はた 私の少年時代、隣近所どこの家でも 機 の音がしていた。機の音と大島紬の縦糸・横糸が紡ぎ出 す織りの美しさは、少年時代の記憶にしっかりと、そしてくっきりと刷り込まれている。 「トントンカラリン トンカラリン」母が織るオサ音は、私の耳にはそんな風に聞こえていた。 私にとって、それはけっして耳うるさいものではなく、心地よい音楽の調べだった。母は食事の 時間も惜しんで機を織っていた。「早く織り上げるコツは、時間があれば機の前に座ることだよ」 と、よく自慢げに話していたのを思い出す。 夜は隣近所の迷惑にならないように十時までと決めていたようだ。母のオサ音は、時間を知ら せる役目も果たしていた。また、その時の母の心情までも表していた。心穏やかなときは優しい リズムで、時々夫婦げんかをしたりして機嫌が悪いときは、「ドンドンバッタン ドンバッタン」 と荒々しく聞こえたものだ。子どもなりに音の違いを察知して、空気を読みながらうまく生活し ていたように思う。 そして、機の側にはいつも親子ラジオがあり、島唄や新民謡が流れていた。機音とラジオの声 く ら し が日々の 生活 に根付いていた。 その当時、永田橋近くに大判焼きの店があった。その大判焼きがおやつに出てくる日は、母が 紬を織り上げたという合図だった。家族のおいしそうに食べる様子を見て母は満足そうだった。 つむぎ お り こ う 今にして思うと、それは自分自身へのご褒美でもあり、 紬 織 工 として自身のモチベーションを すべ 維持するための 術 だったのかもしれない。 あの頃、どの家庭も経済的には苦しかったもしれないが、女性たちが家庭を支える担い手とし て生き生きと働き、明るい希望の持てる時代だった。 忘らりょか トントンカラリン トンカラリン 母と紬と 親子ラジオと
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