイは椅子を引き倒す勢いで立ち上がった。自身
で立てた物音にびくりと体を震わせ、倒れた椅子と私をとを見比べ
謝るの、私の方で。本当にごめんなさい
る。結果、椅子は放置され、メイは私に﹁違うの!﹂と叫んだ。
﹁ハルちゃん、違うの!
!﹂
﹁え、ちょっと声大きい!﹂
予想外のメイの反応に私は慌てた。
ぐるりと見渡すと、やはり、先輩含め、実行委員の皆がこちらに視
線をよこしている。あと少しで委員会が始まることを、すっかり失
念していた。
﹁あ、ご、ごめんなさい⋮⋮﹂
メイがかあっと頬を上気させた。
その様子に、私は思わず吹き出してしまった。すると、メイは、情
けなく眉を下げ、私を上目遣いに見つめる。そこでようやく、ああ、
いつも通りだと、安心した。
撫でて慰めるのはぐっと我慢して、﹁どんまい﹂と笑いとばしてみ
せる。いつも通りの、私とメイだ。
84
﹁ね、じゃあ、どうして⋮⋮﹂
俺のこと避けてたの、と言葉にするのは抵抗があった。事実には変
わりないが、ぐっと喉が詰まる。
﹁ごめん、ね﹂
﹁⋮⋮ごめんじゃ分からないよ⋮⋮﹂
謝るメイに、すがるように食い下がる。しかしメイは謝るだけだ。
﹁あのね、今は、ごめん。少し待って欲しいの﹂
ようやくメイから引き出した言葉に、私は首を傾げてしまった。し
かし、メイはもう譲る気はないようだ。
﹁絶対、絶対、いつかちゃんと理由、話すから﹂
﹁⋮⋮いつか、っていつ?﹂
﹁入江春美、引いてやりなさいよ﹂
二人の間が、ぐいと強引に引き離される。水内が、いつの間にか傍
らに立っていた。
﹁水内には関係ないでしょ﹂
入ってこないで、と睨む。私の喉から出た苛立ちの声はやはり低く
重い。男の体で怒りを表すと、前回と同じく、即座に自分で怯むこ
とになる。
ああ、こんな声、女の子に聞かせるものじゃない。
対して、怯むことなく私を睨み返す水内。私の怒りは急激にしぼん
でしまい、そのまま彼女を睨みつつも、内心でどうしようかと焦る。
もう時間だぞ。長はさっさと始めろー﹂
また先日のように、クラス委員担当の教師の声で、私の思考はぶっ
た切られた。
﹁おい、席つけー!
がたがたと机や椅子が鳴り、集まっている実行委員は各々席につく。
水内もくるりと踵を返し、後方の席へ向かった。何故かそこにいる
荒吹に﹁乙女心が分かってないわ!﹂と毒づいている。相変わらず
喧嘩の絶えない二人だ。
85
﹁ダンボールってどこにあるの?﹂
﹁学校の倉庫に積んであるよね、あれって使える?﹂
﹁あとスーパーとかで貰えるよな﹂
一年生はダンボール収集を担当、と会議で決まり、一年クラス委員
11人で集まる。
必要なダンボールの数を全クラスに聞きに行く係、学校の倉庫に行
く係、スーパーに行く係と三つに別れた。
スーパーに行く係は当然、面倒だと敬遠される。ジャンケンで負け
た私とメイと水内を含めた6人がスーパー係となった。
﹁じゃあ私たち、学校回ってくるから。必要な量分かったらメール
でまわすね!﹂
聞きに行く係の女子二人が、さっそく教室から去って行く。
残ったダンボール収集組も、気だるげに足を動かした。
﹁スーパーって二つあるよな、駅の方向と寮の方﹂
﹁え、俺、寮の方知らない﹂
係の一人の言葉に、私が反応した。私と同じく電車通学のメイもこ
くりと頷く。
﹁じゃあ3、3で別れようぜ。入江と永瀬は駅の方行ってくれ﹂
﹁私も駅の方に行くわ﹂
水内が手を挙げる。
﹁入江春美が永瀬メイをいじめないか、見張ってあげる﹂
ぱちん、とメイに向かってウィンクした水内に、私は﹁人聞きの悪
い!﹂と憤慨した。
﹁ほら、そうと決まればさっさと行こうぜー﹂
その声につられて、4人は足を早める。
﹁⋮⋮て何で荒吹も付いてくるの!﹂
﹁姫がそこにいるからさ!﹂
私と荒吹、男2人がぎゃあぎゃあと叫ぶ後ろで、メイと水内はこっ
そり微笑んでいるようだった。
86
◇
﹁学校の倉庫と寮側のスーパーで、結構な量になったみたいだよ。
俺たちは5枚くらいでいいらしい﹂
﹁あら、楽ね。荒吹が一人で持てる量だわ﹂
﹁あ、でもガムテ4つ買ってきて欲しいって﹂
ケータイの画面にうつる実行委員の連絡を三人に見せる。
私たちは、駅の向かいのスーパーの自動ドアをくぐり、店員を探し
た。
夕方のスーパーはごった返しており、手の空いた店員はなかなかつ
かまらない。先にガムテープを調達し、精算のさいにダンボールの
話をしようということになった。
日用品売り場で4人固まっていると、スーパーにいる高校生が珍し
いのか、客の男一人がこちらを見ていた。
男が突然﹁あれ﹂と声をあげる。
ばちりと音が鳴るように目があって、私は慌てた。
まさか、と妙な予感から逃げるように、彼から背を向ける。いや、
いや、まさか。
いやでも、もしかして、勘のいい彼のこと⋮⋮。
﹁もしかして、春香?﹂
予感が的中してしまい、私は顔を歪めた。
制服だって紛うこと
髪だって短くなってるし身長だって伸びている。ど
なんで分かるんだよ。私、今男の姿じゃん!
なく男物だ!
こをどうみたら、かのCカップの女の子春香に見えるのか!
春香という男の声に、一番先に反応を見せたのはメイだった。男の
ほうへ振り返り、目を見開く。
﹁⋮⋮川崎さん?﹂
しかし、川崎はメイに首を傾げる。
87
春香がいつも話してた幼なじみか!﹂
﹁あ、えと⋮⋮私、一回会ったことあります。ハルちゃ、春香の⋮
⋮﹂
﹁ああ!
﹁悪いな、思い出せなくて﹂と謝りながら、川崎が笑った。メイは
硬い表情のまま、川崎をじいっと見つめている。
川崎は、メイの男性恐怖症を私からの話でよく知っているので、そ
の場に立ち止まったまま近づこうとはしない。
髪、切ったのか。雰囲気変わ
そのせいで、川崎は私にはっきりとした声で呼びかけた。
人違いです!﹂
﹁なあ、こっち向けよ。春香だろ?
ったな﹂
﹁春香じゃない!
どう見ても!﹂
勢い良く振り返って、自身の姿を指差す。
﹁男だろ俺!
コスプレ?﹂
近くでカートを引いていた主婦が、突然の叫び声に目を丸くしたが、
そんなこと知ったこっちゃない。
話を!聞きなさいよ!﹂
﹁そういえば、なんで男の格好してんだよ?
﹁人の!
私のことを春香だと信じて疑わない川崎。まったく会話が通じない。
きょとんとした水内と荒吹の視線が痛い。
なんでいつもの飄々としたペースで場を回収してくれな
というか荒吹は私が違う人間演じてるの気づいてたんじゃなかった
っけ?!
いんだ!
内心で、荒吹に八つ当たり気味な文句を叫ぶ。
ギリギリと歯ぎしりをする私の表情を見て、川崎は﹁ううん⋮⋮?﹂
と顎に手を当てた。ようやく私が春香じゃない︵いや本当は春香な
んだけど︶と気づいたのか、と期待を寄せると、
﹁いや、やっぱり春香だろ。イメチェンしてても、さすがに元カノ
は間違えねーよ﹂
期待が打ち砕かれた。ひくっ、と自分の頬が引きつるのが分かる。
周囲の空気が固まるのが分かった。水内と荒吹はガムテープを持っ
88
たまま、ぽかんと口を開けている。
メイは変わらず川崎に厳しい視線を送っていた。
﹁え、入江春美ってホ﹂
﹁違うわー!﹂
お願いだから!
ぽろりと零された水内の呟きを、慌てて遮る。
﹁なに言ってんだ。春香は女の子だぞ?﹂
私は春香じゃない!﹂
﹁いやちょっと川崎さんちょっと黙れよ!
で!
まじ
パニックを起こした私は、場所も忘れて、さらに大声を上げた。
ていうかごめんよ、春美。まさ
この場合どうすればいいのか。まさか私の正体が水内にもバレても
しかして学園生活中止の事態!?
かのホモ疑惑だ。これは謝って許されるものなのか。どうなる、私。
混乱し、ぐるぐると巡る思考と視界。
それを止めたのは、なんとメイだった。
﹁川崎さん、この子、ハルちゃんじゃありません。双子の、春美で
す。あなたの元カノじゃ、ない﹂
彼女らしくない、はっきりと噛んで含めるような声色。
﹁川崎さんには関係ないです﹂
ハルくん、行こう。メイのその言葉に、私は落ち着いた。
﹁す、すみません、そういうわけなので﹂
私は川崎に一礼し、背を向ける。荒吹がガムテープを4つ持ってい
ることを確認し、その場を後にしようと、水内と荒吹の背中を押し
た。
﹁待って﹂
川崎の制止の声に、私は半身を向ける。
﹁人違いだったなら、悪かった。謝るよ。双子の弟なら、春香に伝
言をお願いしたい﹂
﹁⋮⋮メールすればいいじゃないですか?﹂
私のつれない返事に、川崎は顔を綻ばせた。
﹁直接言いたい。もし、必要なら、また喧嘩教えてやるって、伝え
89
てくれ﹂
私は、その言葉には何も言わず、3人を連れてその場から逃げた。
90
ゆらり、紫煙と
川崎と付き合ったのは、ほんの一瞬だった。当時、私は中学生で、
彼は大学生。今思い返すと、まるで川崎は社会的に危ない人間であ
る。
しかし、付き合ったといっても、彼が、女子中学生の駄々に付き合
ってくれたというだけだ。本当の恋人同士のように寄りかかって、
想いを囁きあったわけではない。
当時、私にとって川崎は、勉強を教えてくれる大学生チューターで、
変な空手くずれの喧嘩を教えてくれる粗忽者で、そして何より、支
えてくれる兄貴分だった。
そんな関係だったから、結局何もしないまま、わずか一ヶ月と少し
で、お互い円満に﹁さよなら﹂を言いあった。
今ではそれも含め、良い思い出である。
◇
深夜であるにも関わらず、ここの大通り一帯の交通量は多い。無数
のへッドライトが滑るように流れていく。夕方の雨で濡れたアスフ
ァルトの地面は、流れる光を映して揺れているようだった。
ヘッドライトの明るさに負けないほど眩しいのが、コンビニの照明
だ。夜の虫を誘うその灯りを、避けるように作られた脇の駐輪スペ
ース。そこで彼はフェンスにもたれかかっていた。明かりを避けて
いても、彼の痛んだ明るい髪色は目立つ。
彼がここで一服する習慣を変えてなくてよかった。
私の気配にすぐに気がついたようだ。川崎は煙草を携帯灰皿にぐり
ぐりと詰め、顔を上げる。そして、ゆっくり瞬きをした。
距離が開いたまま、二人、見つめ合った。
91
﹁メール返せよ﹂
川崎が、携帯灰皿を左手に転がしながら、拗ねたようにつぶやいた。
﹁やっぱり、春香だろ﹂
﹁⋮⋮どうしてそう思うの?﹂
﹁見たら、春香だって思った。見た目、すごく変わってたから驚い
たけど﹂
川崎にとって、元カノの性別が反転している事態は、驚くで済むレ
ベルなのか。
﹁変な人﹂
不可解を通り越して、うっかり笑いが漏れてしまった。たぶん、も
うこれで誤魔化しはきかなくなった。自分が春香本人であると認め
てしまった。
でも、彼なら口止めすれば大丈夫だろう。自分が未だ、この男に強
い信頼を寄せていることを自覚した。
﹁春香が、弟に見えなかったんだ。弟に会ったことないけど、お前
は、絶対、弟じゃないだろう﹂
思い出したように付け足されたその言葉に、私は首を傾げる。
﹁どういうことよ﹂
﹁引きこもった挙句、家の鏡を全て割るような危ない男に見えない
ってこと﹂
思いがけない過去を掘り出され、私はぎくりと肩を震わせた。川崎
の指摘に、頬を打たれた気がした。
﹁⋮⋮そんな話、よく覚えてるね﹂
つい苦笑いで応えてしまう。
﹁お前から聞いた弟の話はだいたい覚えてる。カノジョが狂ったよ
うに泣きながら愚痴ってんだ。そうそう忘れない﹂
﹁だいぶ、マシになったのよ。いつからか、よく分からないけど。
今は普通に話してくれるし、部屋にも入れてくれる。相変わらず、
学校には行かないけど、でも、高校も自分で手続きして私と同じと
ころに入ってるの﹂
92
﹁⋮⋮良かったなぁ﹂
川崎が満足そうに目を細めた。
その仕草に、懐かしさを感じる。不覚にも目尻が熱くなった。
﹁ね、川崎さん﹂
﹁何?﹂
﹁また喧嘩教えてよ﹂
川崎はすぐには答えなかった。ややあって﹁あんな誘い文句、冗談
だ﹂と肩をすくめる。
﹁何、またヤケになってんの。もうやめとけよ、ジョシコーセー﹂
彼の軽口に、今は男子高校生だよ、と突っ込んでおく。
﹁こないだ、酔っ払い倒したの﹂
その言葉に、川崎は渋面になった。
﹁絡まれたのか﹂
﹁絡まれそうだったから先に倒した﹂
﹁加害者じゃねぇか﹂
﹁なまってた。だから、また教えて﹂
﹁断る﹂
返事はにべもない。﹁どうして﹂と食い下がる。川崎は再び煙草を
くわえ、火をつけた。煙とともに、拒否が吐き出される。
﹁俺はもう大人なの。女の子にあんな無茶なことさせるのは、もう
勘弁﹂
思いがけない断り文句に、私はむっと唇を歪めた。川崎は、何を頑
なになっているのか。以前なら、そんな情けないこと、言わなかっ
たのに。
﹁何度も言ってるじゃん。私、今、男なの。守りたいものだってあ
るんだから﹂
ふーん、と間の抜けた相槌を打たれた。川崎の眼前で揺れる煙が、
何故だか無性に腹立たしい。
どうして川崎は分かってくれないのか。私の体は男だ。
﹁⋮⋮やっぱ、そういう手術したの﹂
93
﹁え?﹂
なに、
手術、という耳慣れない言葉に、私は口を開けてしまった。川崎は
気にせず続ける。
﹁性転換手術。よく知らないけど、なんか、できるんだろ?
