特色あるブランド・ブティックハウスを目指して

特色あるブランド・ブティックハウスを目指して
いちよし証券の歴史を振り返ってみると、三代
目社長の福田堅一郎氏が就任時の昭和三〇年に、
役・執行役会長の武樋政司氏である。
ス ト リ ー を お 願 い し た の は、 い ち よ し 証 券 取 締
ラルヒストリーの掲載となる。今回、オーラルヒ
並行して行ってきた証券史談も、二一人目のオー
『 日 本 証 券 史 資 料 昭 和 続 編 』 の 編 纂 作 業 が 始
まってから、はや三年が経つ。文字史料の収集と
拡大と財務体質の強化を計り、関西地区でのいち
など相次ぐ積極策を打ち出した。後谷氏は業容の
券との合併、地方証券の営業権の譲り受け、東証
その後、昭和四五年に野村証券から後谷良夫氏
を社長に迎え、昭和五〇年代にかけて御坊坂本証
の地場証券のなかでも確たる地位を築いた。
出し営業基盤の拡大と堅実経営に取り組み、大阪
―武樋政司氏証券史談(上)―
「一、顧客本位の経営を行い投機家よりも投資家
よし証券の地位を揺るぎないものにした。
数料を基本とした経営を行うこと」を明確に打ち
に重点を置き、良き相談相手となること。二、会
そして、昭和六二年には野村証券から芦谷源治
会員権の取得と東京での支店開設や国際部の開設
社は投機的な売買をしてはならず、あくまでも手
― ―
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引くデフレ経済下での日本版ビッグバン、ネット
バブルの崩壊、リーマン・ショックなどをくぐり
抜け、四、四〇〇億円で引き継いだ預り資産を二
兆円まで大幅に増やし、大阪の地場証券だったい
ちよし証券を「ブランド・ブティックハウス」を
目指せる中堅証券会社にまで発展させた。
戦略を打ち出した。その一方で、芦谷氏はバブル
し証券の独自性が発揮できるアジア、店頭株特化
手証券と同じ土俵で勝負するのではなく、いちよ
氏を社長に迎えた。芦谷氏は商品戦略において大
て、初めて主幹事案件を獲得し、幹事・販売団の
谷氏から引き継いだ中小型成長株特化戦略につい
か。あるとすればそれは何か。二点目として、芦
の経営にあたって活かされていることはあるの
の野村証券勤務時代に得た知見が、いちよし証券
今回のインタビューにあたり、筆者らは次のよ
うな関心をもって臨んだ。一点目として、武樋氏
崩壊後の厳しい環境のなかで経費削減を実施し、
所も高い評価にするなど、大きな成果を上げられ
加入会社数も飛躍的に伸ばし、いちよし経済研究
健全化に尽力し難局を乗り切った。
株でのアジア株の取り扱いを中止し、それに伴い
ている。その一方で、アジア株特化戦略は、現物
平成七年に芦谷社長の次に継いだのが、今回、
お話をお聞きした武樋政司氏である。武樋氏は長
― ―
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武樋政司 氏
関係会社の不動産融資を止めるなど、財務体質の
証券レビュー 第56巻第6号
則から成る行動指針「いちよし基準」の策定、さ
う対応していったのか。その中で、七つの原理原
に渡る厳しい経営環境のなかで、この大変革にど
いくかにあった。武樋氏がバブル崩壊後の長期間
迫ってきており、これにどう対処して生き残って
スで起こった金融革命が日本でもいよいよ目前に
ろの証券界の最大の関心事は、アメリカ、イギリ
か。そして三点目として、武樋氏が引き継いだこ
を閉鎖されたわけだが、この背景に何があったの
香港、シンガポール、ジャカルタの海外現地法人
た点についてもお話をお聞きしている。
証券の看板商品にすることができたのか、といっ
なぜか、さらには、どうして中小型株をいちよし
「いちよし基準」や「クレド」を策定されたのは
の 背 景 事 情 を ご 披 瀝 い た だ い て い る。 そ し て、
ジア、店頭株特化戦略をなぜ進められたのか、そ
一回目の今号では、野村証券勤務時代のお話か
ら始まり、そこで得た教訓、また、芦谷社長がア
の三点について武樋氏にお話を伺った。
れるビジネスモデルを形作られていったのか。こ
仙台時代に学んだ
証券営業に対する考え方
でどうやって固守して、投信を中核にして預り資
管理・アドバイス型営業への転換を赤字決算覚悟
証券にいらっしゃる前に、野村証券でご勤務して
今日のインタビューは、前半は武樋様がいちよし
――本日は、お忙しい中ありがとうございます。
産を大幅に伸ばし、業界でいちよしモデルといわ
ス型の経営への転換を進められた。こうした資産
業、回転商いからの脱却と、資産管理・アドバイ
さ れ る 本 来 の「 顧 客 第 一 主 義 」 を 掲 げ、 単 品 営
らには「売れる商品でも、売らない信念」に象徴
特色あるブランド・ブティックハウスを目指して ―武樋政司氏証券史談(上)―
― ―
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証券レビュー 第56巻第6号
おられましたので、その当時の野村証券について
お話をお聞きしたいと思います。後半では、いち
よし証券のトップマネジメントとしての、いちよ
し証券の施策に対するご見解をお聞きしたいと考
えております。
武樋様は、東北大学を卒業されて、昭和四二年
に野村証券に入社されたわけですが、入社後、仙
台支店、静岡支店で営業をされたとお聞きしてお
ります。当 時、野村証券の営業政 策は、「ノルマ
証券」と揶揄されていたわけですが、営業現場に
おられたお立場から、野村証券の営業政策をどの
ように評価しておられただろうかということをお
聞きしたいと思います。また、野村証券の営業時
代に様々な教訓を得られたかと思いますが、そう
した教訓から後の政策にヒントを与えたことが
あったのでしょうか。そのあたりはどうだったん
でしょうか。
― ―
90
特色あるブランド・ブティックハウスを目指して ―武樋政司氏証券史談(上)―
武 樋 そ う で す ね、 野 村 証 券 は と に か く よ く 働
き、よく競争し、そしてよく遊ぶ会社でした。そ
の一方で本当に自由にやらせてくれましたし、若
くても成績を上げればそれなりに認めてくれると
いう風土でしたから、きつい中でもみんな一生懸
命やっていました。ですから、一緒に働いた先輩
や後輩たちに感謝しています。
――やはり競争は激しかったんでしょうか。
武樋 そうです。社内では激しく競争していまし
た。しかし、新人のころは競争の圏外にいて、一
年間ぐらいは先輩達から「大型新人」と言われて
いました。
