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資料
鹿児島歴史散歩
H22.11.20(土)
第1部
市内名所の概要
ページ
・
鹿児島中央駅東口
2
・
鹿児島中央公園,県文化センターあたり
2
・
天文館
2
・
照国神社
2
・
小松帯刀像
3
・
西郷隆盛銅像
3
・
市立美術館
3
・
鹿児島城(鶴丸城)跡
3
・
私学校跡
3
・
かごしま県民交流センター
4
・
薩摩義士碑
4
・
城山
4
・
西郷隆盛洞窟,南洲翁終焉の地
4
・
南洲墓地(南洲公園)
4
・
今和泉島津家屋敷跡
5
・
尚古集成館
5
・
仙巌園
5
・
石橋記念館
5
・
祇園之洲砲台跡
6
・
いづろ・大門口
6
第2部
篤姫Q&A(鹿児島での暮らしを中心に)
・
どういう家に生まれたのか?
7
・
容姿・容貌はどうだったか?
7
・
篤姫は小さいときはどんな子供だったのか?
8
・
篤姫の鶴丸城での様子はどうだったのか?
8
・
島津家は関ヶ原で徳川家と激突していたり仲が悪かったので
はないのか?それなのにどうして将軍の正室を出せたのか?
10
篤姫と家定の結婚は政略結婚だったのか?
10
・
斉彬から篤姫へ慶喜擁立の密命はなかったのか?
11
・
江戸城無血開城のとき,天璋院はどんな役割を果たしたのか?
12
・
小松帯刀とのロマンスは本当か?
13
出
・
展
13
第1部
◎
市内名所の概要
鹿児島中央駅東口
JR西鹿児島駅は平成16(2004)年3月13日,九州新幹線の一部開通に伴い鹿児島中央
駅と改称された。東口広場に若き薩摩の群像がある。この像は明治百年を記念して鹿児島市が建て
たもので,五代友厚以下17人の薩摩藩英国留学生の像である。
慶応元(1865)年,使節・留学生一行19人は,串木野の羽島港から密航同様の形で渡英し
た。
帰国した留学生のうち,初代文部大臣の森有礼,初代帝国博物館長の町田久成,東京開成学校
(のち東京大学)の初代学長畠山義成,北海道開拓に尽くした村橋直衛(久成)らが知られている。
◎
鹿児島中央公園,県文化センターあたり
鹿児島中央公園は藩校造士館,演武館跡地である。
藩校造士館は島津重豪が鹿児島城二の丸前の空き地を整備して,安永2(1773)年に建て
た。はじめは聖堂と呼ばれていた。孔子廟を中心に学寮と講堂がたち並び,主に城下士の子弟に朱
子学を教えたが,斉彬の時代になると郷士の聴講もゆるされ,また蘭学や水戸学なども学べて,明
治維新の原動力のひとつとなった。
現在,公園の地下は駐車場になっている。
造士館に隣接して,県文化センターから名山小学校付近に演武館があった。安永2(1773)
年,武芸稽古所として設けられ,天明6(1786)年に演武館と改称された。弓・槍・剣・馬・
射術などの武道をはじめ,徳川綱吉の生類憐みの令が出されて姿を消した犬追物も,重豪が復活さ
せた。
中央公園の南,現在の中原別荘(ホテル)のあたりには,医学館があった。これも重豪の命によ
り創建された。中国の神皇廟をまつり,藩内の各郷に命じて設置した薬草園とあわせて,薩摩藩の
医学を発展させることになった。
◎
天文館
安永8(1779)年島津重豪は天体観測のため明時館をおき,暦をつくらせた。薩摩暦とい
う。明時館は天文館ともいい,現在の繁華街の天文館はこれに由来する。
◎
照国神社
島津斉彬(照国)をまつる神社で,文久3(1863)年に勅令で照国大明神の神号がさずけら
れ,翌年東照宮(徳川家康)をまつっていた南泉院跡に社殿が建てられた。
正月の初詣や夏祭りの六月燈などには参拝客で賑わう。
神社の右手駐車場の隣に,鹿児島城二の丸の庭園であった探勝園跡がある。石組や池に当時の面
影が残る。多くの碑があり,奧には島津斉彬,久光,忠義3体の銅像がある。
◎
小松帯刀像
県文化センター(宝山ホール)の前庭には幕末維新期に活躍した家老小松帯刀の像がある。小松
邸(本屋敷)は道路をはさんだ鹿児島東郵便局付近にあった。
薩摩藩喜入領主肝付兼善の三男。幼名尚五郎。安政3(1856)年,吉利領主小松清猷の跡目
を相続し,同5年,小松帯刀清廉と改名する。文久2年(1862),島津久光により家老に抜擢
されると,以後藩を代表する立場として京都を中心に政局の中枢で活躍し,禁門の変の勝利,また
薩長同盟・大政奉還の成立に大きく貢献した。西郷ら改革派の理解者でもあった。新政権でも期待
されたが,明治3(1870)年,病没した。
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西郷隆盛銅像
西郷没後50年祭記念として計画され,鹿児島出身の安藤照が制作し,昭和12(1937)年
5月に完成した。明治6(1873)年近衛兵の習志野演習(千葉県)で,明治天皇のテントを終
夜警護した西郷の姿を念頭に制作したといい,陸軍大将の正装の像である。台座までの高さ約8
