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近世対馬の文学資料・続
石川, 八朗
1990-03-31T00:00:00Z
http://hdl.handle.net/10228/3503
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Kyushu Institute of Technology Academic Repository
近世対馬の文学資料・続
石 川 八 朗
の一部が、数項目並記されているほか、﹃勧善訓蒙﹄﹃官許大東宝
一 鑑﹄﹃隣痂臆議﹄などからの抜書や、也有の﹃鶉衣﹄から﹁団賛﹂
等を抜書したものもある。﹃官許大東宝鑑﹄の抜書の後には﹁甲戌
な 本紀要の第三十一号に、厳原公民館蔵の近世漢詩和歌俳譜資料の 三月写﹂とある。甲戌は明治七年であろう。
一部を紹介した。本稿ではその後寓目、調査した資料二三について 本冊子のはじめから四十三丁目の裏に﹁甲戌ノ秋九月十三日岩崎
紹介を試みる。 先生之御著述庭落葉ト申書ヲ請得テ此二写朝夕吟シテ是ヲ師トシ是
一つは、幕末の対馬藩士岩崎清御の俳文集﹁庭落葉﹂等、もう一 ヲ楽トス﹂とあり、その後に﹁聴松亭記﹂以下の文章が記され、
つは、朝鮮の李朝十七世紀の小説﹃崔忠伝﹄の翻訳である。 ﹁応安武氏の需じて贈る﹂の記された八十二丁目裏までが﹁庭落葉﹂
の内容かと思われる。ただし、その後にも狂文を主とした数篇の、
二 同じ作者の手になる文章が記されており、﹁庭落葉﹂はそれら狂文
をも含むものとも考えられる。
庭落葉・やたら漬 次に、九十三丁目表のはじめに、﹁甲戌旧暦九月晦日倉掛先生之
忘記 全﹂。背に﹁庚午編集 満山主﹂。全百七十六丁。墨付同じ。 トシ是を楽とすLとあり、﹁其一巻前書之文﹂という文章から、﹁茶
桝型本。袋綴。写一冊。渋刷毛目表紙。外題は左肩に直書で﹁備宅二安否ヲ問而やたら漬の一巻を請得て帰ル是ヲ髪二写シテ是ヲ師
この書、というより冊子は、庚午、明治三年に満山という人が備丁表︶とあるのまでが、﹁やたら漬﹂の内容と思われる。
家蔵。 銘を乞れて送る辞﹂の末尾に﹁甲戌十月廿三日写終ル﹂︵百三十八
忘録として作ったものである。備忘録としては、各丁の左肩に、数 また、百三十八丁目裏から百五十二丁目までは﹁岩崎先生後めで
@
丁ずつ、イ、ロ、ハ⋮⋮と記し、出典のわからない、完結しない文た百首写﹂、百七十四丁目から百七十七丁目までは、狂歌の長歌二
83
1
@
首が記されている。 雲花亭記
84
以上のように、この備忘録には、岩崎先生の﹁庭落葉﹂、﹁後めで 愛芥子辞
岩崎先生、倉掛先生とは誰か。岩崎先生は﹁庭落葉﹂の﹁応安武 俺偏師説
た百首﹂と狂文狂歌数篇、倉掛先生の﹁やたら漬﹂が記されている。 譲二寸亭記
氏の需して贈る﹂の文の末尾に﹁干時庚午孟春此君亭中二誌ス 清 送友人望月辞
御﹂とあって、岩崎清御の名が浮かぶ。岩崎清御ならば、先年紹介 竹花弁
した﹃俳譜篭之柳﹄に付載の﹁対馬文台系統﹂に見える清御、岩崎 狂仙亭記
浪江である。﹁系統﹂の関係分を示すと 水篇説
対馬文台系統 東指諌︹東指は弘化二年五月末没︺
蒼糺ヨリ所伝 花見賦︹天保癸卯︵十四年︶三月、隅田の花見︺
朗 曙堂 東指 其雷 月見の賦
︵左島︶文蔵 ︵三木︶喜右衛門 吉弘 青葉亭記
八 清御 膓笠 ︹藻汐草践︺︹嘉永癸丑︵六年︶の秋初八の日、朝鮮国草梁の官舎︺
岩崎浪江 ︵大竹︶新三郎 ︹硯寿居士一周忌︺︹硯寿は膓笠の子︺
け はニ
ー
岩崎浪江については、先年の報告に、﹃楽郊紀聞﹄巻三、巻四の 米銭弁
石 記事によって、祖父右平︵右兵衛︶、父新左衛門。右平は町奉行を 送月楼記︹送月楼は小茂田の斎藤指水のもの︺
勤めたことがあり、新左衛門は﹁画を書く人﹂であること、平貞真 贈赴杉誘斎京師文︹杉誘斎は藩士︺
なる人の和歌集﹃鴫乃草久幾﹄に加判をしていることなどを記した 宝満山行︹宝満山は厳原近郊の山︺
が、清御自身の文章が出現したことで、後述するように、その活動 贈永三楽愛梅文
﹃庭落葉﹄他、本冊子に写された清御の文章は、以下に示すよう 吉其雷翁諌︹吉弘猶水、嘉永四年五月二日没、医師︺
が今少し明らかになってくるようである。 涼瓜と云号ノ弁︹湛々舎涼瓜、堀江氏︺