男だったの、春香。女の子が好き?﹂
私はふるふると首を振った。
思わぬ話題の転換に、先ほどまで胸にふつふつと浮かんでいた苛立
ちが、一掃された。
私は男だ。でも、女だ。入江春香だ。
﹁ワケは言えないけど﹂自分でもなんでか分からないし。﹁自分の
意思でこの体になったわけじゃないの﹂
また川崎は黙った。
二人、何も言わないせいで、走り去る車の水溜りを裂く音が、いや
に大きく響く。
﹁春香﹂
ようやく川崎がしじまを破った。短くなった煙草を携帯灰皿に投げ
るように入れ、彼は私のそばへ歩み寄ってきた。
﹁その体、春香がなりたくてなったわけじゃないないの?﹂
頷く。
﹁じゃあ、俺と、前付き合ってたことって、間違いじゃない?﹂
俯いた川崎の口から零れた確認に、私は目を剥いた。
﹁当たり前じゃない。何、なんで、そんなにしょぼくれてるの﹂
慰めるように、そっと彼の頬に手を当てる。
過去、付き合ってた時、私はずっと、彼に慰められていた。
中学という不安定な時期に振り回され、引きこもりはじめた春美に
動揺し、女になる自分の体に戸惑った。そんな全ての鬱憤を、川崎
にぶつけていた。
今思い出すと、私はそのために彼と付き合って、存分に甘えていた
のだ。
それが、どうしたことだろう。
94
初めて彼が弱く見えた。
ざらざらする彼の顎を指先で撫でる。
はたから見たら、男が男を撫でているのだ。さぞ奇妙な光景だろう。
﹁間違いじゃないよ﹂
私は笑った。
﹁確かに、付き合った期間は短かったし、私がわがまま言ってただ
けだったけど﹂
川崎が顔を上げたので、顎に触れていた指を離す。
﹁恋人っていうより兄妹みたいだったけど、私、ちゃんと好きだっ
たの﹂
﹁また、守らせてよ﹂
途端、顔色を明るくした川崎が言う。
﹁望んでその体になったんじゃないなら、守らせろよ。春香が守り
たいっつってるものも一緒に守るから﹂
昔と変わらない、私を安心させてくれる瞳で、唇で笑う。
﹁もう一度、俺と付き合おう﹂
﹁いや⋮⋮私、男だよ﹂
思わぬ告白に、私はすぐに拒否する。しかし、川崎が、その後に応
えるだろう言葉は、何故だか予想がついた。
﹁関係ねぇよ。春香なら。女でも、男でも、どっちでもいい﹂
予想が当たってしまい、かえって戸惑う。知らないうちに、自分の
手が細かく震えていた。
どうとも答えられずに瞬きをするだけの私に、川崎は
﹁昨日の今日で驚かせたな﹂
と引いた。
﹁とりあえず、喧嘩うんぬんは保留な。んで、返事もいつかくれ。
会いにいくから﹂
私は、喉から絞るような声を出した。しかしその細い返事は、川崎
の耳に届かなかったようだ。
﹁そういや、文化祭近いよな。久しぶりだし、行こうかな。その時
95
にでもさ﹂
﹁来ないでッ!﹂
それ一言を言い捨てて、ばしゃりと水たまりに飛び込むように足を
動かす。そうして私は、また川崎から逃げ出した。
女でも、男でも、どっちでもいい。
川崎の言葉が、私の脳内でガンガン響く。
脇目も降らない全力疾走に、脳内はすぐに酸欠になる。それなのに、
そう思ってる?
その言葉はしつこくぐるぐると巡った。
女でも、男でも。春香なら。
彼は私は彼女は本当にそう思う?
脳内の片隅で、駄々をこねるような、喚く声が聞こえた。
96
ちらり、曇り空
ショウカ祭も間近の放課後。
授業は連日、短縮時制で行われ、早いうちから生徒は校内のあちこ
ちに散らばる。作りかけのオブジェや看板が、階段の踊り場に固め
られ、一部はみ出したリボンや紐が、通行人の障害となっていた。
文化部と二年生はいよいよ正念場と、廊下を走り回っている。何が
足りないとか、これを持ってこいだとかいう叫び声が、あちらこち
らから上がっている。時間に追われる皆の姿は、どこか楽しそうだ。
廊下を歩くガタイのいい男を見つけ、私は﹁戸田ぁ﹂と手を振った。
振り返った戸田の腕の中には、ピンクと白の模造紙が積まれている。
﹁何、その荷物﹂
﹁ショウカ祭の準備﹂
メイたちのクラスは出し物をしなかったはずだ。
﹁戸田って部活入ってたっけ?﹂
﹁ああ、ユーレイ部員だけど、理科研究部。人足りないから引っ張
り出された﹂
文化部。しかも、彼の銀縁フレーム眼鏡に恥じない、お堅そうな部
活だ。神様はなんの分配で、彼にラグビー選手のような体を与えた
のか。不思議なものである。まぁ、別に生まれ持ったからといって、
無理に活かす必要性もないけど。
﹁面白くなさそうな部活だね﹂
﹁失礼だな。当日、暇なら来いよ﹂
﹁何やるの﹂
小学生並みの理科知識しか出て来ず、我ながら呆れる。
文化祭に理科研究⋮⋮。スライムで遊んだり、べっこう飴作ったり
?
﹁レインボーのスライムとか売ったりしてる﹂
﹁まさかの的中﹂
ぼそりと呟くと、戸田が首を傾げた。
97
﹁⋮⋮もうちょっと、客呼べそうなことしないの?﹂
私の冷めた視線に、戸田は唇の端を上げた。
﹁それならーー﹂
﹁ハルちゃん!﹂
戸田と別れたあと、ぱたぱたと廊下を叩くような小走りで、メイが
近づいてきた。
少し前までよそよそしかった彼女だが、今ではすっかり元どおりに
なっていた。
春美と変な噂が立つかと、学校では会わないようにしていた時期も
あったが、最近はショウカ祭クラス委員になったため、二人で校内
をうろつくことが多い。変な気を使うことなく、並んで歩けること
にふんわり頬が緩む。周りも委員だと分かっているので、邪推はし
ない。
次第に、今更だから誤解されてもいいかなぁ、なんて適当な思考に
なる。誤解されたら、否定すればいいではないか。もともと春美も
幼馴染だ。委員も同じだし、側にいることに何の支障があろうか。
クラス委員を勧めてくれた戸田を、内心で拝んだ。
﹁ねえ、メイ。文化祭一緒にまわろうよ﹂
当日も委員の雑用があるが、それほど忙しくはないと聞いている。
午後いっぱいは時間が空くだろう。その時に、理科研究部とやらに
寄ってみたい。
メイは当然のように、私の誘いに頷いた。
﹁高尾はどうするのかな。誘ってみる?﹂
﹁うん。あ、でも、戸田君と二人とか⋮⋮ないかな?﹂
メイの言葉に、私はああと頷いた。
確かに、イベントで二人の仲を深めることもできるかもしれない。
付き合ってない男女が一緒に文化祭をまわるのは、少しハードルが
98
高い気もするが。
そのことを話すと、小さく笑った。
﹁私たちも、周りから見たらそうだよ﹂
﹁そうだけど。でも高尾って意外と奥手じゃん。戸田もそういうの
嫌がりそうだし⋮⋮﹂
﹁由里ちゃんなら大丈夫だと思うな﹂
ふくむところのあるその言葉から、メイの自信を感じた。
﹁なぁに。高尾から何か聞いてるの?﹂
﹁最近ずっと一緒にいるから﹂
メイは唇の前に人差し指を立て、小さく微笑んだ。
その仕草に、私の心臓がぴょこんと跳ねた。相変わらず私の幼馴染
は、小動物代表だ。大変愛らしい。何故だか、微かに視界が潤む。
高尾とメイが、教室で向かい合う想像をする。
いつもの教室で、周りのクラスメイトが騒いでいる。けれど、一つ
の机を囲むのは、女の私はいない。二人だけ。お弁当やお菓子を間
において、何か内緒の話をしたりするんだろうか。くすくすとメイ
が微笑む。高尾はツンと澄ました瞳で、でも片手で柔らかな口元を
隠している。爪の形をチェックする女性らしい高尾の仕草に、メイ
がぱちぱちと瞬きをする。
その想像に不思議と、羨ましいと思わなかった。私の姿がないこと
が、自然にも思われる。
﹁良かったね、仲良くなれて﹂
僻みなく、そう思える。メイにも伝わったのだろう。屈託のない返
事が返ってきた。
二人が並ぶ廊下の向こう側、窓の外はしとしとと雨が降り続く。中
庭の緑はぐっと濃くなり、土とコンクリートの匂いは増している。
紫陽花は満開だ。
ショウカ祭まであと少し。
⋮⋮川崎さんは本当に来るのだろうか。
99
あの夜から、連絡はとっていない。向こうからもコンタクトはない。
ふと、ここにはない煙草の匂いが、鼻についた気がして、私はふる
ふると首を横に振った。
◇
我が高校ショウカ祭は、体育館での全校集会から始まる。
初めての文化祭ということで、なにも知らなかった私たち一年生は、
湿度の高い体育館に押し込められることに、盛大に不満の声を上げ
た。校長の挨拶と生徒会文化委員、文化祭実行委員長の挨拶を、全
校生徒は落ち着きのない様子で聞き流す。とくに舞台に立つ予定の
部活やクラスは、周りの話など耳に入っていない。緊張や高揚で顔
つきを硬くしていた。
吹奏楽部所属のクラスメイトが、胸に手を当てていたのを見て、内
心で﹁がんばって﹂と応援する。
対して、私は気楽だ。来場者に、傘を入れるビニール袋とパンフレ
ットを配る仕事のみ。それも午前中まで。風船や看板で華やかにな
った、いつもと違う校内の雰囲気に、呑気に心を踊らせた。
全校集会から解放されてすぐさま、私とメイは昇降口へと向かった。
そこには朝準備担当の委員が設えた受付テーブルがすでに並んでい
る。
第○回
紫
昇降口の向こう側には、七色の風船でぐるりと縁取られた看板がか
かっていた。そこには書道部の書いた﹁××高等学校
陽花祭﹂という文字が踊っている。
幸い、今日は雨が降っていない。空は明るくないが、天気予報は一
日中曇りだ。この時期にツイてる。
一般入場が始まると、昇降口は途端に混み合った。
﹁ようこそー!﹂﹁靴はこのビニールにお入れください!﹂と大声
と笑顔を振りまく。
100
メイは私より一歩引いたところで、控えめながらも、必死に﹁どう
ぞ!﹂と女性客にパンフレットを配った。
ショウカ祭、開催。
私は高校初、メイとの文化祭に心踊らせる。
しかしその一方で、一般入場客の一人ひとりをしつこく目で追って
しまった。
若い男性客が視界に入るたび、目で追っては、安堵の息を吐く。
来ないでと言ったからには、彼はきっと来ないだろう。そういう男
だ。
けれど、目が探してしまうのは、彼を恐れているからか。
﹁違う﹂
喧騒に紛れて、小さく呟く。
男性客を目で追うのは、彼らを誘導してメイに近づかせないため。
それだけだ。
101
きらり、流星
高尾から﹁どこにいる?﹂と簡素な一文のみのメールが届いたのは、
ちょうどクラス委員の仕事が終わってからだった。
男女入り混じった来場客の相手をしていたメイだが、悲鳴をあげる
こともなく仕事をやり終えた。ずっと気をはっていたため、心なし
か顔色が青白い。私は、彼女の頑張りに対し、抱きつき頭を撫でた
いという欲求が溢れんばかりだったが、いつものようにぐっとこら
えた。私は男、私は男、と頭の中で呟く。