m。
◎
市立美術館
常設展の日本美術では,黒田清輝,藤島武二,和田英作ら鹿児島ゆかりの画家の作品,西洋美術
ではモネ,セザンヌ,ピカソ,ダリらの作品が展示されている。
このあたりは鹿児島城(鶴丸城)の二の丸があったところである。
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鹿児島城(鶴丸城)跡
鹿児島城は一般に鶴丸城と呼ばれ,背後の城山は鶴丸山または鶴嶺山とよばれていた。
薩摩・大隅・日向77万石の城主島津氏が近世以後居城としたが,城は天守閣をもつ近世的な城
ではなく,屋形造の居城であった。今では石垣と堀の一部を残すのみである。
島津氏がこの地を居城としたのは18代家久が慶長7(1602)年に築城をはじめ,2年後に
内城から移ってからである。
本丸跡には鹿児島県歴史資料センター黎明館がある。明治百年記念事業の一つとして建設された
総合博物館である。外観は鹿児島城の屋形造をイメージした平屋建ての景観だが,内部は3階建て
である。常設テーマ展示のほかに,特別展示や講演会・学習講座などが開かれている。
主な展示品は,西郷隆盛着用の軍服,大久保利通関係史料など。また調査史料室では昭和43
(1968)年度から鹿児島県史料を編集・刊行,継続中である。
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私学校跡
鶴丸城の北側,現在独立行政法人国立病院機構鹿児島医療センターのあるところは,私学校跡
(県史跡)である。石塀は国道拡張で後退したが,原形に復元された。旧門の横に私学校跡の石碑が
ある。
藩政時代には藩の厩が置かれていた。明治6(1873)年,政争にやぶれた西郷隆盛が下野し
て鹿児島に帰ると,西郷を慕い官職をなげうって同調した青年子弟が多く,西郷は彼らを教育する
ために,県令大山綱良の協力を得て,この地に翌年6月私学校を設立した。120畳敷きの大講堂
であったという。
西南戦争で政府軍との戦いに敗れて鹿児島に帰ってきた西郷軍は,明治10(1877)年9月
1日私学校を奪回して城山によった。数回にわたる政府軍との銃撃戦もあった。石塀に残る弾痕の
数がその激しさを伝えている。
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かごしま県民交流センター
県庁が鴨池新町に移転すると,跡地の県政記念公園に地上6階・地下2階の建物がたてられた。
この地は藩政時代,垂水・宮之城島津家など上級武士の屋敷であった。
敷地内には鹿児島県政記念館がある。旧県庁舎の正面部分を切り取って移築させ,記念館として
再利用したものである。
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薩摩義士碑
宝暦治水の総奉行であった家老平田靱負(ゆきえ)の碑を高く中心として,犠牲者84基を段状
に並べてある。常夜灯は東郷平八郎書で「義烈泣鬼神(ぎれつきしんもなく)」と刻字されてい
る。
平田靱負は,幕府の命令による宝暦の木曽川治水工事(1753~55年)を総奉行として指揮
し,完成後に多くの犠牲者を出したことと工事費がかさんだ(出費約40万両)ことに責任を感じ
て自刃した。
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城山
鹿児島市街地の真ん中にある,標高107mのシラスの小高い丘が城山(国史跡,国天然)であ
る。市民の散歩の場としても親しまれている。ここの城山展望台からは桜島を正面にみて鹿児島市
街地が一望できる。
城山は南九州の植物分布の縮図ともいわれる宝庫でもある。
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西郷隆盛洞窟,南洲翁終焉の地
城山展望台から岩崎谷へ,つづら折りの車道をくだると,左手のシラス崖に掘られた西郷隆盛洞
窟と南洲翁洞中記念碑がある。西郷や私学校の幹部たちが,山頂の本陣を降りて自決直前の数日間
をすごした洞穴である。現在は風化して間口3m,奥行4mであるが,西南戦争直後の記録では間
口1間(約1.8m),奥行2間(約3.6m)である。
明治10(1877)年9月24日未明,政府軍総攻撃の火蓋が切られると,西郷と幹部約40
人は洞窟の前に勢揃いし,岩崎谷を東のほうへ向かった。途中,道路の右側にJR鹿児島線の城山
トンネルがある。旧トンネルの上部に,西郷隆盛の処世訓「敬天愛人」の文字が刻まれている。
城山トンネルをあとにしてもう少し下ると,左手に南洲翁終焉之地碑がある。西郷は大腿部に銃
弾をうけ,6・7番連合大隊長別府晋介の介錯で,波瀾に富んだ50年の生涯を終えた。
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南洲墓地(南洲公園)