内に註記した。 崎陽藩舎記︹元治之甲子之秋八月初五客舎の南窓にしるす︺
なものである。人名や執筆時期や場所等の記載があるものは︹︺ 松の画賛
聴松亭記 花月楼鶴枕記
脩竹斎記 重陽燭酌︹丙寅︵慶応二年︶秋、干崎陽官邸︺
二寸亭記︹天保癸卯︵十四年︶夏、東武柳原藩舎︺ 清風亭記︹文久之癸亥、清風亭は白翁、古川宇平治の亭︺
2
久万女の挽歌井序 遣遙しあたりの鱗摩に残る暑さを忘れて終日歓楽を尽せし其日の
初午奉額︹慶応二丙寅二月︺ あらましをよめる長寄︹天保卯の年は十四年、冒頭は﹁梓弓屋し
文橋和尚五十回の法会のありし日 きはかたし外がよしと⋮⋮﹂︺
瀧見賦︹明治三庚午夏︺ 贈勢井低人大人長寄
︹宝玉画賛︺︹明治庚午の夏︺ ︹新年の発句、狂歌一首︺
贈芳叢舎其清子文 ︹月見の狂歌一首︺
﹁庭落葉﹂はここまでかと思われるが、以下にも数篇の狂文等が る。
応安武氏の需じて贈る︹干時庚午孟春此君亭中二誌ス 清御︺ 以上が、この備忘録に写された岩崎清御の俳文、狂文、狂歌であ
記されている。
続嚇麺霞⇒認遷品時津醜に慾ほ鯵靴霞 三
酬らに記してよと母なる人の乞へるにまかせ人がましくものし贈る右に摘記したよ・つに、、﹂れらの歌文には、制作の年時や場所がわ
嚥ぱ蒲聾︵三年︶孟冬清御誌︺ 警切竃黙竃籠錘籠鯉働運一鉢霞∵
タ
携 勢井低人大人二贈る改名披露文 その動静を追うと、
︹こめでた百首序︺︹己のとし︵天保十年︶の初春、東都柳原の藩舎︺ を送りて﹂︵東指諌︶。狂歌名を馬野耳風から四方山彦に改めたの
雌狗・器 天保九年久、、江戸へ出る。﹁いにし戊戌の冬にや予が東武に趣く
御朦中秋月見賦︹天保寅年︵十三年︶東都柳原藩邸︺ は、在江戸中か︵勢井低人大人二贈る改名披露文︶。
この後、倉掛先生の﹁やたら漬﹂が入るが、その後に、 天保十三年 ﹁御朦中秋月見賦﹂。同じく江戸藩邸での作。
綱叔母説 天保十年 ﹁後めでた百首﹂。江戸藩邸での作。
岩崎先生後めでた百首写 天保十四年 ﹁花見賦﹂﹁二寸亭記﹂、長歌﹁梓弓﹂。﹁花見賦﹂と長
悼宇和空成翁文 歌は隅田川畔の遊びを記す。
八月十五夜さるかたに参りしに今宵は名におふ月見なれハとてひ 弘化二年 対馬へ帰る。﹁東指諌﹂。東指については後述。
き留められける時よめる長寄︹冒頭は﹁もののふの家二もとより 嘉永四年 ﹁吉其雷翁諌﹂。吉其雷は吉弘猶水。猶水については後述。
生れつる身は十文字⋮⋮L︺ 嘉永六年 ︹藻汐草祓︺。﹃藻汐草﹄は翫柳亭亀石の句集。亀石は
85
@ 天保卯の年文月のはじめがたさる人にさそハれて墨水の辺りに船 ﹁俗称源太、下目付﹂と注する。七月八日に朝鮮国の草梁の官舎
、
86
@ で記した由が見える。この年釜山の和館に渡っていたことがしら ﹁贈芳叢舎其清子文﹂は、作成時期の記載のない文章であるが、
れる。 中に﹁カク云ウ我ハ猶六十余リノ老ヲ重ネテ﹂と見える。仮りに明
文久三年 ﹁清風亭記﹂。清風亭は藩士古川宇平治、清風亭白翁の亭治三年の記述として、その時六十過ぎ、これも仮に六十三才とすれ
号。 ば、文化五年生ということになる。岩崎清御は、文化初年の生まれ
元治元年 ﹁崎陽藩舎記﹂。末尾に﹁干時元治甲子之秋八月初五客舎 の人と見てよいだろうか。
の南窓にしるす﹂とあって、長崎の対馬藩屋敷にあったことが知 次に、以上うかがったところでもわかるように、その文章は、
られる。文中、﹁旧里の花に春を残り客舎の月に秋をむかへて種々の人々との交渉を示すものが多い。以下、そのことについて述
こ・に三とせの光陰を送らんといと待遠き心地せらるれど﹂とあ べる。
るので、この年から三年の予定で来ていたものと思われる。なお まず、さきの俳系に示された、清御にいたる二人の先人について
長崎では丸山の花月楼に遊んで鶴枕を見、その記を書いたのも、 の諌がある。
朗 この館のことと思われる。 東指 本名は三木喜右衛門。﹁東指諌﹂に﹁三樹園のあるじは此皐
慶応二年 ﹁重陽猫酌﹂。なお長崎にあって、﹁丙寅秋崎陽官邸の椎 月の末ツ方目に見へぬ秋を待ずして頓に無情の風には驚かされ給
八 樹下にしるす﹂とある。文中﹁予はいたづらに三秋を送りて崎陽 ひぬ﹂とある。弘化二年のことで、﹁三樹園﹂は、姓の三木によ
ー
公 館日の
南の
窓稲
の荷月
るさ
もれ
L、と
・発
﹁句初
﹂つ
二 月
のは
で寒
あさろ
天雪
保気
九色年に清御が江戸へ上る時、 4
川 、客
官居
