<「校長室便り」58> 思考・感覚の固定化 24日の日曜日、久しぶりにゆっくり起きて庭に出ると 梅が咲いていた。それも、一輪や二輪というのではない。 かなり咲いている。これは白梅だったが、紅梅もありそれ を見ると、白梅ほどではないが、やはり咲き出している。 そういえば、昨年もそうだった。日曜日になって初めて気 づく。 翌25日の月曜日、出勤の途上、わざわざ成田山公園を 回ってみた。するとやはり梅は咲き出していた。まだ大寒 で公園の池には氷が張っているというのに梅はもう春を先 取りしている。 ところで、3学期当初の職員会議で先生方に思考の固定化について話した。これは先 生方の誰よりも、自身危惧していることであり、自分に言い聞かせたことであった。 というのは、たとえば車を運転していてあるところに向かうとする。そのとき、無意 識に自分の好む道、いつも走っている道を選んでいる。ところが既に数年も前に近道が できているのにそうしている。ある時、アッ、コッチノ道ノ方ガ便利ダ、と気づく。惰 性で走っているのである。 まあ、これはそんなに大したことではないが、仕事に関係し て資料や統計、図表などを見ているとき、その作成者の論理に 沿って理解することがだんだん億劫になってきている。という よりもっと正確に言えば、その論理に従って思考することがむ ずかしくなって来ている。 例えば、入試に関する資料などを自分でも作成してあれこれ 考えるときがあるのだが、同じようなものでも人が作ったもの を理解するのに時間がかかる。 先生方には話したのだが、もうずーっと前のこと、40年も前かも知れない、湯川秀 樹氏の書いたものを読んでいたら、歳とともに思考の仕方が固まってきてしまう、とあ った。これはご自身について言っておられたのである。氏は専門の物理学は言うに及ば ず、その他の分野にも非常に深い知識を持っておられた人だ。その人にしてこのように 言われていることに若い私は驚き、それ故今に至るまでも覚えているわけだ。 考えてみれば、経験を重ねるということは、一面ではいわゆる経験則からも、自分な りに、また集団としてもそうかもしれないが、有効・有益な考え方・その枠組みを強く していくことだ。これは人間に限らず、どのような生物にあっても共通することのよう に思える。 1 だが、他方ではこの経験則に当てはまらぬものは無視され、 時に排除されてゆく。だからこそ、知の最先端にあって新た なものを発見し、想像しようとする湯川秀樹氏のような人に とっては、有益・有効と一般には思われる経験則は特に危険 と思われるのだろう。 いわんや知識も視野も狭い人間がそのことを意識せずに自 分の考えに執着し、自己の信念を堅くしていったらどうなる のだろうか。本当に恐ろしい。 自分で詳しく調べたわけはないが、いわゆる学級崩壊は年若い先生のクラスでよりも、 むしろベテランあるいは年配者のクラスで起こると聞いたことがあった。これがその通 りだとすると、子ども達の変化についていけない、いや行こうともしない、更にはそれ を意識しさえしないところから学級崩壊は起こるということになろう。 最近自分自身を振り返って気づくのだが、これは思考形式だけではなく、感情・感覚 面においても同様な気がする。例えば音楽や美術など芸術面でも今までの自分の好みと 違ったものを新たに好きになるのはむずかしい。 表に掲げた2枚目の写真、これは成田山公園の浮見堂を写したものだ。池の半分が氷 っているのがおもしろくて撮った。梅との対照の意味もあった。が、少々月並みである。 それはこの写真に限らず、この「校長室便り」に使った全ての写真に言えることだ。 これもずっと前のことだが山形県酒田市の土門拳記念館で 見た1枚の写真が忘れられない。それは竹を真横からズバッ と撮ったものだった。嵯峨野の竹だったかもしれないが、そ こにはセンチメンタルなもの、通俗的な叙情はまったくなか った。なかなかこのようには撮れないだろう、とその時私は 写真の素人ながら思った。私など、いつもはありふれた構図、 色等に惹かれて撮っているわけで、その意味で感覚が固定化・ パターン化している。 唯、ここで困った問題がある。今自分の写真の例を出して否定的に語ったが、思考に しても感情・感覚にしても年輪を経て深化し、洗練されてゆく部分はある。思考形式の 固定化、感覚・感情の狭隘化は別の観点からすれば、思考・感情の深化であり、感覚の 洗練化でもある。 要するに、わたし達にとって、常に自分の思考形式や感覚のあり方に反省意識を向け ていることが大切になるのだろう。 <最後の写真は、今年度の千葉県私立小学校造形展に出品した本校小学生全員で作った 「KABUKI」というタイトルの作品である。> 2 (2016.1.27) 3
© Copyright 2024 ExpyDoc