弥生 2 弥生文化 (B.C.4 世紀頃~A.D.3 世紀頃) 1 紀元前 5 世紀以降、中国大陸や朝鮮半島から多くの渡来した人々がいた。 ポイント➡ 稲作 と 金属器 と 土器の改良 ⑴ 水稲稲作 の伝来( 北九州 では縄文晩期から) ㊟板付・菜畑遺跡 ➡北海道: 続縄文 文化 沖縄 : 貝塚 文化 ⓐ 湿田 ・ 乾田 の開発 き すき ⓑ ⓒ ⓓ ⓔ 木製農具 (木鍬・木 鋤 ・ 田下駄 など)の使用 鉄製工具・木製農具の製作 木臼・竪杵 石包丁 (稲穂をつむ磨製石器)で 穂首刈り と鉄鎌を用いた根刈り 高床倉庫 などに貯蔵 ➥ 登呂遺跡 (静岡県)など ☈稲作 水稲耕作の始まりは、縄文晩期、北九州ではじまった。このあと西日本から東日本へと広まっていく(沖縄と北海 道に伝わらない)。稲は 湿田 あるいは乾田と呼ばれる水田に直播きか田植えをして、秋にコメが実ると、 石包 丁 や鉄鎌で収穫し、収穫後の籾は、湿気やネズミから守るために 高床倉庫 に貯蔵された。 弥生土器・石器 金属器 (鉄器・青銅器)の伝来 ☛頻出 ⓐ 鉄器 ➡実用品・農具・武器として普及 ⓑ 青銅器 ➡ 銅鐸 (近畿地方) ・ 平型銅剣 (瀬 戸内海中部) ⑵ どうほこ 銅矛 貯蔵→ 煮炊き→ 盛り付け→ どうか ・ 銅戈 (九州北部)➾ 蒸す→ 儀礼・祭祀用具 壺 ① 甕 ② 高杯 ③ 甑 ④ 湿地での作業→ 田下駄 ⑤ 耕す→ 木鍬・ 木鍬・木鋤 ⑥ 加茂岩倉遺跡(島根)39 個の銅鐸、 荒神谷遺跡 (島 根)銅剣 358 本、銅鐸 6 本、と銅矛 16 本が出土。出雲地域 は畿内の銅鐸と北部九州の銅矛という二種の祭器を持つ勢 力からの友好の誘いかけを受け、両者を睨みながらキャス ティングボードを握る力を持っていたのだ。邪馬台国誕生前夜の政治的緊張が高まっていたといえよう。 ☈弥生時代初期からあった争い 初期は地理的に近い範囲の争いであったが、中期になると 百余国に分かれて争いがあった。手がかりは、弥生時代には祭 りの道具として、象徴化された武器や楽器が使われますが、北 部九州では、銅矛と銅戈、瀬戸内海東部沿岸では平形銅剣、畿 内と東海では銅鐸、出雲地方では中細形銅剣が祭器として使用 されました。祭器は実用ではなく、戦いを象徴するものであり、 果敢な戦いによって領地を拡大してくれた先祖や英雄をたた え、集団の繁栄を祈願する呪具と考えられる。 『古代国家はいつ成立したか』都出比呂志著 岩波新書 25 ㌻ は この時代、日本に金属器(鉄器・青銅器)が伝わった。 利器(実用品)で 利器(実用品) 青銅器 は 祭器 に使用された。使い分けに注意。 鉄器 ☈卑弥呼登場前夜の争い 「魏志倭人伝」は弥生時代中期からの状況を記述していますが、 実は弥生時代は、 「魏志倭人伝」に記録される前の弥生時代前期か 銅鐸 42 古根春香 ら、戦いが始まっていたことが考古学研究によって明らかになってきました。紫雲出山遺跡の石鏃(香 川)→大型化。 弥生土器( ⑶ 赤褐色 ・ 薄手 )の使用 たかつき ・貯蔵用の壺・煮炊き用の甕・盛りつけ用の高 高杯 ☈弥生土器・鉄器のポイント 弥生土器は高温で焼かれ 赤褐色で薄手で硬い だ。壺 壺(貯蔵用) ・甕 甕(煮炊き用) ・高杯 高杯(盛りつけ 高杯 用)と、種類も豊富になった。