神の歴史−24 「家族が崩れるとき」 11 ヤコブは、父がかつて滞

 神の歴史−24 「家族が崩れるとき 」 2015.12.27
創世記 37:1-11、マタイ 2:13-18、フィリピ 2:6-11
11 ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいた。22 ヤコブの家族の由
来は次のとおりである。ヨセフは十七歳のとき、兄たちと羊の群れを飼っていた。ま
だ若く、父の側女ビルハやジルパの子供たちと一緒にいた。ヨセフは兄たちのことを
父に告げ口した。 33 イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼
には裾の長い晴れ着を作ってやった。 44 兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわ
いがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。 55 ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになっ
た。 66 ヨセフは言った。「聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。 77 畑でわた
したちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立った
のです。すると、兄さんたちの束が周�りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しまし
た。88 兄たちはヨセフに言った。
「なに、お前が我々の王になるというのか。お前が我々
を支配するというのか。」兄たちは夢とその言葉のために、ヨセフをますます憎んだ。 99 ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄たちに話した。
「 わたしはまた夢を見ました。
太陽と月と十一の星がわたしにひれ伏しているのです。」1100 今度は兄たちだけでなく、
父にも話した。父はヨセフを叱って言った。
「一体どういうことだ。お前が見たその夢
は。わたしもお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというの
か。」 1111 兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。 Ⅰ.ヨセフ物語
今日より、ヤコブ(=イスラエル)の家族物語、いわゆる「ヨセフ物語」を読み進むことになります。そ
れはヨセフをめぐる兄弟たちの葛藤を経て、ヤコブの家族がエジプトに寄留するまでを描いています。申命
記26章(原信仰告白)にそのときのことが次のように表現されています。
「わたしの先祖は、滅びゆく一アラ
ム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。」ヤーウェを神とするイスラエル
の信仰告白は、このように始まるのです。ヨセフ物語は、このわずか一行で言い表されたことを伝えている
のです。それは、アブラハム、イサク、ヤコブへと継承されてきた祝福が、のちにイスラエル12部族とな
るヤコブの12人の息子たちに継承される物語です。しかも、それはヤコブの家庭の崩壊として描かれるの
です。
そこでまず、ヨセフ物語の文学的な特質について触れておきたいと思います。ヨセフ物語は、これまで読
み進めてきた族長物語(アブラハム、ヤコブ)とは異なる特質を持っています。その一つは例外的な長さです。
アブラハム物語も12章から23章、そしてヤコブ物語は25章から36章と、分量からすれば遜色ありま
せん。しかし、ヨセフ物語は、他の族長物語のように、個々の伝承を集め、それらをつなぎ合わせて出来上
がった、いわゆる「伝説の環」ではなく、初めから終わりまで有機的に構成された一つの物語なのです。ゆ
えに、主題的にはるかに完結しており、しかも一義的です。
内容面でいえば、選びと導きを主題としていることは、他の族長物語と同じです。しかも、ヤコブ物語同
様、ヨセフ物語も世俗的な誤謬を含む巨大な絵巻物であり、ますます先鋭化していく葛藤の連続を描いてい
ます。私たちはヨセフ物語においても、族長たちに対して神の行為が隠されているという問題の前に立たさ
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れますが、しかしヤコブ物語のように、神とその業とを非道徳的な人間性の茂みの中に見失ってしまうこと
はありません。ヨセフ物語は明らかに導きの物語であり、神自身がすべてを良いほうに変わらせることをテ
ーマとしているからです。それは聖書宗教の中核です。パウロはそれを次のように表現しました。「神は、
神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下
さることを、わたしたちは知っている」と。だからこそ私たちは、どのような出来事の背後にも神の愛の御