浄光明寺(時宗)跡にある南洲墓地(県史跡)は,西南戦争で戦死した西郷隆盛以下の薩軍将兵
を合葬した墓地である。
明治10(1877)年9月24日,城山陥落ののち,西郷以下40人の検死が終わると,県令
岩村通俊は政府軍の許可を得て遺体を引き取り,即日浄光明寺境内(現在の鳥居付近)に仮埋葬し
た。その後1879年に有志が城山をはじめ,鹿児島市内外に仮埋葬されていた220余人の遺骨
を収容して,西郷以下とともに現在
地に改装し,あわせて参拝所をたてた。ついで1883年,
九州各地に散在していた戦死者の遺骨を収集し,現在は墓碑数749基,2023人が葬られてい
る。これらのなかには,14歳の少年や児玉実直以下の5人兄弟,庄内(山形県鶴岡市)藩士伊地
知末吉,池田孝太郎の墓などがある。参拝所は1922年に南洲神社になった。
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今和泉島津家屋敷跡
篤姫が生まれた今和泉島津家の本邸は,鹿児島城下の北側,現在の通称上町(かんまち)と呼ば
れるあたり,大龍寺の隣にあった。現在は石塀だけが残っている。
この本宅の他に城下に4箇所の屋敷があり,篤姫は鹿児島での時間の多くを海辺にあった浜屋敷で
過ごしたと考えられている。
大龍寺は現在の大龍小学校で,このあたりは,島津家久が鹿児島城(鶴丸城)に移るまでの約5
0年間,内城を中心とする城下町が形成されていた。慶長16(1611)年内城あとに臨済宗大
龍寺が創建された。
◎
尚古集成館
尚古集成館(旧集成館機械工場・国重文)は,元治元(1864)年に着手,翌年3月に完成し
た蒸気機械所で,建物の左端に蒸気機関が据えられ,中央を貫通するシャフトで動力を伝え,さま
ざまな機械で動かしていたらしい。
薩英戦争前の集成館配置図によると,機械所周辺には,役所,反射炉,溶鉱炉があった。ほかに
弾薬の製造所,ガラス製造所,鍋釜製造所,鍛冶場などもあり,海岸近くの造船所,紡績所まで含
めると,まさに一大工業団地であった。盛時には,職工や人夫が毎日1200人も働いていたとい
う。安政4(1857)年斉彬は磯の工場群を集成館と命名した。集成館は薩英戦争でイギリス艦
隊の砲撃を受け施設のほとんどが焼失した。
しかし,薩摩藩に近代兵器の必要性を痛感させることになり,次の藩主忠義はただちに集成館の
再建に着手し,再建後の工場の種類や建物群は以前をはるかにしのぐものとなった。
◎
仙巌園
仙巌園(国名勝)は島津家の別邸で,万治年間(1658~61)に藩主光久が別邸をつくった
ことに始まる。
邸内に奇岩が多く,中国竜虎山の仙巌に似ていることからつけられた名である。その後吉貴が曲
水の庭や孟宗竹林を設け,さらに斉興が海岸を埋め立てて拡張し,現在のような回遊式庭園として
完成した。園内には反射炉跡の石組み,書院造の居館,望嶽楼などがある。
◎
石橋記念館
市内の中心を流れる甲突川にはかつて,弘化2(1845)年から嘉永2(1849)年にか
け,新上橋,西田橋,高麗橋,武之橋,玉江橋という石橋がかけられた。
甲突川はよく氾濫したため,天保9(1838)年の洪水をきっかけに,甲突川の浚渫や堤防修
築を行い,同時に木橋は石橋にかけかえられたのである。石橋架橋のため肥後の石工岩永三五郎が
招かれている。
しかし平成5(1993)年8月6日の集中豪雨による洪水で,五石橋のうち新上橋,武之橋が
流失,他の3橋も河川改修に合わせて移設・保存されることになった。
平成12(2000)年4月,西田橋,高麗橋,玉江橋を移設復元するとともに,五石橋の歴史
や技術を伝える石橋記念館を附設した石橋記念公園が開園した。なお,高麗橋,玉江橋は石橋記念
公園から連絡橋をわたった祇園之洲公園内にある。
篤姫の実家の下屋敷(浜屋敷)はこの石橋公園付近にあった。
◎
祇園之洲砲台跡
幕末の鹿児島藩には天保山,大門口,祇園之洲,沖小島など9箇所に砲台が築かれていた。祇園
之洲砲台は嘉永6(1853)年島津斉彬の命で築かれ,砲台10座・兵士70人がつめていた。
文久3(1863)年の薩英戦争では,鹿児島湾に侵入してきたイギリス艦隊と砲戦をまじえ,集
中砲火をあびて壊滅的な打撃を受けた。
現在この祇園之洲には,公園が整備され,西南役官軍戦没者慰霊塔,薩英戦争記念碑,旧薩藩砲
台跡の石碑が置かれている。
◎
いづろ・大門口
市電のいづろ電停の名は、石灯籠をイシズロとよんだ方言から転訛した名である。電停近くの交
差点3箇所に大きな石灯籠がある。以前は1基だけであったが,2基が追加されて3基になった。
南林寺(曹洞宗,廃寺)にちなむものである。
なお,南林寺は廃仏毀釈後の明治3(1870)年,敷地内に松原神社がたてられた。
大門口という地名も南林寺の大門があったことによる。
第2部
◎
篤姫Q&A(鹿児島での暮らしを中心に)
どういう家に生まれたのか?