鉄器と青銅器は、ほぼ同時期に日本に伝わった。ポイントは、鉄器は 武 器 ・農工具で、 青銅器 は 祭器 に使用されていること。 ⑷ 首長の墓: 貧富差 ・ 身分差 の発生 甕棺墓 ・朝鮮系の 支石墓 (九州北部中心) ➡頻出 支石墓は弥生時代、縄文ではない ⓑ 方形周溝墓 (近畿中心に各地)・墳丘墓 墳丘墓 ⓐ ☈弥生時代の墳丘墓 北九州に 甕棺墓 や朝鮮系の 支石墓 、墳丘のまわりに溝をめぐらした 方形周溝墓 が各地につく られ、特定の墓から銅鏡などの副葬品が発見されることから、この時代に権力者が生まれ、 身分の差 が発生したことがわかる。リーダーの墓は、弥生時代中期末から独立し始め、終末期には共同墓地から 隔絶した丘陵の高みに築かれる。吉野ヶ里遺跡(佐賀)では、大きな墳丘墓が見つかり、墳丘中には数 基の甕棺が埋められ甕棺の中には青銅の短剣や装身具が副葬されていた。 『古代国家はいつ成立したか』都出比呂志著 ⑸ ⓐ 集落の防衛:軍事的・自衛的な集落 環濠集落 ➡ 吉野ヶ里 遺跡など(九州~関東 周囲に大規模な濠) ex.大塚遺跡[神奈川] しうでやま ⓑ 高地性集落 ➡見張り・避難所(瀬戸内~近畿の山頂・丘陵上) ex.紫雲出山遺跡[香川] ☈環濠集落 他集団の攻撃から村を守るために、村のまわりに濠がめぐらされている、これを 環濠集落 という。 吉野ヶ里 遺跡(佐賀)や 唐古 ・ 鍵 遺跡(奈良県)はおさえておきたい。 ☶論述研究 2009 年度 筑波大 その 1 【Ⅰ】縄文時代から古墳時代に及ぶ社会の変化について、次のア~エの語句を用いて、400 字以内で論 述せよ。解答文中、これらの語句には下線を付せ。ただし、語句使用の順序は自由とする。 ア 前方後円墳 イ 屈 葬 ウ 群集墳 エ 伸展葬 指定されている語句は、すべて埋葬形態であるが、あくまで問われているのは社会の変化である。墓制の説 明ではない。墓制から読み取れる社会の様子を記さなければならない。これは教科書のそれぞれの語句の周囲 の記述をまとめれば書ける。 逆に書きたいことがたくさんあって400字に削る方が難しいのではないか。<野澤の解答例> 縄文時代にはアニミズムが信じられ、屈葬が行われた。副葬品はなく、採集経済であり身分や貧富の差はなかっ た。弥生時代になると甕棺などに伸展葬されるようになる。副葬品から農耕社会の成立とともに階級が生じたと考 えられる。蓄積された富を巡って戦いが始まり、環濠集落等が形成され、各地にクニとよばれる政治的なまとまり が分立した。3世紀になると前方後円墳が作られるようになる。これは各地の首長たちの共通の墓制として作りだ されたもので、古墳の出現に先立ち広域の政治連合が形成されていたと考えられる。5世紀になると前方後円墳 は巨大化し全国に築かれ、ヤマト政権の支配領域が東日本へも拡大したことがわかる。副葬品から首長の性格 が、司祭者的から武人的に変化したことがうかがえる。6世紀になると有力農民によって群集墳が築かれるように なる。これは政権が、新たに台頭してきた有力農民層を、直接支配下におこうとしたためと考えられる。 (400 字)
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