――相当期待されていたということでしょうか。
武樋 いやいや、そうではなくて、支店の食堂で
ご飯は丼飯で二杯食べるし、お客さんもできてい
― ―
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で就職された後、お父さんがお亡くなりになり、
ました。早稲田大学の理工学部を卒業され、東京
る三軒の旅館と、ほかに土産物屋を経営されてい
陛下もご宿泊されたという老舗旅館をはじめとす
す。その社長さんは松島の瑞巌寺の近くで、天皇
その中でも、松島の旅館の社長さんは、自分が
今まで証券界で働くことが出来た恩人の一人で
どが、お客様になっていただきました。
そうこうするうちに、塩釜のお医者さんとか、
古川の料亭の社長さん、松島の旅館の社長さんな
を目標にして外交をしていました。
競争の世界に入っていて、先輩に勝つということ
す。その後、二年目の後半ごろからいつの間にか
大 量 だ っ た の で、 大 型 新 人 と 呼 ば れ て い た の で
ファミリアに乗りまくって、ガソリンの使用量も
な い の に、 外 交 に 東 洋 工 業〔 現 在 の マ ツ ダ 〕 の
取引もやっていただきましたから、信用取引は担
〇〇〇万円くらい出していただいたのです。信用
の後どんどんお金を出してくださって、三億六、
ただいたのです。幸いその株が値上がりして、そ
ず一、〇〇〇株買ってみるか」とおっしゃってい
根負けされたのでしょうか。「じゃあ、とりあえ
何度も通った後で、ある薬品株をお勧めした時、
しゃるのです。しかし、やっと会ってもらえたの
だ っ た よ う で、「 だ か ら 取 引 は し な い 」 と お っ
せられました。そこにはなんと「株はやっちゃダ
時「武樋君、これ見てくれ」と言って、巻紙を見
てもらえなかったんです。そして、やっと会えた
そ の 社 長 さ ん へ 手 紙 を 出 し た り、 電 話 を し た
り、訪問したりしていたのですが、なかなか会っ
す。
ですから、「そうは言っても」などと言いながら
― ―
92
メ」と書いてありました。亡くなった父上の遺言
三四歳で松島に帰ってきて家業を継がれたので
証券レビュー 第56巻第6号
保の三倍買えるので、一〇億円くらい株をかなり
は「武樋君、辞めないでいい。うちはいいから野
ます」と申し出たのです。そうしたら、社長さん
めて、一緒に旅館と土産物屋をやらせていただき
息子さんがおられなかったので、「野村証券を辞
で、申し訳ないと思い覚悟を決め、社長さんには
かりした資産が数百万円になっていました。そこ
しかし、四年ちょっと仙台支店にいて静岡支店
に転勤する時には、三億六、〇〇〇万円ほどお預
のお客さんになりました。
で勝負するならどうすればいいか。あたりまえの
長さんとの約束もありますし…。売買回転数以外
に迷惑をかける結果になります。また、松島の社
ばいいのですが、それでは必ずどこかで、お客様
数料をあげるだけならば、売買回転数で勝負すれ
手数料収入で先輩達に負けたくないわけです。手
組みました。一方、当然、競争はありますから、
て、二人の新人と一緒に結構真っ当に外交に取り
ちょうど、静岡支店に赴任した昭和四七年に、
野村証券では新人を教育するインストラクター制
武樋 そうです。「これじゃダメだ」と心に決め
て静岡に行きました。
村にいなさい。ただし、静岡支店でもこんな営業
こ と で す が、 要 す る に 新 し い お 客 様 を た く さ ん
す。その結果、仙台支店の中でも、トップクラス
を や っ て い た ら、 君 は ロ ク な 者 に な ら ん よ 」 と
作って、預り資産を増やすしかないのです。ちょ
し、新人と一緒に新規開拓をしながら先輩との競
う ど、 新 人 が 来 て イ ン ス ト ラ ク タ ー に も な っ た
度 が で き、 私 は イ ン ス ト ラ ク タ ー の 指 名 を 受 け
おっしゃったのです。
――説教されたんですか。
― ―
93
激 し く、 売 っ た り 買 っ た り し て い た だ い た の で
特色あるブランド・ブティックハウスを目指して ―武樋政司氏証券史談(上)―
武樋 そうですね。松島の社長さんに一番大切な
ことを教えていただきました。
――それが仙台時代の一番の教訓というか…
争に勝とうと決めたのです。
――そのときに、お客さんへのアプローチの仕方
武樋 預り資産を増やせば、過度な回転に頼る商
いをしなくてもよくなると…。
というふうに変わった、というお話でしたが…。
業もやる…。
ね。インストラクターというのは新人教育係で営
て、 新 人 の イ ン ス ト ラ ク タ ー を さ れ た わ け で す
―― そ し て、 仙 台 支 店 か ら 静 岡 支 店 に 配 属 さ れ
武樋 そうですね。回転売買を嫌がるお客さんに
は、株式を中長期で持ってもらうとか、投信、債
は、債券や投資信託を使って開拓するとか…。
い ま す。 例 え ば、 回 転 売 買 を 嫌 が る お 客 さ ん に
プローチされたのかをお聞かせいただければと思
と静岡のときでは、どういうふうにお客さんにア
買回転数の勝負だけではダメで、お客さんの数を
――仙台支店から静岡支店へ行かれたときに、売
同伴外交もやる。支店全員で翌日の株式注文の予
手紙、訪問の新規開拓外交をやり、同時に新人の
数を増やすことがまず大切です。自分でも電話、
― ―
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も変えられたと思うんですけれども、仙台のとき
武樋 そうです。営業マンが営業をしながら新入
社員を育てる役でして、つまりOJTで新人の教
券を持ってもらうとかしました。どの商品を販売
増やして、預り資産をどれだけ増やすかが重要だ
するかはもちろん重要ですが、新規開拓外交の件
育をするのです。
証券レビュー 第56巻第6号
と一緒に新規開拓のアポイント電話外交をやると
もそうですしね〔野村証券では、昭和二〇年代後
武樋 それはもう間違いないですね。百万両貯金
箱でもそうですし、電力株を売ろうと言ったとき
約電話外交をやる時などは、早く終わらせて新人
か…。
両貯金箱であったり、貯蓄としての資産株の販売
やすことを非常に重視していて、その表れが百万
野村証券は相当昔から、今でいう預かり資産を増
――先日お話をお聞きした井阪〔健一〕さんは、
それは野村徳七さんの考えであった「顧客と共
に 栄 え る 」 と い う こ と が、 実 際 に 会 社 の カ ル