篤姫は,天保6(1835)12月19日鹿児島に生まれた。幼名は於一(おかつ),一子(か
つこ)。
篤姫の幼名は「一(かつ)」ではなく,「一,市(いち)」ではないかという説もある。
「典姫様日記寶印御方」という史料の嘉永6(1853)年4月5日に「今和泉於市様事,今日
篤姫様と被仰出候」,また「竪山利武公用控」という史料の安政2(1855)年の項に「嫡女
お市
寅十九歳,母同断」,さらに「日記
表方御右筆間」という史料の嘉永4(1851)年
6月17日条に「今和泉家(お市・おたつ・お才)・種子島家(於初,於たけ)登城,御目見え」
とあるのがそれを示しているという。
さらに「日記
表方御右筆間」の天保7(1836)年8月5日に,篤姫の叔母にあたる女性が
勝姫(かつひめ)と改名したので,以後,「勝」の字と「かつ」の呼び名を遠慮するよう通達があ
ったと書かれている。あるいは篤姫が生まれてから,この改名通達までのおよそ8カ月間だけ,篤
姫は「おかつ」だったかもしれないという。
後のことであるが,於一が篤姫と改名するのは嘉永6(1853)年3月1日薩摩藩11代藩主
島津斉彬の養女(幕府への届けは実子)となってからである。ちなみに,この改名により,「篤」
の字,唱えを遠慮することとなり,それまで「あつ」と名乗っていた鹿児島城本丸大奥女中が「あ
さ」と改名したという。
また,将軍家への入輿に際し,島津家から近衛家の養女となっているが,このときの諱は敬子
(すみこ),君号は篤君,さらに夫君の徳川家定が死去した後は落飾して天璋院と号している。
ここでは煩雑を避けるため,便宜上統一して篤姫と呼び,落飾後は天璋院と呼ぶことにする。
父は島津一門のひとつである今和泉島津家の島津安芸守忠剛(ただたけ)。忠剛は薩摩藩9代藩
主島津斉宣(なりのぶ)の末子である。島津斉彬は島津斉宣(なりのぶ)の孫に当たり,忠剛は斉
彬の叔父に当たる。
島津一門とは,重富島津家,加治木島津家,垂水(たるみず)島津家など島津本家から親族の扱
いを受ける一族である。将軍家でいえば御三家にあたり,薩摩藩士の最上位に位置した。
母は島津左膳家島津助之丞久丙(すけじょうひさあき)の娘幸(さち)。代々家老・番頭を勤め
る家柄の出である。
父島津忠剛は幼少より怜悧,一を聞いて十を悟るほどであり,物産学を好んで研究し,その探索
は精緻,物産学の大家を凌ぐほどの名声を博していた。しかし世俗的な権威や名声を嫌い,静かな
落ち着きを好む性格で,江戸の煩瑣な生活を嫌い,常に病と称して引き籠もっていた。薩摩に帰り
たいとのことであったので,今和泉の継嗣に定められた経緯があるという。
◎
容姿・容貌はどうだったか?
容姿・容貌は明治になってからの肖像画や写真が残っている。ちなみに黎明館に建てられる像
は,明治6(1873)年3月以降,天璋院が許可され断髪した時の写真(39歳前後)を基に制
作されている。それでは若いときの容貌はどうだったのか。
松平慶永(よしなが)が安政2(1855)年12月16日に篤姫を見た感想が残っている。
篤姫は,嘉永6(1853)年鹿児島から江戸・芝の薩摩藩邸に到着したものの,翌翌年の安政
2(1855)年10月2日の江戸大地震(安政大地震)で芝藩邸が被災したため,渋谷藩邸に移
居(安政2年12月)した。その渋谷藩邸にいた時期である。篤姫21歳であった。
「丈高くよく肥え玉へる(肥満に非らず,夫人相当の体格なり)御方に座したりと」
なお,括弧内は島津家家臣市来四郎(編者)の注である。市来の配慮か。
◎
篤姫は小さいときはどんな子供だったのか?