邸に
の庭
官を
が詫
修補
行見
燈え
のる
額に
を午
書奉
い額
て祝
三
る
たも
、人
にう
し。
らじ
石 たという。 の句を饅に与えたという。
すだくのも初午振り欺庭雀 其雷 本名は吉弘猶水。東指から文台を嗣いだ人で、﹁吉其雷翁諌﹂
明治三年 ﹁応安武氏の需じて贈る﹂は末尾に﹁干時庚午孟春此君 によれば、医家の第二子に生まれて、武門に入る志もあったが、
亭中に誌す 清御﹂記す。︹宝玉讃︺は、この年夏、荒木愛竹と 家業をついで医となった。五十余年業に従って退隠したが、再び
賦﹂もこの年夏、﹁砥石渕の奥なる七ツ瀧﹂を見に行ったことを を訪ね、京では蒼軋を訪うて、俳譜の流行が猿蓑調から炭俵調に
いう人に頼まれ、額に宝玉の画に和歌、文を賛したもの。﹁瀧見 医として公に仕え、禄十石を加増された。ある時江戸に出て梅室
以上によって、天保九年から弘化二年まで足掛け八年は江戸藩邸 吉弘猶水のことは、﹃楽郊紀聞﹄にも見えるが、﹁少し才発の人に
記したもの。 かわったことを告げられて、作風が変化したという。
までは、長崎の藩邸に詰めていたことがわかる。藩士として広い活 医﹂になった時に、兄令庵が人の療治と御匙医と両方はできない
に、嘉永六年には、釜山の草梁官舎にあり、元治元年から慶応二年 て、医業は劣りたりし︵兄の吉弘令庵よりは︶﹂とあり、﹁御匙
動をしていたことが知られる。 ので、どちらか一方は止めよといったという話を伝えている。
吉川白翁 ﹁清風亭記﹂に﹁清風邸のあるじ白翁老人はいまだ官路 弦年の重陽は、かねてお・やけの命ありて、此地の名にあふ諏訪
を遁る・とにはあらねど今や理屈の関を越へて只明暮の翫びには の祭りをさへさし延られ、世はた.・干文騒擾の街談巷議区々なれば、
詩徒文客の麗詞歌人俳友の佳吟を集めて漸これを一巻となし往々 人のこ・うも何くれといともの憂かる風情なりけらし。さはされも
老の楽みとせられ﹂と、主人の風流を称揚している。 のいみてふ事にもあらねば、遊里撰廓も糸竹の音を絶たず、町も麻
文橋和尚 太平寺二十一世。冨月庵文橋。天明初年に江戸へ出て、 上下や羽織着替て互に節会の礼を述べ合ひ、祝儀の肴をも取かわす
泉岳寺の末寺湯寿院の壼中和尚の下で修業し、その余暇に古実流 なれば、けふの嘉例をた“にやは過さんなど藩内の人々誰彼そその
の花道を学んで、対馬に帰ってからそれを弘めた。和尚五十回忌 き合て、こ・の高野平の奥岩水とかいへるわたりに登臨の催しあり。
の会主桜井氏は、享和のころから文橋和尚に学んだという。この 予も其招きにあへりしかど、さすがに官袴の身のかにかくおもひ陣
文橋和尚五十回忌の文は、桜井氏に乞われて書いたものである。 れるくさρ\なきにしもあらねば、折しも家族のさすらへにことよ
続芳嘗。其清久和辱江一戸へ出た折に谷文晃の門に入.て画を学ん鮮擁鯵澤竃籔諸駒㍍竪已哺
酬宇和空成清禦狂歌の師とする人。清御に﹁鳴呼悲哉吾師宇和空出させて、藷窓に菊酒の宴をひらけば芋大根は旬を競ひてにぎ
持成翁は春の狸寝入りが実となり飛だ茶釜の湯気と消て麦、﹂ふせやかに、箆窃り目をかへして提昆布の中ほどをむすびたるはいか
一㍉誘繊羅鷲鷺藩麓禍勧謡詩騨鯵㌔露製韓惇鋸羅鷲翼ぽ鴎5
雌はけふの初むかしと悔ひけふは翌日の後むかしと観ず⋮Lと記緑リを見せて煮染一ト鉢の見立てもおかしく・輸の饒のむらさきは
アケ
している。なお、清御の狂歌の友人に鐘野成時、勢井低人が居た。小豆飯の朱を奪ひ、粟に焼栗の黄色なるは、折添ふ一枝の菊に映じ
諸⑳他、﹁青葉亭記﹂の馬雪、﹁藻汐草﹂の亀石、湛々舎涼瓜、杉 て俄料理の趣向は足りぬ。かくて壼膓をひき手つから酌み手自ら重
誘斎、永三楽らは、風雅の友であったと思われる人々である。 ねて漸酔情の至る処、つらく陶氏のむかしを想ふに、かれは僅に
百日を待ず、彰沢の会を辞して旧里容膝の茅盧に東離の花を楽しみ、
四 予はいたづらに三秋を送りて、崎陽公館の客居に南窓の月を詫るも、
貧しきは共に貧しきにして、只其情欲の牽くとひかれざると賢愚得
以下、清御の文章の例として、﹁重陽掲酌﹂と﹁狗品論﹂を掲げ失のひとしからぬ也。我とわが身の恥かしけれど、よしそれ所謂旅
る。 の恥はかき捨てと笑ひて残ンの酒を尽さんにしかじと猫りこちける。
菊の香や庭を故郷の山ご・ろ
