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明治前期鉱山業の性格
津田, 真澂
一橋大学研究年報. 社会学研究, 13: 99-130
1974-03-30
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/9611
Right
Hitotsubashi University Repository
明治前期鉱山業の性格
第一章明治初期民営鉱山革新の基本的性格
第[節﹁鉱山熱﹂と鉱山設備水準
一
津 田 真 激
明治政府がその成立した当初にあっては禁止していた、鉱山の人民による開発を其後許可するに至った︵明治二年
起点︶ことは華士族、商業高利貸資本家、地主中の有産者に鉱山業に対する関心を喚起したことはいうまでもない。
︵−︶
﹁鉱山 熱 ﹂ が 流 行 し た と さ れ る 所 以 で あ る 。
事実、明治初めより六年二月までに官許した官坑民行の数は合計一五二であったが、 ︵﹃工部省沿革報告﹄﹃明治前期
財政経済史料集成﹄第+七巻、五三頁︶、八年五月現在には民坑のみで、二、一五〇の多数にのぽり︵同上書六一頁︶、翌九
年一月には﹁日本坑法ヲ実施セルヨリ以来各府県下ノ借区試掘及坑税ノ申牒査定等甚タ多ク、本寮︵工部省鉱山寮−註︶
ノ事務繁劇錯雑二渉ルヲ以テ民坑課︵主記科中︶坑税課︵主計科中︶ヲ設置﹂︵同上書六二頁︶するに至ったことからも
︵2︶
推測することができる。
明治前期鉱山業の性格 九九
一橋大学研究年報 社会学研究 13 一〇〇
︵1︶ 土屋喬雄﹁明治初年における鉱山熱の一例﹂昭和六年︵﹃日本社会経済史の諸問題﹄昭和一二年刊所収︶参照。なお浅野
銅︵万斤︶
八四・五
石炭︵万t︶ 石油︵万石︶ 硫黄︵万斤︶
文庫﹃浅野総一郎﹄大正一二年刊、及ぴ﹃日本石油史﹄大正三年刊の諸例参照。
銀︵万匁︶
鉄︵万t︶
︵2︶ この事情を生産量で表現すれぱ第1表の如くである。
金︵万匁︶
第1表の1 明治五−九年主要鉱物生産量
年 代
二二・七
九七・六
九六・八
一9四
○・四
二七〇・五
○・五
一二六・四
二〇・八
○・八
七・八
○・五
五四・五
五六・七
明治五年
〇二一一
三五一9六
七二・八
○・六
一丁六
一八六・五 三九九・八
明治七年
一三三・○ 五三〇・三
石炭︵万円︶ 石油︵万円︶ 硫黄︵万円︶ 総価額︵万円︶
二三二・九
五・九
四・六
銀︵万円︶
鉄︵万円︶
明治八年
金︵万円︶
第1表の2 明治五−九年鉱産価額
年 代
八・○
一一二90
一一四・八
四九・一
六・三
三・八
二・四
二・五
一・一
一・○
二九六・七
二五一・六
一五四・七
五・六
二六二・八
七六・九
一〇・六
○・三
八七・二
五四・六
一一五9九
一一六・六
二七・六
五三・○
六・四
三四・六
一七・九
明治七年
一四・六
一一・四
一八・八
明治八年
明治五年
明治九年
備考。明治七i九年は東京鉱山監督署編﹃日本鉱粟誌﹄明治四四年刊による。明治五年はコワニエ﹃日本鉱物資源に関する覚書﹄︵石川準吉訳︶より計出。この数字は
コワニエが政府統計を修正したものと述べている。鉄は一t”八四円として計算されている。換算単位は一k90二六六・六七匁、︸仏t旺一・六八○斤。コ
ワニエ総価額には石油が計出されていない。
一〇・八
銅︵万円︶
明治九年
1
1
二
ところで、このように多数にのぼる民行鉱山においては、いかなる特徴が見出されるであろうか。まず第一に、明
治初年代においては一般的に旧態依然たる稼行法が継続されていたと考えられる。外国人技術者の調査記述を始めと
する多くの史料がこのことを確認している。
明治七年の稿了にかかるコワニエの前掲書は日本全土の大部分について、地質鉱物学的調査を行ないつつ、鉱業の
現状を記したものであって、当面の考察に有力な史料を提供している。いま本書に従って摘記して見るならば、鉱山
浸水のために採掘の行なわれていない国は、武蔵・駿河・伊豆・甲斐・志摩・伊勢・山城、ほとんどすべてが廃棄さ
れているのは、播摩・摂津・大和・但馬・越後・陸奥・下野・紀伊・津軽の諸鉱山である。その他の国の稼行鉱山で
も若干を除いては浸水に苦しんでいる。たとえば多田銅山では﹁嘗ては坑道の入口も三百を越えてゐたさうであるが、
今は殆ど全部が浸水のために、約百五十年来中止せられて、今では唯或種の旧式作業によつて細々と営んでゐる程度
である。﹂︵八○頁︶。吉岡銅山は﹁種々の変遷はあるが・⋮・約三百年来は何等中絶することなく採掘せられて来てゐる。
⋮旧式の採掘作業が相当進められて居るが、現在では全く浸水して居る。従つて目下採掘は、上層部に集中せられ、
昔棄てられた鉱石を採つて居る﹂︵七七−八頁︶。鹿籠金山は約二百年来採掘されているが、﹁作業場は完全に浸水⋮⋮
時々若干の労働者が、此の樋棄された地域で落穂を拾ふが如く細々と働いてゐる﹂︵四七−八頁︶。以下同様な記述が
多数で、明治七年現在、通常状態で稼行中なのは、官行を除けば、別子、面谷、金平、草倉、長坂など極めて少数で
ある。従来の設備が限界点に達している好例は石見銀山の場合であろう。﹁この銀山は三年前の大地震により多くの
明治前期鉱山業の性格 一〇一
一橋大学研究年報 社会学研究 13 一〇二
地裂ができて、作業場が浸水し、日本鉱業家が用ひる唯一の手段たる竹のポンプによつては揚水出来なかつたので、
遂に廃棄 さ れ る に 至 つ た ﹂ ︵ 九 一 頁 ︶ 。
他の史料についてみても同様な事情が看取される︵例えば、細倉鉛山、半田銀山、などについてワグネル﹁米国博覧会日本
出品解説﹂G・ワグネル、土屋喬雄編﹃維新産業建設論策集成﹄昭和一九年、二七九、二八二頁参照︶。炭坑ではたとえば筑豊
炭田明治十六−七年の状態は、﹁採掘法たるや、姑息な所謂狸掘式で、排水法も段汲といつて卸先に水溜を作り、四
尺ぱかりの高さの上段から水溜りに手桶で汲み上げて、最上段は跳釣瓶で坑外に排水した﹂︵﹃麻生太吉翁伝﹄昭和十年
刊。七一−七二頁︶のであり、常盤炭田でも﹁狸掘﹂︵山口弥一郎﹃炭畷聚落﹄昭和十七年刊、二四二頁︶、宇部炭田でも﹁採
炭法は頗る幼稚にして、⋮⋮処々に南蛮車を掘付て水を排泄するに過ぎず⋮⋮秋収後より採炭に藩手し、春季に終る
を以て常とす﹂︵﹃稿本宇部五十年誌﹄大正+一年刊、九七頁︶といった程度である。石油に至っては、﹁悲惨々々、如何
にパンのため、自ら好んで従事するとはいへ、斯の如き危険なる労働を、何故日本の政府は禁じないのか﹂と米人技
師に﹁泪を浮べ﹂させた︵﹃日本石油史﹄前出、;三ー一三五頁︶手掘が﹁全盛﹂︵同上一〇三頁︶であって、米国式輸入
難井機械、赤羽工作局製作機械のいずれも試用失敗していた︵﹁工部省沿革報告﹂前出、三〇四ー三〇五頁。門馬延陵﹃北
越石油業発達史﹄明治三五年刊、四六−四七、五〇1五一頁︶。油送管は新潟県で十九町余のものが一本あるのみ︵明治十一
年起工︶で他は樽詰人肩又は馬背運搬︵日本石油史、前出、九七−九八、一四一頁︶にたより、精油釜も一石程度で︵同上
書五七頁︶あった。
第二節 民営鉱山の設備革新
一
すでに明治十年となれば、民行鉱山中少数のものが他に突出して盛行をしめしていた。まず民行鉱山産量が全生産
量においてしめる比率が漸次増大しつつあった︵たとえぼ官行産量比率の特に大なる金.銀をとっても、明治五年の民行産
量比率、金九・九%、銀一〇・○%から、明治十年には金二一・五%、銀三二・五%に増大している︶。しかもその産量の中で、
たとえば金では山ガ野がほとんどすべてを占め、また銅では記録に残っているものの内、最大五山で三〇%以上を産
している。︵﹃明治工業史﹄鉱業篇により計出︶。いまいくつかの点において、これらの事情を分析してみよう。
当時の民行鉱山所有者は、旧公卿︵例−九条・五条・藤波・沢などの長野石炭油会社︶、藩主︵金平ー前田、山ガ野.芹ガ
野・谷山・鹿籠−島津、幸生−松平、草倉−相馬、面谷1土井、鰐淵−松江、日平−延岡など︶、旧藩家老︵尾小屋−横山.高島.
