Untitled - 吉野ヶ里歴史公園

【目次】
1
邪馬台国の基礎知識
■邪馬台国九州説
学校法人旭学園
理事長
高島忠平氏・・・1
■邪馬台国近畿説
香芝市二上山博物館名誉館長・兵庫県立考古博物館名誉館長
2
石野博信氏・・・7
歴史バトル
「邪馬台国はどこだ?」
九州説
■「邪馬台国は九州だ!」派
VS
近畿説
(会場:国営吉野ヶ里歴史公園)
高島忠平氏
関家敏正氏
全国邪馬台国連絡協議会理事
九州地区代表
河村哲夫氏
全国邪馬台国連絡協議会理事
歴史作家
杉岡貴之氏
吉野ヶ里公園管理センター
■「邪馬台国は近畿だ!」派
(会場:国営飛鳥歴史公園)
石野博信氏
西川寿勝氏
大阪府教育委員会文化財保護課
熊倉房明氏
高槻市立今城塚古代歴史館
麻殖生剛一氏
3
参考資料
古代を偲ぶ会
考古グループ
会長
『三国志』魏書東夷伝倭人の条
『魏志倭人伝』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一
~
三
「邪馬台国九州説」
学校法人旭学園理事長
高島忠平
「倭人伝」が示す九州説の根拠
1、邪馬台国論争と倭人社会
邪馬台国は、すぐれて「魏志倭人伝」を中心とした文献の解釈・理解の問題であると同
時に、日本古代国家(8世紀に確立した律令国家)の成立過程を、どのように見とおすか
の日本古代史上の問題でもある。この二つ論点を抜きには、邪馬台国論は成立しない。
古代史上の論争としては、邪馬台国や卑弥呼の「政権」が、後のヤマト王権つまり古代
律令国家の主体に直接結びついていくものなのか(近畿説)、或いは結びつかずに各地に、
ツクシ・キビ・イヅモ・ヤマトなど地域国家(王国)成立し、その間の抗争を経て、最終
的にヤマトが古代国家成立の覇権を握ったとするのか(九州説)
、大きく二つの論に分かれ
る。三世紀の列島社会の政治状況が近畿説と九州説とではまったく異なり、両説は古代史
論争上の対極にあるといえる。
2、倭人社会には、卑弥呼の統治の及ばない倭人がいる。
そこで、女王卑弥呼の政権は、三世紀当時、列島社会どのくらいの地域を統括していた
のであろうか、
「魏志倭人伝」は、倭人の棲息状況の記述を素直に読めば、女王卑弥呼の政
権の及ぶ地域が、倭人社会全体にではなく限定的なものであることがよく理解できる。
卑弥呼は、魏の皇帝から「親魏倭王」称号を得たが、北部九州に存在した国々をはじめ
二十九の国の地域を統括する倭王に過ぎない。「魏志倭人伝」は、女王国に属する二十九国
以外の地域にも倭人がいることを記している。まず、
「対馬、一大、末路、伊都、奴、投馬、
邪馬台」など二十九国からなる女王卑弥呼政権が統括する地域、「女王国の南狗奴国有り、
女王に属さず。
・・狗奴国男王卑弥呼弓呼、素より和せず相攻伐・・」の地域、そして「女
王国の東海を渡る千余里、皆倭種、国々をつくる」地域と、倭人は少なくとも三つのグル
ープに分けて倭人社会を捉えている。したがって、卑弥呼が倭王として在位した時代は、
少なくとも先述の三つの地域の倭人社会を統一する倭王権は存在していない。しかも狗奴
国とは、もともと相攻撃する仇敵の間柄である。狗奴国王を僭称する男王卑弥弓呼は、女
王卑弥呼とは、対等に倭王権を争う一方の政治勢力を構成していたと考えられる。三世紀、
邪馬台国の時代というのは、列島各地に小「国」が生成し、それらが一定連合し政治勢力
を構成、さらに「国」連合勢力間で、次代のより広域的な政治勢力の再編成、広域に及ぶ