島津一門としての今和泉島津家は,大龍寺(現鹿児島市大龍小学校)の西横並びに上屋敷を持っ
ていた。敷地は4608坪。現在はその石壁だけが昔を偲ばせる。他に下屋敷(浜屋敷)3281
坪,下屋敷742.5坪,中屋敷340坪,磯屋敷があった。また,領地として今和泉別邸が現在
の指宿市にあった。
篤姫の生まれた天保期(1830~44),薩摩藩は調所広郷の財政改革により極度な困窮状態
から抜け出し50万両もの蓄財をなしている。藩主に次ぐ一門で優雅な暮らしをしていたようにも
思える。
しかし,一門家・私領主家の財政は困窮していたようである。忠剛は「雨天には廊下を傘をさ
し,少なき子供を浜屋敷へ遣るに駕籠へ両人も乗せやる次第なる故,余は察し呉べし,それ故自身
よりなるたけ倹約し,下知することなれども,力におよばず」とその窮状を訴えている。
この表現にある「少なき子供」が篤姫だったかもしれないが想像の域を出ない。ちなみに篤姫は
天保14年時点で9歳である。
記録によると篤姫が薩摩藩11代藩主としての斉彬と初対面したのは嘉永4(1851)年6月
のことである。このとき篤姫17歳であった。この頃島津一門の子弟がお目見えし,今和泉家から
はお市,おたつ,お才の姉妹がお目見えしている。
この年斉彬は2月に藩主になり,3月9日江戸を発ち,5月8日鹿児島に着いており,6月とい
えば,帰藩してすぐの頃である。その前に篤姫の評判を聞いていて13代将軍徳川家定の継室に篤
姫をと決めたのはこのお目見えより前のことであった。
篤姫について斉彬は越前藩主松平慶永(よしなが)(春嶽)に「忍耐力ありて,幼年よりいまだ
怒の色を見たる事もなく,不平の様子もなし。腹中は大きなるものと見ゆ。軽々しき事なく,温和
に見えて人に応接するも誠に上手也,将軍家の御台所には適当なり。」と評している。
◎
篤姫の鶴丸城での様子はどうだったのか?
篤姫は斉彬の養女になり,江戸に上っているが,その間今和泉邸から鹿児島城(鶴丸城)に移っ
ている。鶴丸城に入ったのが嘉永6(1853)年6月5日で江戸に向け出発したのが同年8月2
1日。約2ヶ月半をここで過ごしている。
篤姫の本丸入り
今和泉島津家の長女「於一」が藩主島津斉彬の養女「篤姫」として藩全体に披露されたのは嘉永
6(1853)年4月5日のことだった。この日から篤姫は本家の姫となり,2ヶ月の準備期間を
経て,6月5日午刻(午後12時頃)に今和泉邸から本丸大奥(現黎明館南西側)へ移居した。翌
6日には江戸から御迎えとして大年
寄小の嶋等12名が着城する。「表方御右筆間日記」の記述
では,当時本丸の奧女中は約45名(御年寄等が個人的に召し抱えていた者は除く)であったと推
測されるが,江戸からの御迎え・篤姫附として新たに召し抱えられた者・御加勢として上った元奧
女中を併せると,一時的に60名以上の女性が暮らしていたことがわかる。
本丸での生活
篤姫は,本家の姫君として,また御台所候補としてふさわしい文化・教養を身に付ける必要があ
った。「日記」6月16日条に「今日より御稽古初」とあり,この日から本格的な教育がスタート
したことがわかる。内容は伊木七郎右衛門が「御香其外御けいこ申上」とある以外,詳細は不明で
あるが,日々稽古に励んだものと思われる。後には斉彬の御前でも御香の稽古が行われている。ま
た6月15日には,典姫とともに「御角蔵(おすみのくら)」(現黎明館南東側)から祇園祭を見
物している。典姫(2歳)とは
藩主斉彬の実子で,篤姫(19歳)の系図上の妹にあたる人物で
ある。6月22日には江戸から斉彬が帰国し,篤姫は斉彬の養女となって初めての対面をする。し
かし,その後環境の激変のためか,7月6日から数日間風邪で寝込んでしまう。
景勝地でもある別邸も訪れている。7月27日には磯に滞在中の斉彬を訪問し,御庭で焼物・硝
