世の中には、圧倒的多数の縁もゆかりもない人たちがいる。 路上ですれ違う彼らと心を通わすことなど不可能だし、 私のことを分かってもらおうなどと思うことはナンセンスだ。 親兄弟、友人たちにすら、絵を介して、私の記憶や想像力を理解して欲しいなどと思わない。 私は人を描いているが、人間理解のために描いているわけではない。 絵になりやすいものがある。 人は絵になりやすい。 人の姿をしていれば誰でもいい。 目鼻口が分かればいい、無くてもいいならそれでいい。 絵はただの配色であって、その配置の理由を問うなら、それはただの物語でしかない。 絵のモデルに選ぶ人物は、ほぼ私の知らない人物の写真である。 彼らについて興味がないわけではないが、その人物像や肖像の物語を利用して、 私の物語を描いているに過ぎない。 私の物語ですらない。 目と口と鼻を並べる、その横に白や青を乗せる、筆の描線がある、 ただその配置の関係性だけで人は勝手に物語をつむぎ始める。 絵とはそういうものだろう。 私や誰かが、絵を見てそれについて感じるものがある。 しかもそれが独自の内面でリアリティを持ち、他人と相容れない。 私が作り出したはずのものが、もはや他人の目に触れると別の物になるのだ。 それを言語化すれば物語になるだろう。 今は、個人主義の時代だと思う。 個人がそれぞれ独立して生き、人々を結びつける共通の人生訓はどれも軽薄に思える。 私が行なうことは、絵に特別な情報を与えないことであると思っている。 私は私の物語にあまり興味がない。 だから私の絵も、私にとって、物語の無い、もっと虚しいものであってほしい。 そういう虚しさをたたえたものを人がどう見るか、には興味がある。 人が孤独でいる時の、惨めさと愉快さと満足感というものは、絵の充実感に似ていると思う。 2014 年 7 月 5 日
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