●「建築と左官」/ 23. 明治以後の民衆建築の変遷(40) よる実業補習学校規程は、 「徒弟学校ハ の土をこねて」によると、当時の工業 職工タルニ必要ナル教科ヲ授クル所ト 学校での左官授業内容は、 『まず塑像の ス」 (規程第1条)に始まる純然たる職工 デッサンから始まり、次に先生が作っ 養成をねらいとしたものである。 た手本である塑像の基本模様とされて いるアカンサスの葉などをコピーす ②左官の職人の管理者育成である る。さらに、粘土や油土で原型を作り 東京府實科工業学校左官科 石膏の型取りを教えてもらった。自分 でテーマを決め、デッサンしたものに 徒弟教育に関する法制化により創設 漆喰や粘土で仕上げるまでに、3年ぐら された徒弟学校は、明治23( 1890)年 いかかった。入学当初40名ぐらいの生 2月18日に開校した、東京府による「東 徒がいるが、卒業できるものは5~6名 京府職工学校」で、本所区本所林町1番 になってしまう。授業は夜間中心で週 地76( 現:墨田区菊川1丁目)にあり、 三回の月・水が漆喰彫刻、金曜日が児 『工業教育ここに始まる』とある。職 島で、粘土や油土を使った彫塑の原型 工学校の変遷は、明治34( 1959)年に 造り、石膏の型取りであった。 』 とある。 「東京府立職工学校」と改称し、明治35 藤井が経験してきた学校は、建築家ま 三寒四温の季節、皆様お変わりなくお過ご (1960)年に附属工業補習夜学校を設け たは彫刻家と左官職人の中間にたつ、 しでしょうか。引き続き、明治中期からの ている。 大正9( 1920)年には、 「 束京府 中堅左官職人の養成機関でもあった。 技能者教育について見ていきます。 (編集部) 立實科工業学校」ならびに「併設工業補 習学校」と改称した。公的教育機関と ③東京府實科工業学校左官科の関係者 3.6.3 西洋建築を支えた して初めて夜間部の左官彫塑科が開設 左官装飾の中間技能者教育 され、講師に上野美術学校の児島矩一 東京府實科工業学校左官科は、建築 が迎え入れられた。左官彫塑科の教育 家あるいは現場管理者と左官職人の中 目的として 「左官、煉瓦科は建築の事、 間的管理者として育成されてきた。そ 製図の見積りの事から鉄筋混凝土、 の関係者および卒業生は、その後の左 前回までエリート建築家のもとで建 テーラカッタ、人造石、モザイク等の 官業界の指導的立場となり日左連等で 築工事に携わる技術者の育成に関して 工事も受け、石膏漆喰で模様などを造 も活躍することになる。 工手学校の存在について記載してき り上げる仕事までも一々実地に就いて た。それでは、現場の技術者と職人と 教え」と示している。 ③−1 時田亀蔵 の間を埋める技能者の存在はどの様な 左官の講師は東京府壁職業組合から 時田亀蔵は吉田亀五郎の弟子で「五 ものであったのだろうか。現在でいえ 派遣された時田亀蔵であったが、高齢 井亀」とも呼ばれ、四半鏝一つで漆喰 ば、専門職の職長、基幹技能者という になったため、 「 東京府壁職業組合」か 壁を塗り上げるほどの名人であった。 存在とその教育方法である。特に明治 ら組織改名のあった「東京左官工業組 東京府立実科工業学校左官彫塑科教師 からの国家政策である、国家の存在を 合」 ( 現在の東京都左官協同組合)の推 になり、著書に「建築模様左官彫刻図 威厳のあるものにするために、建築を 薦により、時田の後を受け継ぎ中西由 案」がある。代表作品に平和記念博覧 装飾することに重きが置かれた時代で 造が講師となった。さらに左官彫塑科 会外国館の正面浮き彫りがある。 もあった。 の生徒であった藤井平太郎が、中西の なお、時田亀蔵に関しては、大正期 明治政府の殖産興業策の一環として 後の講師を勤めるようになる。 の青森県における唯一の県立工業学校 生み出された徒弟学校は、明治26 (1893) 藤井平太郎は、書名を「先祖代々江 であった青森県立工業学校の「工業伝 年の徒弟教育に関する法制化で創設さ 戸の土をこねて」 ( 黒潮社発行)とする 習」の実態を明らかにした、竹村俊哉 れている。徒弟教育に関する法制化に 自叙伝を発刊している。 「先祖代々江戸 著の「大正期における実業学校の地域 ①概要 No.462 2015 年 2 月号 23
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