松林など︶、や家臣なども多かった。藩主・家老の中でも島津・横山の如く強藩の揚合は、その後所有者を変えること
なく続いていたが、多くは、版籍奉還・廃藩置県後、たちまちのうちに他へ譲渡された。.一れを取得したのは、ほと
んどすぺてが在来の鉱山業者ではなく、三都を中心とする商人であった。
たとえば旧幕府御為替方十人組の一つであり、幕末内乱過程にいち早く明治政府側について軍資金を供給し、国庫
金出納事務を取り扱った生糸絹物商人小野組を考えよう。小野組は明治六年の全盛期には全国に四十有余の支店を開
き、一府二八県の為替御用を勤め、第一国立銀行を三井と共に設立して金融源としていた。ところで小野組糸店は繊
明治前期鉱山業の性格 一〇三
一橋大学研究年報 社会学研究 13 一〇四
維のみを商売としていたのではない。明治七年末に小野組が破産するまで、糸店管轄の下で稼行されていた鉱山は院
内銀山、阿仁銅山、太良鉛山、加護山製錬所を始めとして十六鉱山に上り︵前記の他、川口銅、荒川銅、八森銀、明取沢
銀、玉川砂銀、向山金銀、細地銅、小繋銅、革倉銅、祝出沢銀、幸生銅、手綱鉄、各鉱山︶、そのほかに盛岡支店管轄下に十
鉱山︵橋野、大蕨、左比内、仙人嶺、大橋、聲屋敷、滝、金生、大谷、藤沢、諸鉱山︶が経営されていた︵﹃古河市兵衛翁伝﹄
前出五二−五三頁︶。
また土佐商会、九十九商会から始まって、台湾出兵軍事輸送以後、政府の直接の保護の下で温室的に発展しつつあ
った三菱会社︵山路愛山﹃岩崎弥太郎﹄大正三年刊、白柳秀湖﹃岩崎弥太郎﹄昭和一七年刊︶も吉岡︵六年︶、尾太、八光、軽
井沢︵七年︶、小松原、弥高︵八年︶の諸鉱山、音河︵四年︶、万歳、奥谷、松沢、岩井︵五−六年︶の各炭坑を手中に
していた︵太平鉱業株式会社人事部﹃社風の淵源﹄昭和二七年刊、農商務省鉱山局﹃鉱山発達史﹄明治三年などによる︶。
阿仁、院内、荒川は小野組が取得するまでは、小野組から資金融通を受けて尾去沢等と共に所有していた東京の生
糸商人岡田平蔵のものであった。小野組瓦解後、荒川銅山を取得したのは後に日三市、畑諸鉱山を所有した盛岡商人
瀬川であった。草倉、赤柴︵八年︶、幸生︵九年︶、八総、足尾︵十年︶を経営した古河市兵衛も小野組糸店の名代であ
り、小野組瓦解後も糸商を続けており、それを﹁主業﹂としていた等々︵﹃古河市兵衛翁伝﹄大正五年、九〇頁︶。
従ってその経営にあたっては下稼人に請負わせて鉱石乃至精鉱を買い上げる純商入的立揚をとるものが圧倒的に多
く︵草倉、足尾、別子など好例︶、鉱産物価格の騰落によって持手を変えることが瀕々として行なわれた。直接経営にた
ずさわる場合においても、ネットーが力説した如き﹁所有者は第一に採鉱の事を直ちに工夫と条約﹂すること︵ネッ
︵3︶
トー﹃日本鉱山編﹄前出、三︸二頁︶なく、旧来の生産関係を維持強化し、幼少年者、婦女子の坑内労働を双手をあげて
歓迎したほど︵古河市兵衛氏書簡、明治十五年、﹃古河市兵衛翁伝﹄一三〇頁、手束四二i三頁、﹃別子開坑二百五十年史話﹄昭
和+六年刊四三〇1四三一頁など︶であった。労働力の最も簡便な形での再生産の仕方は政府からの囚人﹁貸下﹂であ
る。高島、三池、中小坂、幌内などでの囚人使用は周知の事実に属するが、跡佐登、別子でも囚人労働力が用いられ
た。とくに足尾銅山明治十七年の大直利はこの囚人使用によったものである。囚人労働は日本鉱山業興起の基底であ
るといってよいであろう。
︵4︶
︵3︶ 別子銅山、維新直後の状態。﹁従来山民等が栖居せる家屋は総て我が主家より無料にて給与せられ居りしがため、山民等
は自然と我が主家の隷僕の如き有様となり⋮⋮﹂︵広瀬宰平﹃半生物語﹄上、 一七頁︶、﹁当時別子鉱山なる生民の境遇君真に
見るに忍ぴざるものなりき。即ち人間の生活上第一に位する飲食品中、米穀を除きては皆悉く粗悪にして用ふるに堪へざるも
ののみなりき。例えば酒、味噌、醤油の如きは、総て別子山を距る約そ六里の西条より輸入し来るものなれども、共品質敦も
劣等粗悪にして、酒には三分の一の水を加へ、醤油は宛も塩水に着色したるものの如く、味噌の如きに至りては其の味の下劣
なるは勿論、多くは蛆を生じ居るものなりき﹂︵同上書、下、二三頁︶。これが﹁予州銅山の儀は御家業第一の揚所﹂︵住友家
御主君事務一︶とし、﹁銅山の人心を作興し、執行の能率を挙ぐることに、支配方以下鋭意努力した﹂︵﹃別子開坑二百五十年
史話﹄前出、二七九頁︶実態である。
一〇五
︵4︶ 横須賀製鉄所、小管煉瓦製造所への囚人労働充用、及び機業、工業、開墾などへの囚人使用、及ぴその意義については、
さし当って山田盛太郎﹃日本資本主義分析﹄昭和九年刊、二九−三一、八三i八九頁参照。
明治前期鉱山業の性格
一橋大学研究年報 社会学研究 13 一〇六
二
以上の諸事態は鉱山設備の近代化を排除するものではなかった。否、官行鉱山の近代的設備新設を目前にして、こ
れら民行鉱山は、官行鉱山技術の直接的模倣︵住友を好例とする︶、外国人招傭︵住友、島津、前田、高島︶、工部省官吏
招聰、工部大学校、東京大学校卒業技術者雇傭乃至留学生の外国直接派遣︵住友、古河、島津︶を通じ、﹁専ら坑業を
西洋式に転移﹂︵広瀬宰平の愛媛県権令への届書、﹃別子開坑二百五+年史話﹄三二二−三二三頁︶することに努めた。尤もそ
の揚合、労働条件の改善、労働者保護施設の新設は全く無視されはしたが。
このような﹁転移﹂は政府の保護を受けた有力な商人資本家であって始めて可能なことであった。かくして、明治
十三年以降の官業払下に応ずべき態勢は、ともかくも整備されつつあったのである。
銅︵万匁︶
一〇〇・○
比 率
一〇〇・○
二6六
二・一
一三・七
石炭︵万t︶
八四・七
一五ニニ
一〇〇・○
比 率
いま明治五、十一ー十三年の官行、民行鉱山産出量を比較対照すれば第21第5表の如くである。
比 率
一〇〇・○ 二七〇・五
銀︵万匁︶
一〇〇・○
九〇・○
一〇・○ 二七〇・五
一二六・五
一二・八
一二一丁七
一〇・○
九〇・O
比 率
第2表 明治五年金銀銅石炭産量表
金︵万匁︶
七・八
七・○
○・八
○
全 国
官 行
民 行
1k9”266・67匁、1t“1680斤として計算。
備考。=ワニエ﹃日本鉱物資源に関する覚害﹄より計出。コワニエが政府統計を修正したもの。
○
全 国
民 行
官 行
全 国
官 行
民 行
全 国
民 行
官 行
七・三
二・六
八八・四
九九・五
一六四・三
一〇〇・○ 二六三・八
銀︵万匁︶
六・四
比 率
○・九
銀︵万匁︶
金︵万匁︶
四・七
七・○
三二・三
六七・七
一〇〇・○ 二四二・三
=二・八
一二〇・五
二・三
八・二
六八・○
八六・二
比 率
一〇〇・○
五九・八
石炭︵万t︶
九・五
比 率
九〇・五
比 率
銅︵万斤︶
六七・四
石炭︵万屯︶
七三〇二
四八二
一〇〇・○
八五・八
八六・二
一三9八
一〇〇・○
;丁八