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@ 重陽猫酌 丙寅秋干崎陽官邸の椎樹下にしるす
88
@ 狗品論 内容から、対馬藩士で俳譜や狂歌に親しんで人であることがわかる。
宇和空成カル果たりとて田作らずといふことなく・鐘野成時花散 文章は執筆時期を明記するものが少ないが、嘉永、安政、そして明
れども猶山寺の春は残れり。されば今の世にあたって狂歌の道猶盛 治未年︵四年︶のものがあり、岩崎清御のそれとほぼ同時期のもの
なりといへども、所謂天狗俳譜のごとくにしておのがまにく云出 である。﹁甲戌旧暦九月晦日倉掛先生之宅二安否ヲ問而﹂とあるの
たれば、三十一文字が内五句のとまりてにをはさへわきがたくて只 で、明治七年にまだ存命であったと思われる。
いたづらに宇百やうのことなりもてゆくはいと口をしき事になん。 清御とちがい、対馬の外に出たと思われる文章は見当たらない。
を引率し、ひと度是に羽うつ時はともに高根の月にも肇べく又は千 ﹁やたら漬﹂の内容は、
抑此道に鼻を高ふし、大天狗と称せる先生達もろくの木の葉天狗 志多賀や洲藻村など対馬領内のことを記したものがある。
尋の底をも極べし。たとひ通力自在の性ありとも、法なくんば終に 其一巻前書之文
古鳶の仲間にや落ん。教なくんば彼山猿の尻にも娼まし。凡世の風 嘉永元年申の年箕輪なる御後室之附目付の命下り断再度に及びぬ
朗 流を翫んで有頂天狗の境界に入る者俗中に俗をはなれ、雅中に俗有 れば長寄となんいへるになぞらへて︵長寄︶
るの意味を忘れず。たとへば、富士の曙を望みてからす天狗の飛行 嘉永四年辛亥四月廿二日祖父の十七回忌を祭る待夜の霊前に涙を
ド
ノ をうらやみ、鞍馬の夜ざくらに対して大僧正の眼をうか“ひ、須斐 拭ひて 6
H も動静二つの場をはなる・事なくんば、おのつから錦衣縄帯の作法 ︹嘉永七年祖母十三回忌︺
にも叶ふべき欺。しかいふ我も腰おれ歌よしあし曳の山水天狗わら 井上子別亭を設
石 べもてしりたる古寄の言葉ま・もじり羽の便りなければひとりだち 於福面ンの絵に
のならざる先生くちばしの黄なる癖として途方もなき高言を吐而己 争鶯之弁
四方山彦書 おなじ枕に三子を失へる人に送る
我ひとり醒たとも又言ひにくし 安政午︵さ咋卯月の末志多賀の里に有るに麦苅る比の賎の女の
天狗もはなに酔る此時 業いと哀に夏かしく其姿にたましゐ動きて止ず其情を髪に記す。
同じ里に夏を送りて 去三虫辞
同里より友達へ送る︵長歌︶
五
名之論
さきに記したように、九十三丁目から百三十八丁目までは、倉掛 酒徳之弁
先生の﹁やたら漬﹂が写されている。 金銀之煩
倉掛先生については、知るところがない。﹁やたら漬﹂の文章の 名之弁
俳友朝鮮に有るに二月の空花柚を送るとて であり、対馬の自然や生活がうかがわれて興味深い。﹃楽郊記聞﹄
同じ人に弥生の初新茶を送るとて 巻七に、﹁仁田組木坂詣﹂という文章を録している。仁田の宮原村
武の師貝江の翁霊前に備ふ に住んだ西村四郎兵衛の作で、下里の浜から船で出て、木坂の湊に
薦田好々子追思之辞 着き、海神神社に詣でる次第を道行文風に書いたものである。一部
花柚の花実ひとしき枝を折りて武田の翁に送れる辞 分を示せば、
藁の文に答ふる辞 早ヤ浦口へ漕出し、漫々たる海原に臨み、向ふなる峨々たる山
明治未のとし むねのけふり は伊奈崎や。志多留や茂江の浦々造も、皆残りなく見え渡り、神
青野氏雷子に贈辞 の恵も追風に、喜び勇み帆を揚て、御園越高の山々の、木々の梢
之々養の記 も幽かにて、はや遠ざかり行程に、鹿見久原の沖の瀬戸、思ふ願
続竃竃酔中の辞 柵“㌶ボ竃献籠露ぱ籠遷聾籔
酬浅海灘伝ヒ名所呼出 腸の山、手に取る様に見え渡り・実に歌人の詠めならん・
持応素琴子需 の如きである。中川延良は、﹃楽郊記聞﹄に載せて、、彼辺の児童に
斌 送道野子文 す。其文を取らず、只其事を見るべき為なりLと記したが、倉掛先
駒或人甲子祭之辞を乞にまかせて序す 読すべき為に作りしや。・疋は仁田村辺の目前の風俗也といへる故記7
趾此書を得て此文を奉る︵付長歌︶ 生の.浅纏伝ヒ名所呼出﹂も、童蒙に読ませる目的があったかも
茶銘を乞れて送る辞 しれない。
以上が﹁やたら漬﹂の内容である。﹁椎下﹂という俳号を持つこ
とが、﹁名之論﹂により知られるが、倉掛先生の周辺には当然、同 蹴雄ヒ 名所呼出