らう努力は全社でやっていました。
広くいろいろなお客様を開拓して、取引をしても
的で、電力株一〇〇株運動が展開されていた〕。
券という会社は、昔からそういうことを考えてい
人たちに取引をしてもらおうとしていた。野村証
くて、広くいろんなお客さんを集めて、そういう
――一部の高回転のお客さんに依存するのではな
という言葉は使っていなかったでしょうけれど
た。そういう面では、その当時、まだ預かり資産
と共に栄える」という一貫した思想がありまし
扱う、中国ファンドもやろうと、とにかく「顧客
ていたんですね。こうした伝統から、国債を取り
― ―
95
半に広く一般の個人にも株式に馴染んでもらう目
であったとおっしゃっていました。
野村証券は、大正一四年に八〇人ぐらいで創立し
たんだとお話されていました。
たボンドハウスですから、ボンドだけを取り扱っ
チャーとして息づいていましたからね。もともと
武樋 そうですね。たしかにその当時から、今で
いう預かり資産の考え方はしていたと思います。
特色あるブランド・ブティックハウスを目指して ―武樋政司氏証券史談(上)―
思想も一貫していました。そのことは、会社の中
また、銀行中心の間接金融偏重で本当にいいの
ですか、やっぱり直接金融も必要でしょうという
ことは間違いないと思いますね。
も、そういう考えを昔から、野村証券がしていた
とだったと思います。
広くいろいろなお客様を開拓することをベース
に置きつつ、株の回転売買もやっていたというこ
いということです。
だ、あまり手数料に行き過ぎると、それはよくな
にも、営業マンにも流れていましたね。
― ―
96
――お客さんが潰れてしまいますからね。
――仙台でのご経験とその反省から、静岡ではお
武樋 はい、おっしゃるとおりですね。
まう人も中にはいたということなんでしょうか
――そうですか。それから本社に戻られて、職員
大田渕氏から学んだこと
武樋 はい。
り方に変えられたということですね。
客さんを増やしていくことに力を入れるというや
ら う の は 決 し て 悪 い こ と で は な い で す よ ね。 た
です。株の売買が好きなお客さんに、売買しても
それをどれぐらいまでやってしまうかが問題なの
そも回転売買自体が決して悪いわけじゃなくて、
武樋 当時は、株式の回転商いというのは、どの
証券会社でもかなりやっていたと思います。そも
ね。
いけないわけだから、どうしても回転に走ってし
――しかし、実際には、日々の収益も上げなきゃ
証券レビュー 第56巻第6号
ではどんなお仕事を…。
なられたとお聞きしておりますけれども、主計部
部、引受部、社長秘書、主計部、広報室に配属に
かげですし、大恩人です。
武樋 そうですねえ。ほんとに身近で接しさせて
いただきましたから。私が今まで、曲がりなりに
けられた、とお聞きしておりますけれども…。
――特に、大田淵さんの近くにおられたことで得
も証券界で働いてこられたのは、大田淵さんのお
武樋 主計部は、財務会計、管理会計、それから
税務の三つをやっている部署でした。当時は国内
海外拠点も含めたグローバル管理会計の導入を検
られた教訓というか、一番教えられたことという
武 樋 そ う で す ね。 基 本 的 に は 人 間 性 で し ょ う
ね。やっぱり懐が深いし、腹が座っているし、洞
討していた時期でした〔野村証券本体では、昭和
――なるほどね。それで、秘書室に配属になられ
察力、先見力もあって、実行力もある。そして、
のはどんなことですか。
て、大田淵さん〔田淵節也氏〕の秘書をされたわ
公平で公私のけじめをはっきりつけておられまし
五二年から管理会計が導入されていた〕。
けですね。
とはありましたが、私的なことのミスを叱られた
ちょうど私が秘書になって二年目だったと思い
ことは、一度もありませんでした。
た。私の在任三年間で、仕事のミスで叱られるこ
武樋 そうですね、大田淵さんの秘書を三年間さ
せていただきました。
――そこで、大田淵さんからいろいろと薫陶を受
― ―
97
の管理会計に加えて、まだ導入されていなかった
特色あるブランド・ブティックハウスを目指して ―武樋政司氏証券史談(上)―
ますが、当時、先ほど言いましたように、証券会
――それは達成されたんですか。
い」とおっしゃったのです。
大田淵さんのお考えで預かり資産を明確に経営の
社の収入が株の手数料を中心としていた時代に、
方針として打ち出されたことが、ものすごく印象
武樋 二年くらいで達成しました。その後、平成
二年には預かり資産が六〇兆円になりました〔野
的だったですね。
村証券の総預かり資産は、平成二年三月期に六〇
兆三、〇〇〇億円へと増大していた〕。
るには、株だけじゃダメで、債券も投資信託も必
たと思うんですが…〔イギリスでは、証券市場の
――赴任当時、イギリスはビッグバンの最中だっ
― ―
98
――預かり資産が重要だと…。
――そして、広報室の次に、ロンドンに赴任され
ビッグバンを目の当たりにした
ロンドン勤務
あったが、昭和五七年九月から昭和六〇年九月ま
ますね。
での三ヶ年間で、営業預かり資産を二五兆円にす
武樋 はい。
要だし、営業のやり方も変えていかなきゃいけな
げられた〕。そして、「預かり資産を二五兆円にす
ることが、「二五兆円作戦」として経営目標に掲
点での野村証券の営業預かり資産は、一五兆円で
よう」と打ち出されたのです〔昭和五七年九月時
武樋 昭和五七年だったと思います。大田淵さん
は、「現在の預かり資産一五兆円を二五兆円にし
証券レビュー 第56巻第6号
ね。
武樋 ちょうどビッグバンの真っ只中だったです
と称した改革が行われた〕。
者への出資制限の撤廃を柱とする「ビッグバン」
数料自由化、単一資格制度の廃止、取引所会員業
昭和六一年一〇月にサッチャー政権によって、手
外や店頭取引への流出に直面していた。そこで、
よるそれへの対応の遅れなどから、大口取引の海
国際的な地位低下や、国際化の進展と証券業者に
から、サッチャー政権による民営化が進んでいた
気にやるというのがすごいです。ちょうどその前
いわゆるウインブルドン現象です。思い切って一
本が入ってきて、みんな無くなるのですからね。
ギリスのマーチャントバンクが、アメリカ系の資
への出資制限も撤廃され、七〇社ぐらいあったイ
兼務がダメだということになり、取引所会員業者
ローカー〔投資家とジョバーを仲介する業者〕の
〔自己勘定で売買して値付けを行う業者〕とブ
――ブリティッシュ・テレコムも民営化されてい
とはいえですよ。
にいらっしゃったのでしょうか。