一〇〇・○
六四二・○
比 率
一〇〇・○ 七〇九・四
三七・七
六二・三
銅︵万斤︶
比 率
一〇〇・○ 七七一・八
七三・九
二・九
五八・九
七・六
六一二・九
九二・四
四九・六
四六・六
六・二
九三・八
一五・七
七二・五
八二・二
一七・八
一〇〇・O
比 率
五〇・四
一〇〇・○ 二七五・七
五三・四
八八二
石炭︵万屯︶
比 率
一三二・九
一〇〇・○
銅︵万斤︶
比 率
一四二・八
銀︵万匁︶
五六・九
比 率
八・三
四三二
一〇〇・○ 七七八・二
三・六
四・七
金︵万匁︶
比 率
汽当二匁表ハ署コ匁表署=八匁表
比 率
明 金表 金表 金表
金︵万匁︶
行行国 箏行行国 笏行行国 等
一〇七
一橋大学研究年報 社会学研究 13 一〇八
備考。﹃工部省沿革報告﹄、日本工学会、﹃明治工粟史﹄鉱業篇、昭和五年刊より計出。官行鉱山炭坑産量はいずれも、十年七月ー十二年六月、十一年七月ー+三年六月、
十二年七月−十四年六月の年平均。換算単位は第2表に同じ。
第二章鉱山払下と明治前期鉱山業の諸特徴
第一節鉱山払下の決定
唱
︵−︶
政権獲得への過程にあって明治政府が征討費資金調達として求めたものは、各藩よりの貢納金、藩主からの贋罪金、
藩主に対し﹁出軍功無キヲ以テ﹂命ずる献納金などがあった。しかしながら資金のほとんど大部分は京阪津、及び京
浜の豪商からの御用金借入から成り立っていた︵本庄栄治郎﹃明治維新経済史研究﹄昭和五年︶。﹁維新の大号令が発せら
れて数ヶ月の間よく新政府をしてその政権樹立に対する最初の第一歩を踏み出さしめ・⋮−るカとなつたものは御用金
であつたと謂つて差支へないであらう。﹂︵大島英二﹁明治初期の財政﹂、﹃明治初期経済史研究﹄第一部、二七一頁︶政権確
立後も明治政府は度々御用金、調達金を借り集めた。新政府は地租を抵当としてその償還を約束したのではあるが、
しかしながら、永年幕府下にあって巨富を積み、幕末においても幕府ならぴに諸藩に資金を供給し続けていた富商た
ち︵飯淵敬太郎﹃日本信用体系前史﹄昭和壬二年刊参照︶は、四囲の情況の不安定な折柄、できるかぎり御用金調達を忌
避したのであった。従って政府の莫大な費用を即座に捻出できる唯一の便法は紙幣発行とその通用強制であった。
﹁明治初年以降十年にいたるまでに発行された太政官札を始め六類三十二種の不換紙幣は併せて一億三千九百四十二
万円に上る。その間、紙幣価格は低落甚しく、流通は極めて困難となつたので、政府は不換政府紙幣の整理を目的の
一とする国立銀行を設立したが、その国立銀行の発行券自体が亦一種の不換紙幣と化し、加ふるに西南役のために、
新たに二千七百万円の巨額に達する新紙幣を増発したので、政府及び銀行紙幣の価値は⋮⋮激落し、物価は騰貴する
一方であつた﹂。以上の不換紙幣濫発と同時に、総額二千三百万円を債権者たる商人及ぴ高利貸の手中に帰せしめた
︵2︶
旧藩藩債、及び公卿、武士、神官などの封建的身分買取りのための総額約一億九千万円に上る秩禄公債.金禄公債・
旧神官配当公債などは、いずれも不換紙幣と同様の﹁交付﹂の形で発行され、インフレーションと高物価への契機と
なった︵風早八十二﹃財政史﹄昭和七年刊、一五−一七、エ○頁︶。
以上の歳入及び歳出に見合う現実の収入のほとんど大部分︵明治六年経常収入の九三%︶は税収入であり、その税収
入の大部分が地租︵明治六年地租改正直前九二%、明治九年八三%︶であった。作の豊凶、価格の下落その他の一切の条
件をぬきにして地価の三%︵他に地方税として二%︶、土地所有者納入と定められたこの地租の設定は、明治政府にと
って間接税、関税収入が僅少であっただけ︵両者合計して明治六、九年に税収入の五.八%︶、それだけ強行された。従っ
て農民層は地租軽減請願運動をひたすら続け、滞納者は増加し、備荒儲蓄金の救助及ぴ貸下出願者も増え、各地で負
担過重を名とする暴動を惹起しつつ、自作農没落、小作農の絶対的増大及びその貧困化を、従って分解を促進せしめ
られたのであった︵土屋喬雄﹃続日本経済史概要﹄ 一〇八−一〇九、一一四頁︶。
明治五年一円二銭の価格を示していた紙幣相場は西南戦争後の十一年には一円十三銭、明治十三年には一円五十三
銭に激落した。従って一億六千六百万円の流通高を有する各種紙幣︵明治+一年︶を﹃一億円内外ノ紙幣ヲ以テ適度
ト定メ﹄︵﹁松方伯財政論策集﹂、﹃明治前期財政経済集成﹄第一巻、三一五⊥三七頁︶る紙幣整理がおこなわれることは必
明治前期鉱山業の性格 。:p 一〇九
一橋大学研究年報 社会学研究 13 一一〇
至の政策であった。そのために間接税を新設︵国立銀行税+一年、株式取引所税十三年︶乃至引上げ︵酒造税士二年︶、従
来中央財政の負担であった府県庁舎建築費ほか二費目を地方財政に移管し、その財源として地方税目中﹃地租五分一
以内﹄を﹃三分一以内﹄に引上げ︵明治十三年十一月太政官布告、明治財政史編纂会﹃明治財政史﹄第十二巻二二九ー壬二〇頁︶
ると共に﹃財政ヲ改革スルヲ以テ勉メテ行政事務ノ繁ヲ省キ、簡二就キ能クソノ緩急ヲ計テ新事業ヲ興起セス、既成
若クハ半途ノエ事ノ如キハ此際一層省略シ、各庁経費ヲ減スルノ計画ヲ為スヘキ﹄を令し︵﹁工部省沿革報告﹂前出、二
六頁︶、﹃経費節減ノ聖諭ヲ奉シ、務テ傭外国人ヲ解職﹄︵同上、三四七頁︶、﹃器物機械モ亦カメテ内国製ヲ需用スヘ﹄
︵同上、二六頁︶きことを命令する、いわゆる松方財政が登揚したが、このような状態にあって、累年損失を続け、特
に明治十一年以来それが甚しかった官行工揚・鉱山の処分は必至であった。こうして、直接には松方内務卿の建議に
基いて一八八○年︵明治+三年︶十一月、﹁工業勧誘ノ為メ政府二於テ設置シタル諸工場ハ⋮⋮之ヲ人民ノ営業二帰ス
ベキ﹂工揚払下概則︵明治財政史編纂会﹃明治財政史﹄第十二巻昭和二年刊、二三一⊥三三頁︶が内務・大蔵・陸海軍・文
︵3︶
部・工部六省に発令された。
︵1︶ ﹁大蔵省沿革志﹂上巻、前出、七、 一七、 一九、二五頁等々。
︵2︶ この点について大島英二、前掲書二六八頁の重要な指摘参照。
︵3︶ この点に関しては、山田清﹁明治初期の化学工業﹂、伊東岱吉﹁我国に於ける軍事工業の成立過程﹂︵何れも慶応大学﹃明
治初期経済史研究﹄第一部所収︶参照。工揚払下の意義に関しては前掲書が大きな業績を残している。
二
﹁百工勧奨﹂を任務とした工部省は一八八五年に内閣及び三省に分解し、﹁鉱山及ヒエ作ノ事務﹂は﹁諸産業の漸
進的かつ円滑な民間払下げを実施すると同時に、異なった環境のもとに依然所要の保護政策を維持﹂すべき農商務省
八一年設置︶に移された。
明治前期鉱山業の性格 一一一
地はなかった。入札の形をとったが、その実際も疑問とされている。それ故に、これらの払下げは当時においても種
はなはだ低廉な価格でおこなわれた。その上に長年賦であり、特定の者を、保護するの傾きにあったことは、疑の余
