はじめに 第一章 戦国時代の城 今日、現存している城のほとんどは戦国時代に築城されたものである。しかし、戦国時代に建てられた城の大 半は、山を切り開いて造る山城だった。戦国時代の城がどのように進化していったのか、基礎的な知識として第 一節に「築城の工程と技術」をまとめ、第二節「戦国時代の山城」から本題に入っていく。第三、四節では、戦 国時代の城を変えた「織豊系城郭1」を織田信長と豊臣秀吉に分けて述べる。 第一章 築城の工程と技術 城は、四つの工程に分けられ造られていった。目的にあった土地を選び、どの程度の土地を城とするのかを決 める工程を「地選・地取」という。守りに重きを置くのであれば山、政治のためなら平地という様に土地によっ て役割が異なっていた。山城・平山城・平城という城の区分は、この最初の工程でどこに城を築くかによって決 まる。次に、城内のどこに何を配置するのか区画することを「縄張り」という。この名前は、実際に縄を張って 区画整理をしていたことに由来する。その後、城主の家臣や農民らの手によって「普請」という土木工事の工程 が進められる。最後に、大工などの職人集団が、普請の上で行う「作事」という建築工事を経て、城はようやく 完成をみる。これらの工程を、小規模の城では数日、大規模となると拡張工事を含めて十年以上かけるものもあ った。日本最大の縄張り面積を誇ったとされる江戸城(東京都)は、三十二年かけて築城されている。これら「地 選・地取り」 「縄張り」「普請」「作事」の四工程は、江戸時代以降も、乱世の習いとして受け継がれていった。 人々が、外敵から身を守るために土を盛ったことが城の始まりとされており、防衛術としての築城術は時とと もに変化してきた。その築城技術の代表として「曲輪」「堀」「土塁」「石垣」「城門・枡形」「櫓・天主」につい て述べる。「曲輪」とは、区画分けされている城内の一つの区画のことを言う。本丸・二の丸・三の丸という言 い方が使われるのは織豊系城郭からで、それ以前までは本曲輪・二の曲輪・三の曲輪という言い方をしている。 また、本丸との位置関係により東の曲輪・西の曲輪というように、東西南北が冠される場合もある。縄張りの際、 この曲輪の配置をどうするかを考えることになり、主に輪郭式・梯郭式・連郭式、の三つの基本類型が確認され ている。「堀」には空堀と水堀の二種類がある。現存する大きな城の周りには水堀がめぐらされていることも多 図 1 山中城(静岡県) 左:障子堀 右:畝堀 出典:三島市観光協会 山中城址公園 HP http://www.mishima-kankou.com/msg/midokoro/10000020.html いが、戦国時代の山城までは空堀が一般的だった。その理由として、水堀は籠城側が鉄砲を活用するために造っ たとされている。当時の鉄砲は真下に打てないため、敵との戦闘距離を水平に保つ必要があった。2しかし、鉄 砲が使われ始めるころ、城は平地へ移行していったため理由は定かではない。単に、山では水堀を保てるほどの 水量を確保できなかったとも、山城の防御にとって水堀を必要としなかったとも言われている。堀を上ったり下 1 2 織田信長、豊臣秀吉とその家臣団たちが造った城の総称 いま蘇る戦国絵巻 城郭の歴史より参照 りたりしている敵は、城内からの弓矢の標的にされやすく、防御上極めて有効だった3。戦国末期には空堀も様々 な工夫が凝らされるようになる。障子堀や畝堀と呼ばれる空堀も現れる。図1の障子堀は、敵軍の進路を格子状 にすることで進軍を制限し、敵が集まるため攻撃もしやすくなっている。「土塁」は城を覆う土盛りのことで、 石垣以前はこの土塁が盛られていた。当時の兵士は、3m 以上もある槍を立てて移動しており、外からどこに兵 がいるのか分からくするために、4m 以上の土塁が築かれたとされている。また、山を切り出す切岸という技術 も土塁の一種とされており、その切岸を強固にするために生まれた技術が「石垣」であった。