メイを人ごみから遠ざけようと、空き教室に入る。文化祭で使われ
ない棟に続く階段には、来場客が入ってこないよう、黄色いテープ
が貼られている。ここならゆっくり腰を落ち着けられると一息つい
た、その時だった。
メイが﹁ちょっとトイレ﹂と席を離れたので、私は﹁高尾が今から
来るかも﹂と言って手を振った。
案の定、入れ替わるように、髪をなびかせ高尾が現れた。湿気のせ
いだろう、いつもより少し、髪のウエーブが控えめだ。
﹁差し入れ。昼、もう食べた?﹂
﹁まだ食べてないや。ありがとう﹂
彼女の掲げたビニール袋、中身は途中の売店で買ったのだろう、肉
まんと焼きそば、文化祭らしいちゃちなメニューが入っていた。そ
れを見て、思い出したようにぐうと私のお腹が鳴った。
﹁なんで急に? 奢ってくれるの、これ﹂
﹁友だちに無理矢理買わされたのよ。あいつら、いらないっつって
んのに必死だから。こんどジュースおごらせてやる﹂
まったくと舌打ち混じりに毒づく高尾。それでも周りの友人が諦め
なかったのは、なんだかんだ高尾が押しに弱く、お人好しなのを理
解しているのだろう。食べる気がない高尾が、肉まんも焼きそばも
2パックずつ買って持ってきてくれたことに、なんとなく微笑まし
102
い気分になった。
高尾は私が座っている向かいの机に腰掛ける。すらりとした足が目
の前でふらふらと揺れている。高尾のスカートは、いつも彼女の脚
の美しさを強調するように短い。
見慣れているはずなのに、なんだか責められている気分になって、
私はスカートから視線をあげた。高尾はこちらを見ておらず、拍子
抜けだ。虚空を見る、高尾らしかぬぼんやりとした目つきに、私は
釣られるように押し黙った。もくもくと口を動かし、肉まん一つを
平らげる。
メイはまだ、戻ってこない。焼きそばのパックを開けた。
﹁クラス委員の仕事、どうだった?﹂
高尾がようやく口を開いて、私は引かれるように、再び彼女の顔を
見た。しかし彼女の目つきは変わらない。
﹁まあ、なんとか。めんどくさかったけど、楽しかったよ。なんか
の委員会に参加するなんて、久々だったわ﹂
﹁永瀬も楽しそうだった。知ってる? あの水内と結構仲いいみた
いよ。こないだ水内が、あいつに教科書借りにきてた﹂
﹁そう﹂
私はその様子を思い浮かべる。他のクラスの人がメイのところに来
るなんて、いままでなかったから、きっとメイは大きな目をさらに
まるくしただろう。その顔が思い浮かんで、小さく吹き出してしま
った。
そういえば、前もこんな気分になったなあ。高尾とメイが二人でい
る姿を想像したとき。
﹁あんた、変わったね﹂
高尾が依然ぼんやりとした目つきのまま、ため息のようにつぶやい
た。
﹁え、何? いまさら﹂
﹁性別のことじゃねーよ。⋮⋮永瀬に対して﹂
なんのこっちゃ。焼きそばの麺を口からぶら下げ、私は動きをとめ
103
た。
﹁前は、永瀬と他の人が仲良くするの、嫌がってたくせに﹂
ええ? と私は頓狂な声をあげた。そんなに心狭くないはずだ。多
分。おそらく。
﹁はじめて男になったあんたと私が会ったとき、永瀬を取るなーっ
て顔に書いてあったよ﹂
﹁そんなまさか﹂
私は笑って焼きそばを平らげた。
ふと高尾が小さく笑った。高尾の瞳が、ようやく私をとらえた。﹁
どうした?﹂と目の前でひらひらと手を振ってみせる。
﹁私ね、戸田に告白しようと思って﹂
私は高尾の眼前で振っていた手を下ろした。
﹁いつ﹂と問うと﹁今日﹂と即答された。
戸田の名前が上がると、いつも高尾は赤い頬でぶんむくれた。しか
し今日はうっすら目尻が潤んでいるだけだ。その静かな様子は、ど
うやら緊張からきているらしい。
いつの間に覚悟を決めたのだろう。
﹁それだけ。あんたにも、一応報告しておこうと思ってね﹂
高尾は机から降り、私から背を向けた。
私は﹁応援してる﹂との一言だけ贈った。返事は﹁知ってる﹂とな
んとも彼女らしいものだった。
焼きそばを食べ終わっても、高尾が教室から去っても、メイはいよ
いよ戻ってこない。なにかあったかと急に不安になり、私は教室か
ら飛び出した。
しかしその不安は教室から出てすぐに霧散する。
メイはすぐそこの廊下につっ立っていた。壁に貼られたポスターを
じいと見ている。
104
﹁メイ、なんで戻ってこなかったの? なんかあった?﹂
﹁あ、ハルちゃん、ごめん!﹂
メイははっとした。今まで数十分もずっとこのポスターを見ていた
のだろうか。
来場客がこない廊下に貼られているということは、生徒を呼び込む
ために前々から貼られていたものだろう。﹃星を探そう!﹄とポッ
プな字と、下手くそな一発書き五芒星が踊っている。ポスターの一
番下には﹁理科研究部﹂の文字と有名ゲームのスライムのイラスト。
﹁これ、戸田がやるやつだ﹂
﹁そうなの?﹂
﹁そう。スライム作りと、手作りプラネタリウム﹂
﹁プラネタリウム⋮⋮﹂
﹁懐かしいよねー﹂
私の一言に、メイが顔をこちらに向けた。ゆらりとその瞳が揺れる。
﹁覚えてるの?﹂
﹁忘れるわけないじゃん! 小さい頃、よく夏休みに行ったよね。
自由研究めんどくさかったから、いっつもそこで星のこと教えても
らって、適当に書いて⋮⋮。好きだったよね、プラネタリウム﹂
﹁うん。好きだったね﹂
やっぱり! と私は声をあげた。
﹁今も好きなの? これ、メイと行こうと思ってたの!﹂
実は、サプライズでメイを喜ばせようと、戸田に1年生棟の廊下に
ポスターを貼らないように言っていたのだ。その計画は無駄になっ
てしまったが、しかし、彼女が思ったとおり興味を抱いてくれたこ
とが、素直に嬉しい。
一度教室に戻り、メイが高尾の差し入れを食べるのを待ってから、
私はメイを急かすようにして理科室へと向かった。
◇
105
理科室が見えてきたところで、ちょうど暗幕が理科室の窓をおおっ
た。
﹁待って、待って﹂と小走りで、入口前の受付にいる戸田に声をか
ける。
﹁午後のプラネタリウム、もう始まった? まだ入れる?﹂
﹁ギリいける。二人な。ケータイの電源切れよ﹂
戸田に、これまたダサい手書きのチラシを二枚もらい、私とメイは
理科室へと入った。
暗幕の貼られた理科室は暗い。いつも並んでいる理科室特有の黒い
机がなくなっているのがわかった。机がなくなっただけで、信じら
れないほど広く感じる。十人ほどの人が理科室の中央を避けるよう
に立っている。少し離れた人は、顔は全く見えない。
いつもはごちゃごちゃしたつまらない理科室が、異世界のようで、
胸が踊った。
﹁なんだかどきどきするね﹂
暗い空間は、なぜだか声を潜めてしまう。私はちょっとかがんで、
隣に立つメイに耳打ちした。
﹁えー、皆様、ようこそ。理科研究部にお越しいただきありがとう
ございます﹂
理科室中央に置いた、手作りプラネタリウムの傍らに立っていた男
が、声をはりあげた。理科研究部の部員だろう。こういった場に慣
れない内気な男なのか、声がかすかに震えている。
﹁6月という天気の不安定なこの時期に、文化祭に来ていただいた
こと嬉しく思います。そこで、私たち理科研究部は、この時期にな
かなか見れない星空を皆様にプレゼントしたいと思いました﹂
ぱっとあたりに星の光がちらばった。何人かがはっと息を飲む音が
聞こえた。暗幕に映る星が歪んだり揺れたりと、なんとも手作り感
溢れるプラネタリウムだ。それでも全方位光が輝く美しさに、頬が
ゆるむ。
106
﹁では、今回のプラネタリウムでは皆様の星座をお見せします。3
月21日から4月20日に誕生日がある方、いらっしゃいましたら
手を挙げてください︱︱﹂
全員の星座を男は確認し、頭を下げる仕草をした。
﹁ありがとうございます。では今回は牡牛座、双子座、乙女座、水
瓶座の物語を、星を見ながら楽しんでいただきたく思います。︱︱
ここでいくつかお願いがあります。携帯の電源は必ずお切りくださ
い。いま、切っていない人は手を挙げてください。はい、大丈夫で
すね。それから貴重品から目を離さないようお願いします。最後に、
これが一番重要です﹂
男は勿体ぶるように黙った。全員が彼を見た気配を感じてから、す
っと天井の夜空を指差す。
﹁これからプラネタリウムの20分間の間で、一度だけ流れ星を流
します。それを見つけた方はすぐさま見つけたと教えてください。
見つけたその人の願いは、絶対に、叶います﹂
へえっとつぶやいた。なかなか面白い演出だ。ただ天体を説明する
よりよっぽどいい。来場客の小さな女の子が、きゃあと黄色い歓声
をあげた。母親にたしなめられる声が耳にはいる。
﹁では、星座の話に入る前に、願い事を決めてください﹂
願い事かぁ⋮⋮と私は口に手をやった。ここはやはり、高尾の思い
が実りますように、だろうか。あとはメイの男性恐怖症が治ります
ように⋮⋮。それからメイの⋮⋮。
あれやこれやと考えているとふと、隣から一言
﹁上手くいきますように﹂
と聞こえた。高尾のことだろうかと、私は暗闇に紛れて微笑んだ。
﹁やーなかなか良かったね。双子座の形すごい歪んでたけど。手作
り感あふれてた﹂
107
私がけらけらと笑うと、メイはぎこちなく笑い返した。
﹁なあに? もしかして、流れ星見つけられなくてヘコんでる?﹂
茶化すようにメイに問うと、彼女は﹁そんなことないよ!﹂と唇を
尖らせた。しかしその顔のまま、﹁ちょっとだけ⋮⋮﹂と呟く。可
愛い幼馴染だ。
ちなみに流れ星を見つけたのは、小さな女の子の母親で、娘は﹁ず
るいー!﹂と涙混じりに文句をいった。理科研究部の男が焦って﹁
では特別にもう一つ流しますね!﹂とあやしていた姿は、面白かっ
た。
﹁だーいじょうぶ。メイの願いは叶うよ﹂
理科室をあとにして、先ほどの空き教室へ向かう途中、そう宣言し
た。メイが私を見て、首を傾げる。
﹁メイの願いが叶いますようにっていうのも、願っておいたから。
気づかなかった? 流れ星一回しか流さないって言ってたけど3回
くらい流れてたの。きっと誰かが見つけたって言うまで流すのね、
アレ﹂
﹁ハルちゃん、よくそんなに見つけられたね。すごい!﹂
﹁運が良かったみたい﹂
メイが見つけるよう譲ろうと黙っていたが、なかなか上手くいかな
いものだ。
くすくすと笑い合って、私たちは空き教室に入った。来場客が帰る
時間になるまで、ここで時間を潰す予定だ。あとで売店にいって、
お菓子でも買うかな。
メイは、早足で教室の窓側まで行き、くるりと私のほうに振り向い
た。
﹁私の願い、叶うなら、頑張るね﹂
﹁? どういうこと?﹂
﹁ハルちゃん、あのね⋮⋮伝えたいことが、あるの﹂