概則は一八八四年︵明治十七年︶には廃止された。政府は、これら諸工揚鉱山を漸次民業に移し、政府内部に喰い入
︵7︶
った巨商たちに所有せしめ、これらを保護すると同時に監督をも行なった。﹁これら官営工揚および鉱山の払下げは、
納シ且ツ興業費ハ興業ノ該工場ノ種類営業ノ難易等ヲ掛酌シ年賦上納ノ事﹂という規定は﹁概則ノ実際二適セサル﹂
︵6︶
所とされ、各工揚鉱山とも﹁適宜ノ方策ヲ設ケ﹂︵﹃工部省沿革報告︶﹄てはなはだ廉価に払い下げることと変ったが、
坑.小坂鉱山のように、その後経営難におち入り返還されるものが多かったため、銀行や縁故を通じて資金源を有す
︵ 5 ︶
るものに対してのみ払下げられることとなった。しかも、その揚合でも﹁各工揚営業資本金ハ必ス払下ノ際一時二上
ノ資本金ヲ出スノカアル﹂者について詮議したのであって、概則発令以前に払下げられた勧工寮製糸工揚・高島炭
して出発した官行鉱山事業も、﹁根本ヲニ様二分ケ﹂︵同上書︶、利益をあげつつあるもの︵佐渡・生野二二池など︶を残
︵4︶
し、他を漸次払下げる態勢をととのえたのであった。それも無制限ではなく、﹁数人合資ノ会社若クハ一人ニテ必要
之ヲ公売シ、而テソノ利益ハ年々準備金二加殖シ、事業ヲ大ニシ、大二造化ノ妙利ヲ興サン﹂︵﹃工部省沿革報告﹄︶と
かくて﹁大二官坑ヲ開キ、ソノ費金ハ歳入を仰カスシテ準備金ヲ以テ弁給シ、鉱物ハ精製シテ貨幣ヲ鋳造シ、或ハ
(一
一橋大学研究年報 社会学研究 13 一一二
たな問題をひきおこしている。かくて、これらの払下げは、その目的において官営をやめて、﹁自営自行﹂を奨励す
るという意味もあったとしても、藩閥政府と一群の政商との結合により財閥の基礎を形成したという客観的結果の方
が強く注意をひくものであった﹂︵土屋喬雄﹃日本の産業﹄昭和二七年︶とされる所以である。すなわち、釜石.茅沼
︵8︶
︵十六年︶、小坂・十和田・油戸・院内・中小坂︵十七年︶、阿仁・太良︵十八年︶と続き、さらに三池︵二十一年︶、幌内
︵二+二年︶、生野・明延・中瀬・佐渡︵二+九年︶、広島︵三十七年︶を加えた払い下げ官行鉱山は、財閥興隆の基礎
︵9︶
を形成したのである。
︵4︶ たとえぱ生野、佐渡。﹃其産出金銀を直に貨幣鋳造の地金に供するを以て専ら紙幣交換の原資に充つぺき.:⋮海内屈指の
良鉱﹄であることが強調され︵﹁佐渡生野両鉱山官行継続の件に関する閣議案﹂明治一二年、﹃大島高任行実﹄昭和一三年刊、
九二一−二頁所収︶、財政縮少中でも年々興業費が支出され、﹃二鉱山は当省管理以来漸次事業を拡張し将来益々隆盛と可相成
見込に有之候間此度帝室御財産へ編入相成候儀適当と被存候﹄の閣議申請書︵同上書、九二九−九三〇頁所収︶に基き二十二
年、宮内省御料局へ移管されたほどである。
︵5︶ 北海道開拓使払下事件における薩摩閥の端的な現象想起。﹁社会関係が特定の具体的個人相亙のあいだの高度にバーソナ
ルな関係によって成り立っている社会では、この直接のつながり以外の人とあらたに交渉関係をつくる場合には、つねに、こ
のような.ハーソナルな直接関係の連鎖を媒介としてでなければ不可能である。﹂︵川島武宜﹁家元制度﹂﹃芽﹄所収参照。︶
小坂鉱山では払下処分公告がでると地元村民二九〇余名の代表が連署して払下を請願したが、政府は之を排して藤田組に代
価二十万円、二五ケ年賦で売却した。藤田組に対しぞは、市ノ川アンチモニー山の係争の際、政府が全山を一旦官収した後に
藤田組に与えた︵明治十七年、﹃明治工業史﹄鉱業篇、五九五頁以下︶ほど保護が加えられていた。
︵6︶ 明治十五年以前に民行に移されたものは、明治二年一、三年十五、四年二、六年三、七年十て九年七、十年六、十四年
る。
一で、これらは拝借乃至請負願による貸下という形式で行なわれた。これらの数字は、原生的官行政策の破綻を表現してい
︵7︶ たとえば臨時監督員制度設置。﹃工部省沿革報告﹄三六頁、﹃大島高任行実﹄八五九ー八六二頁参照。
︵8︶ ﹁この払下げ経過のうち最も驚くぺき事実は、三井、三菱、住友、安田の如き少数の閥族が、川崎、古河、田中、浅野の
如き中流資本とともに十分組織化された官営産業を廉価に買ひ受けるといふ方法によつて、その優位を一段と強化したことで
ある。とはいへ最も重要なのは、上記の三井、三菱、住友、安田財閥の占める地位である。﹂ノーマン、﹃日本における近代国
家の成立﹄昭和二二年刊、一九一頁。
︵9︶ 払下げはきわめて廉価であった。たとえば油戸炭坑は明治十七年払下げであるが、払下価格約二万八千円、うち約一万円
を十七年中三回払い、残金は十八年から十三ケ年賦であった。同年払下の院内銀山は価絡七万五千円、うち二千五百円即納、
石鉄山の鉄道並ぴに機関車、価格約五万円は藤田組が無利息十力年賦で手に入れた。
残金を五ケ年据置無利息、二十四ケ年賦で太良鉛山と共に古河に渡され、敷地附属地は無料で貸下げられた。十六年廃坑の釜
第二節明治前期民営鉱山業の展開
一
明治初年以降のインフレーシ・ンは、とくに十年以後激化し、かくて十三年以降、紙幣整理実施を通じて、深刻な
不況期に突入し、明治十八年を以てほぼ諸整理が終了したとされている。明治政府は十二年以降﹁雇傭外国人ヲ以テ
明治前期鉱山業の性格 一一三
’
一橋大学研究年報 社会学研究 13 一一四
各工術ノ主宰ト為セシモ漸次解任シ、之二代ルニ我邦技術者ヲ以テセン﹂︵﹃工部省沿革報告﹄二四頁︶とし、また﹁使
役ノ外国人ハ内国人ヲ以テ之二換へ、器物器械も亦カメテ内国製ヲ需用スヘ﹂きを発令し︵前出︶、工部大学校卒業生
徒を以て百三十余名の雇傭外人に代えるために留学生を選抜する︵同上書、三四七頁︶ことに努めた。これに対し外国
人側から相当の批判があったが、ともかくも十三年以降十七年五月釜石鉱山勤務英人の解雇を以て鉱山課関係の雇傭
外人は跡を絶つに至ったのである。一方鉱山払下は概則発令後、十六年以来続々と行なわれ、十八年になると若干の
大鉱山を除いてはすぺて払下げが完了する。一方、この時期に依然として官行を続けた諸鉱山では日本人の技術者に
よって欧米技術の移植が行なわれた。だが官行鉱山の経費縮減をもたらした事情は、当時の民行鉱山でも同様であっ
た。従って従来の官行鉱山や、富有鉱山での雇傭外人からの直接的模倣は多くその日本的変更をもたらしたのである。
以下この諸過程を摘記しよう。
黒色火薬による発破法は全国的に普及し始めた︵﹃別子二百五十年史話﹄参照︶。火薬の吸湿性に伴う困難さから、十
一年箱根トンネル開盤に使用されたダイナマイトが別子︵十三年︶、足尾︵+六年︶に導入された。坑内照明は依然と
して燈竹、裸火油により、この時期に燈竹から栄螺燈に代ったものもある︵足尾︶。支柱は鳥居留が工夫された︵足
尾︶。坑内通気は一般に従来通り自然通風により、若干の鉱山では人力通風器が使用された︵足尾など︶。坑内運搬で
の捲揚機はさほどの普及を見ず、人力捲揚韓輪︵一日五〇屯内外︶、馬絞車︵佐渡、別子︶などの他はすべて人背によっ