王権の成立に向けての「相攻伐」の世紀であったと考えるのが自然である。邪馬台国時代
1
の後、四・五世紀を中心に各地に、多くの国々を包摂した王権によるキビ、イヅモ、ツク
シ、ヤマト、ケヌといった地域王国が成立してくるのである。また最近、弥生時代後半期、
列島各地に独自の王権の生成や政治勢力の存在を示す地域独特の集落形成、墳墓や祭祀の
状況が考古学において明らかになってきている。これらは列島における王権の生成が多
様・多元であったことを示しており、邪馬台国は、北部九州にあった女王国連合の有力な
「国」の一つと考えるのが合理的である。
考古学的に見た邪馬台国の条件
1、「国」成立の状況が明らかでなければならない。
当時の「国」の実態は、律令期および現在の郡にほぼ対応し、弥生時代の「国」は律令
国家の構成単位に繋がっていく。
末盧・伊都・奴国の各弥生時代集落・墳墓、古墳時代の首長墓である前方後円墳、律令
期の地方豪族の建立した寺院遺跡などのまとまりからみると、北部九州だけでも約四十の
国が存在する。
現在の北海道・東北大部分・沖縄を除く列島各地には、弥生時代の特色である戦闘施設
である環濠・環壕集落が分布する。この共通性が強く、互いの攻防・交通が想定地域が倭
人の棲息地域である。弥生時代後期(二・三世紀)にはこれらの地域に、国または国への
発展途上の地域が数百はあった。
卑弥呼が統括した国は、三十である。北部九州域の国々で充分にまかなえる。三十国が
「近畿邪馬台国」を中心に存在するとした場合、列島に存在する数百の「国々」の中に拡
散してしまい、こうした地域の弥生時代遺跡の存在、まとまりと合わなくなる。倭人社会
を、三十国のうちで限定できない以上、卑弥呼の三十国は、邪馬台国をはじめ各国は、北
部九州という地域で考えるのが自然である。
2、卑弥呼の館、都は環壕集落でなければならない。
魏志倭人伝に卑弥呼の都するところとして「居所、宮室、楼観、城柵を厳重に設け、武
器をもった人がまもっている」とある。
「卑弥呼の都(説文解説)
」は、記述と符合する、
城柵(土塁と柵)が確認できる吉野ヶ里など北部九州の環濠集落のことをさしている。北部九
州の環壕集落は、縄文時代晩期に地域の草分け集落として出発し、その集落が、弥生時代
を通して、徐々に「国」の拠点集落として発達していく様子が明らかとなっている。
2
3、卑弥呼が都する邪馬台国は、国際性が豊かであらねばならない。
北部九州の弥生時代後期後半の遺跡からは、日本列島各地はもとより、中国・朝鮮半島
の文物や影響をうけた遺構が顕著である。後漢系の鏡、貨泉・権(天秤ばかりの錘)、大量多
種の鉄器・漢式土器や中国城郭の形をうけた環濠集落や市などの遺構が存在する。特に鉄
製品は、鉄素材を朝鮮半島南部に求めていることが、『東夷伝』中の「弁韓の条」にある。
鉄は中国の出先帯方郡、朝鮮半島各地、倭人が求め、貨幣のように使用される当時の政治
経済の重要な戦略的物資である。これが、近畿も鉄の時代に入っているが、当時の鉄をは
じめとした物資の流通システムは、九州から山陰が主流であり、近畿はその枠外にあった。
倭王権による対外交易は中国王朝や韓との朝貢交易権の独占である。伊都国の津における
朝貢交易物資の「捜露」はそのことを物語っている。近畿邪馬台国論の一説「纏向遺跡」
では、大陸系の文物の出土が貧弱で、中国・朝鮮半島とは当然交流が盛んであった邪馬台