土塁を堅牢なもの とすると同時に、土塁の上に大きな建物を立てられるようになったとされている。4石垣の積み方は、石を加工 せずに積み上げた野面積み、石を積みやすく加工して積み上げる切込ハギ、さらに石を整形して積む打込ハギと いう方法がある。また、牛蒡積みという、表面から見えない奥に石を伸ばして積む技術を用いられているものも ある。牛蒡を石垣に埋め込むような形に積むことで、石垣は盤石になり、400年経っても崩れにくいのである。 5「城門・枡形」の二つは、城外と城内を区切る施設として特に重視されていた。枡形は、門を入ったところの 空間の事を言い、敵軍が直進できないような造りにしている。枡形には門が二つ造られることが多く、一般的な のは、最初の門を通過した後に右折なり左折なりしたところにもう一つの門があり、そこを突破しなければ城内 に入れない仕掛けとなっていた。敵兵が門のところに集中することが予想され「城門・枡形」には勝敗の分かれ 目がかかっているとされているほどだった。城門には鉄や銅を使った鉄門や銅門が施されるなど、重厚かつ権威 を示すものとして豪華に築かれる傾向にあった。「櫓」は、矢倉の字もあるように本来は武器庫として使われて いたが、戦時では物見櫓として使われるなど用途は多様化していた。石垣の隅に築かれる隅櫓、塀の役割を兼ね た多門櫓、櫓と櫓をつなぐ渡り櫓などがあり、その中には二層・三層高くなったものもあった。その櫓が「天主」 の起源であるという見解もある。6「天主」は、本丸に立てられ、城中で最も高層である建物だ。上から敵を観 察・攻撃する「櫓」が起源だとされているが、天主は権威の象徴としての性格の方が強かった。初期の天主は、 最上層に大名の生活空間が設計されていたが、段々天主には居住しなくなる。天主とは別に、日常生活を送る施 設を設けていた。それでは、戦国時代の山城について述べよう。 第二章 戦国時代の山城 南北朝時代に興隆を見た山奥にある山城は、政治・経済上の拠点として不向きなため、室町時代に入りほとん ど使われなくなった。戦国時代にかけて、政治拠点としての居館と、軍事拠点としての山城が共存を図る新しい 型の城が現れる。新しい城は、山城に居館としての性格をもたせたもの、居館とその裏手に詰の城として山城を 築いたもの、平地の居館に城の防御機能として曲輪をめぐらせたものの三種類である。それらの中には巨大なも のもあり、越前守護所として朝倉孝景が築いた一乗谷城は、本丸から三の丸、寺院や武家屋敷が集まり南北二キ ロに渡っていた。拠点としての本城を築いた後、支城、枝城、端城という小規模な城を戦略的につないだ情報網 が作られた。軍勢移動用の「繋ぎの城」、情報伝達としての「伝えの城」、領国の境界にある「境の城」と呼ばれ るものが多く築城されていた。また、本城、支城以下のほかに、村人が有事の際に立て籠もる「村の城」、寺が 門前町や宗徒の町を囲んで城郭化した「寺内町」という城も同時期に存在していた。一向宗の本願寺に見る城郭 は、戦国大名に対抗する力を持っていたとも言われている。 一六世紀中頃から、大名たちは一部の家臣を兵農分離させ、城下町に集住させる傾向が現れる。重要な政策の 話し合いや、実力差の少ない重臣を強制的に支配下に置くためとされており、先述した朝倉孝景も同様な施策を 取っている。戦国時代の城は、一六世紀後半から織豊系城郭期に入り、大きく進化を遂げる。 3 4 5 6 戦国の城 p139 より参照 天下統一と城 p95 より参照 戦国の城 p166 より参照 いま蘇る戦国絵巻 城郭の歴史より参照 第三章 織豊系城郭 織田信長期 戦国大名は一般的に一つの城を居城に領国支配を行っていた。しかし、信長は那古屋城・清州城・小牧山城・ 岐阜城・安土城と五度も居城を変えており、清州城以降を自らの意思で改築、築城を行った。同時にその城の形 は大きく進化を遂げている。