た。坑外運搬は若干の鉱山で道路改良︵別子の車道新設典型︶、軽便軌道︵民鉱では足尾+八年のみ︶新設が行なわれたに
すぎない。排水設備も十三年佐渡におけるコーニッシュ・プランジャーポンプ新設を唯一例とする。依然たる箱樋使
用︵別子典型︶、および別子が東延斜坑開難に関するラ・ックの設計を変更したことなどは、日本的改良の典型例であ
ろう。
︵104
ヤ ヤ ヤ ヤ
選鉱過程。銅選鉱は一部を除いては第1系統図の如く行なわれていた。これは足尾を例にとったのであるが、民鉱
の銅選鉱で新しく機械を導入したのは足尾を代表としている。すなわち足尾では佐渡、生野を模倣して砕鉱機、回転
飾、手動跳汰機を導入し、多田を噛矢とする
抜堀上鉱
〔手 砕〕
[
2分5厘格子筋
明治前期鉱山業の性格
i
2分5厘以上
〔ク穴才易」量坤1〕
下鉱
〔板 取〕
精鉱 下鉱
r⊥r
Lrr
〔丹磐製造〕
2分5厘以下
〔然下〕 」二鉱
1
二五
焙焼︶、煉瓦溶鉱炉設置︵佐渡、その他︶、送風
改良︵阿仁十五年、反射炉、十六−七年、ヒーブ
精錬過程。乾式精錬では官行鉱山での焼鉱
ヤ ヤ ヤ ヤ
態そのままであった︵第3、第4系統図参照︶・
ある。鉛鉱、錫鉱の選鉱過程は依然として旧
策揚選別法が残存している点は注目すべきで
が跳汰機に代えられたとはいえ、依然として
先駆とされている。この系統図において一部
石川島造船所の製作にかかり、国産砕鉱機の
状態に変更した。十七年設備された砕鉱機は
・ールを備え、十八年には第2系統図の如き
第1図 明治十六年足尾銅山選鉱系統図
1撃艦齢宙駕廿騨
訳隣応駅 雲
第2図
11i(
明治十八年足尾銅山選鉱系統図
一番砕鉱
(抜堀鉱)
1
〔30粍斜格子〕
小
大
1
〔ロール〕
〔手砕選別〕
〔回転節〕
8粍以上 8−5粍 5−3粍 3−1.5粍 1,5−1粍 1粍以上
下鉱 中鉱 精鉱
(燕)1
〔砕鉱機〕
〔手動跳汰機〕
1
〔15粍回転飾〕
1
杢
(掲鉱機)
〔策 揚〕
中鉱
1
(掲鉱機)
精鉱
台
手
︹
中鉱 精鉱
大ー選
下鉱
1
中鉱 下鉱 精鉱
1 『
(砕鉱機)
機新設︵佐渡ルーッ式︶、分銀炉、増蝸設置︵+年佐渡粘土製、+四年小坂黄鉛堆渦︶などにもかかわらず、民坑では草倉
粗鉱
1
石
32
下 醐
以 手
粍−粍
︹
64
明治前期鉱山 業 の 性 絡
〔64粍格子〕
石
精
一一七
チーヤ7オーゲル法を先駆とする湿式精
のである︵第5系統図参照︶。八年小坂の
はハンチントン磨鉱機が導入されていた
富むといえよう。一.方、官行生野鉱山で
模な乳鉢で行なったことは多くの示唆に
転し、また金平︵十一年︶で混柔を小規
水力︶導入に失敗し、旧来の下稼法に逆
野がオジェー雇傭による掲鉱機︵ただし
どで生野の樽混乗法が模倣された。芹ヶ
法では、半田︵七年︶、山ヶ野︵十年︶な
下吹が奥州吹に代ったことである。混示
変化はほぼ十八年を境として全国的に山
改良としては面谷の風車吹︶。いちぢるしい
南蛮絞、小吹が行なわれていた︵若干の
︵十五年︶、足尾︵十六年︶の反射炉設置、別子︵十五年︶の溶鉱炉新設以外は、もっぱら旧来の床吹法︵焼窯1吹床︶、
第3図 明治前半期細倉鉛山選鉱系統図
粗 鉱
1 一
〔手砕選別〕橋
r」r奉
錫鉱 廃石 研
1 一葦
〔焙焼〕 報
1 社
〔踏臼粉砕〕会
1 学
〔、.,薮、聾分1 箋
r一⊥r ・3
小 大
1
〔セリ舟〕
「〔轟,〔一臼〕
水 小 大
1
1」r
〔汰鉢〕
〔汰鉢〕
廃石 精鉱
廃石 粉鉱
{
F
1
大
小
廃石
上鉱
〔筋別〕
〔鯉」,r一]大
〔トベ板〕 〔汰鉢〕
r−l r⊥r
廃石 精鉱 廃石 精鉱
八
I I
渡鉱山は、採鉱所︵大竪坑−深六七〇尺延長六千尺、大切竪坑−深四二〇尺延長八千尺、鳥越竪坑ー深四八O尺延長六千尺、百
いまこの期間で恐らく最高水準に位すると思われる佐渡鉱山の設備状態を記してみよう。明治十八年六月現在、佐
ヤ ヤ ヤ ヤ
水沈澱を行なった。
湿式収銅試験を行ない、十一年には湿式収銅工揚建設を起工した。また別子ではコワニエ示唆に基いて十三年より流
︵11︾
十八年キス法が小真木に試みられたがいずれも結果は良好でなかった。別子ではゴットフレイの教授によって九年に
ラットナー塩化法が山ヶ野に、またザクセンのフライベルグ大学卒業後帰国した大島道太郎によって十七年パテラ法、
れるに至った。足尾でも明治十年に硫酸化焙焼法が試みられたといわれている。また十二年にはオジェーによってプ
錬においては、その後小坂︵十四年︶でオーガスチン法が行なわれ、十六年以降軽井沢、東松等東北諸鉱山で模倣さ
泥
第4図 錫鉱選鉱系統図
枚坑、大疎水道ー延長一万一千五百尺、選鉱所−十一棟︶、精鉱所︵混乖精錬揚⊥二六四坪、汰淘揚−二五一坪、熔鉱揚二四七坪、
精銅揚一五五坪、コークス竈、丹馨製造揚ー三九坪︶、修繕所、分析所及び附属地十六万坪、家屋総計五八棟から成る。坑
内には大竪坑に十二馬力の汽機を備えており、捲揚機は全坑で三基、ポンプには大竪坑一基、他は手動ポンプ。一ヵ
月出鉱高荒鉱約六百四十万斤、使用火薬五百貫、使用ダイナマイト五百ポンド。鉱石運搬軌道は坑内延長約一万一千
尺、線路数一一、坑外延長約六千尺、軌道数四、本局採鉱所間には約二十町の電話が設けられている。混瀬揚では百
馬力汽機一、砕鉱機二、鳩鉱機五、混瀕鍋十五、分離鍋七により、一日砕鉱量τ一〇1一五〇屯、培鉱、混瀕、分離
石華鉱機
ントン磨錺,機
ハー
ウィノレフレー汰盤
示面銅盤
明治前期鉱山業の性絡
鉱 石
汰鉱 鉱尾
嫉. 沃津 矛尼釧
一錬
湿式製錬
卿鵬
一一九
一八○馬力に上る。十七年七月−十八年六月
︵12︶
十四時間使用工数一五七人。動力は汽力総計
間、坑外は十二時間。混瀬、汰淘、熔鉱揚二
労働者合計一五三八人である。坑内労働八時
ている。技術者十七人、属官、傭員計五八人、
絞炉三、コークス釜二列十二口その他を備え
一〇馬力送風機、反射炉、分銀炉各一、南蛮
枚、一日汰淘量九屯、熔鉱揚では、熔鉱炉三、
揚では四〇馬力汽機を始めとして、汰板二十
量約四十屯、一ヵ月使用石炭四五〇屯、水銀五千斤、丹馨一万六千斤、食塩三千斤、石炭二千斤、青酸カリ七斤、汰淘
第5図明治十八,十九年生野鉱山
選鉱系統図
一橋大学研究年報 社会学研究 13 一二〇
の産量は純金約三一〇〇オンス︵全国一︶、銀約十万四千オンス︵全国四︶、銅約三八・五万ポンド︵全国七︶であった。
︵10︶ とくに後者は、ラ・ックが欧州人二人の技術者の雇傭により、深さ約五二〇米、斜度四九度のこの斜坑を八年半で開墾、
百五十米までは馬絞車、四百米までは二〇1二二馬力汽力捲揚機、四百米以上は四〇馬力捲揚機使用を設計した。しかるに、
別子では鍛、鎚、黒色火薬などの幼稚な方法で開始した。このため明治九年起工後十四年までに僅か一二〇米しか開掘できな