じ趣味の人々が居たので、井上子、薦田好々子、青野氏雷子、素琴 浅海の大口、西はこふ崎、北は高根を左右のかぎりとしてより・
子︵別号膀翁︶、道野子︵俳号楊々︶などは、そんな人々であった。 村々浦々を廻らば、何千里の船路とも量りがたき浦とはなれる也。
薦田好々子は﹁そも此翁のいさおしはやごとなき職に昇り官袴にい 北高根の岩に続きてひとつの岩有。牛の姿に似たるをもて牛嶋の名
とまのあらざれば﹂とあって、藩の要職の人であったことが知られ 有りて世に名高し。上への広さ畳を敷かば十ウを三も合して敷きて
る。 んとそ。此島をもて浦口の勝景とす。内海に入りて鋤瀬とて有り。
志多賀や洲藻村の農作業や祭りのことを書いた文章が目につくが、平かにして畳を敷ける如し。広き事是も五十の数は敷べし。尾崎浦
@
中に、浅海湾の島や村をめぐる記﹁浅海灘伝ヒ名所呼出﹂は、長篇 のこなた地より岩さし出て浦中をかこみて三ツ崎と呼ぶ。麦にごふ
89
@
崎の神の拝殿を設て村人の昨を上る便用とするもおかし。此岩鼻に ると、いと口おし。其時のした、り岩に残り、黒く赤き跡今に有る
90
舳綱をとり⊇螂を焚きて.賊を漁るさままた珍らし。尾崎村片灘に も尊くそ見へぬ。 城八幡の御前には石垣を築き雁木を設て是より
浦口に有が如く目印になりぬ。されど尾崎の村あり。岩続きたれば に朽果んやと、涙も落る斗也。又拝殿に入りて神宝を拝み奉るに、
して浪音しばく喧し。はるか浦の沖に馬鍬とてひとつの岩あり。 陸に上り、華表を入りて左の方に綾杉の古木朽残れり。是なん 気
カ ンイ
上へには茅生ひて馬草に刈とそ。岩白くして何レの浦よりもおのが 長足尊香椎の宮より愛に移し玉へる、万世の今に残り、又万世の後
とて浦人髪に松を植えてしるしとす。今田の浦にと悼させば、浦口 御旗の鈴二つは、実神代の形にやと驚く斗也。鉾八基有。其形是も
にひとつの島有り。志賀明神の祠を建。各鹿の角の太きは皆此社に 目に余りて覚ゆ。古鏡一面かたち八つの角ド有りて珍らし。又大鉦
に入らんとするに、黒太郎の島は黒く前に立て浦広く村遠くして浜 サ六拾斤と文字見へたり。猶御山深く登に所々の石垣崩れたる有り。
納て見物也。浦の鼻には金比羅の鳥井を見て浦深く里遠し。加志村 壱つ有り。長き銘文之内至元六年庚辰の文字有り。経り三尺斗、重
よりははるか也。島ぶりといへる灘を伝ひ行けば、犬の首とて殊に 全き有る内馬出しの跡など残りて尊し。天守に登れば表数千丈の岸
朗 長くさし出たる鼻有りて風の強きおりに船の通ひ難き所とす。愛を 壁魂ち“み、のぞむことあたわず、浅海の海原見ざる処もなく、金
過て吹崎村に入らんとするに、ヘタの島はへた長く這出て海底浅く 田原風景尤美し。帰るさ二の木戸に至れば、石枢残りて川原に生る
八 岩はなには常にしら浪を見せたり。吹崎の浦は深く村せまし。おな 木の根にしがまれたるをおがみ、又船に取り乗り、黒瀬の村に至。 8
ー じ浦の内より分れて箕形浦も深くして村いよくせまし。此浦を漕 髪も村せまし。洲藻の浜は遠干にして船の通ひに標を立たり。浜よ
ー 出るに、沖の方に明暮島とて名高き島有り。船漕寄せて見れば、こ り村には遠くはるか也。船をかへしてほそりを出、火もらいの浜伝
石なたには浜有りて平か也。表の方は北にむかひて松樹茂りたれど、ひに名に高き芋崎に掛れば、又此岩璽し出て大・にむかふな浩、
ところぐ岩崩れ落ておそろしきさま也。此島の流に小き島二つ有 浅海内船路髪をもて大切の所とするとそ。やうく漕抜けては昼力
りて風景尤奇也。二町余りなるも干汐には蹟を濡さで渡る也。又内 浦に至り、民屋議にして、榎の元トの氏神の社有。村せまく、人甚
の方は数十丈崩れたる岩の元に至るに・そなたこなたの岩の間黄く 魯也。髪の山に飯盛りとて、高く丸く黒みたる山は樹木甚茂りたる
青く或は紫萌黄さまぐの色を見せて只ならぬさま也・惣而此あたに、所々岩さし出、面白きさまたとふるに物なし。また長老島とて
り硫黄の匂ひ甚しく.嚥.びながら岩の角ド打欠きて火に入れば、燃へ 風景殊に勝れたるに、杉の一ト木生ひて有りしも、去め論る年の日
上りて明馨を焼きたるに異なる事なし。今は黒瀬の浦に入んとする でりに枯たるを、商人紅や氏二つ株を植続ぎ、猶下に螂燭を添へた
に・いわゆる鋸わきの瀬戸は岩数+丈手に立たるが如く殊更せまし・る・心ばへ憎からず。鼠嶋は太く茂りて見事也。西の方に;の大な