「清洲城」は、織田信友から奪取した城で、尾張における政治の中心地だった。最 大で一辺二〇〇メートルにおよぶ大型居城が中心にあったとされ、その南北には、三十~五十メートル四方の建 物が群在していたことが分かっている。そして、城下町には家臣団の屋敷地が幹線通り沿いに広がり、不完全な がら家臣団の主従化が進んでいた。7当時、城下町には戦国大名の重心だけが集住し、一般の武士は在郷といっ て、それぞれの村に住んでいるのが当たり前であった。信長はそうした在郷の土豪たちの次、三男を家臣団とし て重用し城下住まいをさせていた。そのため人口が膨れ上がり、清洲城はケタ外れに巨大だったと言われている。 「小牧山城」は初めて縄張りから手がけた城で、城下町にこれまでと違う変化が見られる。城下町に短冊形地割 という新しく合理的な都市設計を取り入れていた。街区中央の入会地を排除した高効率な長方形街区と、短冊形 地割の敷地を組み合わせた町家を実現した最初の城下町とされている。8後に、秀吉が京都の改修を行うときに も使われた設計とされ、織豊系城下町の源流であった。また、小牧山城では天守の周りに石垣が発見されている。 段石垣ではあるが、高さは最大で約四メートルあり、織豊系城郭としての重要な点と言える。しかし、畿内では 一五三〇年年代から、畿内周辺で石垣を用いるようになっており、ただの防御としての石垣は戦国時代の城を進 化させたとは言いがたい。同様の石垣が、岐阜城でも見つかっている。岐阜城は、斎藤道三が設計した稲葉山城 の遺構を受け継いだものであり、信長が増改築を行ったと言われている。しかし、大規模で革新的な増改築され た跡は認められていない。9そして、岐阜城入城から九年後の一五七六年、それまでの信長の城の集大成とも言 える「安土城」が完成した。安土城はこれまでの城とは違う「礎石・地下室」「石垣」「天守」「瓦・鯱瓦」の技 術の混ぜ方合わせ方をしている。山頂上部分に「天守」を建てる際、必要となるのは盤石な土台である。その元 となるものが「礎石」であった。「礎石」とは、建造物の柱を支える石の事で、根本の腐敗や劣化を予防すると 同時に大きな重量を支える役割もあった。しかし、信長の設計した大天守は総瓦葺きで、本来であればその重量 に耐えられず崩れてしまう。そこで利用されたのが「石垣」と「地下室」であった。第一章でも述べたように、 「石垣」には土塁を囲むことでその上に大きな建物を建てられるようになる利点があった。また、全重量が石垣 にかからないような工夫として「地下室」を用い、重量を平均的に吸収させていたのだった。10その重量を大き くする原因となったのが「瓦」だった。その瓦には金箔が塗られ、また「鯱瓦」というそれまでにない瓦も使わ れている。信長は「瓦」を、単に屋根瓦としてではなく政治の道具として使い始めたのだった。 既存の技術が使われる中、安土城が注目されるのは、技術の新しい使い方を示した点だと思われる。それらの 技術は、それぞれ「石垣」 「瓦」 「礎石」を得意とする、穴太衆、南都衆、馬渕衆、また熱田大工らの手によって 積み上げられてきたものだった。彼らの技術を集めることにより、信長は五層七階望楼型の天主を権威の象徴と して世に示すことが出来たのだった。信長だからこそ築くことが出来た。安土城は正に、唯一無二の城であった。 その後、織豊系城郭は豊臣秀吉の時代になり、この安土城を雛形に全国へ伝播していくことになる。 第四章 織豊系城郭 豊臣秀吉期 近代城郭の要素である、石垣・瓦・礎石を複合的に初めて配置した織田信長は、日本城郭史に大きな進化をもた らした。大阪、石山本願寺に新たに新城を建設されると言われていたが、信長は本能寺の変で没してしまう。そ の後、山崎の戦いで明智光秀を討った豊臣秀吉は天下統一事業を推し進めた。同時に、信長の意思を受け継いだ 豊臣の城が織豊系城郭として日本中に広まっていく。