国があったにしては国際性に欠ける。
4、卑弥呼のような巫女王の出現過程が考古学的に説明できねばならない。
卑弥呼は、三十国によって共立され優れた霊能力をもったシャーマンの王である。北部
九州では、墓から、弥生時代中期初頭(紀元前 2 世紀後半)に一定の社会的地位をもった巫女
が出現し、政治的に成長する過程が考古学的に読み取れる。紀元前1世紀末には世俗的
権威と聖体的権威とによる「国」統治の政治形態が築かれる。やがて、弥生時代後期後半(紀
元2・3 世紀)には、複数・数十の国々に聖的王権を及ぼす巫女王が出現する(大量の破鏡の
呪詛で、霊力を封じ込められた強大な権威をもつ人物の墓-平原遺跡)。北部九州以外の地
域では、卑弥呼のような巫女王が出現する過程が考古学的に追うことができない。巫女卑
弥呼の託宣の国際的情報は、当時の国際港のある伊都国か北部九州沿岸諸国でしか得られ
ない。卑弥呼は、この地域の「国」に出自をもつと考えたい。
邪馬台国時代の環壕集落は吉野ヶ里遺跡をはじめ北部九州の遺跡
魏志倭人伝の記述と吉野ケ里遺跡をはじめ北部九州の環壕集落が符号するということは、
邪馬台国の所在地は勿論のこと、遺跡や土器の年代をも示しており、議論のある邪馬台国
論争に関わる遺跡・遺構・遺物の年代を決定する有力な根拠であり、邪馬台国近畿説の多
くに登場する遺跡・遺構・遺物の年代観が崩れることになる
北部九州の弥生時代後期に筑紫平野一帯に発達する多くの環壕集落跡群の展開は、まさ
に、魏志倭人伝に見られる邪馬台国をはじめ三十近い「国々」の存在や攻防を反映したも
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のである。近畿地方には、邪馬台国時代から古墳時代にかけてこの種の環壕集落跡は存在
しない。纏向遺跡の中核は、邪馬台国時代のものではなく、4世紀以降のものである。共
伴する土器の年代は、邪馬台国や「卑弥呼が纏向遺跡に居た」とする固い想念で邪馬台国
時代と創造されたものである。ある一部の人が「卑弥呼の墓」とする箸中古墳の周濠から
出土した鐙(日本では5世紀以降、中国・朝鮮半島でも騎馬戦の発達とともに4世紀後半以
降採用された)の年代とは大きく隔たりがあり、矛盾する。
近畿地方の代表的な集落である奈良県唐古・鍵遺跡の環濠は、水濠で城柵とはならない
し、纏向遺跡の大型建物を囲む柵は、土塁を伴わない。したがって、魏志倭人伝の「卑弥
呼の都する邪馬台国」は、この時期に環壕集落が発達する北部九州にあったとするのが、
遺跡考古学からして妥当である。
卑弥呼の鏡と墓はどこにあるのか?
1、卑弥呼の鏡
卑弥呼の鏡は、内行花文鏡・方格規矩鏡・獣首鏡・位至三公鏡など後漢の官営工房で製
作された鏡の系統の鏡である。これらの鏡は北部九州を中心に出土する。魏志倭人伝にあ
る魏の皇帝が卑弥呼に与えた詔書には、銅鏡百枚を与えたとある。この種の鏡は、多くは
北部九州の甕棺墓・石棺墓・土抗墓から副葬品として出土するが、呪封の破鏡として或い
は住居跡など集落跡から出土する北部九州には弥生時代後期の普遍的にある中国鏡である。
邪馬台国近畿説が卑弥呼の鏡の主流とする三角縁神獣鏡・画文帯神獣鏡など神獣鏡は、中
国南方の三国のひとつ呉国で製作され利用されたもので、魏国のある中国北方では、僅か
しかない。魏国の鏡は先述の後漢鏡に系譜を引くものであることが、中国の鏡の研究で明
らかで、中国の研究者も魏帝が卑弥呼に与えた鏡は、後漢鏡系の鏡であるとしている。特
