部屋 24 - 宜野湾市

はくぶつかんの部屋・茶ぐゎーゆんたく
ちょうそんせい
あざ
あざ
ね
た もり
ると宜野湾市周辺を一望することがで
きます。
戦前の嘉数のほとんどの人びとは農
作業に従事する一方、その傍らではソ
ーキ︵ミージョーキ︶などの竹細工作
りが盛んで、首里・那覇辺りでは﹁嘉
数ソーキ﹂として有名でした。
また、沖縄戦で被害を受けましたが、
集落内を歩くと戦前の面影を感じる風
景が残されています。例えば集落の人
びとの共同の泉として利用されたアガ
リガーや、周囲をフクギで囲った昔な
がらの印象を受ける家々を見ることが
できます。
博 物館では3月8日︵日 ︶まで、
〝字〟
展﹁嘉数 ∼根立て杜ぐすく なよくら
てづきし字∼﹂を開催しております。
みなさま、ぜひ博物館へお越し下さい。
お待ちしております。
ー 9317
▶ 嘉数高台公園︵イーヌヤマ︶ ▶嘉数のアガリガー
︻お問合せ︼ 市立博物館 ☎ 870
入館料無料となっておりますので、
お気軽にご来館下さい。
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一枚の絵から∼記録をつなぐ∼
然 と し た 水 田 耕 作 地 が 見 え ま す。
ここは、
ることができます。
また、橋の手前には整
いて、当時の石工・土木技術をうかがい知
橋が架かり、川べりには護岸が設けられて
口あたりを描いています。
中央に大きな石
です。
大謝名から牧港を見た、比屋良川河
随行した画家、ウイリアム・ハイネの版画
来 航 し た ア メ リ カ 合 衆 国 のペリ ー 提 督 に
この絵は、1853
︵嘉永6︶
年、琉球に
ハイネが描いた1853年当時の比屋良川河口周辺の景観 『ペリー提督遠征記』所収
現 在の大 謝 名 小 学 校 や 県 営 大 謝 名 団 地 付
15
える牧港橋とともに、1735︵享保 ︶
﹃球陽﹄によると、この石橋は左奥に見
ぜ、
陸地になっているのでしょうか。
た と い わ れ て い ま す。
ハイネの絵ではな
て描かれており、貿易船が出入りしてい
球国絵図﹄
では、この場所は入江
︵湾︶
とし
1702︵元禄 ︶年に作成された﹃琉
近にあたります。
130
☎870︲9317
文化課 市史編集係︵宜野湾市立博物館内︶
﹃ 宜野湾市史 ﹄
への問い合わせ
に伝えてくれます。
された記録は、当時の琉球の姿を私たち
苦慮したようですが、彼らによって作成
ました。
琉球王府は、ペリー一行の対応に
鳥類、魚類など多くの絵を描いて記録し
な調査を行い、琉球の風景や人物、植物や
ペリー一行は琉球との交渉のほか、
様々
ています。
のほとんどが埋め立てられ、市街地化し
稲作が行われていましたが、現在は水田
れ て い ま し た。
1970年 代 前 半 までは
沃な土壌だったので、水田の立地にすぐ
この低地は粘土質で、保水性のよい肥
に堆積した結果、
陸地になったのです。
れ、川から運ばれた土砂が長い年月の間
こ と で す。橋 の 建 設 で 河 口 付 近 が 仕 切 ら
流の入江だったところが陸化したという
から考えられるのは、かつて比屋良川下
年 に 建 設 さ れ た よ う で す。
これらの記 録
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おきなわけんおよびとうしょ
み な さ ん は、
ご自分がおすま
い の﹁字﹂の 由
来や習慣につい
てご存知でしょ
う か。こ の 字 と
は、一九〇八︵明
治 四 一︶年 施 行
の沖縄県及島嶼
町 村 制 に 伴 い、
成立した市町村
を細分する区画のことです。
か つ て、宜 野 湾 に は の 字 が あ り、
人びとの生活において、生活の基礎と
なる重要な存在でした。しかし、戦後
の急激な社会変化に伴い、字としての
まとまりは、現在失われつつあります。
そのため、最近では自分の育った字の
由来や習慣について、知らない人が増
えてきています。
そこで博物館では近年、市民のみな
さまに自らの住んでいる字について考
え て いただく地域との連携企画展〝字〟
展を開催しています。
今 年 で 7 回 目 に な る〝字〟展 の 舞 台
は、市の南西部に位置する字嘉数です。
嘉数は、さかのぼると、一六二三年に
編纂された﹃おもろさうし﹄に、﹁かゝ
ずもりぐすく ねたてもりぐすく︵嘉
数 杜 ぐ す く 根 立 て 杜 ぐ す く︶﹂と し
て登場する古い地名です。集落の北側
には、地域のランドマークであり、嘉
数高台公園として整備されたイーヌヤ
マ︵上の山︶があります。展望台に上
はくぶつかんの
部屋 24
∼地域連携展 あざ
ぎのわんの“字”展∼
(18)
市報ぎのわん 2015・2・10