此辺りの礒にイ貝ハ貝の多く付きたる・船人櫓の羽のさわるを恐れる島有り。島山村と号く。茅屋議+.余り有りて、土地は広く民は
ひて奇也。むかしは酢瓶・醤油瓶とて二つなりにひとつは海に入た 聾へて四十八谷の名有。此谷々のけしき、かの飯盛山のさま、此ふ
て行過れば・そなたの岩上にかの名高き瓶は横ざまなりて・蓋も揃少く、されば此辺りの村毎に此地にのみ耕すとなん。此島の北高く
シキ
たつをもて、浅海浦諸山の称首とす。此瀬戸をジャウゴの口と呼ぶ 猶拝殿の左右は満汐にひたりて、奥の院は深山也。玉の井は浜の西
も、起る所いぶかしと船乗り入れては、竹敷村の紅葉ほとんど目を 北の方、森の内に隠れて少し隔れり。此山柚多く、秋の末には其実
マこ
驚す斗也。此里地せまく人多し。網を曳き鉤を垂いとなみとするも 色づきて山皆此木なるかと眺めて奇也とす。御名残はおけれど、暇
ほいなしと詠め、やがて樽の浜といへるに至りて、初而おもふ、此 申し、仁位の浜に至るに、浦深くして村遠く広き事いふ斗なし。実
浜の名に対して、入り口のジャウゴノロといへる名も有りやと笑ふ 浅海辺海の勝地といへるも宜也。卯麦の里はこなたの船より見やり
たらんには、時の間府下に帰るべけれど、北の方の眺めもおしけれ に行ば、名におふ二児島に至りぬ。陸地より議にはなる・といへど、
斗也。船漕出て一鼻を廻れば、大船越への船路今此出汐に瀬戸を出 て過ぎ、佐保の浦は深く遠し。貝口の村も浦深く乗入らず。灘伝ひ
ばと、小船の櫨櫓おし直し行くに、大船越の古ル里はいと古るびて、船ならで渡る事叶はぬなれ。岩二つ高く並びて、其形見事にいふべ
猶浦淋し。おとに聞へし狭瀬戸にか・りては船の通ふべくも覚束な くもあらぬさま也。小浜の砂美しと拾ひ取見れば、理りや数々の貝
く殊に狭き所は磯船を横たへて橋とすべく、海の浅きは干汐に馬渡 の損じたるが、浪にゆられ汐にもまれて長くもなりたるにてぞ有り
続 しの名有るをもてしるべし。此瀬戸をもて島山村の離れ島となれる ける。春此浜に遊び・此砂の形を撰り拾ひなば・一日の暮る、も猶
文 9
酬も・おしき事にぞと乗抜けみれば、はや大山嶽そびえておびただし。短かしとすべし。髪に続ける磯をかねぎ磯と呼ぶ。岩の両眼の及ぶ
学 誠や此国の山のすがた皆南北に広がりたるに、ひとり此山のみ東西 程はな・めに広く、又畦を立ては広狭なく筋通りて幾千万といふ数
タ
の に流れたるさま語り伝ふを眺めやり行ば、今は大山村の民家も跡に をしらず、尤奇也。此磯の砥石世に名高く、此国の名産と称する事
携 見なして行く内・西のこいでといへるに至る。愛の村小船越の名有 只此磯の宝なるべけれ。是より長く遠き灘を菅灘と呼びて・深き浦
雌るも理りさら也。議か低く短き間をもて、東西の海を入たり。猶灘半砂浜にして美景也。惣而浅海の風景春は響に宜ぐ夏は漁り
伝ひ行くま・、鞍が嶽高く見へて、濃部村に至ては狭く浦淋し。此 火に冷し。秋は紅葉に驚き、冬の朝は降り積む雪に古人魂を動かす
浦底より東への坂をトンゴウ越と呼ぶなれど、浦口より岩鼻を漕廻 といへりけり。
りて和坂村の浜に至れば、広く人家遠くして見へず。同じ並びの浦
に糸瀬村はいとも淋しくひなびたり。船やうく漕廻りて今は貝鮒 六
の浦に入る。惣而髪迫の船路を与良浅海といひ、今此貝鮒の村より
又仁位浅海と呼ぶとそ。此浦の後。に天道山高く、此山をもて此辺 新羅崔郎物語
の高山とす。麦より又一ト鼻を廻りて四十八谷の山は左に見なし、 半紙本。仮綴。写一冊。共表紙。外題左肩、直書で﹁新羅崔郎物
過行くに、今は和田津美の御前至りぬ。かたじけなくも 豊玉姫の 民館蔵。
マこ
乗入れば嵯峨の村、佐志賀の村は並びて狭し。愛もながしめにして 語﹂。内題は外題に同じ。墨付五十七丁、毎半葉十行。厳原中央公
@
華表は海にひたりて遠干の浜いとも尊し。本社はるかにたどり行ば、 本書については、中川延良の随筆﹃楽郊紀聞﹄巻十二に、
91
@
渡嶋次郎三郎殿、草双紙を好て読れけり。後に朝鮮国の崔忠伝と 著﹃朝鮮小説史﹄では、宣祖︵一五六七−一六〇七︶と仁祖︵一六
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いへる小説を訳して、新羅崔郎物語と名を付て、一冊あり。今、 二三−一六四九︶の間に勃興した小説群の中の一つとして﹃崔致遠
渡嶋が家には失ひし由なり。王母御話。 伝﹄の名であげ、﹁すぐれた作品﹂と見ている。寓目した﹃崔忠伝﹄