かったのである︵﹁別子二百五十年史話﹂前出、三二八−三三〇頁︶。
︵11︶ 工作局技術生派遣や、装置は輸入又は造幣局製作にかかり、飾は生野を模倣して、酸化焙焼法を行なった。
︵12︶ 麓三郎氏蔵の﹁佐渡鉱山局﹂と題された表︵明治十八年六月現在、全一枚︶による。
一一
金属、鉱山業以外の関連産業について明治前期の特徴をみておこう。
鉄鋼業の設備の革新。この時期の鉄については、とくに釜石および中小坂鉱山の操業開始および廃山払下げが注目
に値する。官行軍事工廠設置以来、とくに明治十四年海軍造兵廠でクルップ製鉱炉が設けられた時にも、製鋼用銑は
外国産が使用されていた。明治十五年の内地産鉄類総価額は約三六万円、輸入は約二一一四万円であって内地産額十五
−十八年、﹁四箇年ノ合計ヲ以テ尚ホ且ツ最少数ナル十五年ノ輸入価額二参拾万円の不足アリ﹂︵杉村次郎﹁日本ノ鉄業﹂
﹃鉄考﹄所収、一二七頁︶とされている。国産銑鋼はすべて砂鉄であって、﹁此砂鉄業ハ採取容易ニシテ欧米ニテ採鉱
スル岩鉄トノ比較モ.⋮:砂鉄ノ方却テ安価ナリト錐トモ如何ンセン其熔鉄炉粗拙ニシテ其内部漏斗形ナレハ入装スル
砂鉄ハ粉形ナルカ故二炉熱漸ク熱シテ下部熔解流下スルニ至レハ上部ノ未タ粉形ナルモノ降テ熔液中二混入シ是等ノ
為メニ得ラルヘキ鉄ノ百分中六十分ヲ得ルニ止リテ余ハ廃棄スルモノト云フヘシ﹂︵同上、二西ー五頁︶という状態
であった。従ってこれら砂鉄は輸入銑鋼に圧倒されて、四群数十ヶ所の採鉱および製錬所を総称する広島官行鉄山の
十六年度作業費は﹁僅々約拾壱万円﹂︵﹃日本工業史﹄鉄鋼篇前出、五七頁︶にすぎず、落合作業揚の小高炉、鉄管熱風
炉設置、トロンプ装置などの試みも失敗に終っていた︵同上、五八頁︶。
そこで既に官収して、外人を雇傭し軌道を敷設し、薪炭を用意し高炉建設中であった釜石︵七年︶、中小坂︵+一年︶
の火入れが非常に期待されていた。陸海工部三省が連署して﹁精鉄ノ用タル至大ニシテ、船艦ノ機関大小砲ヨリ万般
ノ製造機械二至ルマデ概ネ鉄製ニアラサルハナシ。而シテ本邦産鉄二富ムト錐製鉄ノ業未タ開ケサル弘以テ之二供ス
ル能ハス、人民此業ヲ創記スルノ日ヲ待タンカ、事業宏大ニシテ成業ノ期ヲ予図スヘカラス。⋮⋮今三省協同シテ互
二資金ヲ支出シ其不足ハ之ヲ国庫二仰キ、一大製造所ヲ創設セン﹂とする﹁票議﹂︵二月︶︵﹁工部省沿革報告﹂前出、二
五頁︶の行なわれた明治十三年、釜石の二五屯高炉二基が操業を開始した︵九月︶。出銑は最初の十三日で三屯、爾後
一日七屯であったが九十七日間で木炭が欠乏して操業を中止した。此の間出銑量一四八四屯、処理鉱石二三二〇屯。
十四年には焼炭夫を近県は勿論、近畿地方に至るまで募集し年間需要量約三千万ポンドの用炭を製造せんとした。十
五年には第二回の火入れが行なわれ、吹入当時は成績がよく、一日平均二十二屯の出銑であった︵杉山輯吉﹁釜石鉄山
精鉱の景況﹂﹃鉄考﹄前出、一三六頁︶。しかしながら、やがて木炭が欠乏し、これに代えて一時コークスのみを使用し、
鉱石との調合比を誤ったために鉱津が粘結し湯口を閉塞するに至り、炉内冷却甚しく二百日で休止した。雇傭外人技
術者も﹁斯くの如き異常は未だかつて見ざる所なりと、苦慮措かず、種汝方策を施せども、遂に効を奏せず、終に鼓
明治前期鉱山業の性格 一二一
に至りしなり﹂︵﹃明治工業史﹄鉄鋼篇、前出、八八頁︶。かくて釜石は廃坑と決定した。釜石が再び鉄山として現われる
一橋大学研究年報 社会学研究 13 一二二
のは十九年田中製鉄所による日本式小高炉の出銑以後である。一方、中小坂は十二年七月高炉一基操業開始八月中止
以来、二年間に五回の再開および中止をへて、遂に十五年一月﹁中小坂鉱山ノ鉱業ハ熔鉱炉築造ノ完全ナラザルカ為
メ屡凌破損シ、動モスレハ改築修繕二数月ヲ経過シ、其時々当二営業ヲ休止スルノミナラス、多少ノ経費ヲ支出シ、
収支相償ハス。:⋮寧ロ廃業センコト﹂︵﹁工部省沿革報告﹂、一三九頁︶の建議が採用されて、十一月には払下げられる
に至った。十三年の三省の﹁票議﹂は後に八幡製鉄所建設となって具体化されたのである。
石炭業の展開。石炭では育同島、三池炭坑設備の充実と筑豊の若干炭坑で新設備が行なわれたことが注目に値する。
島炭坑は既に旧藩時代に英国グ・ーバー商会と技術提携を行ない、官行時代には周知の囚人労働によって操業して
は軽便軌道︵九年︶が馬力︵十年︶で曳かれ、河港は改修、竣漢されており、二十一年に従来三池炭一手販売権を獲
風機︵十七年ギバル式︶も三池では早期に備えられ︵+年、十三年、コーニッシュ汽罐、十三年ランカシヤ汽罐︶た。坑外で
ース捲、十六年十二吋捲き、十八年十一吋捲きーいずれも非凝縮式単動双汽筒︶も蒸気ポンプ︵十年、十二年、十九年︶も扇
どが水準下採炭であるから、坑内設備は金属鉱山とは比較にならぬほどの充実を必要とする。従って捲揚機︵+年コ
用墾︵十二年七浦、十九年宮ノ浦︶には火薬が使用され︵六年︶、二十年にはダイナマイトが採用された。炭坑はほとん
炭坑も六年官行以来囚人を使用し、ポッター、ムーセ、および鉄道寮傭英人を招聰して設備を新設、改善した。竪坑
を使用し、残柱式が採用せられていた。七年に後藤象次郎の所有に帰しても技術面は英国人に担当されていた。三池
いた。既に明治四年には二本の竪坑︵一五〇尺ー上八尺層、一三八尺−+八尺層︶を持ち、汽罐を備え、捲揚機、ポンプ
︵13︶
由口
得していた三井に払下げられた時には、時価五十万円のデービi吊り下げポンプも設置されており、年産三七万屯、
全国一︵全国産炭の約二〇%︶の大炭坑であった。
一方、筑豊諸郡においては、舶用汽罐設置の原生的失敗︵八年糸田、九年直方、十一年香月︶を重ねつつ、九年米田、
十年切貫で成功して以来、汽力が導入せられ、捲揚機︵切貫、目尾︶、排水ポンプ︵+四年目尾、+五年斯波スペシャル、
十八年豊国など︶に応用された。十四年の下山田等三坑の斜坑用開墾以来年平均三、四坑の斜坑が開馨され、十八年に
は芳雄、豊国、明治などにも斜坑が開かれた。竪坑開墾は十六年起工十八年完成の新入︵手掘発破にょる︶二四〇尺が
筑豊の哨矢である。この新入炭坑ではコーニッシュ・ランカシャ汽罐が備えられ、捲揚機、スペシャルポンプ︵十二
吋︶を有していた。十八年海軍予備炭田編入の豊国炭坑では第一坑開墾に際しダイナマイトを使用し、コーニッシュ
汽罐によって排水ポンプ︵スペシャル式十吋︶を作動し、二十年には捲揚機を備えた。高島、三池についで坑内運搬に
炭車を使用したのは斯波︵十五年︶を最初とする。
石油採取業の推移。石油においては未だ新設備の効果が現われたとなし難い。米国繋井機械としては先に長野石炭
油会社で用いられたものが荻平で愛国石油により九−十年使用された。また九年に輸入された大型盤井機は静岡およ
び長野で試みられたが良好な成果を収めなかった。十三年工部省赤羽工作局製造の馨井機も北方油井試掘に失敗し、
十四年には払下げられた。採油は依然として手掘全盛であった。このヒとは産量を見ても明白に現われている。明治
