はくぶつかんの部屋・茶ぐゎーゆんたく ちょうそんせい あざ あざ ね た もり ると宜野湾市周辺を一望することがで きます。 戦前の嘉数のほとんどの人びとは農 作業に従事する一方、その傍らではソ ーキ︵ミージョーキ︶などの竹細工作 りが盛んで、首里・那覇辺りでは﹁嘉 数ソーキ﹂として有名でした。 また、沖縄戦で被害を受けましたが、 集落内を歩くと戦前の面影を感じる風 景が残されています。例えば集落の人 びとの共同の泉として利用されたアガ リガーや、周囲をフクギで囲った昔な がらの印象を受ける家々を見ることが できます。 博 物館では3月8日︵日 ︶まで、 〝字〟 展﹁嘉数 ∼根立て杜ぐすく なよくら てづきし字∼﹂を開催しております。 みなさま、ぜひ博物館へお越し下さい。 お待ちしております。 ー 9317 ▶ 嘉数高台公園︵イーヌヤマ︶ ▶嘉数のアガリガー ︻お問合せ︼ 市立博物館 ☎ 870 入館料無料となっておりますので、 お気軽にご来館下さい。 22 一枚の絵から∼記録をつなぐ∼ 然 と し た 水 田 耕 作 地 が 見 え ま す。 ここは、 ることができます。 また、橋の手前には整 いて、当時の石工・土木技術をうかがい知 橋が架かり、川べりには護岸が設けられて 口あたりを描いています。 中央に大きな石 です。 大謝名から牧港を見た、比屋良川河 随行した画家、ウイリアム・ハイネの版画 来 航 し た ア メ リ カ 合 衆 国 のペリ ー 提 督 に この絵は、1853 ︵嘉永6︶ 年、琉球に ハイネが描いた1853年当時の比屋良川河口周辺の景観 『ペリー提督遠征記』所収 現 在の大 謝 名 小 学 校 や 県 営 大 謝 名 団 地 付 15 える牧港橋とともに、1735︵享保 ︶ ﹃球陽﹄によると、この石橋は左奥に見 ぜ、 陸地になっているのでしょうか。 た と い わ れ て い ま す。 ハイネの絵ではな て描かれており、貿易船が出入りしてい 球国絵図﹄ では、この場所は入江 ︵湾︶ とし 1702︵元禄 ︶年に作成された﹃琉 近にあたります。 130 ☎870︲9317 文化課 市史編集係︵宜野湾市立博物館内︶ ﹃ 宜野湾市史 ﹄ への問い合わせ に伝えてくれます。 された記録は、当時の琉球の姿を私たち 苦慮したようですが、彼らによって作成 ました。 琉球王府は、ペリー一行の対応に 鳥類、魚類など多くの絵を描いて記録し な調査を行い、琉球の風景や人物、植物や ペリー一行は琉球との交渉のほか、 様々 ています。 のほとんどが埋め立てられ、市街地化し 稲作が行われていましたが、現在は水田 れ て い ま し た。 1970年 代 前 半 までは 沃な土壌だったので、水田の立地にすぐ この低地は粘土質で、保水性のよい肥 に堆積した結果、 陸地になったのです。 れ、川から運ばれた土砂が長い年月の間 こ と で す。橋 の 建 設 で 河 口 付 近 が 仕 切 ら 流の入江だったところが陸化したという から考えられるのは、かつて比屋良川下 年 に 建 設 さ れ た よ う で す。 これらの記 録 20 おきなわけんおよびとうしょ み な さ ん は、 ご自分がおすま い の﹁字﹂の 由 来や習慣につい てご存知でしょ う か。こ の 字 と は、一九〇八︵明 治 四 一︶年 施 行 の沖縄県及島嶼 町 村 制 に 伴 い、 成立した市町村 を細分する区画のことです。 か つ て、宜 野 湾 に は の 字 が あ り、 人びとの生活において、生活の基礎と なる重要な存在でした。しかし、戦後 の急激な社会変化に伴い、字としての まとまりは、現在失われつつあります。 そのため、最近では自分の育った字の 由来や習慣について、知らない人が増 えてきています。 そこで博物館では近年、市民のみな さまに自らの住んでいる字について考 え て いただく地域との連携企画展〝字〟 展を開催しています。 今 年 で 7 回 目 に な る〝字〟展 の 舞 台 は、市の南西部に位置する字嘉数です。 嘉数は、さかのぼると、一六二三年に 編纂された﹃おもろさうし﹄に、﹁かゝ ずもりぐすく ねたてもりぐすく︵嘉 数 杜 ぐ す く 根 立 て 杜 ぐ す く︶﹂と し て登場する古い地名です。集落の北側 には、地域のランドマークであり、嘉 数高台公園として整備されたイーヌヤ マ︵上の山︶があります。展望台に上 はくぶつかんの 部屋 24 ∼地域連携展 あざ ぎのわんの“字”展∼ (18) 市報ぎのわん 2015・2・10
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