珍しく、大きな声を出すメイに、私はその場で足を止めた。少しの
距離をあけて、メイと見つめ合う。視界にメイの全身が映る。唇が
108
かすかに震えていた。
メイの後ろ、窓の外は重い雲に覆われている。
多分、今晩は星が見えないだろう。
﹁私、ハルちゃんのことが、好きです﹂
109
ずるり、二人
﹁私、ハルちゃんのことが、好きです﹂
﹁やだ、何、改まって。幼馴染だもん。当たり前でしょ、そんなの﹂
◇
予想通り、夜空には明かり一つなかった。
耳障りな音を立てて、自宅の玄関の鍵を開ける。いつものように上
手く開けられないのは自分の震える指のせいなのに、私は手元の鍵
に舌打ちした。
廊下にもリビングにも明かりがついていない。そういえば母は、今
夜は仕事で帰ってこないと言っていた気がする。私は一直線に春美
の部屋へ向かった。
飛び込むように、ドアを開ける。しかし部屋の主はいなかった。こ
こも電気がついていない。無性に腹がたって、肩に掛けていたスク
ールバックを壁に投げつける。ショウカ祭で当然、授業がなかった
ので、バックの中身はほぼ空だ。投げたバックが壁に当たった音は、
思った以上に情けないものだった。
﹁なんでいないのよ、ヒキコモリ!﹂
八つ当たりに叫んで、私は春美のベッドに飛び乗った。シーツを引
き寄せ、体をまるめる。春美の柔らかな匂いが自分を包む。視界が
滲んだ。
扉が開く音が、やけに大きく聞こえた。
﹁春香、どうしたの。何してるの﹂
いつものように毛布で体を包んだ春美が、部屋に入ってきた。勝手
に自室に入ったからだろう、彼の声がかなり険を含んでいた。けれ
ど、その声に怯むほどの余裕を、今の私は持っていない。
110
﹁なんで部屋いなかったのよ﹂
今までにないほどの低音が自分の喉から響いた。ざらざらとかすれ
る声が、自分の気分をさらにささくれさせる。
﹁風呂入ってたから﹂
﹁電気つけないで!﹂
ドアの脇のスイッチにかけた手を、叫んでとめた。顔を見られたく
ないと、ぎゅっとシーツに顔を押し付ける。明かりをつけなくても、
シーツで隠しても、声で、気配で、どんな顔色かなんて気づかれて
るだろうけど。
春美は小さくため息をついた。ドアの前に立ったまま、ベッドにま
るまった私を持て余している。
﹁制服、しわになるよ﹂
﹁私のじゃないし﹂
﹁なおさら悪い﹂
正当な春美の言い分に、私は煽るように鼻を鳴らした。
﹁用がないなら出てってよ。ベッド占領するな﹂
﹁メイに告白された﹂
春美の言葉を無視して、切り出した。春美は何も言い返せないよう
だ。見ると、無表情で固まっている。さもありなんと、私は春美が
我に返るまで待つ。
予想通り﹁告白ってなんの﹂と下らないことを聞かれたので﹁その
まま。好きですってやつ﹂と吐き捨てる。
春美はもぞもぞと毛布の中で体を揺すった。﹁好きって、友達とし
てとか、幼馴染としてとかだろう﹂なんて言い出したら殴ってやろ
うと思ったが、春美はそんなこと言わなかった。聡い彼は、私のい
つもと違った様子に、もう納得しているようだ。
﹁で、なんて答えたの?﹂
当たり前の春美の質問に、私の目から涙が落ちた。目尻を叩くよう
に涙を払った。友達としてとか幼馴染としてじゃないことを、私は
知っていたはずなのに。
111
﹁まあ、なんとなく想像できるけど。⋮⋮でも、どうしてだろうね﹂
﹁どうしてって⋮⋮﹂
﹁春香が、男に見えてきたのかな。いや、体は男だけどさ⋮⋮﹂
春美は俯いた。
﹁でも春香は女なのに﹂
その一言にひっと私の喉が鳴った。冷水を浴びたようにぶるぶると
唇が震える。がちっと歯が鳴る。叫んでしまいたかった。
なぜ、メイはあんなことを言ったか。
そんな簡単なことも、春美はわからないのか!
私は、ずっと女で、メイの幼馴染だ。当然、色情を彼女に感じたこ
となどないし、彼女も同じだろう。川崎さんはあの夜、性別なんて
関係ないといったけれど、そんなことがあるものか。
だって、メイは私を恐れてる。二人で何度も手を重ねて訓練をした
が、いまだ、以前のように触れ合うことなんてできない。
私はあくまでもメイにとっては幼馴染で、体は恐れられる対象で。
それもまぁ、私がメイの男性恐怖症を治せる機会だと、ずっと思っ
ていたけれど⋮⋮。
﹁あんたの⋮⋮﹂
思考があちらこちらに乱れ揺れ、上手く言葉が出ない。自分が何を
考えているかも、要領を得なかった。溢れるようになにか言いたい
ことがあるはずのに、出てきた自分の声は信じられないほど細かっ
た。
﹁春美の、じゃない⋮⋮﹂
ベッドから身を起こして、春美を睨みつける。
﹁春美のことに決まってるじゃない! 知ってるでしょう。ずっと
昔から、メイが好きだったのは春美よ﹂
叩きつけるように叫ぶと、春美が身じろぎした。目が暗闇に慣れて
きたのか、見たくもないのに春美の表情が手に取るように分かる。
くっきりと彼の眉間に皺がよっていた。
しかし反駁の言葉はない。
112
﹁小学校のときから、メイが春美のこと好きだったの、気づいてた
でしょ。今も、そうなんだよ。私がこの体になって学校行ったとき、
抱きつこうとしたんだよ。男性恐怖症なのにね﹂
一度話し始めると、先程まで口ごもっていたのが嘘のように、言葉
が流れた。水のようにさらさらと流れて、止まらない。戻らない。
﹁ハルくん!﹂と私を呼んだ声色を。
﹁ハルくんじゃない﹂と信じられないほどの自信を持った彼女の顔
を。
遊園地で助けた後に﹁昔みたい﹂と言って、私を見なかった瞳を。
﹁ハルちゃんじゃない﹂と嫌にはっきり川崎さんに言い含めた態度
を。
まるで細い針でつつくように、今までの日々の、メイのなんてこと
ない様子を、口から流していく。春美が止めてくれないと、きっと
止まらないのに、彼はなにも言ってくれない。黙ったまま、私の言
葉を聞き続けている。
﹁ねぇ、春美はそうじゃないって思うかもしれないけど、でもずっ
と一緒にいたらわかるんだよ。メイってば一途だよねぇ! ほんと
に可愛い! ⋮⋮なんか言ったらどうなの﹂
ついに春美の沈黙に耐え切れなくなり、私は声のトーンを再び下げ
た。顎を上げて挑発する。
離れた位置から、あらためて毛布にくるまった姿を眺めると、ひど
く細く感じた。中学の頃から、春美の身長はほとんど変わっていな
いようだ。長いヒキコモリ故の発達不良か、それとも私の体が変わ
ったからそう見えるだけなのか。
ややあって春美は﹁知ってた﹂と呟いた。依然、うつむいている。
やはり、と私は笑った。
﹁小学校のころから。それも気づいてた。でも今は﹂
﹁違うなんて言わせない﹂
私は突っぱねた。ゆっくり春美に歩み寄る。間近に近づいた私に、
春美は怯えを滲ませた。ずるっと毛布を引きずって後退するが、背
113
後は閉まったドアだ。
春美の長いまつげが震えている。ずっとこの長いまつげが羨ましか
った。
春美の温厚な性格が羨ましかった。私が弱っちくてタヌキみたいだ
と思っていた性格は、決して短所ではない。メイはそれに惹かれた
のだろう。私は、そんなもの持ってない。
﹁ずるいよ﹂
乾いたはずの私の瞳から、また涙が溢れ出た。
﹁春美が女だったら、こんなことにならなかったのに﹂
そうしたら、メイが双子のどちらかに恋することなんてなく、きっ
と三人でずっと一緒にいられたはずだ。
◇
春美が何も言わないので、私はそのままぼんやりと涙をながし続け
た。威嚇の為に春美に覆いかぶさった体は、ぐらりと重心を傾げ、
いまや縋るようだ。
風呂上りの春美の首筋からは、嗅ぎなれたシャンプーの香りがする。
涙や鼻水が、春美の毛布についても、彼は文句ひとつ言わない。
﹁春香﹂
春美がようやく出した声に、びくりと肩が揺れた。さんざん言って
嫌われたと思ったのに、その声はいやに優しい。それでも怖くて、
顔は上げられず、私は春美の首筋をじっと見たまま頷いた。
﹁名前、あげようか、俺の﹂
春美の言葉を、私はとっさに理解できなかった。
﹁春美の名前を春香にあげる。それで、春香の名前、俺に頂戴﹂
﹁⋮⋮いまも春美の名前、使わせてもらってるけど﹂
﹁そういうことじゃないよ﹂
春美はそっと毛布から手を出して、私の胸を押した。密着していた
114
体を離し、向かい合う。
﹁前さ、春香が、俺が女装して学校行けばって言ったでしょ。あの
時はふざけんなって思ったけど、それもありかもしれないね﹂
女装は嫌だけど、と春美は笑った。
春美はゆっくりと、自分の胸元に手をやって、巻きつけている毛布
を握った。
﹁俺の秘密、教えてあげる﹂
﹁秘密?﹂
﹁ずっと引きこもってる理由。知りたかったでしょ﹂
春美は肩からずるりと毛布を滑らせた。そのまま、足元に落とす。
暗闇のなか、ぼんやりと春美の体が浮かび上がる。タンクトップに
ボクサーパンツだけの心もとない姿。その体は、今まで長いあいだ、
私や母がいくら言っても、毛布でかたくなに守っていた。
すとんと細い首から、薄い肩。長いこと日に当たっていないせいで、
暗闇に映えるほど白い。タンクトップで隠しきることの出来ない、
大きく柔らかなライン。それは胸から腰、むき出しの腿、細い足首
までまろやかな曲線を描いている。
﹁ほら﹂と春美は私の腕を掴んで、自分の胸に押し付けた。﹁偽物
じゃないよ﹂
﹁ねえ、春香、ぜーんぶ、交換しよう。そしたら︱︱﹂
春美の柔らかな胸に手を置いて、私は何も言えないままだった。た
だ春美の張り付いたような笑顔を、じっと見つめることしかできな
い。
﹁そしたら春香は、メイと両想いになれるよ﹂
115
じんわり、毛布で
さああっと柔らかな雨音が鼓膜を揺らした。窓の外で、街灯の明か
りと闇が雨粒でにじみ、溶けている。真っ暗な室内と周囲を遮るよ
うな雨音で、感覚がきりりきりりと研ぎ澄まされる。触れている春
美の胸から伝わる熱ばかりが、脳に痺れるほど注がれる。
春美も雨音にひかれ、視線を外へとずらした。﹁あ﹂と意味のない
声がどちらかから漏れる。
﹁洗濯物、干してなかったけ﹂
﹁昼とりこんだよ﹂
私の所帯じみた不安に、春美が答えた。
くすくすと春美が喉を揺らした。手のひらに伝わる揺れによって、
自分がいまだ春美の胸に手を置いていたことに気づき、離す。
感想としては、ずいぶん立派なモノをお持ちだなぁといったところ
か。私が女だった時よりもあるんじゃないか、これ。春美はブラジ
ャーなんてもちろん持っていないわけで、その柔らかさについつい
懐かしく思ってしまった。
﹁春香はやっぱり変だ﹂
それにしたってもうちょっとリアクシ
女の体をした春美が笑う。その声はまだ震えている。
﹁驚きすぎて、現実逃避?