と記されている。朝鮮の小説﹃崔忠伝﹄の翻訳で、訳者は渡嶋次郎 は、東洋文庫蔵、高宗の二十年︵一八八三︶刊のものであるが、ハ
三郎という。同書巻二には、渡嶋次郎三郎について、 ングルに適宜漢字をあてた文章で書かれている。
渡嶋次郎三郎親保 我王母の御父也。宝暦信聰の時、大通詞にて ﹃崔忠伝﹄の内容は、崔忠の子崔致遠は、本来仙界の人で、ある
御供あり⋮⋮ 過失のため人間界に生まれたが,仙官や仙女の助けによって成長し、
とあって、明和元年、第十代将軍家治の襲職の折の朝鮮通信使の際 中原︵中国︶の皇帝が、新羅に対して課す難題を解き、中国に赴い
には、通訳を勤めたことが知られ、﹁草双紙を好﹂んだことと相 ては、中国皇帝の課すさまざまな難関をしのいで、新羅へ帰り、仙
侯って、この翻訳書があることを首肯させるに十分であろう。 界へ入るという怪異、神仙課的な趣きの濃いものである。
朗 なお、渡嶋家のことは、やはり﹃楽郊紀聞﹄巻五に、渡嶋卯介と 崔致遠は、九世紀の人で、官吏、文人。唐に行き、科挙に合格し
いう人物の割注に、 て、その地で官吏になり、文名を得、一時新羅に帰り、遣唐使とし
ペ
ノ 父は与次兵衛と云、早く死す。祖父は治平、親昌、初半介。弘化 て再度入唐したが、新羅へ帰ってからは官途につかず、名勝の地を 0
1
ー 三年丙午正月死、七十八歳。嫡孫承祖也。曽祖父次右衛門、其父 訪ねて暮らしたという。著書に﹃四六集﹄﹃桂苑筆耕﹄等がある。
次郎三郎親保、吾王母の父君也。其父に当りし人より渡嶋の名跡 以下に簡単な梗概を付す。
石 を継ぐ。其前は畑原氏也とそ。 梗概 新羅の時代に、宰相の末商に崔忠という者がいて、文昌県の
とあり、渡嶋次郎三郎は、親保といい、中川延良の先祖でもあった 県令になって赴任した。その妻が金猪にさらわれる。崔忠は助けに
らしい。今、略系図で示すと、 行くが、妻は金猪からその弱点を聞き出し、金猪を殺してのがれる。
渡嶋次郎三郎親保掠右衛門治平親..与次兵衛卯介竃鷲韓搾顯竃恒鷲擁㌶
この時、妻は懐胎しており、それから六月後に男子を出産。崔忠
中川五郎右衛門 見せる。捨てられた子供は、仙女や鳳風、鷲鶴が天から下りて来て
一T四郎治︵養子︶四郎五郎延良の死んだのを見て、天という天の字なりと言、つなど、垂端を
育てる。この子供が崔致遠である。崔忠は、致遠を家に連れ帰ろう
伝記作品の一つとしてあげられており︵﹃朝鮮文化史﹄下︶、金台俊 らって住み、仙官数十人により﹁学問と惣ての神異なる事﹂を教え
﹃崔忠伝﹄は、李朝の十七世紀に書かれた多くの国文による将帥 とするが、致遠はきかず、月影台や望景楼などの建物を建てても
られる。 おかしきゆへ、我も斯こそ答たりLといふを聞、文士弥奇特にお
崔致遠が十一歳の時、中国の皇帝が文士を派遣して、その才操を もひ、問ひ申されしは、﹁汝年幾つにて何地の人の子なるぞ﹂。其
見届けさせる。以下、この部分は、翻訳文を示してみる。 子答て云ふ様、﹁われは時に十一歳、文昌県崔忠と云ふ者の子な
此時中原皇帝後園にて月を詠めておわせしが、遠方より読書の るが、たまく見物の為愛に来りし処に、思わずに日暮、此処に
声忽然として聞へけるを、皇帝臣下に問て﹁此声何国よりの声な 居たり。文士手を打、あの幼き子だにも才智あの如くなれば、必
るや﹂。諸臣奏して日﹁去年より月だにさへければ読書の声風の ず此国には文匠の才士多かりなん。早く帰らんにはしかじと、船
内に隠くと聞へしが、新羅の地より読し﹂となり。皇帝奇特に に樟し中原へそ帰りける。
思召、小国に如何なれば神異成る才智の者ありやと感じさせたま 中国の皇帝は、新羅は才士が多いので、自分を軽んじるのだと
ひ、翌日朝会に命令下り、儒者の内勝れたる者を二一二人選出し、 いって、新羅に難問を課して罰しようとする。難問とは、石の箱の
新羅国に差向、稽才を見届け来れと有しかば、中原の名士仰を蒙 中に鶏卵を綿に包んで入れ、それを銅で包み黄蜜ですき間をふさい
続 り・早速船に乗り、新羅国に趣しに、程なく文昌の地に至りけれ だものを見せて、中のものをあてて、詩を作れというものである。
酬ば、幼少の子天ムロに座し書を読居けるを、中原の文士船をムロの崔郎︵致遠︶は、文・日県から京城へ赴き、鏡研ぎになって、宰相