に三角縁神獣鏡は、日本のみで出土するもので、中国では一面も出土していない。景初三
年など魏国の紀年銘があるとしても、中国鏡の規範から外れる大きさであり、後世の日本
での擬古・擬銘である。どのように考えても三角縁神獣鏡卑弥呼の鏡は、卑弥呼の鏡には
なりえない。後漢鏡は、近畿地方でもかなりの数出土しており、邪馬台国近畿説の立場で
も、卑弥呼の鏡は、後漢鏡系の鏡を対象に検討されるべきである。
2、卑弥呼の墓は、径百余歩でなくてもよい。小型の周溝墓で良い。
魏志倭人伝に記述されている万以上の戸数、里程、寿命年齢、墓規模の歩数などの数字
は、詔書にされた五尺刀二口、銅鏡百枚などの数的記述以外、信憑性がない。山海経・論
衡・前漢書地理志など紀元前からの中国の倭人観がある。それは、倭人は遠隔の地にあっ
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て、不老不死・長寿の薬草を産する理想郷としての捉え方である。極め付きは、マルコポ
ーロの黄金の国「ジパング」である。このような観点で、魏志倭人伝の記述の史料批判が
必要である。里程は魏の基準尺と合わない、戸数は伊都国・奴国とも奈良時代の人口より
十倍近く、倭人の寿命が百歳以上、4から 5 人の妻を持つ、百余歩の墓は魏晋の理想社会
の後漢の皇帝の墓がおよそ百余歩であるなどなど、これらの数字を根拠に考古学資料と直
結するのは極めて危うい。
卑弥呼の墓は、必ずしも邪馬台国にあるとは言えない。三十国で共立された王で、霊力
に秀でた巫女で、三十国のどこかの国の出身である。邪馬台国にある確立は三十分の一で
ある。死後埋葬されたとすれば、古代の大王がそうであるように、出自の地である。した
がって、北部九州に存在の明らかな国に卑弥呼の墓があってよい。先述したように弥生時
代後期後半と位置づけられる当時の伊都国である福岡県糸島市平原1号墳の被葬者は、女
性と想定されており、他より抜きん出て四十面といった破鏡で封じ込められた強大な呪力
を持つ人物ということになると、卑弥呼で墓であってもかまわない。
3、日本列島における古代国家成立過程を見通すと邪馬台国は九州にあったと
考えるほうが合理的である。
卑弥呼の統括する三十国の政権は、北部九州といった地域的なものである。したがって、
列島各地に成熟度の差はあっても、それぞれの地域での中心となる政権が存在する。それ
が、狗奴国との抗争に初見が見られるように、3~6 世紀抗争、を通じて、ツクシ・キビ・
イヅモ・ヤマトなど豪族を構成体とした地域王国が出現、それらが、列島の政治的覇権を
賭けたさらなる抗争の結果、6 世紀後半に、ヤマトが古代国家成立の主導権を確立する。そ
して、7 世紀後半、豪族から実権を奪い、天皇を権力の頂点に置いた律令国家が確立したの
である。権力の確立過程は、列島社会のグローバルな課題であり、日本書紀のような一系
的な、列島社会の古代国家の成立過程は、最近明らかになりつつある各地独自の政権・政
治勢力の成立状況から、各地の多様な地域史とは両立しない。
5
【 メ
モ 】
6
「邪馬台国近畿説」 (奈良新聞インタビュー記事より)
香芝市二上山博物館名誉館長 石野博信
「魏志倭人伝」
記述あいまい
―邪馬台国を巡って論争が活発に繰り広げられるのは、魏志倭人伝の記述があいまいな
ことにあります。
石野
明治の後半にはジャワ・スマトラに邪馬台国があったと主張する研究者がいたく