ョンあるでしょ。洗濯物なんて、変なの﹂
からからと笑う春美に、私はたまらず飛びついた。ぎゅうと抱きし
める。びくりと大仰に怯えた彼︵彼女と言うべきだろうか。まぁ彼
でいい︶を、抑え込むように腕にだく。
﹁やめろよ!﹂
突然、衣を割くような甲高い声を出し、春美があばれた。目をぐわ
りと見開く。先ほどまでの下手くそな笑顔も剥がれ落ちていた。
春美がどんなに暴れても、私の拘束は解けなかった。二人の体格差
は歴然だ。
116
気持ち悪いだろ!
やめろ!﹂
私の骨太さと、春美の肌の柔らかさ。抱きしめるとお互いの違いが
際立つ。
﹁触るなよ!
﹁気持ち悪くないよ!﹂
吠えるように否定した。春美が私の大声に首をすくめる。自分の怒
声が、雨音と溶けるように混ざって、耳に残る。
ぶるぶると震える彼の唇をそっと指で押さえた。小さく抵抗するよ
うに春美の唇が動く。
﹁違う。ごめん、春香が、気持ち悪いじゃなくて⋮⋮﹂
﹁春美の体も気持ち悪くない﹂
私は﹁嘘じゃないよ﹂と微笑んでみせた。
微笑んだつもりなのに、ぼろりと涙が私の頬をつたった。私も笑顔
が下手になったようだ。
春美が床に放ったらかしにされていた毛布を拾い上げた。それでぐ
いぐいと乱暴に私の頬をこする。
﹁ちょっとやめてよ、汚い﹂
私の文句は無視され、そのまま完全に涙を拭い取られた。
﹁今日の春香は泣いてばっかり﹂
﹁あんたもね﹂
◇
きょうだいなんだから別にいいでしょ﹂
﹁やっぱ気持ち悪い⋮⋮﹂
﹁気持ち悪くなーい!
﹁いやだって高校生にもなって⋮⋮﹂
ぶちぶちと不満を零す春美に、私は毛布を投げつけた。先ほどまで
の私の涙を拭っていたそれが、春美の顔にぶつかる。そのままの勢
いで私はベッドに飛び乗った。ぎしりとスプリングが軋む。二人分
の体重に慣れてないベッドは、ぎしりぎしりと不満の声をあげつづ
117
ける。
ほおを緩め、くふふと笑う。微妙に怯んだ春美を、自分の体と一緒
に毛布でぐるぐると包んだ。
﹁これで逃げられないでしょ﹂
﹁春香、悪い顔してる﹂
﹁気のせいよ﹂
えいっと声を出して、春美の腕を引いた。無理矢理ベッドに沈ませ
る。布団を分け合う私の体も、当然引きずられて横たわった。
﹁修学旅行みたいでいいでしょ。春美くんって好きな人いるの∼?﹂
﹁馬鹿なこと言ってないで﹂
目鼻の先にある春美の目が細くなった。
やっぱりこいつの睫毛、長いなぁ。不公平だ。
男の体だったときよりもさらに睫毛が長く、目が大きくなったよう
に見える気がする。それは私が男に、春美が女になっているからだ
ろうか。たった今、春美の体の性別を知ったばかりで、もう見る目
が変わってしまう。
我ながらゲンキンなものだ。
﹁何、じっと見て。気持ち悪い﹂
﹁いやいや、なかなかの美少女っぷりで﹂
きょうだい相手に変なことしないわよ。
﹁やめてよ、ほんと気持ち悪い。一緒に寝るのやめようかな﹂
﹁気持ち悪い言いすぎ!
しかもあんた女の体じゃん﹂
至近距離でぎゃあぎゃあと喚き合う。肘やつま先で相手の体を押し
合う。喧嘩とまではいかずとも、地味に痛みの感じる攻撃をし合う
この間合いは、きょうだいならではのものだ。
春美のつま先が、腿に当たった時﹁うあ﹂と動物の呻きのような声
が、私の喉の奥から飛び出た。
﹁何だよ、その声、勃った?﹂
思わぬ言葉がにやつく春美の口から出て、私は﹁はあ?!﹂と面食
らった。
118
﹁んなわけないでしょ!
いじゃん!﹂
なんかむずむずしただけ!
くすぐった
めっちゃ痛い!﹂
私の否定にもにやにやし続けている春美のみぞおちを叩く。春美が
ぎゃあっとわりかし高い声をあげた。
﹁ちょっと、お前男の体なんだから力入れるな!
その声は、今となっては男の声には聴こえない。
﹁不思議だよねぇ。ずっと一緒に暮らしてたのに、私、どうして気
づかなかったんだろ﹂
双子の弟は誰よりも近しい存在だと思っていた。同い年な分、周り
から常に比べられるというめんどくさい関係ではあったけれど、距
離を感じるとそれはそれで歯がゆいものだ。
ふうっと春美がため息をつく。
﹁春香が鈍いからだよ﹂
﹁なによう!﹂
﹁あと、すごく頑張ったから、俺﹂
私は頷いた。
﹁頑張りすぎだと思う﹂
﹁めちゃくちゃ母さん泣かせてるよなぁ﹂
﹁本当だよ。このヒキコモリ﹂
﹁ごめんなさい﹂
春美が殊勝に目を伏せた。彼の頭をそっと撫でてやる。抵抗される
と思ったが、何も言われないのでしばらく撫で続けた。
﹁お母さんにも謝ろうね。一緒に話してあげるから﹂
﹁⋮⋮母さん、なんて言うかな﹂
﹁びっくりするよ。私のこともあるし。また髪薄くなるかも。それ
か電話でお父さんに泣き喚いたりとか﹂
にやにやしながら予想する未来を描く。散々心配をかけている親に
は悪いが、そんな未来も少しだけ楽しみだ。
だって、きっと明日から春美を包む毛布はなくなっているだろうか
ら。
119
私が男になった時に、どうして同じように春美は打ち明けてくれな
かったのか、そのことを今更問うたりはしない。理由は春美の性格
だと分かっている。
臆病で、心配性で⋮⋮それが春美だ。
一人きりでわけもわからない体になって辛かっただろう。中学生の
少年にはどんなに酷だったか。
ただ順調に女の体になるだけの私でさえ、不安に泣く夜があったの
だ。彼の苦悩はその比ではなかっただろう。
何年も私たちに心配をかけたことも、泣かせたことも、彼の苦しみ
で水に流せる。
﹁春美、私ね、やっぱり春美の名前は貰わない。私は春美にはなれ
ないや﹂
春美の優しさも細やかさも情けなさも、それはやっぱり私とは違う。
けれど先ほどのように妬ましいとは思わなかった。
﹁私、春美の性格、嫌いじゃないよ。もうあんたが女だったらよか
ったなんて言わないよ。春美なら、それでいい﹂
ここは本当なら﹁春美がいい﹂と言うべきなのだろう。けれど、ど
んなに体をくっ付けていても、お互いの顔しか見えないほど暗くて
も、言えないものはある。
だってもう、そこまで言っちゃったら、照れるじゃない。高校生に
までなってこんなことを真剣に語るなんて。それにこういうことは
口に出さなくても伝わるのがきょうだいだ。
私は心の中でそう言い逃げて、むず痒い心を鎮めた。
春美は﹁ふうん﹂とだけ呟いて、目を閉じた。ゆるゆると迫る眠気
に、抵抗することなく呼吸を浅くしている。
私はしばらくしても眠りにつかず、じっと息を潜めていた。
春美が完全に寝入ったことを確認して、そおっと彼のタンクトップ
の襟ぐりをつまむ。覗き込むと、そこにはふんわりとした双丘が確
かに存在する。
﹁なんでこんなことになってるかな﹂
120
私は男に。春美は女に。
体の形︵胸しか見てないが︶は違うから入れ替わったわけではない。
変化の時期も、私はつい数ヶ月前、春美は二年近く前とばらばらだ。
共通点は見つけられず、原因不明。むしろこんなトンデモ状況に原
因を求める方が間違っているのだろうか。
﹁わけがわかんないよぉ﹂
春美の胸をぼんやり眺めながら、私は小さく呻いた。
ふと、彼の鎖骨の下、胸の膨らみにそって、うっすらと細く茶色い
線が見えた。
それが何なのか気づいた瞬間、体の毛穴が一斉に開いた。
彼のタンクトップから手を離し、布団に再び潜り込む。彼の胸に頬
を寄せ、心音を聞きながら目を閉じた。
﹁私、春美のこと、なにも知らないのかもね﹂
小さく小さく口から漏れたその言葉も、闇と雨音が優しく隠す。
春美が引きこもり始めた時、女の体になったとき、私は何をしてい
引き
たか。隣の部屋に引きこもる春美から、泣き沈む母親から逃げて、
川崎さんに甘え、すがったのだ。
春美が引きこもる前は、なにか変わったことはなかったか?
こもり状態が緩んで普通に話してくれたり、部屋に入ることを許し
てくれたのはいつ頃からだったっけ?
﹁春美のこと、もっとちゃんと知りたいな﹂
川崎さんの告白も︵過去を思い返す今この時まですっかり忘れてい
た︶メイとの関係も。
春美のことも、自分のことも。
問題は山積みで、何からどう手をつけていけばいいのか検討もつか
ない。
けれど不思議と不安にはならなかった。隣からじんわりと人肌の熱
が伝わることで、救われている。毛布はぴっちりと二人を包んでい
る。
この毛布が、春美の秘密を固める盾ではなくなって、いまやただの
121
温かな寝具に戻っている。
今は、それだけで十分だった。
◇
﹁いい加減起きてよ﹂
ばすっと間の抜けた音とともに、顔に衝撃。目を開くと、春美が枕
片手に仁王立ちしていた。どうやら殴られ起こされたようだ。
カーテンは開かれ、陽光が存分に注がれている。昨夜の空とは正反
対の眩しい青。
体を起こして春美の姿を認め、ほうと息をついた。毛布は巻かれて
いない。ラフなTシャツに綿パン。男物なのでだいぶベルトが絞ら
れている。
﹁毛布巻いてたらどうしようかと思った﹂
﹁いや、巻こうと思ったけど暑いし﹂
﹁思ったのかよ﹂
居心地いいし、慣れてるし、落ち着くから⋮⋮と春美は口をもぞも
ぞ動かす。
﹁いいじゃない。そっちの方が健康的。お母さんに早くその姿見せ
てあげたいわ﹂
春美は不安と期待のどちらを表現をしようか迷って、おかしな顔つ
きになっていた。ぴくぴくと唇の端が震えている。
⋮⋮は休みか﹂
﹁あーあ、今何時?﹂
学校!
