ミスターイミグレーションの自画像

ミスターイミグレーションの自画像
坂中英徳
坂中英徳は何者か
最近、
私の親しいアメリカ人から、
「坂中さんのような人物が日本に存在するのは不思議。
どのような人間なのか関心がある」といわれた。そんなことを言われてもにわかには答え
られない。そもそも「坂中英徳は何者か」について深く考えたこともない。
ただ、わたしは『今後の出入国管理行政のあり方について』『入管戦記』
『新版 日本型
移民国家への道』などの著書で世界観や正義感を披露している。たとえば、タブーへの挑
戦と有言実行を旨とする反骨の官僚の軌跡を語っている。移民政策を論じた主要著書を読
んでいただければ、日本的思考と日本人の美意識の持ち主であることがわかってもらえる
と思う。
わたしは日本人の中では特異な人種に属すると思うが、たくさんの「あだ名」をいただ
いた。1975年に書いた『今後の出入国管理行政のあり方について』という論文が「坂
中論文」と呼称されたことに始まり、「救世主」「移民革命の先導者」
「売国奴」「冷酷な官
僚」などの通称あるいは異名をつけられた。
そのほか、2005年に出た『入管戦記』という本の帯で「反骨の官僚」
「ミスター入管」
と呼ばれた。
2014年5月、日本特派員協会において講演した際には、同協会の専務理事が「坂中
英徳氏は日本の『ミスターイミグレーション』として知られている」と、外国人ジャーナ
リストに紹介した。
物議を醸すような移民政策論文を数多く発表し、その実現に奮闘した実績がものを言っ
て、そのような坂中像が形成されたのだろう。
それらの論文を参考にして自画像を描く。荒削りのデッサンにすぎないが、坂中理解の
一助になれば幸いである。
坂中論文
処女作の『今後の出入国管理行政のあり方について』で入管政策論を展開したことで移
民政策一本の人生行路が決まった。一本の政策論文がひとりの日本人の一生を決めること
があるのだ。日本の国の形を決める革命をもたらすことがあるのだ。
1975年2月、法務省入国管理局が、
「今後の出入国管理行政のあり方について」とい
う課題で職員から論文を募集した。この年、出入国管理行政発足25周年を迎えることを
記念して行われた行事の一環だった。
この論文募集に若輩の私も応募した。そして審査の結果、私の書いた論文が優秀作に選
ばれた。記念論文の審査委員長を務めた竹村照雄氏(当時法務省入国管理局次長)の選評が
私の手元にある。身に余る評価をいただいた。その時、私の進む道が定まった。以後、移
民政策研究一筋の道を歩むことになる。
〈第一部優秀作の坂中論文は、その視点において、その構想において、その論証において、
まことに見事なものであり、
「二十五周年記念」とするに全くふさわしい内容というべきで
あった。審査員全員が一致してこれを優秀作に推したのである。出入国管理行政を世界史
的な変化発展の中で位置づけ、外国人の人権保障への明確な意識と国益との調和を目指し
て将来を展望し、しかもいたずらに理想に走ることなく、絶えず足下現実の問題に即し、
これに立ち返りつつ議論を進める態度は、その考察の基礎となっている資料の豊富さとと
もに、力強く迫るものがあった。
〉
当時を振り返ると、私は運がよかったのだと思う。上司のなかに竹村照雄氏のように高
い見識と鋭い問題意識を持った人物がおられたのである。坂中論文は最高の行政官に見い
だされて無事誕生した。しかし、その後の歩みは、順風満帆というわけにはいかなかった。
世間の猛烈な荒波にもまれる波瀾万丈の未来が待っていた。
竹村氏のすすめで論文が公にされるや、在日韓国・朝鮮人問題を考えるうえでの古典的
文献と評価される一方で、20年近く研究者や活動家の間で賛否両論の激論が闘わされる
ことになった。
坂中論文で述べた私の考えは、
執筆から40年すぎたいまも、基本的に変わっていない。
論文で提案した政策提言は次々と実現した。残された究極の課題が世界をリードする移民
国家の創立である。
老い先の短いわたしは坂中論文がたどった激動の歴史を回想することが多くなった。坂
中論文と共にあった人生の幸せをかみしめている。幸運の星の下に生まれた坂中論文は天
寿をまっとうし、いま壮烈な一生を終えようとしている。
アンタッチャブルに挑んだ男
入管時代、誰もが恐れて手をつけない課題に挑んだ。アンタッチャブルとされた問題と
格闘した。それが幸いした。競争相手がいなく私の独壇場であったので自由自在の活躍が
できた。
在日朝鮮人の処遇問題(1975年)に始まり、中国人偽装難民事件(1989年)、フィ
リピン女性の人身売買事件(1995年)、北朝鮮残留日本人妻の帰国問題(2002年)、
人口減少社会の日本の移民政策のあり方(2004年)など、出入国管理行政上の難問と取