らいで、素直に読むとそうなってしまいます。だから書かれた内容そのものではなくて、
魏志倭人伝は魏の時代の話で時の皇帝の名前も記されてあり、魏が政治をしていた時期を
勝手に100年も前後させるわけにはいかないから、時期を限定するための資料としては
有用といえます。
魏志倭人伝には、邪馬台国は7万戸以上あったと記されていて、正確な数として裏付けは
とれませんが、他の大きい国が2万戸とか5万戸とかあり、相対的に邪馬台国の人口が一
番多いことはわかります。そこで、倭国の2人の女王の時代である2世紀末から3世紀の
末にかけて、日本列島のなかで一番発展している地域はどこなのかというように探したら
いいのです。
大型の古墳が多数連なる
―石野先生は近畿説を支持されています。
石野
魏志倭人伝によると、卑弥呼が亡くなったのが247年か248年です。女王に
なったのが何年か不明ですが、
「年すでに長大にして」との記載もあり相当に高齢だったの
でしょう。魏志倭人伝を読み解いていくと、女王に即位したのは西暦190年前後ではな
いかと推測できます。
そこで、その時期の日本で、目立った文化があった地域はどこだろうかと探すのですが、
文化の発展を示す目安としては、古墳と大きな建物群があります。三世紀の大型古墳は圧
倒的に奈良県が多いですね。50~60年前の研究では、天理市から桜井市にかけて分布
するおおやまと古墳群は、4世紀ごろのものだろうといわれていましたが、一緒に出土し
た土器の研究が進み、私は2世紀末から3世紀後半の大王墓級の古墳群と考えています。
その時期の文化を比較していくと、100㍍を超える大型古墳が20基以上も連なってい
るのは奈良県だけで、その点で邪馬台国の有力候補地であると考えられるのです。
ところが邪馬台国時代の大型建築は、奈良ではつい5年ほど前まではゼロでした。纒向
で私は、約40年前に5年間発掘調査を行いましたが、直径が15㌢から20㌢くらいの
柱痕は何千とかたまって出てきましたが、九州ではすでに60㌢を超える柱痕の建物跡が、
7
吉野ヶ里遺跡などにあります。九州派にしてみれば「ざまあみろ。奈良にはないやろ」と
いう感じでしたでしょうね(笑)
。
東西一直線に3棟大型建物
―そんな中、纒向では2009年11月に大型建築跡の遺跡が発掘されました。
石野
三世紀の建物跡が4棟並んで見つかりました。そのうちの西端の1棟は、最近の
調査で建物でないことが判明しましたが、3棟は東西に一直線に並んで計画的に配置され
ていたことがわかり、古墳だけでなく建物の面からも、3世紀には、特殊な文化が奈良に
あったことが、考古学的にも証明できるようになったのです。
しかし、見つかった建物が東西に並んでいたのは不思議でしたね。
日本書紀には、古墳時代に奈良や大阪に都がおかれたと書かれてありますが、どれひと
つ発掘されていない。かろうじて雄略天皇時代の建物らしきものが三輪山の南側で見つか
っているくらいです。おそらく、古墳時代の王宮と関連施設が平城宮のように1カ所に集
約しているのではなく、点在していたからではないかと思います。当時の大王など有力者
の館跡を見つけにくいのは、役割別に離して造られていたからだ、そう考えると纒向遺跡
は特異なのです。
纒向の東西一直線に配列された3棟の建物は、4~6世紀の大王の館の分散配置と全然
合わない。だから建物跡が見つかったときに、本当にこれは古いのか?