豊臣秀吉の城郭史における活躍は、織豊系城郭を日本中に 広めたことにある。秀吉は、播磨の池田氏を伊勢に国替えし、大阪の本願寺跡地に大阪城を築城する。それは、 「桶狭間」は経済戦争だった p24 より参照 信長の城 p80 より参照 9 信長の政略 p183 より参照 10 いま蘇る戦国絵巻 城郭の歴史 より参照 7 8 五層七階の望楼型天守と言われ、信長の安土城より大きな城であった。淀川、大和川、平野川を城内に引き込み、 瀬戸内と京都・奈良を結ぶ経済の要衝となっていく。大阪城は、天下普請により築城されたため技術が伝播され、 西日本を中心に織豊系城郭は一気に広がりを見せる。天下普請だけでなく、秀吉の命令によって、これまでの山 城を廃城し、新たな城建てさせる例も、毛利市の広島城や長宗我部氏の大高坂山城で見られている。 秀吉は、天下統一を成し遂げ、朝鮮出兵に打って出た。そこで、朝鮮出兵のための拠点として肥前佐賀県に名 護屋城を建設させている。この際、関東・東北・九州の諸大名は、石垣の技術を知らない。朝鮮出兵によって集 められた大名同士で情報交換が行われる。朝鮮ではその技術が活かされいくつもの倭城が築かれている。仙台の 伊達政宗も、「石垣普請の技術も他に負けない程になった」と母親に手紙を送っている。秀吉が病死し、文禄・ 慶長の役が終わった後に、日本では、朝鮮で学んだ技術を活かそうと、石垣の城が全国に築城されることとなる。 図 2 日本の名城 100 分類 42 30 20 8 戦国山城 織豊系城郭 江戸時代以降 その他 Wikipedia 「日本の名城 100」より作成 図 2 は「日本の名城 10011」に選出された城がどの城に分類されるか示したものである。織豊系城郭の四二城の 内、織田信長の城を安土城で最後とすると、四〇城が豊臣秀吉の影響で建てられた城とされる。それだけ、日本 中で広がったということである。その後も、城はいくつも築城され、中には築城主が独自の技術を駆使したもの や、海外の縄張り技術を用いた城も築かれた。しかし、その根底には織田信長、豊臣秀吉が作り、広げた技術が 雛形となり、江戸時代以降の城に受け継がれていったのである。 第二章 織田信長と城 織田信長にとって城とは、天下統一の一つのツールに過ぎなかった。また、その天下統一のために必要不可欠 なものも城であった。織田信長は城を、経済的に、軍事的に、そして領国経営的にうまく活用していた。本章で は、いかに信長が城を用いたのか、まず第一節「」で経済面、第二節「」において軍事的な地選について述べる。 第三節「」では、領国経営者としての信長が家臣団統率に城をいかに利用したかについて述べる。 第一節 経済力の源泉 織田信長が戦国時代で天下統一に近づけたのは、軍略や知略に長けていたからではなく経済を操る政治力に富 んでいたからだと言われている。戦国時代の戦争は経済戦争だったとする「織田信長のマネー革命」の武田知弘 は、戦国大名は経済政策でも戦っていたとしている。信長は、城を経済政策として利用していた。城と言っても 城下町のことだが、信長は築城に際して城下町も設計しており、信長にとっては城下町も城の一部であった。信 長が行った政策に、「楽市楽座」がある。これは自由商売を許可するもので、当時、物によって寺などの「座」 という組合が独占販売権を持っていた。その「座」の特権をなくすことを「楽座」と言い、市で自由に商売をす る許可したことを「楽市」という。この「楽市楽座」は織田信長が考えたと言われているがそれは誤りで、信長 11 観光地としての知名度や文化財や歴史上の重要性、復元の正確性などを基準にして、歴史や建築の専門家など が審査の上で選定したとされる が取り入れる一八年も前から近江石寺で始まったとされ、信長が楽市令を始めるころ寺内町のほとんどが楽市場 であったとされている。12しかし、信長の城下町は繁栄し、競争力があった13。