ましたしね〔ブリティッシュ・テレコムは、昭和
られた教訓というか…。
――イギリスでビッグバンをご覧になられて、得
れ、民営化された〕。
武樋 教訓というか、すごいですよね。ジョバー
武樋 そうですね。だいたいその一〇年前の昭和
五〇年に、アメリカの金融改革(メーデー)があ
五 九 年 一 一 月 に 保 有 株 式 の 五 〇・ 二 % が 売 却 さ
武樋 ちょうど丸一年です。
――昭和六一年ですね。それから何年間イギリス
特色あるブランド・ブティックハウスを目指して ―武樋政司氏証券史談(上)―
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いう…。
りましたから、これは、日本でもいずれ来るなと
す。後で聞いた話では、札幌支店長に赴任する予
ジデントという役職で、現地法人のナンバー二で
いに一気にやらないにしても、結構なことが起こ
日本に来ると…。日本では、サッチャーさんみた
る」と思っていましたので、イギリスの次は必ず
メリカで起こったことは二〇年後に日本でも起こ
でもいずれくるぞと思いましたね。昔から、「ア
武樋 ありました。これは凄いなという印象をも
つとともに、当面は大丈夫だろうけれども、日本
――やっぱりそういう予感がありましたか。
で、半分が日本人の役員でしたね。外村〔仁〕さ
地の社員が約五〇〇人、役員は半分が外国人役員
武 樋 現 地 法 人 に は、 社 員 が 約 五 五 〇 人 い ま し
て、その内訳は、日本からの社員が約五〇人、現
…。
――当時のロンドンの現地法人の状況というのは
ンドンになったとのことです。
戻ってくるというので、札幌支店長の予定が、ロ
は、日本企業がユーロ・ワラントとか、スイスフ
― ―
100
定 だ っ た そ う で す が、 急 遽、 前 任 の 人 が 日 本 へ
るだろうなという気はしていました。
――ロンドンに行かれたときは、どういう役職で
ラン債をどんどん発行していましたから、ロンド
んが社長で、僕はその下で働いていました。当時
行かれたんですか。
業による海外社債市場での資金調達額は、『大蔵
ン現地法人は大いに儲かっていました。〔日本企
武 樋 私 は、 英 語 な ん か 全 然 話 せ な い ド メ ス
ティックでしたが、エグゼクティブ・バイスプレ
証券レビュー 第56巻第6号
日本企業の国際債券発行額に占めるシェアは、昭
たこともあり、ワラント債であった。その結果、
外債発行の中心は、日本の株式市場が好調であっ
一一兆一、二八七億円へと拡大した。この時期の
六、八二九億円に過ぎなかったが、平成元年には
省 証 券 局 年 報 』 に よ れ ば、 昭 和 五 五 年 時 点 で は
す。
なってきて、グローバル管理会計を導入したので
話 を し ま し た が、 そ れ が い よ い よ 現 実 の も の に
て、一元管理すべきだという議論をしていたとお
ときに、これからはグローバル管理会計を導入し
別に決算をしていました。先ほど、主計部にいる
ニューヨークではドル、東京では日本円で各々個
分ではなかったことから、昭和六二年に連結管理
わらず、海外子会社の実態把握やリスク管理が十
点が増え、取引規模が大きくなっていたにもかか
が…〔野村証券では、業務の国際化に伴い海外拠
スの管理会計を導入されたとお聞きしております
――ロンドンへいらっしゃったときに、連結ベー
田淵社長の隣の席に座らせてもらった時のことで
葉でした。ロンドンへ赴任のフライトで、運よく
あったのは、当時の田淵義久社長から言われた言
で、 ロ ン ド ン で 仕 事 を す る と き い つ も 頭 の 中 に
武樋 何しろ、純粋ドメスティックですから、そ
れなりの苦労も失敗もありました。そうしたなか
大変だったのでは…
― ―
101
和 五 五 年 は 全 体 の 九・ 九 % か ら 平 成 元 年 に は 三
会計が導入された〕。
す。「 武 樋、 君 の 英 語 は ど う だ。」「 駄 目 で す。」
――いずれにしても慣れないロンドンでの仕事は
武 樋 野 村 証 券 は、 ロ ン ド ン で は ポ ン ド で、
八・五%へと急拡大した〕。
特色あるブランド・ブティックハウスを目指して ―武樋政司氏証券史談(上)―
での一年間の仕事をやり遂げられたと思っていま
国人も日本人も一緒だ」。この言葉で、ロンドン
番大切なのは上手い英語ではなくて「心」だ。英
「そうか。しかし、ロンドンで仕事をする際に一
も浮上し、証券市場への信頼が大幅に失われた〕。
手証券会社による暴力団関係者への利益供与問題
ことが明らかとなった。また、平成三年には、大
社が特定の大口顧客に対して損失補填をしていた
ため、営業特金の解約が困難となり、大手証券会
武樋 そうですね。
――損失補填問題の時は、首都圏本部長をされて
れて、しばらくしますと証券不祥事が起こってま
二年しました。損失補填問題が起こったときは首
武樋 そうですね。日本へ戻ってきて、取締役に
なり、株式担当役員を四年、首都圏営業本部長を
いたんですね。
いりますね〔平成元年秋に、大和証券による三協
都圏営業本部長でした。その後、業務管理本部長
達)が出され、営業特金の全廃と、事後的な損失
びその関連企業との間で、一任勘定取引を用いて
――その後、平成九年に、四大証券が総会屋およ
― ―
102
す。
証券不祥事とモーゲージ商品
販売によるトラブルへの対応
エンジニアリングへの損失補填が明らかになった
になり、平成五年にいちよし証券に来ました。
補填が禁止された。ところが、株価下落が続いた
び 証 券 事 故 の 防 止 に つ い て 」( い わ ゆ る 角 谷 通
ことを契機に、「証券会社の営業姿勢の適正化及
――ところが、一年後にロンドンから日本に帰ら
証券レビュー 第56巻第6号
利益提供をしていたことが明らかになったのです
か、涙、涙で大変でした。
――その後、業務管理本部長に就かれるわけです
巡って軋轢があったと聞いているんですけれども
―― 首 都 圏 本 部 長 の と き に は、 損 失 補 填 問 題 を
武 樋 ア メ リ カ の モ ー ゲ ー ジ 商 品 の 販 売 に お い
て、説明不足であることが分かったので、お客様
あったように聞いておりますが…。
が、アメリカのモーゲージ商品絡みのトラブルが
…。
覚して世間に指摘されて払い戻しをするよりは、
武樋 そうですね。
武樋 私が首都圏本部長のときに起きた損失補填
問題では、首都圏ではたまたま該当する案件がな