十年一万石、十一年には約二万石に上った原油生産量は、十三年の約二万七千石を最高として、むしろ減少に向い、
十七年には六千石、十八年には約七千石になっているのである。なお明治年間、鉄鋼、石油は輸入鉱産物の最たるも
明治前期鉱山業の性格 一二三
六 四 二
、 _⊃ 、
_ 一 八 五
四 九 九 六 三
鉄
五 四 三 七 六● ● 9 ■ ●
鋼
七 一 九 七
一 一 一
、 、
四 一 七 四
四 三 四 五 四
石
三二 五 五 〇〇 ■ ● ● ●
油
五 六 三 一
三 二 一
三 五 七 四
八 三 一 二 六
0 9 ● o ●
一 一 五 三
三 一
一 三 九 四
四 八 三 一
亜
一橋大学研究年報 社会学研究 13
年年年 年
のだった。第6表参照。
代
治治 治 治
第6表 輸入重要鉱産物累年表︵単位万円︶
年
四 四 三 三 二
五 十 六 一 六
鉛
鉛
・ … ?
八 四 一 六
二二 一
六 七 四
五 八 五 九 八
” 二 ● ●
三 _ 六 二
二 一
〇 三 五 二
七 九 四 二 九
石
炭
錫
● ● o ■ o
二 四 五 七 一
八 六 三 一 一、 、 、 、 、
o ● ● ■ ■
〇 二二 八、 、 、 、 、
全
鉱
b全
六 五 三 三
入
産額
六 四 九 八 一
三 一 一 三 三
三 六 〇 一 〇
五 四 八 ○
a輸
備考。明治四五年現在輸入額百万円以上のもののみ掲出。輸入国、石油はアメリカ、鉄綱・亜鉛はイギリス、ドイツが大部分を占める。
輸
九 六 九 六 三
総
額
九 〇 三七 四
0 ● ● 0 ●
五 四 〇 〇
=:== 一 =二 _ 一 五 _
’ 二 。 〇
七 _ 六 六%
入
一二四
三 四 一 四・九
比率alb
︵13︶ 後年︵二十一年以降︶高島炭坑問題として当時の社会の耳目を惹いた事情は設備の近代化が労働関係そのものとは相対的
に独立した存在であることを確証した。
三
以下今期について若干の点を表示して本章を終ろうと思う。まず明治十一、十六、二十一年の鉱種別産量、価額お
よぴ輸入量は第7表に示す如くである。鉄・鉛・石油を除いて生産は飛躍的に増大している。いま鉱山払下げ直前の
官行民行鉱産量および比率を表示すれば第8表の通りであって民行鉱山の産量が著しく増大していることが確認され
よう。このような産量の増加は何によってもたらされたのであろうか。このことをさぐるために作製したのが第9ー
明 明 明 明 明
二・五
鉄︵万仏t︶
四九六・二
二二四・四
石油︵万石︶
五八五・九
四三九・一
五三三・二
鉛︵万斤︶
三・六
石炭︵万t︶
一五・四
二三・六
錫︵万斤︶
八・二
九・七
六・九
水銀︵万斤︶
丁六
九・七
一六・五
鉛︵万円︶
二五・七
石炭︵万円︶
○・四
一七・八
九・四
六・六
亜鉛︵万円︶
二六五・三
五・二
四・七
四・七
錫︵万円︶
七・三
四・八
四。四
水銀︵万円︶
三・五
三・九
銅︵万円︶
銅︵万斤︶
一四・○
石油︵万円︶
三四・三
三・○
一〇・三
一八○・六
一〇〇・六
亜鉛︵万斤︶
第7表 明治十一ー二十一年、鉱種別鉱産物輸入量及ぴ価額︵万円︶
三・○
年 代
一一年
一〇・八 七六八・六
六〇・六
二一・二
鉄︵万円︶
一四八・七
三七・九
三六六・一
一・九
三五一・九
一二〇・○ 二四五・六
一・七
一六年
二一年
年 代
二年
一六年
二一年
六 六 三■ o ●
七 五
● o ・
二 七 〇〇 ● ●
四 三
一
八 一 〇
石
炭
二八 O
o り ●
● ● o
比
七 三 〇
上
百
分
同
一
八 一 〇
二 七 〇
︵万t︶
○ ○ ○
同
上
百
分
比
一
九 〇
︵万斤︶
九 九〇 . ■
比
O O O
同
上
百
分
一
五 四 〇
七 三 〇
︵万匁︶
○ 一 一
一二五
備考。第7表右欄て、鉛、錫は﹃明治工業史﹄鉱業篇により、他は東京鉱山監督署﹃日本鉱業誌﹄による。第7表左欄で鉄は鋼を含む。1仏t肪一六八O斤として換算、
行 行 国
一 一
、 、
第8表 明治十六年、鉱種別官行、民行鉱山産量及ぴ比率
9 ● ,
同
上
百
分
一
五 四 〇
二 七 〇
金︵万匁︶
八 ○
五 五 〇
比
三 二 六
七 四
銀
明治前期鉱山業の性格
四 三 八● O O
銅
一
四 八 二
石油はーガ・ン闘二・○八四九斤として換算。
民 官 全
一橋大学研究年報 社会学研究 13
銀︵万匁︶
鋼︵万斤︶
四五・九 1
ス
ロ
五 一
ノ、 _
石炭︵万屯︶
七
、 ノ、
匁 一』
︸ボンド腿○・
四一・一 四〇・九
一〇〇・三 一〇〇・〇
率
備考。官行鉱産は﹃工部省沿革報告﹄により生野・佐渡・院内・阿仁・三池・油戸・小坂の十五年七月ー十七年六月の年平均。
七五六斤として換算。官行炭坑には幌内を含む。
金︵万匁︶
鼓大五山
民 行 五一七五
一〇〇・○全 国
二五・七
一〇〇・〇全 国一、一二九二
服大三些六五孟
八・〇 一〇〇・〇 全 国六四三・五
二・三 二八・八
四九・二最大三山
ン
六六・〇 最大五山 五五五・○
オ
六・〇 七五・〇 最大五山四二六・七
率
山最山大国
/、 ニ ノ、
一 七 〇
三九・七一〇〇・〇
︵万仏t︶
石 炭
アンチモ
︵万斤︶
九〇
七〇
二〇
銅︵万斤︶
一〇〇・○全国 二〇干三一〇〇・○全
○〇
四九
〇七
率
最
四 最大 七八二 三八・六
六・九
一
四 山 民行最 七丁七 三五・四 1
ー さ二山
ll大国
率
四八六・〇 四二・七
〇二
三〇
四九
九一
銀︵万匁︶
一、
五九〇・五 五一・八
山最山大国
率
四 七〇
一 九〇
金︵万匁︶
九 四 八
大民五最全
四行
山大国
第10表 明治二十一年大鉱山炭坑産童及ぴ比率
三行
をぬく。アンチモニー1一山は市ノ川。
真木。罠行四山は上記より佐渡を除く。銅ー最大五山は足尾・別子・阿仁・草倉・尾小箆。石炭−最大四山は三池・高島・幌内・大辻。民行三山は上記より幌内
備考。﹃明治工業史﹄鉱業篇﹃北海道鉱山略記﹄﹃芹ケ野鉱業訪﹄﹃山ケ野鉱業誌﹄による。山ケ野は、十九年−二十八年の平均約四千六百貫しか出ていないのて表中か
ら省略。金−最大五山は佐渡・基隆︵砂金︶・院内・芹ケ野・生野。艮行三山は上記より佐波・生野を除いたもの。銀ー最大五山は小坂・院内・佐渡.阿仁.小
五最全
生野・山ケ野・芹ケ野・小坂。民行二山は山ケ野・芹ケ野。銀−最大五山は半田・小坂・佐護・院内・生野。民行三山は半田・茂住.神岡。銅−最大五出は別
子・草倉・足尾・阿仁・荒川。民行五山は阿仁かぬけて尾小屋が入る。石炭ー最大三山は高島・三池・幌内。
備考。﹃工部省沿革報告﹄﹃明治工業史﹄鉱業篇、﹃北海道鉱山略記﹄﹃山ケ野鉱業誌﹄﹃芹ケ野鉱業誌﹄による。山ケ野は九−十八年平均で算出。金−最大五山は佐波.