なぜ3世紀とわ
かるのか。柱穴も1㍍なんて大きすぎるという疑問をもちました。しかし、柱穴を壊して
いる溝の土器群が3世紀後半ですからそれより古いことが分かりました。
そうすると一直線に並ぶ極めて計画的な配置は、発達した文化の証しとも考えられます。
弥生時代から古墳時代の大型建物が関東から九州までの間に30数カ所見つかっています
が、計画的な建物の配置はこの纒向だけなのです。
外来の土器が30%交じる
―古墳や建物以外に、纒向を邪馬台国の候補地とみる理由が他にありますか。
石野
2世紀末から3世紀末の、卑弥呼とその後を継いだ台与の時代に、よその地域と
の交流が一番活発だったのが纒向だったのです。
なぜ他地域と交流していたのかがわかるかというと、出土する土器のうち外来のものが
どれだけ含まれているかを見ることで交流の度合いをはかれるのです。たとえば田原本町
の唐古鍵遺跡では、よそで作られた土器が、全体の3~5%くらい交じっていて、だいた
いこれが弥生時代の大型集落の標準です。
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それに対して纒向は、少ないところでも15%、多いところは30%も外来系土器が交
じっていて、交流が抜きん出て盛んだったことがうかがい知れるのです。
邪馬台国というのは30ほどあった倭国連合の中心となった都であり、魏志倭人伝の7
万戸という数字は信用できなくとも、他国と比べて相対的に人間の数が多く、よその地域
とも交流が活発で人も集まっていることは想像できる。つまり物流センターの役割をはた
している場所が邪馬台国であったとするなら、これが纒向の特長とも合致するのです。
文字の跡残る大量の封泥(ふうでい)
―邪馬台国の場所を特定するために、決定的な証拠があるとすれば、それは何だと思い
ますか。
石野
昔は中国・魏の皇帝から下賜された金印が見つかったところが邪馬台国だといわ
れていました。しかし、金は貴重ですから、かつて邪馬台国で保管されていたものが、後
に他国に略奪されたという可能性もあり、金印で場所を特定するのは難しいですね。
そこで、私が20数年前から主張しているのが、文字の跡が残った封泥です。
封泥とは、荷物を結わいたロープの交差したところに、粘土状の泥を置いてハンコを押
したもので、勝手に荷物を解いたらわかる仕掛けになっているものです。
邪馬台国は、魏の国から荷物をいっぱい入れた柳行李(こうり)みたいなものを何十個
ともらってきているわけです。そして、それは女王である卑弥呼の前で初めて開封された
に違いない。それで、封泥が大量に見つかったところがすなわち、卑弥呼の宮殿のあった
場所という推理が成り立つのです。泥の塊なんか誰もぶん捕りませんからね(笑)。
ただこの説にも問題はあります。伊都国というのが九州にあって、そこで魏の国からも
ってきた荷物を「捜露」したと魏志倭人伝には書いてある。中国史の専門家に、この「捜
露」という文字は魏の時代の文字の使い方として荷物を開けたと読めるのかとたずねたと
ころ、
「読めないことはない」と。これは不利だからあまりいわないけど(笑)。
封泥そのものはすでに発掘されていて、私も中国の博物館で何回か見ました。近くでは
北朝鮮でも出ていて、東京国立博物館にもあります。しかし、日本では全然出ていません。
封泥は、チューインガムみたいに固い泥ですが、日本みたいに湿気が多いところだと、ほ
かの泥と一緒に溶けて流れてしまうのでしょうね。日本で見つかる可能性があるとすると、
火事で焼けて泥が焼き物状になった場合です。でも残念ながら、纒向の建物は火事に遭っ
てないようです。でもきっと、纒向遺跡のどこかに眠っている封泥がそのうちに発見され
ると確信しています。
もし、魏の時代の封泥が纒向以外で大量に見つかったら、北海道であろうと沖縄であろ
9
うと、そこが邪馬台国であると信じます。信じないとしょうがない。それはもう理屈抜き
です。泥だけを盗んでいく泥棒なんか絶対にいません(笑)
。
歴史上最初の女王にロマン
―なぜ、これほどまでに邪馬台国が多くの人々を魅了するのでしょうか。
石野
ひと言でいえば、ロマンということなのでしょう。日本の歴史のなかで最初に外
交交渉をやった。中国へ遣いをだしていろんなものをもらってきて、そして日本列島の広
い範囲を統一した。しかも、それを統治していたのが女性だったというのがおもしろいで
すね。
「元始、女性は太陽であった」という有名な言葉がありますが、卑弥呼より前に個人
名はでてきません。最初の歴史上のヒロイン。そういうところがいいのかな?
小説にも
なっているし、映画にもなっている。でも、実際のところ正確なことはわからない。その、
わからないところがおもしろいのでしょうね。
―ありがとうございました。
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