小勝組 療馬役 久徳叉四郎 金滞古蹟志巻情一 一、二百石 問中十太夫 佐藤喜右衛門 厩方組 伯楽方 伯柴方 一、二百石 つ宵五拾石間 以上三人也。延貨の金津固に、閥助馬場東の頭に伯柴奥助 の居邸を載せたり。此の奥助は町馬鹿か。哨随筆K. 町馬 皆坂井太郎右衛門が僻話を載せたり。共の僻般に云ふ。坂 井太郎克街門といふ町馬留は‘家業上手にてありしゅゑ、 武家方出入の屋敷多し。貞享の頃たるか、篠原主水方へ参 り、乗馬共炎治たどいたし仕舞ひτ、壁土のある所に水の 溜り bりしゅゑに、此の所にて針を洗ひて脇に置き、共の 身も水を取寄せて手水遁ひたどせし内に、馬針一本失せた りけり。何ほど噂ぬるといへども不国見営↓不審訟がら共の 井に燕の巣をたし居しが、山県より大抵る蛇落ちけり。人々 分にしτ‘太郎充衛門は蹄りけり。然る慮主水方表門の天 あやしみ見れば、喉より腹へかけ切割れて死したる体也。 いか・なる事ぞと思ひしに、彼の蛇来りて卵を取喰ふを‘燕 のかたしみて、太郎右衛門が馬針を、壁土にて蛇の来る道 に付置き、蛇を殺したるにτ有りしと、小竹善七といふも 外口強︿、地道之内にも口はなさせ候憐難 成 v ‘地道梁掛候 申故、早乗杯は曾 儀は中々思ひも寄ら歩。勿論口はたし不 ν て以て成不 申 v 候。馬衆金子久兵衛にも御乗らせ候廃‘五兵 衛同事にて、蛇に純を付候杯とは‘かゃうの馬の事に候哉 τたる 申候。共後叉町乗の鉢を 之 v よし被 v と閑人共に申候。依 之 v。 v 之 v 候へば、左ゃう可 有 v 御返し被 成 此馬は少し六ヶ敷所有 御覧被 之.手綱は中に 成 v 候成、最前に少も替儀無 v み、明強き馬とは相見hざるやうに被 乗 v 候。貨に奇妙成る 一 r- から宇と知るぺし。乗るべき馬をぽまづよく見τ、強き所 好。文安三年生昌子宮樫郷吋善正騎馬二潤 色 a 家僻書刊一師目施将軍 将軍義政公吋延徳三年五月三日卒昌子宮樫郷三十七十.共子園 主任=備前守一年二十三。受昌奥村上永幸叡馬法一師盈足利 永廿九年生晶子賀州富樫郷吋幼名茜之助。文安元年叙目従五位 d あり。石川訪古滋記に‘僻目。痛藤兵庫頭閲忠 基関子.臨 をbすれざるを馬乗とは申也。是秘磁の事也と申しき。と 見て、心にか hる事あらば、共馬をはすべから宇。此用意 又、金津御携にて何哉らんの事に付.一一畿に建したる者は 馬飛友れ共‘手跡は山本源右衛門の十ナプも怠る間敷、ま た源右衛門は能書たれども、馬に乗る事は九郎太夫が十ク 申。是にて心得ぺき事之曲、御居間坊主小頭長谷 一も成不 v 川健雲を以て被昌仰出?とあり。加陽諸士系譜に、馬乗役武村 九郎太夫‘貸永五年被且召尚一采地二百石賜 v 之。正徳四年加 恩百石、合三百石賜 之 v 。元文四年死、六十一歳。とありて、 金滞古蹟志巻叶一 丸 . 武村九郎太夫は今之世に稀成程の 事也。仮令ぽ金揮にτ 弱き所を知るべし。次に轡・鞍の具にあやうき事や有ると の申侍りしは、馬ごとにとはきもの也。人のカあらそふぺ 遣を知らざらん入、かばかり恐れたんや。又吉岡と申馬乗 ぽ、是はにぷくしてあやまちあるべしとて乗らぎりけり。 置きかへさせけり。また足をのぺて・しきみにけあてぬれ をゆらととゆるを見ては、是はいさめる馬・なりとて、鞍を ・泣き馬乗也けり。馬を引出させけるに、足を揃へてしきみ 世々居住せり。馬乗の事は徒然草に、披の陸奥守泰盛はさう て、奮藩中は潟野川の閥助馬場の近漣に邸地を賜はりて、 子孫世々岡崎衆役たり。按宇るに、馬飛役は馬術鍛錬の士に 。馬乗之侮話 賃馬と穆し是を商業とたしたり。 博勢共、皆貸馬を繰ぎ置きて.馬術稽古の諸士へかしけり。 頃、町博努共も町人並の由にて刃相止みたり。浪人博勢・町 儀天和年中御改の時分、町奉行支配細工人共万相止・みたる 博勢共は万を帯せざる事勝手攻第之蕗.町人並の者帯刀之 合所留記に載せたる費永七年八月町奉行の雪上書に、江戸 博勢は、沓藩中は博勢頭取とτ博勢共を我許たしたり。町 の共頃主水方に奉公せしが、現に見たりと語れりとぞ。 八 之慮、固定は嘗て埼明かざる申 寓事に渡り申事の曲申もの有 v 申皆度々.御意にτ御感被 成 衆かた、名人とも可 v v 。と見ゆ。 一
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