学 下に着て呼んで問けるは、﹁そなた詩作を能するや﹂。其子答えて である羅業の邸に入り、奴として働く。新羅の王は、羅業に難問を
㎎﹁人として争か詩作を致すまじきや﹂と云・中原の文士申けるは、解くように命じ・失敗したら九族を罰するという・崔郎は・羅業のu
ヌ
据 ﹁そなたと詩の問答を致ん為来りたり﹂と云ひければ、此子答て 娘羅小姐の乳母に自分が難問の答を知っていることをほのめかし、
雌.先キに作り給は、其答を致ん﹂と申けるゆへ、文士忽詩を作り羅小姐との結婚を望む。羅業ははじめ承知しないが、結局はやむな
ける。其詩に日﹁樟穿波底月﹂と云ひければ、其童子直に和答し く許す。崔郎は小姐と結婚し、難問を解く。
けるは﹁舟は︵圧す︶水中の天を﹂と作りけるに、中原の文士驚 中国の皇帝は、難問を解いた文士に中国に来るように命じ、崔郎
き、又其才を試んと、﹁水の鳥は浮んで又没す﹂と作りければ、 は中国へ行く。途中、龍王の子李牧との交渉が種々描かれるが、そ
其子答えて、﹁山の雲は絶へて又連る・﹂と作りけり。中原の文 こで崔郎は、自分はもと玉皇香案前に仕えた仙官であったが、ある
士扱は詩にては勝事成るまじければ、﹁いざ詞を以て論ぜん﹂と 失敗のため人間に生まれたと語る。崔郎に好意的な龍王の命で、李
又申しされけるは、﹁雀と鼠は何とてしゅくくと鳴きけるや﹂。 牧は崔郎を守って海上を送るが、崔郎は李牧と別れたあと、一老翁
其子答へけるは、﹁猪と犬は何しにぼうくと鳴くそ﹂といひし に会い、中国に入ったら災害が身にかかるので、これから五日後に
に、其文士云ひけるは、﹁汝が言葉あやまれり。犬はぼうくと 逢う仙女に、それを避ける方法を教えてもらうよう指示される。中
吠る事尤なれ共、猪のぼうくと吠る事あるまじ﹂。童子笑て云 国の皇帝は、宮廷の関門ごとに仕掛けをして、崔郎を害しようとす
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@ ひけるは,﹁雀はしゅくくと鳴く事何国にか有る。そなたの言 るが、さきの仙女の教えにより難をのがれる。
@
皇帝は、崔郎を毒殺しようとしてはたさず、三年余も帆柱の上に である。このように考えると、以上紹介した文学資料は、近世の対
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上げておいたり、三年間無人島に流したりするが、崔郎は死なず、 馬らしい文化のあり方を示しているように思われる。 ‘
皇帝は、崔郎は誠に凡人にあらず、奇妙の天人なりと認め、花冠と 本稿は、昭和六十一年度明専会80奨学金による研究の成果である。
玉帯を与え、位を授ける。
崔郎は、皇帝に乞うて新羅に帰り、新羅の王にまみえて、これま 注
ナの次第を言上、それから霜墾の邸へ帰ると、宰相夫妻はすで二雛羅鐸纏洋文庫︶によ発同書については・以下同
に亡く、妻の羅小姐も、老いて白髪頭になっていたので、仙薬を与 じ。
た.伽耶山に入・たといわれる. 羨轄報儲竃めて誘斎
えて若がえらせ、崔郎夫妻は親族に家財を残して行方しれずになっ 三 誘斎の句は、万延元年刊﹃花供養﹄に、
正徳年中︵一五〇六−二一︶、木樵が伽耶山中に入って、ひとり 元治二年刊﹃花供養﹄に、
八な崔郎の姿が現われて消えてしまっな なお・資料の璽にあたっては・私に撃を正し片仮名を平酩
朗 の文士が僧と碁をうっていたのを見て時を過ごして下山したら三年 浜の子が籟てす.・しや木賊笛 誘斎
経っていた。再び伽耶山中に入って祭りをすると、まぼろしのよう の句が見える。
石以上紹介した三つの資料は・江戸時代の対馬藩の藩士の手になるお世話になりました厳原中央公民館に御礼申し上げま玄
川 仮名に改め、濁点を付した部分がある。
七
作品である。岩崎清御は、江戸、長崎、釜山と、藩の外での活動の
多かった人であり、倉掛椎下は、藩内で勤務した人であるらしい。
また、渡嶋親保は、明和元年の信騎の折は、通事を勤めた朝鮮語通
落葉﹂には、俳譜や狂歌、文人画や花道が、江戸に出た人々によっ
であった。それぞれ異なるタイプを代表するかのようである。﹁庭
て、対馬へ持ち帰られていることが記されている。﹁やたら漬﹂に、
対馬の風物や生活を叙述する姿勢があり、規模は小さいが、﹃楽郊
紀聞﹄などと共通の目を見出すことができる。﹃新羅崔郎物語﹄は、
朝鮮との直接の接触を持った対馬藩にしてはじめて生まれ得たもの