なぜなら、信長はただ楽市楽座 を施行するだけでなく、城下町への流通を活発にする政策を敷いていたからであった。楽市楽座と流通政策を同 時に行うことで、信長の城下町は既存の市や座に対抗出来たのだ。 楽市楽座を促進する政策として「関所の撤廃」 、 「道路の整備」、 「貨幣の鋳造」などを行った。戦国時代、荘園 が各地に入り組んでおり、地方の豪族が勝手に関所を設けて収入源としていた。そのため関所は交通網上に点在 し、大阪淀川の河口から京都までの約六十キロメートルの間には約三百八十箇所、伊勢の桑名から日永間の約十 五キロメートルに六十以上の関所が設けられていた。その他の戦国大名も、関所の撤廃に取りかかったが、地方 豪族や既得権益の反対もあり、なかなか出来ずにいた。しかし信長は、毅然とした態度で、有無を言わさず関所 を撤廃していった。元々、戦国大名にとって関所にメリットは無かった。地方豪族の収入になり治安悪化の原因 とさえ言われていた。その「関所の撤廃」は、ヒト・モノ・カネが城下町に流れ込むことで経済的に潤う経済政 策の目標を達成すると同時に、地方豪族の財源を断つことで治安回復にも一役買っていた。信長は、関所を撤廃 するだけでなく、「道路の整備」も行った。入江や川には船橋を渡し、道路を一定の幅に拡張している。人々や 牛車が楽に行き交うことができるように道路の整備を行っている。また、尾張から京都へ向かう東山道という主 要街道の開削も行った。これにより、京都への道は約十二キロメートルも短縮されたと言われている。14「貨幣 の鋳造」も流通政策の一つである。金銀本位制を造ったことで、遠方との取引が容易になった。これまで高額決 済を行うとき、大量の銅銭を運搬しなくてはならなかったものが、はるかに少量で済むようになったのである。 その他にも、戦争や地選により城下町が副次的に発展することもある。例えば比叡山焼き討ちの際、寺内町が荒 廃したため、そこにいた商人は安土城の城下町に吸収された。また、安土城の場合、琵琶湖交通や下街道という 交通の要衝に地選された。そこでは、楽市令と言われる政令を出し、通り過ぎるものに強制的に城下町で一泊す るように求めるなど、様々な角度から城下町を反映させる努力をしている。安土城下町は人口六千人ほどであっ たと言われている。六千人とは、北条家や上杉謙信の本拠と同程度の人口だった。築城からたった数年で六千人 まで達した人口の増え方が、安土城下町の繁栄を物語っている。以上のように信長は、物流を促進する政策にお いて非常に長けていたことが伺える。 第二節 軍事的な地選 「信長の城」の千田嘉博は、信長の居城を変える戦略は、信長の父、織田信秀から学んだものだと言っている。 信秀は勝幡城から那古屋城に本拠を移し、その後も戦局に合わせて古渡、末盛と城を移しており、戦略に最適な 場所に居城を移すという合理的な考えの持ち主だった。信長の居城移転政策にも、その城の土地を選ぶ軍事的な 理由があると思われる。四回に及ぶ信長の移転政策の内、二回だけ信長の意思で地選・縄張りから築城した城が 存在する。小牧山城と安土城だ。この二城が、どのような意図でその土地に建てられることになったのか述べる。 一五六三年、信長は小牧山に初めて自らの意思で構えた城だ。当時、信長は桶狭間で今川義元を討ち、徳川家 康と清洲同盟を結び東への心配が無くなったあと、美濃国稲葉山城主、斎藤道三が斎藤義龍と対立し殺されたの を機に、美濃攻めに本格的に着手したころであった。義父でもあり、同盟者でも合った斎藤道三と織田信長は、 良い信頼関係を築いており、斎藤道三の遺言には、美濃国は信長に譲るとまで書かれている。15その遺言に反対 したのが息子、斎藤義龍であった。義龍に代わり、龍興が当主になった頃、二回に渡って美濃を攻めているが、 撤退している。その後も幾度か敗走を経験した信長は、稲葉山城からたった十五キロメートルの地にある小牧山 に城と城下町を構えた。