子細工を見物,その後花倉屋敷まで足を伸ばした。また8月11日は斉彬とともに玉里邸・尾畔
(おぐろ)屋敷を訪れている。
今和泉家との交際
斉彬は,篤姫を表向きには実子ということで押し通そうとしていた。しかし,国許での篤姫と今
和泉家は,親密な交際が許されていたようだ。2ヶ月半程の鶴丸城大奥滞在中に今和泉家の両親・
祖父母・兄弟姉妹からは実に15回以上にわたり進上物(西瓜,鰻,素麺,唐芋など)が届けら
れ,篤姫もそれに対し返礼を届けている。今和泉家からの贈物は篤姫や斉彬・典姫だけにとどまら
ず,奧女中や江戸にお供する小の嶋等へも細やかに行われている。また6月15日には実父島津忠
剛が,7月2日には実母が登城し,それぞれ二人だけで食事を取ったことが確認できる。また7月
15日には今和泉家の両親へ「生身魂(いきみたま)」の贈物をしている。「生身魂」とは存命の
両親に祝物を贈るお盆の行事である。出立前の8月15日には今和泉の女性達が,18日には忠剛
が,19日には祖父・兄・実母がそれぞれ御暇乞いとして登城している。その交際が非常に密であ
ったことがわかる。
江戸への出立
8月21日,四ツ頃(午前10時頃)篤姫は江戸へ出立する。23日には,名残を惜しむかのよ
うに向田(現薩摩川内市)の篤姫から今和泉の両親・祖父母・兄夫婦へ贈物が届けられている。篤
姫出立後の鶴丸城は,加勢の女性達が御暇になるなど,平常の状態に戻っていく。そのような中,
同月30日,篤姫が鶴丸城で使用した布団,着物等が今和泉の実母に譲られた。斉彬の心遣いの一
端がうかがえる。
◎
島津家は関ヶ原で徳川家と激突していたり仲が悪かったのではないのか?それなのにどうして将
軍の正室を出せたのか?
徳川家と島津家は徳川政権の始まり(関ヶ原の戦い)と終わり(戊辰戦争)に戦火を交えてい
る。このイメージが強烈で,両家は江戸時代を通じてにらみ合っていたと思いがちである。しか
し,江戸時代の大部分,両家は良好な関係にあった。しかも,島津家は徳川将軍家に御台所を送り
込んだ唯一の大名家であった。それも二人もである。
一人は11代将軍徳川家斉の御台所広大院(島津重豪の娘・茂姫・寔子(ただこ)),そしても
う一人が13代将軍家定の御台所天璋院(島津斉彬養女・篤姫・敬子)である。
家定は,天保12(1841)年江戸城西の丸に入り,同年,前関白鷹司政熙(たかつかさまさ
ひろ)の娘と結婚したが,夫人は嘉永元(1848)年に死去した。翌年嘉永2年(1849)前
関白一条忠良の娘と再婚したが,これも同3(1850)年死去している。その後,夫人選考が始
まったが,家定とその周辺は公家の娘には懲りたらしく,家定の祖母の広大院様の例にあやかって
島津家から夫人を迎えたいと思った。これがそもそもの発端となる。
広大院の血統から夫人を迎えたいとなったのは,広大院に多くの縁者があり,しかもその多くが
長命であった。こうしたことが家定に強く印象づけられたようである。
では,なぜ島津家出の広大院が御台所になれたのだろうか。
篤姫の婚礼の先例ともなった広大院の婚姻の経緯は次のとおりである。
(1)
薩摩藩5代藩主島津継豊に5代将軍徳川綱吉の養女竹姫が嫁ぐ。享保14(1729)
年に嫁ぎ,安永元(1772)年ある遺言を残し死去する。その遺言とは竹姫が養育した
島津重豪(薩摩藩8代藩主)に娘が誕生したら徳川家との縁組をするようにというもので
あった。
(2)
その翌年,重豪の側室に茂姫が誕生した。茂姫は一橋家当主治済の嫡男豊千代との縁組
が幕府から認められる。一橋徳川家の豊千代との縁組は大名同士の婚姻であったが,その
豊千代が11代将軍徳川家斉となったことから,島津家と将軍家の初の縁組となったので
ある。この茂姫がのちの広大院である。
取りようによっては,120年以上前にまかれていた種が篤姫の輿入れとして芽吹いた
ことにもなる。
◎
篤姫と家定の結婚は政略結婚だったのか?