自発的に公表して先にやろうと…。
マスコミ、新聞にも叩かれたでしょう。当時、担
ね。
――そのときにちょっといろいろあったわけです
に払い戻そうとしたのです。後からそのことが発
かったので、軋轢とかいうことはありませんでし
当していた首都圏の二十数ヵ店の支店へ説明に
武樋 それはありますよね。
た。ただ、野村証券の一回目の不祥事では、結構
回ったのですが、ミディさんをはじめとする支店
の女性社員が、「子供がいじめられた」とか、「バ
スの中やスーパーでも、従来は楽しく話をしてい
た 人 た ち が、 み ん な サ ー ッ と い な く な っ た 」 と
― ―
103
ね。
特色あるブランド・ブティックハウスを目指して ―武樋政司氏証券史談(上)―
――そうですか。
武樋 その後、本社で仕事をやるようになってか
ら感じたことはありました。例えば、起債会とか
いましたでしょうか。
は困るといったことをお感じになられた点はござ
場から、何か大蔵省の強い圧力というか、これで
村証券としてどうこうではなくて、武樋様のお立
じられたのではないかと思うのですけれども、野
のは、免許制の下で、大蔵省の力を非常に強く感
――ご入社されてから証券不祥事に至る間という
だと思います。
のくらい大切な業なのだと前向きにとらえるべき
し、これはむしろ我々の証券業が国にとって、そ
銀 行 と 証 券 と 保 険 く ら い じ ゃ な い で す か。 し か
定期的に入って、いろいろ指導を受ける業界って
規制も取れてきましたが、それでも行政の検査が
いろ規制もありました。現在は届出制になり随分
題とか…。当時は免許制でしたから、当然、いろ
間接金融偏重の弊害を
感じた本社勤務時代
武樋 現場で営業をやっていて、そういうことを
感じたことはなかったですね。冒頭にも言いまし
――本社に行かれてから感じられた不自由という
証取法六五条問題のいわゆる証券、銀行の垣根問
たように、そのころの現場の営業状況は、とにか
のは、引受部でしたら、起債会の力、銀行の力が
― ―
104
く先輩に勝つということしか頭にないわけでして
非常に強かったと思うんですけれども、そういう
ことをお感じになっていらっしゃったというわけ
…。
証券レビュー 第56巻第6号
には回りません。ですから、証券と銀行が車の両
の血液の流れに偏重していると、良い血液が産業
ステムは非常に大事です。しかし、この間接金融
は決済機能、預貸機能があるわけで、この金融シ
は血液だというふうにずっと思っています。銀行
私は人間に例えると産業界が体で、証券、銀行業
ずっと来ていたことによるいろいろな問題です。
それよりもっと大きな問題として次のことを感
じていました。それは、この国が間接金融中心で
されるという側面もあります。
自由と言えば不自由ですけれども、リスクが軽減
細部まで決められていました。それは、確かに不
会計処理についても、他業界に比べてきっちりと
武樋 そうです。引受部にいた時で言えば、起債
会でした。また、主計部に関して言えば、決算の
ですね。
戦後、資金不足のなかで、早急に日本を繁栄さ
せなきゃいけないという事情があり、間接金融中
すよね。
でいうと、日本は資本主義国としてはまだまだで
一番もどかしいところです。そう言った意味合い
三〇%であるのに、日本は一八%であり、それが
五〇%は有価証券で保有しており、ユーロ圏でも
なければなりません。米国だって個人金融資産の
八九〇兆円も現預金があるのに、このおカネが
滞留して産業界に流れないという状況は、改善し
す。
ル バ ン ク は、 果 た し て 適 切 な の か 大 い に 疑 問 で
のではないでしょうか。ドイツのようなユバーサ
ろ銀行の証券業務に対して、適正な規制が必要な
健全な良い血液にしていくためには、現在では
銀行の証券業務をどの範囲まで認めるのか、むし
していかないと…。
輪のごとく、交じり合って良い血液の資金仲介を
特色あるブランド・ブティックハウスを目指して ―武樋政司氏証券史談(上)―
― ―
105
後することになります。
化している現在、これでは国際競争力において劣
成熟経済に入り、一方で、世界経済もグローバル
心できました。しかし、日本経済が高度成長から
いのではないか、と思っています。
来、初めてその入口に差しかかったと言ってもい
金 融 偏 重 の 流 れ が 変 わ ろ う と し て い る。 明 治 以
か進展しなかったのですが、今回のアベノミクス
るわけですが、いちよし証券は、野村証券の系列
――そして、武樋様はいちよし証券にいらっしゃ
アジア、店頭株特化戦略の背景
今回の郵政三社の上場は、そのきっかけになる
と思います。
だから、政策当局も一六年前の日本版ビッグバ
ン や そ の 後 の 小 泉 改 革 で、「 貯 蓄 か ら 投 資 へ 」、
「産業界に新しい血を」ということを本格的に打
に よ り、 よ う や く 本 格 的 に 進 展 し 始 め て き ま し
証券の中では、どちらかと言えば、あまり親しい
関係ではないように思うんですが…
た。
米国のように、財務省の長官に証券会社出身者
が多いという時代が、日本でもいつかくるといい
武樋 むしろ、大変親しい関係です。野村証券の
歴代の社長とも仲良くしているし、野村出身の役
ます。ただ、野村土地建物が持っている当社の持
ですね。
――ああ、そうですね。
ち 株 は 一 二 % 強 に す ぎ ま せ ん の で、 三 〇 %、 五
職員もいるし、もちろん業務面での繋がりもあり
武樋 それは極端にしても、ようやく、今、間接
― ―
106
ち出しました。しかし、諸般の事情によりなかな
証券レビュー 第56巻第6号
すか。
け皿ポストに、ランクみたいなものがあったんで
――野村証券としては、例えば退任役員の方の受
〇%とかいう関係ではありません。
当社の規模の証券会社は大型株ではなかなか存在
ます。それが、当時はアジア株と店頭株だった。
るだろうかと、考えなければいけなかったと思い
武樋 やっぱり、当社の規模の会社が何らかの特
色を出すには、どのマーケットならば特色が出せ
なり特色のある経営をされていたかと思うんです
かなり早くからアジア株と店頭株に注力され、か
だったわけですが、芦谷さんはアイデアマンで、
ら れ ま す。 武 樋 様 の 前 任 者 は 芦 谷〔 源 治 〕 さ ん
証券へ副社長で来られまして、二年後に社長にな
――それで、平成五年に野村証券から、いちよし
結構あったと思います。
も、コストパフォーマンスが合わないからです。