﹁もう十一時だよ﹂
﹁うっそ!
文化祭後日である今日と明日は片付けのため、一般生徒は休みだ。
部活動生は文化祭の後始末に駆り出されているが、クラス委員の仕
事はない。
﹁昨日ご飯食べてないしお腹減ったよ。お風呂も入ってないし﹂
122
﹁風呂なら沸かしたよ﹂
﹁お、ありがと。春美は入る?﹂
﹁あとででいい﹂と春美が頷く。改めて彼の格好をみて、ふむと自
身の唇に手を当てた。
女物の下着を彼に渡した方がいいだろうか。ブラジャーは流石に無
理だろうが、ブラトップくらいは付けさせた方がいいのではないだ
ろうか。
そんなことを思いつつ、階下に降り、脱衣所の扉を開ける。
ばさばさとシワの着いた制服を脱ぎ去り、ふと洗面台の鏡に映る自
分を見た。
骨と筋が目立つ男の体だ。元が女だからか随分細身で、中性的なこ
の顔にも違和感はないが⋮⋮が、ん?
﹁んんんん?﹂
がばりと鏡に覆いかぶさるように手をついた。ずいと顔をぎりぎり
まで近づけ、自分の顔、顎のあたりを凝視する。しばし受け入れが
たい現実を睨んでいたが、それが消えることはない。
﹁髭⋮⋮生えてる﹂
微かに、よくよく見ないと気がつかないほどささやかな髭が、確か
に生えていた。
123
じわり、前進
小学生だったかそれくらいの時分に、とある小説で﹁浮世離れした﹂
という表現を初めて見た。そのとき、その言葉が胸にすとんと落ち
て﹁なるほど﹂とうんうん頷いたのを今も覚えている。そんな便利
な言葉がこの世にはあったのか、と。ちなみにその小説に書かれた
浮世離れした女性は、狐だか狸だかの化身だった。
私が胸に落とし込んだ﹁浮世離れした﹂ものは狐でも狸でも化け猫
でもなく、血の繋がった実の母ーー入江鞠である。
しかし子としては、母は別段変わった人間ではない、と思いたい。
平日は仕事に行くし、同僚の付き合いでたまの休みにランチに出か
けたりもする。単身赴任の父親代わりに、もう長い間家を守り、春
美と私を育て支えてくれている。
霞を食べるわけでも、奇行があるわけでも決してない。口数は多く
ないが、絵空事をふわふわ浮かべるわけでもない。
ただ、普通の人より少し、感情の浮き沈みが平坦すぎるだけだ。
けれど﹁浮世離れ﹂という母にはまった言葉が存在することに、小
学生だった私はひどく安堵したのだ。得体の知れない存在がちょこ
っとだけ身近に感じられて。
息子の性別が変わっていたという衝撃告白に、母は﹁うーん﹂と間
延びした声をあげた。ゆるく首を傾げることで肩にかかっていた茶
色の髪がぱさりと落ちる。
夕食も入浴も済ませ、リビングでコーヒーを飲んでいたまったりモ
ードの母の前に、私と春美は座った。そして思い切っての告白⋮⋮
だったのだが、母が寄越したのはやはり淡白な反応だ。
断頭台にでも立つように顔を強張らせている春美が、逆に可哀想に
なる。
母は慌てふためくことも放心することもなく、ちょっとだけ眉を寄
124
せて﹁病院いく?﹂と問う。久しぶりに母親の目の前に座した春美
は、俯いたまま首を横に振った。
﹁そうねぇ、ハルちゃんもハルくんも、病院嫌いだものね﹂
コーヒーをぐっと飲み干して、母はまた﹁うううーん﹂と呻いた。
口は呻きつつも、その顔に負の感情は読み取れない。
そしてちらちらと手元のケータイへと寄せられる視線は全く隠され
ていない。
⋮⋮ここまで、私が﹁男になった!﹂と告白した時とほとんど同じ
反応だ。
とすると、この後の母の一挙一動は簡単に予想することができる。
まず、第一声は﹁お父さん﹂だ。
﹁お父さんに相談した方がいいかもね。お母さん、ハルくんがいま
までそんなに悩んでたなんて気づかなかった⋮⋮ごめんなさい﹂
その次は﹁帰ってきてもらう﹂
﹁もしハルくんが嫌じゃなければ、お父さんにも相談して日本に帰
ってきてもらいたいわ。息子⋮⋮の一大事だもの。ちゃんと話して
おかないと!﹂
そして最後は、普段は見せない柔らかな笑みをその唇に浮かべて、
﹁お父さんに電話してもいい?﹂
うわー予想通りー嬉しくなーい。
私が心の中で嘆く。泣き喚いたり心配でぶっ倒れたり⋮⋮そんな世
間一般な母親像をちらりとでも予想した自分を殴りたい。
春美がヒキコモリはじめて荒れた頃は、そんな様子を若干見せてた
んだけどなぁ⋮⋮。母のアンテナはいまいち掴めない。
春美はぐっと眉根を寄せて、私の顔色を伺った。うっすら涙を浮か
べての上目遣いに、若干いらっとする。なんだ、その顔。やめなさ
い。私の可愛いセンサーはメイ専用で、間違っても双子の弟には反
応しないのだ︵どんなに長い睫毛とほっそりした鼻と鮮やかに色づ
いた唇をコイツが持っていようとも!︶。
春美から目をそらし、母を見やると両手で包むようにケータイを持
125
っている。こちらも春美と似たような目付きで私を見ていた。⋮⋮
何故。
﹁ほら、春美、お父さんに伝えてもいいかって﹂
促すと、春美は目を泳がせた。
﹁春香のことは、お父さん知ってるの?﹂
﹁⋮⋮一応﹂
電話越しでの母の言葉が、どれほど父親に伝わっているかは疑わし
いが。春美はしばしの逡巡の後、首を縦に振った。
﹁お母さんに言って、お父さんに言わないわけにもいかないよね⋮
⋮﹂
春美の許しを得て、母のバックにぶわりと花咲き乱れ零れた。私の
幻覚だが。
﹁じゃあお母さん、お父さんに電話かけるね。ハルくんたちにも代
わるから待ってて﹂
いそいそとケータイを開き、母はリビングから出て行った。私たち
の目の前ではかけない。おそらく二人きり︵?︶になりたいのだろ
う。幸せオーラ春爛漫な母の後ろ姿を見送る。手櫛で髪を整えてい
るのがちらりと見えた。電話だから意味ないだろ、とはつっこんで
はいけない。
滅多に見るできない母の幸せオーラに水を差すことは、私と春美の
中で禁忌なのである。
30分近く待たされ、まず春美がケータイを受け取る。ぼそぼそと
話す声をぼんやり聞いたが、父がどんな反応をしているかは伺うこ
とができなかった。しばしして、次は私にケータイがまわる。父の
第一声は﹁元気か﹂という何の変哲もないものだった。
﹁うん。久しぶり。お父さんは?﹂
﹁順調だ。仕事が一段落着いた﹂
﹁そうなんだ。お疲れ様です﹂
﹁春美のことだが﹂
126
﹁うん﹂
﹁お前もまだきついかもしれんが支えてやってくれ。俺がそっちに
戻れたらいいんだが﹂
﹁無理はしなくていいよ﹂
ふつりと会話がとぎれた。父との通話ではよくあることだ。父は口
が回るタイプではない。滅多にない父との会話。その合間合間に生
まれる静寂にはいつも緊張してしまう。無意味にケータイを支えて
いない方の手の指をすり合わせる。
﹁春香﹂
いやに重々しい呼びかけで、話は再開された。
﹁母さんと春美を頼むな。今は家にいる男はお前だけだ﹂
その言葉に、私は顎に手をやった。午前中にカミソリを滑らせたそ
こは、また微かにざらついている。
﹁帰れるようになったらすぐにそっちに行く﹂
母がいい意味で爆発しそうな一言を残して、通話は切れた。
◇
翌日、私は嫌がる春美の毛布を﹁よいではないか、よいではないか﹂
方式で剥ぎ取った。なぜ蒸し暑いこの時期にまた巻いているのかを
詰問すると、﹁だって毛布とは一心同体⋮⋮﹂といつかも聞いた謎
の言い訳をされた。
﹁もう家で隠す必要ないでしょ! なんなの!?﹂
﹁安心するんだよ!﹂
﹁チャーリーの友達か、お前は!﹂
ぎゃあぎゃあと春美の部屋でけんかをした後、無理矢理彼に厚手の
服を着せ︵なんせコイツ、意地でも私の貸したブラトップをつけよ
うとしない。その気持ちも分からなくもないが、擦れて痛い思いし
ないか不安である︶、外に連れ出そうとした。
127
玄関で青い顔をしてぶるぶると首を横に振る春美の手を、私はぐい
っと引く。
﹁無理だ﹂
﹁春美﹂
﹁誰かに見られたらどうするの。なんて言われるの﹂
近所のマンションには、確かに小中学校の同級生が住んでいる。し
かし他の高校は普通に学校があっているはずなので、遭遇する確率
は低いはずだ。
﹁誰も春美だってわからないよ。みんな何年、春美の顔見てないと
思ってるの。それに女だから誰も気づかないって﹂
﹁⋮⋮メイは春香に気づいたんでしょ﹂
唸るように絞り出された声に、一瞬怯む。
しかし私はすこし屈んで、春美に目線を合わせた。
﹁じゃあ、メイに会わないように反対側の薬局に行こう﹂
﹁なんで春香はそんな外に連れ出したいの﹂
﹁あんた、私の生理用品、全部勝手に使ってたでしょ﹂
春美が私の言葉にぶわりと顔を赤くした。
﹁仕方ないだろ!!﹂
﹁やっぱり。ほら買いにいくよ﹂
昨日、私に髭が生えてきたことで、春美にも思春期女性の特徴が、
外見以外にもばっちりあるのではないかと気づいた。なるほど、部
屋からじわじわ私のそれがなくなっていたわけである。
﹁最近はネットで買ってるから行かなくていい﹂
﹁私は男物のカミソリ欲しいのよね。あ、あとジェルも﹂
もう一度、春美の手を引っ張ったが、地面にはりついたように動か
ない。
﹁春美、久しぶりにいい天気だよ﹂
﹁嫌だ﹂
﹁何かあっても私がごまかしてあげるから﹂
﹁⋮⋮怖い﹂
128
﹁私がいても怖い?﹂
我ながらずるい質問である。
もう一度、これが最後、と思いながら手を引くと、春美はゆっくり
と足を動かし、その身を太陽の光にさらした。
129
ぐるり、彼女と星と彼の記憶は?
生理用品の棚の前に立った春美の目が死んでいる。一見、湖面のよ
うに穏やかな色をしているそれだが、どうやら今までのヒキコモリ
生活を振り返っているらしい。私の部屋に忍び込んだり、ネットで
ブツを探したりする春美を想像し、私はそっと彼から視線を外した。
思春期男子には辛かったろう。
﹁血が出てきたときは何の病気かと思った﹂
血の気の引いた顔で悲壮な呟きをされてもフォローが浮かばない。
私はヤケになって商品のひとつを掴んだ。以前私が使っていたもの
だ。春美も見覚えがあったようで、特に何の反応もなく大人しく買
い物かごを差し出す。他より数十円高いそれに、何が違うのかを問
う春美に、いくつか有名な商品と比較した特徴を上げていく。
ついでに下着を汚してしまった際の上手な洗い方や、腰の痛みの和
らげ方、周期が来る前に注意する食べ物など細かくレクチャーする。
思った以上に春美は無知だったので私は驚いた。まぁ当たり前とい
えば当たり前だが。
﹁ずっと思ってたんだけど、羽って何?﹂
⋮⋮そこからか!