信長の敗北の原因に、斎藤道三の遺産が関係していた。稲葉山城には、斎藤道三の設計 により非常に繁栄した自由市が広がっていたとされている。その城下町の収入による経済力によって斎藤軍の軍 12 13 14 15 信長の政略 p233 より参照 織田信長のマネー革命 p49 より参照 信長の政略 p243 より参照 大阪天守閣書状 事力は裏打ちされていた。そこで信長は、自ら小牧山城下に城下町を設計し、周辺地域の経済と流通網の掌握に 取り掛かっている。また前述しているように、非常に合理的に町を設計することで流通の円滑化を計った。次第 に小牧山城下町は経済力を付け、次第に稲葉山城下町の商人が小牧山城下町に移動し、斎藤軍の軍事力を削ぐこ とに成功した。一五六六年、羽柴秀吉による奇襲作戦などの活躍により、ついに稲葉山城が陥落した。経済政策 の一環でもあった小牧山城の軍事的な地選を直接的な武器として、信長は斎藤道三の遺産に打ち勝ったのだった。 安土城は、信長が最後に築いた城で、尾張から京都へ一日以内で行けるとして地選を行った。また大津沿岸に ある明智光秀の大津城、豊臣秀吉の長浜城、津田信澄の大溝城と琵琶湖を介した水運の交通網が完成させた。そ れまで、信長は琵琶湖の水運を浅井・朝倉との姉川の戦いなどで軍事的に利用してきた。その水運を完全に掌握 することで、他大名に利用させないという理由もあったのではないだろうか。「本能寺の変 四二七年目の真実」 の明智憲三郎氏は、信長は家康を警戒していたとしている。また同盟者として実力を付けてきた家康にいつ食わ れるかを警戒し、暗殺計画を立てていた頃に、明智光秀に殺されたのだと言っている。大阪に築城し始めていた とされる16信長が、大阪へ居城を変えた後、もし家康が謀反を起こしても琵琶湖を利用させないために琵琶湖の 水運を握ることで危機に備えていたのではないだろうか。安土城の地選は、経済的な理由だけでなく軍事的にも 考えられていたことが分かる。 第三節 求心的な家臣団構造 大手道が約一八〇メートルも続く安土城は、攻められやすくなることを恐れ、他の将軍には絶対に真似できな い縄張りをしていた。信長が一五歳で家督を譲り受けた後の人生から、その縄張りを思いつくきっかけについて 述べる。 父、織田信秀から家督を譲り受けた時、信長は四方を敵に囲まれ、兄弟や一族、宿老からも見限られていた。 今川氏と争っている時、出兵を命じた家臣が不満を言って城へ引き返してしまったこともあるほど17、信長の軍 事力が寄り合い的に構成されていた。そのため信長は子飼いの家臣を育成した。土豪の次男、三男以下の者、自 ら目をかけ取り立てた者を親衛隊に抜擢し、平時、戦時を問わず自分の周囲を固めさせている。この親衛隊が信 長を支え、幾度化の戦いを勝利に導いた原動力であった。その例として、一五五六年、稲生にて弟信勝との内紛 が起こっており、一族を敵軍として戦っている。信長の軍は、柴田、林両軍の半分にも満たない劣勢であったが、 育成した親衛隊の活躍で勝利した。その後、林軍の秀貞は降伏し、信長は秀貞を赦免している。一見、信長は家 臣たちを許している様に感じるが、後年、信長が苦しんでいる時に野心を起こしたとして、林秀貞らを追放して いる。壮年、信長は約一〇年もの間、尾張を治める一族の内紛に追われることになる。そのような経験があった からか、信長は分立的な権力構造に限界を感じ、求心的な家臣団を組織することに注力している。そのような姿 勢が、信長の城の構造にも現れている。小牧山城において、家臣の屋敷があった山麓では意図的に防御性の低い 直線な大手道を建設しており、信長の暮らしたとされる中心部だけを防御性に富む屈曲した大手道を設けている。 また、城下町の武家屋敷において、城外と隣の武家屋敷との間には堀はあっても、背後の小牧山城の中心へは堀 を持たない構造にしている。小牧山城へ居城を移転する際、信長は自ら登用した直臣たちに対し、屋敷の配置を 直接指示している18。