ど、中小型株式関連部門にお金をかけて投資して
ん。 そ れ は、 小 さ い 銘 柄 に ア ナ リ ス ト を 置 く な
いません。大手証券は大きいIPOしかやりませ
米国でも、メリルリンチをはじめとする大手証
券が、ナスダックの小さい銘柄のIPOはやって
のです。
私は、日本版ビッグバンのもう一つの切り口と
して、証券会社の機能の棲み分けだと思っている
感が出せませんが、中小型株なら十分いけますか
らね。
が …。 な ぜ ア ジ ア 株、 店 頭 株 だ っ た の で し ょ う
米国では中小型株の主幹事は、我々クラスの規模
― ―
107
武樋 それは分かりません。当時は今よりもいろ
んな関連会社がありましたから、役員が行く先は
か。
特色あるブランド・ブティックハウスを目指して ―武樋政司氏証券史談(上)―
我々クラスの証券会社にとってはコストに見合
小さい中小型株や、アジアのマーケットは、逆に
はコストパフォーマンスに合わないような規模が
できないのです。その一方で、大手証券にとって
当社が、例えば三、〇〇〇億円の増資を引き受
けても、当社の五〇〇人のアドバイザーでは販売
の証券会社がやっています。
報告書』が公表されている〕。
団を派遣し、翌年には『大阪米国証券市場視察団
地区協会が芦谷氏を団長とする米国証券市場視察
んですよ〔平成二年一〇月、日本証券業協会大阪
ター、今の金融商品仲介業というこの三つだった
こうということ、そして二つ目がラップアカウン
と、先ほど言いましたけれども、ちょうどその当
――バックオフィスのアウトソーシングは、かな
― ―
108
ト、 三 つ 目 が イ ン デ ィ ペ ン デ ン ト・ コ ン ト ラ ク
い、存在感が出せるのです。
武樋 二〇年前ですよね。アメリカで起こったこ
とは、二〇年ぐらい経つと日本でも起こっている
バックオフィス業務の外部委託化
時、アメリカで起きていたことが、今、日本でも
カにミッションを出しているんです。そのときの
り早くいちよし証券がやられましたよね。
現実化してきていると…。
ミ ッ シ ョ ン の 目 的 が、 三 つ あ り ま し て、 一 つ が
武樋 そうですね。
て、パーシング〔という業務代行会社〕を見に行
バ ッ ク オ フ ィ ス〔 後 方 事 務 〕 の 外 部 委 託 に つ い
「中小証券経営研究会」という研究会で、アメリ
―― 平 成 三 年 に、 芦 谷 さ ん が 座 長 を さ れ て い た
証券レビュー 第56巻第6号
の後、いちよしビジネスサービスにまとめたので
武樋 だいこうビジネスさんに一部移して、野村
ビジネスサービスにも移したのですけれども、そ
ね。
―― 初 め は だ い こ う〔 証 券 〕 ビ ジ ネ ス で し た よ
ン業務は、自前ではムリで専門業者にすべて任せ
問してみて、「このぐらい進化したオペレーショ
世界一のクリアリング専門会社のパーシングも訪
と役員一〇〇名を四班に分けて、一〇年ぶりにア
証券をはじめ米国の証券会社を見ようと、部店長
メリカに行きました。そして訪問先の一つとして
す。
れとも何らかの規制があったから…。
いうのは、御社の戦略があってのことですか。そ
――しかし、一旦移した業務をもう一度戻したと
それでバックオフィスのオペレーション業務
は、だいこうビジネスさんに人も含めて、すべて
イスの本業に集中しなきゃいけない」と…。
大変おカネもかかる。やっぱり我々は対面アドバ
のリスクもあるし、システムなどの設備投資にも
武樋 転籍です。
― ―
109
るべきだ」と…。「自社でやると、処理ミスなど
武樋 規制じゃなく、関連会社のいちよしビジネ
スサービスでクリアリング業務をやり、本体以外
移したのです。
う戦略でした。
しかし、昨年、だいこうビジネスさんにバック
オ フ ィ ス 業 務 を 全 部、 ア ウ ト ソ ー シ ン グ し ま し
た。というのは、昨年、エドワード・ジョーンズ
――それは出向じゃなくて、転籍ですか。
の証券会社からの外注も受けるようにしようとい
特色あるブランド・ブティックハウスを目指して ―武樋政司氏証券史談(上)―
武樋 ええ。
――かなり大胆ですね。
〔 現 在 の だ い こ う 証 券 ビ ジ ネ ス 〕 の 友 近〔 陽 一
リ カ 視 察 団 で 訪 米 し た 時、 当 時 の 大 阪 証 券 代 行
―― ご 本 人 た ち は「 い い 」 と 言 っ て い る ん で す
たことを懐かしく思い出します。
リアリングハウスを目指す」と熱く語っておられ
郎〕社長がウイスキーを飲みながら、「日本のク
か。
武樋 そうです。だいこうビジネスさんはクリア
リング専業で立派な会社ですし、転籍した人たち
術も向上し、価格設定もリーズナブルになってい
ステム会社も、複数の会社が競争をしていて、技
しに来た平成五年当時、当社の大阪と東京の法人
のようなことがありました。つまり、私がいちよ
武 樋 そ う で す ね。 平 成 一 二 年 の 創 立 五 〇 周 年
に、東京へ本社を移しました。その背景には、次
― ―
110
本社の東京移転・
社名変更とその背景
――話は変わりますが、平成一二年に本社を東京
ます。その結果、証券会社もアウトソーシングし
取引の比率は、だいたい東京が七五、大阪が二五
に移転されましたよね。
やすくなって、本来の業務に集中できるのです。
か、もしくは東京が八〇、大阪が二〇ぐらいとい
ですね。アメリカでは、クリアリングハウスもシ
一九九〇年代の後半に、大阪証券業協会のアメ
日本でも今後、アメリカのパーシングのような
本格的クリアリングハウスが、複数できてほしい
た。
も 収 入 が 減 る わ け で も な く、 納 得 し て く れ ま し
証券レビュー 第56巻第6号
カ ネ も 集 中 し て き ま し た。 現 在 の 法 人 の 比 率
は、大阪が一〇をちょっと切っちゃっているぐら
その後、一五年間で、ますます東京にヒトも、
しました。
立五〇周年だったこともあり、東京へ本社を移転
これらのことが背景にあって、また、ちょうど創
ク業務の機能もほとんど東京へ移していました。
いになってきたのです。また、当時、当社のバッ
東京のウエートが八五に対して、大阪が一五ぐら
う感じでした。ところが、平成一二年ごろには、
しました。
「一吉」を平仮名の「いちよし」に変えることに
にとっていちばん良いという意味合いで、漢字の
な名前が出ましたが、当社の歴史を残し、お客様
ようということで、社内で公募しました。いろん