通りかかった薬局の店員が、いやに詳しく語る私を見てぎょっとし
ていた。私だって他の男子高生が生理用品のいろはを知っていたら
ドン引きする。さもありなん。どうせ普段は来ない薬局だしと、ヤ
ケになっていた。
そのせいで店に入ってきた彼女にすぐに反応できなかった。
学校ではすとんと下ろしている長い髪を高い位置で一つに縛ってい
るのも、咄嗟に気づかなかった要因だ。そうしているとぱっと顔色
が明るく見えて、普段の静かで大人っぽい雰囲気が若干薄くなって
いる。意外と明るい色味の服装だ。レモンシャーベットを連想する
130
色をした薄手のカーディガンが可愛らしい。
﹁あなた⋮⋮﹂
向こうも私の存在に面食らったようで動きを止めた。
私は我にかえって、隣の春美を背後に押しやる。そっと背後の顔色
を伺うと、最近で一番血の気を引かせていた。⋮⋮ここ二日、青く
なった顔しか見てないが大丈夫だろうか。
﹁えっと、奇遇ですね⋮⋮﹂
唇が引きつって、思わず敬語になってしまった。
﹁ええ、そうね⋮⋮ここで何を⋮⋮﹂
原田の視線が、私の背後の棚にいく。やばい。男子高生が、こんな
天井近くまでずらりと並べられているそれの前に立っているなんて、
下手したら変態扱いだ。先ほどの店員とは違い、原田は入江春美の
クラスメートである。一期一会とはいかない。
﹁ああ、いや、えっと付き添いで﹂
つい言い訳が口から滑る。しかしこれはまずい。原田の視線が、自
然と私の背後に移る。
﹁親戚の子なの! わた、俺も買いたいものあったからついでに!﹂
﹁そ、そうなの⋮⋮﹂
誤魔化せたか!?
原田はまだちらちらと原田は春美に視線をやっている。春美は俯い
ているが、さすがに顔は完全に隠すことはできていない。私を春美
とは別人だと看破した原田だ。私たち二人は生きた心地がしなかっ
た。
しかし原田は春美の顔を見ても目立った反応は見せなかった。
しばらく胃の痛くなるような沈黙に耐えていると、ふと違和感を覚
える。原田の様子がおかしい。いつもは泰然とした余裕のある表情
なのに、今日はかすかに頬を赤くして目を泳がせている。髪型が違
うことや私服であることも相まって別人のようだ。
春美がぐいっと強く私の服をつかみ、引っ張った。こちらの顔も赤
い。
131
﹁春⋮春美のばか!﹂
と罵られ、私は慌てて春美を隠すようにしてその場をあとにした。
﹁それじゃあね﹂と原田に手を振る。胸の高さで控えめに振り返さ
れる手を確認してから、足早にレジへと向かう。
春美にはまだ﹁ばか、ばか﹂と背中をつつかれた。
﹁ごめんって。バレてないって﹂と取り繕うと、
﹁鈍感!﹂
そう言い捨てて春美は一人さっさと薬局を出て行った。もう太陽の
光は大丈夫らしい。
黒いビニールを片手に春美を追いかける。
﹁女だったくせに⋮⋮いや、女だからかな⋮⋮?﹂
まだおかんむりのようで、何やらぶつぶつ呟いている。
何を話しかけてもぶんむくれたままの春美に、私はほとほと困って
しまった。春美ってこんな尾を引くタイプだっただろうか。怒りを
外で露わにすることも珍しい。結構内弁慶タイプなのに。
ようやく春美とりあってくれた話題は、信号待ちをしながら浮かん
だ﹁なんで原田さんがこんなところいるんだろうね﹂という疑問だ
った。
﹁家がここら辺なんだからそりゃいるでしょ﹂
ふくれっ面のままでさらりとのたまう春美に、私は﹁え!﹂と大声
をあげてしまった。
﹁うそ、原田さんってそんなご近所さん?﹂
﹁同中なんだから当たり前じゃん﹂
﹁言われてみれば⋮⋮﹂と惚けた顔をする私に、春美は小さくため
息をついた。
﹁原田邸を知らないなんて、ここら辺じゃ春香くらいじゃないの?﹂
﹁そんなに有名なの?﹂
えらいお金持ちだとは聞いていたが。
春美は、﹁しばらく行った石垣とツツジが咲いたところ、森みたい
になってるでしょ。その奥﹂と、私たちが歩いてきた通りを指差し
132
た。
ツツジの石垣がある道なら何度か通ったことがある。あの一角が個
人宅のものとは知らなかった。厳重な門の向こうにまで車道が続い
ていたから、てっきり老人ホームとかそんな感じの施設があるのか
と勘違いしていた。
なんで知らないのかと、まだ呆れてぼやく春美に、
﹁だってメイのマンションと反対方向じゃん﹂
と言ったら、押し黙った。
納得したらしい。
そうか、原田の家はこんなに目と鼻の先なのか。
◇
その夜はなかなか寝付けなかった。
空が穏やかだったのは夕方までで、いつの間にか厚い雲に覆われた
空は、途切れることなく雨を零している。
布団の中に潜ると、窓の向こうのこもった雨音が耳につく。じわり
と蒸し暑さを感じ、そろそろ寝具も夏物に変えなければとため息を
つく。⋮⋮寝苦しい。
寝ることに積極的ではない。私はそのことを自覚していた。寝て起
きたら朝だ。明日からは一昨日までの文化祭に浮かれた空気が、気
だるい通常授業に消されているだろう。きっとじめじめと湿った机
の匂いを嗅ぎながら、退屈な教師の声をノートに写すのだ。まぁ、
それはそれでいいとして。
ーーメイにどんな顔を合わせればいいのだろう。
いや、顔を合わせられたら僥倖か。少し前のように徹底的に避けら
133
れるかもしれない。ろくにメイの表情を見ないまま、逃げるように
彼女の告白を笑ったのだから。
布団でメイを想いながら呻いていたせいで、私はその後、随分懐か
しい夢を見た。
一面の星を眺めていると、自然と口をぽっかり開けてしまう。また
春美に馬鹿にされると、慌てて口を閉じる。ついでに目を閉じるこ
とも忘れていたらしく、幼い私は滲む視界に瞬きした。
隣を見やると、メイが手すりに体重をかけて、先までの私と同じよ
うに口を開けていた。そんな必要ないのに、ぐーっと背伸びして震
えるつま先が愛らしい。笑いを噛み殺していると、メイの向こう側
から
﹁メイ、口開いてる﹂
と春美が声をかけた。そのせいでぱっとメイが春美の方へ顔を向け
てしまった。メイの顔が見えなくなったことが面白くなくて、私は
彼女の髪飾りと長い髪の揺れる後頭部に向かって唇をとがらせた。
メイも春美も、そんな私の顔には気づかず星とお互いに夢中だ。
﹁つまんなぁい﹂
小さく小さく漏らした不満に、メイとは反対側の隣にいた、のっぽ
の彼が笑った。
願いが叶うって話?﹂
﹁じゃあ春香ちゃん、流れ星の話をしようか﹂
﹁流れ星?
﹁そう。だけどね、流れ星が叶える願いはーー﹂
⋮⋮誰だっけ。大好きな人。のっぽの彼。夏休みのたびにお世話に
なった、プラネタリウムの人。
向かい合って話をしているのに、その顔が靄に隠れたようで不思議
だった。きっと夢だからだ。
134
あれ?
流れ星ってなんだっけ。ああ、そうだ、一昨日理科室で見
私の願いってなんだっけ?
たんだ。それで、私の願いとメイの願いは必ず叶うって、彼が言っ
たんだけ?
ぱちりと目を覚ます。飛び込んできたのは見慣れた自室の天井と、
夜の延長のような途切れない雨音。昔の記憶と先日の文化祭の星空
と、それから妙な妄想が入り混じったわけのわからない夢を振り払
うように私は伸びをした。
顎に触れると、やはりざらりとヒゲがある。昨日買ったカミソリと
ジェルを試そうと、私は気分良く起き上がった。
135
ガールズトーク、二人の場合︵前書き︶
2部開始
136
ガールズトーク、二人の場合
家が近いという単純な理由で親友となった。幼い頃なんて案外そん
なものだ。仲良くなるポイントは、性格の合う合わないよりも会う
回数。交友範囲が狭いのだからしょうがない。小学生の私が歩いて
いける程度の近所で同じ学年の子は入江春香と入江春美しかいなか
った。加えて私は一人っ子だったから、三人で一緒にいるのはそれ
はそれは当たり前のことだった。
親同士が仲良かった影響も強い。仲が良いというよりは、仕事で忙
しい入江の両親に、私の母があれこれお節介焼いてただけみたいだ
けど。
春は近所の公園に花見に行く。遊びに連れて行く暇のない入江の両
親の代わりに、私の父と母が5人分のお弁当を作ってくれた。私た
ち3人は桜なんてろくに見ず、家から持ってきたゴムボールを投げ
合っていた気がする。
夏は毎日のように、丘の上まで駆け上る。てっぺんに小さな公民館
があって、お目当てはそこにあるプラネタリウムだ。そこで飴を舐
めながら星を見上げるのが春香のお気に入り。人工の星空を見ては
しゃぎ、そのあとベランダに出て本物の星空に手を伸ばす。春香は
いつも﹁線がないからわかんない!﹂と施設のお兄さんに甘えてい
た。春香の年上好みはこの頃から健在だ。そのせいで私たち3人の
自由研究は小学校の6年間、すべて星に関するものだった。
秋はどうしてか、外よりも家の中で遊んでいた記憶が強い。私の家
より広い入江の家でよく暴れていた。特に雨が降ってしまったあの
日、明日の遠足は中止だろうと学校で配られたおやつ袋をバリッと
開けて春香が食べ始めたのをよく覚えている。私と春美も最初は止
めていたけど、春香が食べるならと袋を開けて、室内で遠足ごっこ。
お菓子で口を汚しながら、ソファで跳ねたりクローゼットの中に潜
137
り込んだり。そうそう、結局次の日の遠足は決行されて、私たち3
人だけがおやつなしだったんだ。昨日のうちにすっかり胃の中に入
ってしまっていたから。
冬は私の家にあるコタツに潜り込み、3人それぞれ違う漫画を読ん
でいた。私たちの住む地域は雪が少なく、外に出てもただ寒いだけ。
葉っぱがない裸の木々や乾いた地面、灰色の空にはなんの魅力も感
じなくて、家でごろごろしていた。漫画を読んで、けど定期的に3
人のうちの誰かが窓を見て﹁雪、降らないかなぁ﹂とつぶやく。﹁
降ればいいのに﹂﹁降らないねぇ﹂と言い合う。そんな怠惰な私た
ちをみて、母は﹁まぁナマケモノが3匹﹂と呆れていた。
春も夏も秋も冬も、季節の境目だってずっと一緒だった。
中学の真新しいセーラー服に初めて袖を通した日、母に﹁中学生に
なったら今までみたいにべったりじゃなくなるだろうねぇ。ハルく
んは男の子だし﹂と言われた。その言葉通りかはさておき、春美が
学校に来なくなって、3人組ではなくなった。
けれどそれでも私と春香は隣同士並んでいた。
私自身、彼女にに甘えながらもなんとなく﹁そのうち離れ離れにな
るんだろうなぁ﹂って心の隅で思っていた。だって、高校も大学も
その先社会人になっても一緒だなんて現実味がないもの。
けれど高校に上がっても私と春香のクラスは一緒で、まだ隣同士並
んでいた。
ハルくん。私の幼馴染。落ち着いてて誰よりも優しくて、少し人見
知り。笑うとえくぼが左にだけできる。多分もう会えない人。同い
年なのに、春香の弟なのに、お兄ちゃんみたいだった。双子の春香
だけには容赦なくて、兄弟喧嘩では掴みかかっていた。負けてたけ
ど。
ハルちゃん。私の幼馴染。親友。頼りになる、明るくて優しくて、
138
時々ひどくいい加減で雑な性格。感情の切り替えが早くて、落ち込
んでいたと思っていたら次の瞬間には笑う人。その性格をもって私
の全てを上に、上に引っ張り上げていた。それから、つい最近男の
子になった人。私を引っ張り上げる手が、大きくなった人。
道ながら、そんなことを高尾由里につらつら話していたら、﹁あん
たも大概だったのね﹂と呆れられた。
﹁大概?﹂
イマイチよく分からなくて首を傾げたが、高
﹁春香ばっかだと思ってたのよ﹂
ハルちゃんばっか?