篤姫が家定のもとへ輿入れしたのは,安政3(1856)年12月18日のことである。
この頃,病弱な家定の後継者をめぐって,紀州家の徳川慶福(後の家茂)を推す南紀派と,一橋
家の徳川慶喜を推す一橋派が激しい政争を繰り広げていた(将軍継嗣問題)。
篤姫の養父斉彬は一橋派の重鎮で,老中阿部正弘・松平慶永(春嶽)らとともに,盛んに朝廷・
大奥工作などを行っていた。
篤姫の結婚と継嗣問題がぴったり一致していることから,この婚儀は,斉彬が継嗣問題を有利に
展開するために仕組んだ政略結婚であったとする説が定説化していた。
しかし,幕府が外交上の難問を抱えたのは,嘉永6(1853)年6月のペリー来航後のことで
ある。家定が将軍となったのはこの年の10月。家定の指導力が問題となって将軍継嗣問題が起こ
るが,それが本格化するのは安政3(1856)年7月に通商条約締結を目論む駐日総領事ハリス
が下田に着任し,外交問題が一段と緊張してからのことである。したがって,将軍継嗣にからんだ
ものであったとすると,縁談は安政3(1856)年頃に起こったということでなければならな
い。
ところが,ペリーが浦賀に姿を現す前,嘉永3(1850)年に斉彬が四国宇和島の藩主伊達宗
城に出した書簡に「来々年に候へば,例の西簾の事,はなはだ差支えも相見え候」とある。この書
簡は,斉彬の父で薩摩藩10代藩主島津斉興の隠居について触れたものであるが,隠居が再来年に
延びると,例の西簾に支障があると書かれている。「西簾」とは江戸城西の丸の簾中(夫人),す
なわち西の丸に住む将軍継嗣の家定夫人のことをさしている。
この書簡から,縁談話は将軍継嗣問題が起こるはるか以前,この問題と関係なく進められていた
ことがわかる。
◎
斉彬から篤姫へ慶喜擁立の密命はなかったのか?
家定と篤姫の縁談は慶喜擁立のために斉彬たちが仕組んで成立したものだというのは誤解であっ
たが,斉彬が縁談の効用を考えなかったわけではない。
入輿が実現した頃,ちょうど将軍継嗣が大きな問題になっており,斉彬は一橋派を有利にしよう
と,入輿前に篤姫に事情を説明して将軍の意向を聞き出せと命じた。
しかし,斉彬の姿勢は強引にではなく,篤姫の大奥での立場が確立した上で慎重に事を進めよう
とするものであった。
安政4(1857)年3月15日に斉彬が松平慶永に宛てた書簡には,家定と篤姫の夫婦仲もよ
く,お子様の誕生を待っている状態で,下手な工作は「かえって以後の障り」になるのですべきで
ないとある。
篤姫のルートを利用した大奥工作は,慎重に進められていたが,一橋派の理解者であり,斉彬と
も懇意であった老中阿部正弘が安政4(1857)年6月に病没すると事態が変化した。
斉彬は大奥からの情報不足に不安を持ち,西郷隆盛を江戸に送り,松平慶永に協力させることと
した。この年12月江戸に入った西郷は松平慶永の家臣橋本左内らと連絡をとりながら工作を開始
する。
そのルートは,西郷隆盛--小の島(薩摩藩藩邸奥老女)--幾島(篤姫付き老女)--篤姫-
-本寿院(家定の生母)となる。
一方,斉彬は同じ12月に幕府へ建白書を提出,慶喜擁立を公式に表明し,翌年安政5(185
8)年正月6日には近衛忠熙へ宛て継嗣に慶喜を立てるよう内勅降下を依頼する。
大奥では大奥の経費節減を唱えた水戸藩主徳川斉昭(なりあき),慶喜親子の評判が悪く,紀伊
徳川家の慶福を迎えようとする意向が強かった。このような時期に話を切り出せばかえって継嗣は
徳川慶福に決定しかねない。政情に色々と不安を抱えていた家定は相談はもっぱら生母の本寿院に
し,篤姫には相談しない。篤姫は本寿院に国許からの書状を見せ腹蔵なく相談して,場合によって
はともに家定に直話できるよう協力を依頼する。
しかし本寿院は,表方でも継嗣に関する話が出ているが,この件に関し家定が立腹しており,と
ても話を切り出せるタイミングではないという。家定は,松平慶永等が慶喜を継嗣にと申し出たこ
と,婚礼後すぐで世継ぎの誕生もありうる時期の話であるということに対しての不快感,さらに加
え斉彬の幕府への建白書の提出があって激怒しているというのである。
篤姫は斉彬に返答のしようがないと本寿院に食い下がるが,本寿院はやはり控えた方がよいとい
う。結局篤姫は家定への直話を断念する。