よし」とか言われましてね。それで、社名を変え
武樋 当社はもともと大阪の会社でしたから、東
京に来ると、「一吉」を「いちきち」とか、「ひと
変更されましたけれども、それは…。
「いちよし基準」と
「クレド」の制定
――「いちよし基準」を出されたのが、平成二一
とに違いはないのですが、やっぱり本社は東京に
⑴公募仕組債は取り扱いません。⑵債券は高格付
して基準を決めたのですか〔いちよし基準とは、
年ぐらいですか。「いちよし基準」はどのように
――本社移転とともに、社名を漢字から平仮名へ
移してよかったなと思っています。
でも当社の故郷であり、重要な営業基盤であるこ
集中し、リテールまでそうなりました。大阪は今
いじゃないかなと感じるくらい、ますます東京へ
特色あるブランド・ブティックハウスを目指して ―武樋政司氏証券史談(上)―
― ―
111
つの原理原則で構成されている行動指針で、一〇
(外為証拠金取引)は取り扱いません。という七
す。⑹先物・オプションは勧誘しません。⑺FX
す。⑸投信運用会社は、信頼性と継続性で選びま
誘しません。外国株は投信での保有をお勧めしま
ファンドを取り扱いません。⑷個別外国株は、勧
けのみとし、不適格債は取り扱いません。⑶私募
成五年に勧誘をやめました。
各々の失敗の結果です。先物・オプションは、平
低格付で投資不適格の銀行債〕のデフォルトなど
ル債のノックイン、ダルマラ債〔インドネシアの
い」「債券は高格付けのみ」もそのころのデュア
なかったという失敗、「公募仕組債を取り扱わな
落とその後のお客様へのアフターフォローが出来
は、平成九年のアジア通貨危機でのアジア株の暴
例えば、「個 別外国株は、勧誘しま せん。外国
株 は 投 信 で の 保 有 を お 勧 め し ま す。」 と い う の
に向けて打ち出したのは平成二一年です。
ました。それらをまとめて集大成して、明確に外
武樋 七つの「いちよし基準」は、失敗体験を基
にして平成一〇年ごろから順次決めて実行してき
された〕。
を、より明確に、徹底するため、平成二一年に出
――アジア通貨危機ね。
いただきましたが、アジア通貨危機になって…
株価も一時的には上がり、短期間お客様に喜んで
マレーシアの現地株をお勧めしました。たしかに
武樋 大きく当てが外れました。一九九六年から
当社は、三洋証券の次ぐらいに、インドネシアと
とですか。
――アジア株は、ちょっと当てが外れたというこ
― ―
112
年 以 上 に 亘 っ て 守 り、 実 践 さ れ て き た 経 営 理 念
証券レビュー 第56巻第6号
――それで修正されたわけですね。
武樋 そうですね。インドネシア株はもちろん、
マレーシア株でも随分痛手を受けました。
株だったわけですか。
――一番手痛い打撃を受けたのが、インドネシア
ことは止めました。
外国株を買うことにし、外国の現物株を取り扱う
スコなどに任せて、投資信託を通じてアジア株や
強いHSBCやグローバルに運用力のあるインベ
た。そこで、体制がしっかりしていて、アジアに
が 三 人 い た の で す が、 全 く 役 に 立 ち ま せ ん で し
でした。当社のジャカルタ現地法人にアナリスト
て、銘柄のアフターフォローができなかったこと
武樋 激しく値下がりしましたでしょう。一番の
問題は、投資していただいた当社のお客様に対し
武樋 当社で七億円くらいの損を二回しました。
当時は募集期間中にノックインしても販売してい
――七億円ぐらい損したとか…。
み債の販売を止めることにしました。
他方で、デュアル債のノックインでも大きな痛
手を受け、EB債や日経平均リンク債などの仕組
います。
り、投資信託による外国株投資は大成功と思って
SBC)も現在二万円弱の基準価格となってお
ますし、平成一六年に作ったインドオープン(H
ナオープン(HSBC)は現在三万円以上してい
ては、平成一四年に作った日本で初めてのチャイ
の取り扱いを止めて、その代わり作った投信とし
地法人も必要がなくなり、閉鎖しました。現物株
武樋 はい。外国の現物株の取り扱いを止めたこ
とに伴い、香港、シンガポール、ジャカルタの現
特色あるブランド・ブティックハウスを目指して ―武樋政司氏証券史談(上)―
― ―
113
る証券会社もあったようですが。当社はお客様へ
場証券会社のなかでも数少ない赤字決算になりま
た。その代わり、平成一三年三月の決算では、上
フォーマンスを見れば、販売しなくて大正解でし
のだ」という声も随分ありましたが、その後のパ
のアドバイザーやお客様から「なんで販売しない
販売しました。当社は販売しなかったので、支店
武樋 EB債、日経平均リンク債は平成一一年こ
ろから三年間に業界全体で約三兆五、〇〇〇億円
――ああ、なるほど。
ので、損が出たのです。
とにかく、「いちよし基準」というのは、失敗
したことがベースにあり、その失敗を二度とやら
たと思っています。
格の急落をみると、やっぱり販売しなくてよかっ
で皆で悔しい思いをしましたが、その後の基準価
いろ言われ、その間会社の収益も上がりませんの
た。EB債や日経平均リンク債の時と同じくいろ
販売しましたが、当社は販売額をゼロで通しまし
武樋 そうです。ブラジルレアルを中心とする高
分配の通貨選択型投信を、リーマン・ショック後
――通貨選択型の投資信託ですね。
は扱いませんでした。
した。経営として赤字はきつかったのですが、今
ないためにはどうすればいいかを七つの原理原則
の販売を止め、自己の手持ちとして処理しました
から思えば決断して、我慢して良かったと思って
にまとめて、「いちよし基準」としたのです。
― ―
114
数年間で証券、銀行全体で約九兆五、〇〇〇億円
います。最近ではリーマン・ショック後、数年間
よく売れた通貨選択型の高分配投資信託も、当社
証券レビュー 第56巻第6号
――「クレド」も策定されましたね
レド」を制定しました。これは東証一部上場企業
す。
我慢が花開きつつある
中小型株への注力
標、行動指針を明確にし、当社のステークホール
すごく高い評価を受けていますよね。
――中小型株に関しては、いちよし経済研究所も
ダーである社員、お客様、株主、社会に対してど
に な る に 際 し て、 い ち よ し の 経 営 理 念、 経 営 目
う貢献するのか、という会社の存在理由を対外的
武樋 でも、まだこれからですけれども、まあま
あ成功しつつありますよね。
にも公表して、その実現に挑戦していこうという
近く検討し、最終的には全役員の合同合宿で討議
修正されたわけですけれども、中小型成長株の特