大大
二五
山行山国
率
第9表 明治十六年大鉱山炭坑産量及ぴ比率
最民最全
大民五敢全
第n表
買 収 鉱 山 名
明治十ー二十一年財閥鉱山炭坑買収表
三池︵二一︶。
高島︵一四︶、双子︵一七︶、松島︵一八︶、碓井︵二一︶。
小坂、市ノ川︵一七︶、大森︵二〇︶。
岩雄登、神岡︵一九︶、茂住︵二〇︶。
O︶。
足尾、八総︵一〇︶、谷花︵一一︶、軽井沢︵一二︶、広谷︵一六︶、 院内、阿仁、太良︵一八︶、 中天井及美倉、水沢、不老倉︵二
木浦、土々呂、小真木、黒盛、面谷︵二一︶。
笹ケ畝、青滝︵十二︶、北方︵十三︶、大桐︵十四︶、帯江︵一七︶、 瀬戸︵一九︶、樫村、多田、 大葛︵二〇︶、別所、小泉、根峰、
財閥名
井菱田井 河 菱
である。十六年には金銀銅最大五山で五五−七五%、石炭三山で四〇%以上を占めているし、好況期で籏生した
業総覧﹄、農商務省﹃本邦鉱業の一班﹄による。各文献とも年代に多少の相違がある。
備考。﹃工部省沿革報告﹄﹃明治工業史﹄鉱業篇、﹃北海道鉱山略記﹄・農商務省﹃鉱山発達史﹄、﹃古河市兵衛翁伝﹄、太平鉱粟株式会社﹃社風の淵源﹄、 日本書房﹃日本鉱
三三藤三 古 三
明治前期鉱山業の性絡 一二七
の数字は必ずしも完全なものではないが、財閥系大鉱山が明治前半期に既にかくの如く大きな比重を有していたこと
炭坑は第n表の如くである。そしてこれら財閥の鉱山産量が全国鉱産中に占める比重は第12表の通りである。これら
吉伝︶ことを考慮すれぱこの表の示す意義は明瞭である。このことを確認するために鉱業財閥の今期に獲得した鉱山
二十一年にも四〇%以上を堅持している。特に石炭は当時筑豊諸坑だけで六〇〇以上にのぼったといわれる︵麻生太
−o
〇 六 八 五
四 七 三 二 一
2 』》二.二 _ _
二 一
○ ○ 〇 三 一
九 二 九 一 六〇 〇 ● ● 〇
三 一 六 八
九 二
〇 四
三 六 一 ● 9
1 一五
(全)四 (2〕
} 一
〇 四
○ 八 一
七二 _ ?
(11 (31 14〉
・ ’ 二。
三 六
六 三
1八 ? 三 ?
11} (31
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』二
I l八 ? ? 111
二 二
○ ○
四 七 一
九 六 七 四
七 一 〇 七
叩 1甲亦卒
剛
㎜合計比率
〇 四 五 〇
土 1主孟去
一二八
、
一橋大学研究年報 社会学研究
一
をよくあらわしていると思われる。
)一 ) ) ) )
官 行 合 計
一
二 三 八
〇 五 六
小 計
? 五_五
13) {21 12)
〇 九 六
● 二 。
全国古河三菱三井住友藤田
● o o
一
一
七 五
茎
九 三 五 五
七 三 八 二 九
二 三 一 八 ○
o
四〇
』} _』二 _ ハ
13
第12表 財閥鉱山産量及ぴ比率︵明治二十一年︶
iア石 銅 銀 金
O l九五 ?
(1〕 (1)(11
● ・
〇 五 九 一五
● o ● ● o
第二節 近世鉱山 業 の 技 術 的 限 界
第一節 近世鉱山業の技術形態
第一章 近世鉱山業における経営形態
ある。
追注。本稿は﹃日本鉱山業史研究﹄と題する筆者の論文の一部である。全体の構成の中における本稿の位置は次の通りで
はずである。なお三井神岡の二十︸年鉛産旦は=二五万斤であるか、この年の全国生産量は﹃明治工業史﹄鉱業篇によれば約六七万斤となっている。また三井岩
雄登硫黄山産斌は﹃北海道鉱山略記﹄によれば約四万石となっており、換算しえない。掲出中、三井茂住銀、三菱吉岡銀はいずれも十六年の数字しかないのてこ
れによって計算した。三弁石炭は三池、三菱石炭は高島のみの数字である。
衛翁伝、一九四頁︶以外は、すべて記載されているもののみによって計算しているので、全鉱山を包含しているものてはない。従って比重は当然もっと増加する
備考。第9表の文献による。銀は全国産量に二一ー二三年平均を取った。これは、各鉱山産量が一二−二三年にばらばらに発見されるからてある。古河産銅︵古河市兵
ン炭
(チ( ( ( (
モ万 万 万 万斤_屯 斤 匁 匁
第三節 山師制度の構造
第四節 近世鉱山業の経営形態の推転’
一二九
︵以上は、﹁近世鉱山業の経営形態−飯揚制度の原型としての山師制度﹂と題して﹃武蔵大学論集﹄第九巻第二号、 昭和三六年に収録︶
第二章 明治前期における鉱山業の革新
第一節 鉱山官行と先進技術の導入
︵以上は﹁明治前期における日本鉱山業の革新﹂と題して﹃一橋論叢﹄第六九巻第五号、昭和四七年に収録︶
第二節民間鉱山業の性格
︵以上は本稿に収録︶
第三節 鉄鋼業、石炭業、石油業の展開
第三章 採鉱業における飯揚制度の展開
第一節 山師制度の動揺
第三節 飯揚制度の成立
第二節山師制度の分解
第四節飯揚制度の変容
第四章 精錬業における飯揚制度の解体
︵以上は﹁近代日本鉱山業の成立﹂と題して一橋大学﹃社会学研究﹄第一二号、昭和四七年に収録︶
第一節 幕末精錬業の基本的特質
第二節 生鉱自熔法による大経営の成立
第三節 生鉱自熔法の歴史的意義
明治前期鉱山 業 の 性 格
第四節 飯揚制度の解体
一橋大学研究年報 社会学研究 13
一三〇
︵以上は﹁日本における近代経営の成立−金属精錬業e、 ⇔ー﹂と題して﹃武蔵大学論集﹄第六巻第二号、昭和三三年に収録︶
︵昭和四八年二月一九日 受理︶