自然再生時代:閉鎖性海域の健康診断と環境管理

講演要旨
自然再生時代:閉鎖性海域の健康診断と環境管理
松田
治
(広島大学名誉教授)
「環境の世紀」ともいわれる21世紀の初頭にあたり、わが国における多くの閉鎖性海域の環境
管理は「公害対策」、「環境保全」の時代を経て「自然再生」の時代に入ったといえる。法制上も
「自然再生推進法」が本年1月 1 日に施行となり、また昨年末には地域限定の法律ではあるが、
「有明海及び八代海再生特別措置法」が制定された。首相が主宰する“ 21 世紀「環の国」づくり
会議”でも自然再生型公共事業の必要性が謳われており、また海を再び甦がえらせようとする
様々な取り組みも各地で始まっている。
さて、日本各地にある閉鎖性の内湾は、我々の生活に最も深く関わっている海であり、歴史的
には水産物の供給をはじめとして様々に我々の生活を支えてきた。しかし、近年では沿岸域の人
間活動の影響が集積し、多くの閉鎖性内湾域は相当に強く「病んでいる」状態にある。
再生は自然治癒も含めてある種の治療であるから、再生の前提としては的確な健康診断、目
指すべき健康状態のイメージ、治療のための処方と治療後の健康管理手法が是非とも必要であ
る。ここでは瀬戸内海をはじめとする様々な閉鎖性海域と長年かかわってきた経緯を踏まえて、
新しい時代における閉鎖性海域の健康診断と環境管理を中心に展望してみたい。その際、自然
再生においては「場」の再生とともに「機能」の再生が極めて重要である。
閉鎖性海域の捉え方として、例えば瀬戸内海、有明海、英虞湾はいずれもわが国の代表的な
閉鎖性海域ではあるが、これらを一律に単なる閉鎖性海域として捉えることは適切でない。瀬戸
内海では「瀬戸」(海峡部)の存在が、有明海では大きな潮汐と広大な干潟が、また英虞湾では細
かく入り組んだリアス式の海岸がその海域の本質に強く関わっている。
自然再生については、その「あり方」の論議、研究、技法の開発も十分には進んでいないので、
診断、処方、管理のいずれについて早急に整備してゆく必要があるが、基本的には「何を」・「どこ
まで」・「どのように」再生するかが重要なポイントである。やや具体的には、自然の再生、特に生
態系や物質循環機能などの再生に、人間がどれだけ手を貸すべきでどの部分は自然にまかすべ
きか、再生手法は対症療法的か原因療法的か、またコストとエネルギーがどの程度必要かなど
が基本的に重要な検討課題である。コストと使用エネルギーが大きい場合には、一般に副作用と
して別の形で環境影響が生じることになるので十分な注意が必要である
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海の健康診断について、比喩的には多く語られているものの、具体的な診断マニュアルとなる
と体系的に整備されたものは世界的にみても殆どない。ここではシップ・アンド・オーシャン財団の
もとで我々が検討を進めてきた「海の健康診断」の考え方、診断手法と診断事例について紹介し
たい。この健康診断システムでは最も重要な診断項目として「生態系の安定性」と「物質循環の円
滑さ」を取り上げており、それぞれがさらに細かい検査項目に具体化されている。自然再生の制
度上の枠組みとして、「自然再生推進法」がどのような役割を果たすかを見極めるには今後多少
の時間が必要であるが、自然再生のために診断は欠かすことのできないプロセスであるので、今
回紹介する健康診断システムが次第に進化しながら実用化されてゆくことを期待したい。
物質循環の円滑さが失われて健康状態が損なわれてゆく状況を、自然再生に関係の深い「自
然の浄化機能」の衰退と回復の例で模式的に考えてみたい。今、特定の場の環境があるレベル
以下まで劣化すると、自然の浄化能を超えた変化は不可逆的となり、回復しないどころか
negative feedback がかかって環境はますます悪化する。したがって自然の浄化能力を自然再
生につなげるためには、あるレベルまでは人為的に環境改善をサポートする必要がある。これが
環境修復の基本的な必要性である。しかし、それ以上の人為的サポートは例え「自然再生型公共
事業」などと名づけられていても新たな副作用をもたらす可能性が非常に高い。
底質環境と底生生態系の再生を例に取ると、硫酸還元が起きているような底質では貧酸素と
発生する硫化水素の相乗作用により生物の生息は著しく阻害されており、生物学的な浄化能は
期待することができない。しかし、このシステムを人為的なサポートにより少しずつ酸化的な方向
へシフトすることができれば、脱窒による富栄養化物質の浄化や好気性バクテリアによる酸化的
な有機物分解が誘導され、やがて大型生物による自然の浄化能も期待できるようになる。ここま
で来て復元力のある生態系が形成されれば、あとは資源管理や水産による持続的な利用がシス
テムを維持することになる。同様に、アマモ場の再生についても底質やアマモの生息環境を改善
して、ある規模のアマモ群落が定着するところまで手助けできれば、あとはアマモ自身の根圏へ
の酸素供給機能などを通じて環境が改善されてゆく。海は閉鎖性海域といえども広くて大きいの
で、実際にはこのような自然の再生能力を生かした手法でなければ海域全体の再生は難しい。
総論的まとめとして自然再生時代を具現化するためには、(1)対象となる閉鎖性海域の特性
と健康状態を十分診断すること、(2)診断結果を十分に生かした再生治療を行うこと、(3)
自然再生は「場」の再生のみならず「機能」の再生も目標とすること、(4)自然が再生す
るメカニズムをよく研究して自然再生のための人為的行為は必要最小限とすること、(5)
生物資源や生態系全体の管理と環境物質循環系の制御をあわせて包括的環境管理を行うこ
と、(6)実際に自然が再生したかどうかを検証すること、などが極めて大切である。
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