――アジア株は、今おっしゃったように失敗して
趣旨でした。若手役員で準備委員会を作り、一年
して制定しました。
み合わせをしています。また、毎月一回クレドア
しかし、中小型成長株は投資アドバイスだけでな
武樋 先ほどお話しましたように、アジアの現物
株がなかなかうまくいかなかったのは事実です。
化戦略はどうですか。
ワーという全店テレビ会議を設け、クレドの良い
く、 I P O を は じ め と す る 引 受 業 務 で も う ま く
いちよしグループの全役職員が三つ折りのカー
ドにした「クレド」をいつも携帯し、折にふれ読
実践例を実行した社員に発表をしてもらっていま
― ―
115
武樋 そうです。平成一八年三月に、東証二部か
ら一部に指定換えになった時に、「いちよしのク
特色あるブランド・ブティックハウスを目指して ―武樋政司氏証券史談(上)―
りませんでした。〔平成五年三月時点で、いちよ
幹事・販売団が七〇社ぐらいで、まだ主幹事はあ
いっています。私が当社に来た平成五年当時は、
武樋 いや、単純な話で、やると決めたからには
悪いときでも我慢して続けたからだと思います。
でしょうか。
成功された要因は、どのあたりにあったとお考え
し証券が幹事・販売団を務めた公開会社の累計数
―― 当 時、 店 頭 に 目 を つ け た 証 券 会 社 は 何 社 か
の累計社数が九六〇社までになりました。
現在は主幹事の累計社数が四〇社、幹事・販売団
に、いちよし証券は初の主幹事を獲得している〕。
の 主 幹 事 が 獲 得 で き ま し た。〔 平 成 一 〇 年 八 月
会社になろうという目標をたて、平成一〇年に初
――はい。
ましたが…。
連部門のコストが無ければ…、と幾度となく思い
武樋 しんどいのを我慢して…。環境の厳しい時
は、リサーチ部門やIPO部門などの中小型株関
――我慢して…。
― ―
116
は六八社であった〕。何とか主幹事が出来る証券
あったと思うんですよね。
くと信じて…
かに経営が我慢するかだと思います。必ず花が開
武樋 環境が悪いときに、ほとんどのところが撤
退していくのでしょうね。単純だけど、そこをい
ろは、あまり見受けないように思います。御社が
――しかし、御社ほどの結果を出されているとこ
武樋 ありましたよね。
証券レビュー 第56巻第6号
武樋 そうですね。株主の皆さんもいますしね。
当社の役員が心配して、「社長、三期連続赤字に
――しかし、しんどいでしょう。
ていたのは野村証券のみであった〕。
点で他の証券会社で、委員会等設置会社に移行し
社へ移行しました〔平成一五年六月に、いちよし
証券は委員会等設置会社に移行している。この時
な る と、 株 主 総 会 で ク ビ が 危 な い じ ゃ な い で す
――そうですね。
とにしました。同時に総会終了後、株主の皆さん
――愚直に悪いときでも、辛抱する…。
武樋 愚直に悪いときでも続けられるかどうか、
こ の 一 点 な の で は な い で し ょ う か。 収 益 は 悪 い
との懇談会も実施することにしました。
武樋 また、平成一三年に株主総会を集中日に開
催するのを止めて、土曜日にホテルで開催するこ
し、株主の皆さんからはお叱りの声も出ますし、
よる評価が二位だったと思いますが、非常に高い
当社は外国人株主が三〇%もいます。
――そうですね。
は、エーザイに続く二位を獲得し、平成二六年に
――御社は、日本コーポレートガバナンス協会に
武樋 海外の株主さんはどんどん意見を言ってき
ます。でも、意見を言ってもらえることはありが
も、ソニーに続く二位を獲得している〕。
でいちよし証券
JCGIndex
たいことです。そういうこともあり、当社は平成
武樋 昨年から、コーポレートガバナンスが注目
ですね〔平成二五年の
一五年に、制度が出来ると同時に委員会等設置会
― ―
117
か」と言ってくれたりしました。
特色あるブランド・ブティックハウスを目指して ―武樋政司氏証券史談(上)―
されてきていますが、約四、〇〇〇社の上場企業
のうち、指名委員会等設置会社は現在わずか六〇
社 く ら い で す。〔 平 成 二 七 年 一 〇 月 一 五 日 時 点
で、 六 五 社 が 指 名 委 員 会 等 設 置 会 社 と な っ て い
る〕。この形態をとって実質的に機能させていく
ことがコーポレートガバナンス上一番望ましいと
※ 本稿は、二上季代司、小林和子、深見泰孝が
参加し、平成二七年九月二九日に実施されたヒ
アリングの内容をまとめたものである。文責は
当研究所にある。
※ なお、括弧内は日本証券史資料編纂室が補足
した内容である。
― ―
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思います。
証券レビュー 第56巻第6号
特色あるブランド・ブティックハウスを目指して ―武樋政司氏証券史談(上)―
武 樋 政 司 氏
略 歴
昭和18年4月 新潟県出身
昭和42年3月 東北大学法学部卒業
昭和42年4月 野村証券株式会社入社
平成2年6月 同社常務取締役
平成5年6月 一吉証券株式会社入社
平成5年6月 同社副社長
平成7年6月 同社社長
平成13年7月 日本証券業協会理事(~平成16年6月)
平成13年7月 同協会市場運営委員会委員長(~平成16年6月)
平成15年6月 いちよし証券株式会社取締役執行役社長
平成15年6月 同社取締役会議長(~平成18年6月)
平成16年7月 日本証券業協会東京地区会長(~平成18年6月)
平成16年7月 同協会地区評議会副議長(~平成17年6月)
平成16年7月 同協会証券評議会議長(~平成17年6月)
平成16年7月 同協会リーテイル証券評議会議長(~平成17年6月)
平成16年7月 同協会東京地区評議会議長(~平成18年6月)
平成17年4月 同協会証券教育広報委員会副委員長(~平成18年6月)
平成17年7月 同協会地区評議会議長(~平成18年6月)
平成18年6月 いちよし証券株式会社相談役
平成17年7月 同協会証券戦略会議副議長(~平成19年6月)
平成19年6月 いちよし証券株式会社執行役社長
平成20年6月 同社取締役兼代表執行役社長
平成22年6月 同社取締役会議長(~現在)
平成23年7月 日本証券業協会外務員等規律委員会副委員長(~現在)
平成24年6月 いちよし証券株式会社取締役兼執行役会長(~現在)
<受章>
平成27年4月 旭日小綬章
― ―
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