清洲城は守護館として並立的な都市設計になっていたため、小牧山城では自らの意思で武 家屋敷を配置し、城を唯一の核とした求心的な城下町を築こうとしたのだった。さらに岐阜城では、強い権力編 成を行っている。信長は家族とともに山頂の御殿に住み、許しがなければ家臣たちは、山上の城郭部へは立ち入 ることが出来なかったという。19このことは、居所の比高の高さが身分序列を比喩しているということを暗に示 すものとなっていた。安土城に移転し、権力構造の示し方はさらに変化している。織豊系城郭の天主は、権力を 示す象徴として生活空間をもたせたものは少なかった。しかし、それらの一番初めとされる安土城には、信長の 16 17 18 19 織田信長のマネー革命 p183 より参照 信長の城 p35 より参照 信長公記 天下統一と城 p302 より参照 部屋があったと言われている。済むのに快適ではない高層建築の天主に住むことになぜ信長はこだわったのか。 それは、他の戦国大名のさらに上に立つという意味と、本丸御殿を見下ろす位置に立つという意味の二つあった とされている。20安土城には、天主の一段下に本丸御殿という京都の御所に似た建物があった。御殿は、天皇行 幸の際に招待する所で、それを見下ろすという点から、明らかに天皇を越えた存在としての信長を象徴した空間 構成だったとされている。権力を示す一環としてか、安土城竣工時に一般公開されていた。21家臣や他国衆、住 民、あらゆる人々に天主と本丸御殿を見せた。信長は、天主に住んでいる所を公開することで、さらに家臣へ力 の差を示していたのではないだろうか。信長は、構造的に信長が頂点だということを体感させ、家臣を統制しや すくするべく、城や城下町を活用したのだった。 第三章 加藤清正と城 加藤清正は熊本城を築城し、世に名築城家として名を馳せた戦国武将である。生涯を豊臣家のため捧げた加藤 清正にとって、城とはどういうものだったのか。為政者として城をいかに利用したかについて、第一節「治水」 で述べる。第二節で清正の真骨頂である「清正流石垣」について述べた後、第三節「熊本城と豊臣秀頼」にて、 熊本城の本質に迫ろう。 第一節 「治水」 天正11年、加藤清正は豊臣秀吉の家臣として、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで武功をあげ、「賤ヶ岳七本槍」 しんがり の一人として世に名を馳せた。徳川家康との小牧・長久手の戦いでは秀吉軍は敗走し、清正は最後尾の 殿 を任 されている。そこでさらに活躍した清正は、秀吉に肥後での豪族の反乱を治めるよう命ぜられる。清正以前の肥 後は、有力大名が現われず国人が割拠する時代が続き、佐々成政でさえも収拾できず荒廃していたとされている。 清正は、得意とする治水などの土木技術による生産量の増強を推し進めた。これらは主に農閑期に進められ、男 女を問わず徴用されたが、これは一種の公共工事であり、給金も支払われたていたため、農民は喜んで参加した という。その治水工事の一環として、河川の流路を分ける土木工事も行っている。都市河川である坪井川と、阿 蘇からの火山灰を含んだ白川が合流する様を見て、城に近い坪井川を内堀に、遠い白川を外堀として、河川改修 を行った。図 3 は、加藤清正が行った白川の改修前と、現代の白川を変えているものである。清正が改修した形 のまま白川の形で今もそのまま流れていることが分かる。清正の技術がいかに優れていたのかが伺える。 20 21 天下統一と城 p304 より参照 「桶狭間」は経済戦争だった p90 より参照 図 3 現在の地図に書き加えた白河の旧流路 出典:加藤清正 築城と治水 第二節 第四章 第一節 第二節 第三節 第四節 藤堂高虎と城 より引用
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