絵 が 描 えが かれた 土器 - 長浜市

た
え
絵が描かれた土器
まつりに使われた
ど き
土器なのよ。
い
えが
せ
き
※人物部分を拡大
か も た い せ き
や よ い じ だ い
い せき
しゅうらく
鴨田遺跡は長浜市の南西部にある弥生時代を中心とした遺跡です。集落全
ぼうぎょ
ほり
かんごうしゅうらく
体を防御のために濠で囲んだ「環濠集落」の一つです。
ど
き
たいりょう
もくせいひん
しゅつど
ち い き
たくさんの土器のほか、大量の木製品も出土しました。土器には他の地域のも
ふく
のも多く含まれており、遠い場所の人々とも交流を持っていたことがわかりま
す。
か い が も ん ど き
りゅう
えが
「 絵 画 文 土 器 」 に は 人 物 の ほ か 、 龍 や 魚 と も 見 て 取 れ る 絵 が 描 か れ て お り 、 水
かんれん
そうぞう
に関連したまつりに使われたことが想像できます。
長浜市の遺跡 7
長浜市大戌亥町
やよいじだい
も
長浜市加納町
平成 15 年 8 月27日指定
弥生時代(2300年前~1800年前)
か
鴨田遺跡
国指定史跡
絵画文土器
や
よ
い
じ
だ
い
し ゅ う こ う ぼ
弥生時代の周溝墓
あと
鴨田遺跡からは集落跡以外に
はか
も弥生時代の有力者の墓である
しゅうこうぼ
周溝墓も発見されました。
みぞ
左の写真では、四角形の溝を
ほうけいしゅうこうぼ
もつ墓である「方形周溝墓」と
ぜんぽうこうえんふん
前方後円墳の古いかたちである
ぜんぽうこうえんけいしゅうこうぼ
「前方後円形周溝墓」の形がよく
わかります。
とりがたもくせいひん
まつりの木製品
左の写真の「鳥形木製品」は、
まつりに使われたものと考えら
れています。鳥はまつりと深く
かか
ねが
関わっており、豊作を願うもの
たましい
という説や、亡くなった人の 魂
を運ぶという説があります。
下の「サシバ形木製品」は、
「さ
しば」という身分の高い人の顔
かく
を隠すために用いられた道具を
こうき
かたどったものであり、高貴の
しょうちょう
鳥形木製品
象 徴 であると言われています。
けん
このほかにも剣や刀をかた
どった木製品などが出土してい
サシバ型木製品
ムラでまつりを
おこなっていたの。
ます。
様々な道具
鴨田遺跡からは様々な木製品が出土しました。色々な仕事にあわせ、多くの道具を使い分け
ていたことがわかります。
くわ
どろ よ
鍬の泥除け
くわ
はさき
鍬の刃先
くわ
え
鍬の柄の部分
田んぼなどをならすエブリ
すき
鋤(シャベル)
あみ
魚をとる網の枠
木でできた道具を
使っていたの。
ま
糸巻き
わら
たた
つち
藁などを叩く槌
火おこしの道具
やよいじだい
コラ
弥生時代とは?
ム
とくちょう
やよいじだい
弥生時代とは、今から約 2300 年前から約 1800 年
弥生時代の特徴
いなさく
の、稲 作が大陸から伝わって広まった時代のことで
す。
ひかくてき
稲作を始めたことによりたくさんの食料を比 較的
安定して得られるようになりました。
ていじゅう
しゅうらく
その結果、定 住し集 落は大きくなりました。また
いなさく
稲作の開始
せい び
田んぼの整 備 などのためにリーダーの役割を果たす
人が必要となったことでしょう。
ほり
さく
ぼうぎょ
弥生時代の集落は濠や柵などで防御された
かんごうしゅうらく
「環濠集落」が代表的です。米づくりに必要な土地や
た
水のため集落同士の争いが絶 えなかったことを示し
かんごうしゅうらく
環 濠集 落
ています。
きんぞくせいひん
弥生時代には金 属製品の使用が始まりました。主
せいどうき
ぶ
き
せきふ
石斧
てっき
にまつりには青 銅器が、道具や武 器として鉄 器が使
き ちょう
用されました。金属器はとても貴 重であったので石
器も同時に使われ続けました。
どうたく
銅鐸
てっぷ
鉄斧
石器と金属器の使用
余呉
木之本
西浅井
高月
浅井
湖北
虎姫
びわ
長浜
旧町配置図
●
交通アクセス
公共機関 : JR 北陸本線 「長浜駅」 下車、 近江鉄道バス 「市立長浜病院」 下車すぐ 車 : 国道8号線沿い 「市立長浜病院」 付近 ●
お問い合せ
長浜市文化財保護センター
〒 526-0802 滋賀県長浜市東上坂町 981 TEL 0749-64-0395
なが は ま し ぶん か ざい ほ
ご
平成 25 年 11 月発行
発行 : 長浜市教育委員会
制作 : 橋本技術株式会社