本寿院は後に慶喜を継嗣とするなら自害するとまで言った人物である。その人物に相談しなけれ
ばならない程切羽詰まった状況であったともいえるが,それにしても大奥で経験を積んだ本寿院に
対し工夫が足りない感は拭えず,篤姫の経験不足が現れているが,篤姫が斉彬からの使命を果たす
べく懸命の努力をしていることもわかる。
その一方,篤姫は近衛忠熙に宛てて「慶喜を立てる内勅降下があるとの噂があるがそれを出さな
いようにして欲しい」という書状を出している。斉彬の意向を阻害するような行為である。実はこ
の書状は篤姫自身の考えによるものではなく,歌橋(上﨟年寄・家定の乳母)の願いによるもので
あった。天下のため慶喜を継嗣にという斉彬の意図を承知していた篤姫は,自らの意図しないこと
を忠熙に頼むことを悩み,幾島にも相談するが,結局忠熙からの返書を期待する歌橋の手前,この
書状を出すことにしたのであった。
このような駆け引きが続く中,ついに篤姫の家定への直話が成功する。安政5(1858)年4
月初めに篤姫が家定に直に話し,よく聞き入れて貰った。
ところが,これを聞いた本寿院が自害すると言い出し,この話は終わってしまう。それまで表面
的には穏やかに篤姫の動きを阻止しようとしていた本寿院が強硬に反対の姿勢を見せたことで,篤
姫らの運動に実質的な終止符が打たれた。この時期表方では4月23日,井伊直弼が大老に就任。
5月1日には家定が大老・老中に対して継嗣を慶福とする旨伝え,6月にはこれが諸大名に発表さ
れ,一橋派は敗れるに至った。
◎
江戸城無血開城のとき,天璋院はどんな役割を果たしたのか?
天璋院も,徳川家の救済に必死であった。天璋院は徳川家の救済・家名存続を訴える嘆願書をつ
ぼね(幾島)を官軍隊長(東征大総督府参謀・薩摩藩の西郷隆盛)に届けさせた。
徳川之儀ハ大切の御家柄,此段幾重にも御組[汲]分,何れにも徳川家安堵致候様,御所江
御執成之程,折入而御頼申候,私事,徳川家江嫁し付候上ハ,当家之土となり候は勿論,殊
ニ温恭院[徳川家定]ましまさす候ヘハ,猶更同人之為,当家安全を祈候外御座無,存命中
当家万々一之事出来候てハ,地下ニおる而何之面目も無之と,日夜寝食も安んせす悲歎致居
候,心中の程御察し下され
徳川家の存続を訴える一方,天璋院の慶喜に対する姿勢は厳しい。書状には,慶喜が将軍になっ
たことについて「誠に止事を得さる次第も候半かと,是迄黙止居候」とある。
慶喜が,「いか様天罪」をうけても,「是非ニ及ハさる事」と,慶喜一身のことは朝廷の判断に
任せると突き放した。
かつて養父斉彬の命を受け慶喜の将軍継嗣に尽力した天璋院にとって,慶喜の行動は不信の多い
ものであった。大政奉還を進めた慶喜の施策は,江戸城で徳川将軍家の安泰を願ってきた天璋院に
とって信じられない事態であったと思われる。
徳川家の相続問題は,天璋院や静寬院(和宮)の努力が実り,慶応4(明治元)年閏4月29
日,朝廷から田安亀之助(後の徳川家達)に徳川宗家の相続が認められた。
城地・禄高は追って通知することとされ,5月24日に城地は駿府(静岡),石高は70万石が
改めて亀之助(家達)に下賜された。
◎
小松帯刀とのロマンスは本当か?
NHKテレビ大河ドラマ「篤姫」では,小松帯刀と篤姫は同じ年齢で帯刀が篤姫を慕っていた設
定になっている。
確かに実際2人は同じ年(天保6(1835)年)の生まれではあるが,史料で見る限り2人の
接点は見いだせない。
宮尾登美子の小説「天璋院篤姫」でも小松帯刀は描かれておらず,この設定はテレビドラマ化さ
れた際の脚本家の脚色であろう。
出展:以下から抜粋し,編集し直したものである。
第1部
「鹿児島県の歴史散歩」鹿児島県高等学校歴史部会
ほか
第2部
『天璋院と幕末の薩摩』(天璋院篤姫図録に所収)芳即正
『幕末の徳川将軍家と天璋院』(天璋院篤姫図録に所収)松尾正人
『篤姫の結婚-幕末維新史の伏流水-』(天璋院篤姫図録に所収)寺尾美保
『御台所敬子の実像-将軍継嗣問題を中心に-』(天璋院篤姫図録に所収)崎山健文
『知られざる戊辰戦争期の天璋院』(天璋院篤姫図録に所収)藤田英昭
『天璋院篤姫
徳川家を護った将軍御台所』徳永和喜
『天璋院篤姫の実像』(レジメ)崎山健文
『篤姫
鶴丸城から江戸へ』(レジメ)崎山健文
『篤姫と鶴丸城』(黎明館広報紙)崎山健文