尾はその言葉を説明してはくれなかった。
﹁しかし、あんたが春香に告白するなんて思わなかったよ。案外き
っぱりしてんのね。ずるずる一生片想いしてそうなのに﹂
高尾の言葉に私はぎょっとした。片想い、なんて。その通りだけど
なんだか変な感じだ。
﹁私だって告白する気なんてなかったんだよ!﹂
私の突然の大きな声に高尾は﹁声でかい﹂とたしなめた。はっと唇
に指を当て、辺りを見渡す。道には車が流れ走っていくだけで、通
行人はいない。よかった、変な目で見られるところだった。
﹁本当に告白する気なんてなかったの﹂
もう一度自分に言い聞かせるようにつぶやく。高尾が告白するって
聞いて、私もちょっとだけ便乗しようかなって気持ちは確かにあっ
た。けれど本当に言ってしまうなんて⋮⋮
﹁ハルちゃんが悪い﹂
むうっと突き出した私の唇に、高尾は言葉の先を促した。
﹁だってずるいもん﹂
﹁何が?﹂
﹁ハルちゃんがかっこいいのがずるい﹂
139
﹁⋮⋮あ、へぇ﹂
高尾が真顔になった。
高尾に春香の格好良さは伝わらない。当たり前といえば当たり前。
だって春香の格好良さは、昔の思い出がベースにある。昔のちょっ
とした思い出、私の癖、3人の秘密⋮⋮当然私も共有しているもの
なのに、春香の言葉になると、別物に感じる不思議が好きなんだ。
私の持ってる石ころが、彼女の言葉で削られ磨かれる。出来上がる
のは多分、つるりと美しい宝石だ。そんな風に春香が言葉を通すと、
私は全てがたまんないんだ。
だから別にそれが高尾に伝わらなくてもいい。伝わるもう一人の彼
は家から出て来なくなっちゃったから、今は私が独り占め状態。
﹁昨日の今日でフラれたのにタフね。泣いてぶっ倒れてると思って
た﹂
﹁私そんなにか弱くないよぉ!﹂
﹁春香に言ってあげな、それ﹂
多分勘違いしてるから、と高尾が笑う。
﹁だってね、ハルちゃん、私が告白したら笑ってくれたの。いつも
通り﹂
嬉しかったよ。私とまだ幼馴染でいてくれるんだぁって﹂
﹁最悪じゃん﹂
﹁そう?
﹁でも告白、無かったことにされたってことでしょ﹂
﹁うん。そういうところ、優しくてたまんないよね﹂
えへへ、っと笑うと、高尾が彼女自身のひたいに指を当てて俯いた。
見上げると首を痛めるほど高いマンションに入り、番号をプッシュ。
自動ドアをくぐる。床は自分の姿が映るほど磨かれた、多分大理石。
エントランスホールに置かれた花は百合とススキだ。縦にすっと伸
びたそれはずいぶん凛々しい。初めて見る組み合わせだ。お花の知
識なんてないから、ただただ高いそうだなぁなんて馬鹿な感想を抱
いた。エレベーターの紺色の厚い扉が開かれたので、私たちは乗り
込んだ。
140
﹁何回きても緊張するね﹂
﹁ホテルのエレベーター以外で胃が浮く感覚味わえるってそうない
わよね﹂
するすると上って行くエレベーター。表示階数が18になったとこ
ろで止まる。降りると通路。けれど普通のマンションと違い、扉は
一つしかない。こんなに大きなマンションで各階一部屋だなんて、
初めてここに来た時は目を疑った。道理で部屋番号が伝えられなか
ったわけである。
インターホンを押す前に、扉が荒く開いた。
白いノースリーブのシャツにデニムのパンツ。シンプルな部屋着だ。
先にお茶飲んでるわよ﹂
明るい色のふわふわした髪はそのまま肩に下ろされている。
﹁由里、メイ、やっと来た!
にかっとお嬢様らしかぬ飾らない笑顔を見せた水内桃は、正真正銘
のお嬢様だ。
141
ガールズトーク、四人の場合
どんな映画、小説、漫画にもたいてい﹁恋﹂がちらついている。世
の中﹁恋﹂で溢れている。メインでなくともふとした画面に、台詞
に、コマに、ほのめかされるそれは、もうずいぶん長く、私にとっ
て﹁無関係﹂であった。画面の向こうで唇を摺り合わせるカップル
も、電車で支え合うように立つ夫婦も、心もとない距離をとって下
校する中学生も日々目にするけれど、それを自分に置き換えて考え
ることはなかった。
男の人が、怖くなったのは中学校にあがって少ししたある日のこと。
原因は自覚していても、治す方法もわからなかったし、治す気も別
段生まれなかったから、私は今も男の人に触れられない。それに支
障があっても、生活できないほどではなかったし、私が常にそばに
いて安心するあの人は﹁女の子﹂だったから。⋮⋮⋮⋮数ヶ月前ま
では。
ぐるりと瞳を動かして、前に座る原田かえでと水内桃、隣の高尾由
里を見やる。
こうして四人でいると﹁恋してるなぁ﹂なんて緩い実感が押し寄せ
る。それは、高尾はもちろん、多分水内や原田も恋してるからだ。
私に好きな人がいなかったら、今ほどこの三人と仲良くなれていた
自信はない。恋が女性間の大きなコミュニケーションツールとなる
ことを、私はつい最近になって知った。
﹁振られちゃったよ﹂
華奢なカップに揺れる紅茶に口をつけながら、私は目の前に並べら
れたウエハースのような軽さでそう報告した。高尾はそんな私に相
変わらず眉尻を下げている。
水内は﹁意外ね﹂と居もしないハルちゃんを睨むような目つきをし
ている。
142
原田はゆるく首をかしげた。
私たち4人は今、倍の人数くらい囲めそうな広い木のテーブルにつ
いている。濃い色あいのテーブルはつるりと磨かれていて品が感じ
られる。
始めてここ、水内の家に来たときは﹁ホテルみたい﹂という感想を
抱いた。それは先ほど目にした豪奢な外観や眩しいエントランスホ
ールだけでなく、水内の家の中に入った時もだ。どの調度品もいっ
ぺんに揃えたように大きさ、バランスが取れていて収まるべくとこ
ろに収まっている。チリひとつない。それでいてちょっと人の気配
が薄い。
初めて水内宅に来た日に、ここで彼女が一人で暮らしていると聞い
て私は目を丸くした。
﹁お父さんとお母さん何してるの?﹂と聞くと、﹁薬とか作ってる﹂
と答えてくれた。海外で仕事をしていて、結構忙しいらしい。
広い家でたった一人。私には無理だなと思っていると、それが顔に
出ていたようで、水内は小さく笑った。
﹁家事はヘルパーさんがいるし、かえでがよく来てくれるから寂し
くないわよ。あとは、まぁ、⋮⋮荒吹もね﹂
それを聞いて私はまた目を丸く開いてしまった。
そんな会話をしてから、水内宅に来るのは4度目だ。こうやって普
段見ない高そうなカップや外国のお菓子にも少しは慣れてきた。ま
だ緊張はするけど。
﹁なんて言って振られたの?﹂
意外にも最初に切り込んだのは原田だった。
﹁振られたっていうか誤魔化された、かな。幼馴染なんだから好き
なのは当たり前だって﹂
﹁はあ?!﹂
水内が声を上げて、椅子をがたがたと鳴らした。原田が﹁桃﹂と嗜
める目線を向けたが、全く気にせずぎゃんと吠えた。
﹁なにそれ?! さいってー! あんのデリカシー絶無男!﹂
143
﹁桃、そんなに大きく口を開けてはダメよ﹂
﹁だって⋮⋮っ、かえでぇ﹂
﹁なんで桃がそんな声出すの﹂
声色にとたん哀を滲ませた水内に、原田が苦笑して首をかしげた。
水内は吠えていた口をむっつり閉ざす。そんな彼女に、原田はそっ
と手を伸ばす。白い指で水内のふわふわとした髪を梳く。さらり、
さらりと指が上下に動くにしたがって、水内の唇が次第に緩んだ。
︵仲良いなあ︶
私は目の前の二人を見ながら小さく笑ってしまった。隣に同意を求
めようと横目を向ける。
高尾は半眼だった。
予想外の表情に﹁由里ちゃん?﹂と肩をたたくと、じっとりとした
目が私を捉えた。
﹁メイといい、あんたたちといい⋮⋮。これがデフォみたいだけど
違うからね⋮⋮﹂
高尾の呟きの意味はわからなかったが、ただの独り言だったらしく、
それ以上の言葉はなかった。
﹁悪かったわね。メイのことなのに私が騒いじゃって﹂
落ち着きを取り戻した水内が、バツの悪そうに謝った。冷静になっ
て恥ずかしくなったのか、口元に手をあてて表情を隠している。
﹁ううん、いいの。それに私、そんなにショックじゃなかったから
大丈夫だよ﹂
﹁そうなの?﹂
うろんげな水内に、高尾が﹁まあ、あいつも結構事情があるから﹂
とフォローをしてくれた。
﹁なんていうか⋮⋮あいつ最近まで、えーっと、女の子との恋愛と
か考えたことなかったみたいだから﹂
まさか件の人が元女、元入江春香とは言えず、高尾は慎重に言葉を
選んでいた。私もその言葉にうんうんと頷く。
﹁ふうん⋮⋮じゃあまずは入江春美にメイが女だって意識させなき
144
ゃね﹂
水内の瞳がきらりと妖しく光る。
﹁手をつなぐとか﹂
﹁ふ、沸騰しちゃうよ!﹂
水内の案に私はぎょっとした。原田は﹁幼馴染なんだから手くらい
は繋いだことあるんじゃ?﹂と不思議そうな顔をしている。
ええ、数ヶ月前ならこれでもかってくらい繋いでました。でも今は
無理!!
﹁えー、じゃあ上目遣いでか弱いアピール?﹂
﹁いや、それはもう常にしてると思う﹂
第2案は、高尾の冷静な指摘により消えた。
﹁うーん、いい方法ないかなぁ﹂水内が首を捻る。
﹁逆にするとか﹂
原田がカップをかちゃりとソーサーに置いた。
﹁今まで長い間一緒にいて女性として見られなかったのでしょう?
なら逆にしてみればどうかしら﹂
﹁逆⋮⋮﹂
自分ではいまいちぴんとこない。
﹁メイの逆⋮⋮。おどおどしない、自信満々に話す﹂
﹁うーん、大人の魅力を出すとか。メイクしてあげようか?﹂
﹁ええっと、そっけなくする。押してダメなら一度引いてみてはい
かが?﹂
三者三様に挙げられた﹃私の逆﹄に、私ははっとひらめいた。
そうだ、春香はもともと女なのだ。それならば、私が異性として見
られるには⋮⋮
﹁私、イケメン目指すよ!﹂
高らかに宣言し、私は胸の前でぐっと両の拳を握ってみせた。
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n2454bo/
反転青春
2014年11月14日19時14分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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