り組んだ。法務省を退職した後は移民政策研究所を設立。人口崩壊の危機に襲われた祖国
を救うべく移民国家ビジョンの構築とその実現に全力を傾けている。
これらの問題は、私の問題提起を受けて大論争に発展した。40年間、移民政策に関す
る理論構築と理論の実践を積み上げた努力が実を結び、世間が実現不可能と考えていた移
民鎖国体制をくつがえすことができた。未踏の原野を往けば視界が開けることもあるとい
う見本だ。
現在のわたしは、移民政策研究所所長の肩書で、移民政策研究のプロフェッショナルの
立場から、世界の模範となる移民国家の樹立を国家国民に迫っている。移民国家として再
起を図った日本が国家存亡の危機を見事克服し、移民受け入れのモデル国として世界に屹
立する近未来を視野に入れている。
運と奇跡が頼りの冒険人生
いま、私の人生において1975年の坂中論文以来40年ぶりにゆったりした気分にひ
たっている。若いときにまるで神業のような「論文」を書いた責任の重圧を乗り越え、心
やすらかな心境になった。
どうしてこういう気持ちになったのか。何も欲するものはない。
何も恐れるものはない。
何も心配することはない。真の自由人になったからだ。
身を捨てる覚悟を決めた。坂中論文で公言した約束をはたした。日本の移民国家体系の
理論的基礎を築いた。日本が全面崩壊を免れる起死回生策=移民政策を立案した。そんな
ふうに思うようになって、迷いが消え、安心立命の境地に達したのだと思う。
自分の実力以上の仕事を成し遂げたと思うが、人知の及ばぬ力が加わって不可能を可能
にするような仕事を成し遂げられたのだと思っている。精魂を込めて事に当たれば一念天
に通ずるということなのだろう。苦境に立ったときには天が救ってくれた。奇跡だとしか
説明できないことが何回か起きた。
運と奇跡が頼りの冒険家のような人生が尋常なものではないことは自分でもわかってい
る。綱渡りの連続の役人生活をすごした。何とか無事退職できたが、命があったのが奇跡
と人からいわれた。
「運が7割。努力が3割」の無理に無理を重ねた生き方をしたいうのが
常識的な見方なのかもしれない。最近、妻子から「できもしない無謀なことを道楽でやっ
ている」と言われた。
お天道様が見ているので人の道に外れたことはできないと肝に銘じ、自分なりの正義感
を貫いた。全試合、真っ向から直球で勝負した。正々堂々と戦った。それだけは自信を持
って言える。
泥沼に足を突っ込み、もがき苦闘する、あまりにしんどいことばかりが続く人生だった
が、無人の荒野を一人行くがごとく、やりたいことを思う存分やらしてもらった。時には
波乱を巻き起こし、時には万丈の気をはいた。死闘を演じたが奇跡的に生き残った。
ミスターイミグレーション
学生時代の私はノンポリの平凡な学生であり、平穏な人生を望んでいた。それで国家公
務員の職を選んだ。その時、まさか禁忌との闘いに明け暮れる人生を送ることになるとは
夢にも思わなかった。
しかし何が幸いするかわからないのが人生だ。たまさか外国人行政を担当する法務省入
国管理局に就職したことからタブーと相対する天職にめぐり合った。
事実、どんなハプニングが起きても不思議でないのが人生航路だ。晩年になって人口崩
壊という有史以来の危機に見舞われた祖国を再建する「移民国家の設計者」の役が回って
きた。
日本の新しい国づくりが双肩にかかることになった。平成時代の日本人の誰かが引き受
けなければならない重責である。天命として謹んで受ける。
今度も天の助けがあって日本再生の奇跡が起きるだろう。私の運は天職を与えられたこ
とで尽きたと思うが、移民国家ニッポンの国運は隆盛に向かうと固く信ずる。
理性的に考えると、日々の努力と節目での決断の積み重ねがあって、今の自分があると
いうことなのだろう。すべて自分のなせる業であり、理論を実践した結果であるというの
が合理的な見方なのだろう。しかしながらそこにもなにほどかの天運の働きがあったにち
がいないと思っている。
2012年10月のジャパンタイムズにおいて、在日歴30年の外国人ジャーナリスト
が坂中英徳を「移民革命の先導者」と内外に紹介した。保守の典型のわたしがなぜ革命家
と呼ばれる人間になったのか。
それも天の巡り合わせである。移民政策の立案をライフワークとする日本人が、人口崩
壊の危機が迫る「革命の時代」と遭遇したのだ。移民政策のエキスパートの道を歩んだの
は、天佑のたまものの坂中論文を書いたからだ。それをきっかけに移民政策の勉強を続け
た結果、いつのまにか移民政策分野の第一人者になり、世界から日本の「ミスターイミグ
レーション」と評価されるまでになったということである。
いろいろなことがあったが、トータルで評価すれば、天運にめぐまれ、天命を知り、天
職に従事する百点満点の人生だったと思っている。