手を見ることができるのです。
ヨセフ物語において神は、全く隠れたところで、暗い人間性のすべてを、御自分の計画を実行するために、
つまり、
「多くの民の命を救うために!」(45:5 以下、50:20) 利用されるのです。しかもこの導きは、一般的な
神の摂理の流出ではなくて、神がイスラエルの族長たちに与えた特別な救済意志の一部です。著者はヨセフ
物語の結びで、ヨセフにこう語らせています。「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたち
を顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます。」
(50:24) と。かつてアブラハムに誓われた神の約束_「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で
寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕
えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。」
(15:13−14、16)_がここで繰
り返されているのです。
旧約聖書を読む者は、エジプトから救い出された経験が神の民イスラエルの信仰の基盤であることを知っ
ています。北王国イスラエルがアッシリアに滅ぼされたときも、南王国ユダがバビロニアに滅ぼされたとき
も、預言者たちは新しいモーセ、新しい出エジプトとして、神の救いを信じ続けることができたのです。そ
の意味で、「旧約はまさにつねに成長する期待の書として読まれる」と言った人がいます。ヨセフ物語の著
者もまた、いかなる約束も無にすることなく、神の成就の可能性にいかなる限界もつけずに、約束を未成就
のままで来たるべき世代に伝えているのです。
Ⅱ. 崩壊する家庭
きょう私たちに開かれた御言、37章1節以下は、ヨセフ物語第一幕の導入であると同時に、ヨセフ物語
全体の導入でもあります。著者はここで、ヤコブの家庭が崩壊する二つの原因を上げています。一つは、ヤ
コブがヨセフを「年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり」、結果、兄たちはヨセフを憎み、穏
やかに話すことができなかったと。
ヤコブはヨセフだけに「裾の長い晴れ着を作って」着せたのです。それは、労働しなくてもよい人々だけ
が身に付けられる贅沢品です。一方、兄たちは膝までの短い衣服を着て、朝から晩まで、畑を耕し、羊の群
れの番をしていたのです。衣服の違いは身分の差に通じます。兄たちの憎悪は深まるばかりでした。「穏や
かに」とはシャーローム(平和)ですから、これがきっかけでこの家庭の平和が破れ始めたことがわかりま
す。この生々しい複雑な動機づけから、長い一連の出来事が始まるのです。
実は、息子たちの中でヨセフだけを偏愛したヤコブ自身が、かつて両親の偏愛の中で育てられた経緯があ
ります。ヤコブには双子の兄弟エサウがいました。父イサクは、狩りの獲物が好物だったのでエサウを愛し、
母リベカはヤコブを愛したというのです。
人間の心と体の成長には、環境の要因が大きく影響すると言われます。心理学者フロムは言います。人間
には「死への衝動」と「生への衝動」がある。しかもこの両方のオリエンテーション(方位)は、それぞれ
の環境によって伝染すると。つまり、生命を愛し、成長を喜び、美しいものを称える人々の中で、人間は自
分自身もまた命を愛する喜びを学ぶのです。だから子供は、生への衝動が優勢な人々の間で育たなければな
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らないのです。
詩編133編の詩人は次のように歌いました。「兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜
び!」ヤコブの家庭は、ヨセフが父の寵愛を一身に受けたことで、兄弟が共にいることができなくなったの
です。一つの家庭の平和がこうして完全に破れたのです。喜びに代わって悲しみが、和合に代わって離散が
おとずれたのです。
そして、この家族の亀裂をさらに深めることが起きます。ある日ヨセフは、両親も含め、兄たちが皆自分
にひれ伏す夢を見、それをそのまま語ったのです。それを聞いた兄たちは、ますますヨセフを憎み、そして
妬みます。ちなみに、ヨセフ物語の導入部では、兄たちの憎しみと嫉妬が4度も語られます。それがいかに
深いものであったかがわかります。そしてこの後、12節以下で私たちは、憎しみと嫉妬が殺意に変わるの
を見るのです。
兄たちが働いている所に行ってくるようにとの父の要請を受けたヨセフは、裾の長い晴れ着を着たまま、
遠い道のりを辿り、兄たちを訪ねます。兄たちに近づいてくる人影がヨセフであると知ると、「ヨセフを殺
してしまおうとたくらみ、相談」します。長男ルベンの介入で、ヨセフは殺されずにすみますが、着ていた
「裾の長い晴れ着を剥ぎ取」られて、穴に投げ込まれます。そこにミディアン人の商人たちがたまたま通り
かかり、ヨセフを穴から引き上げて、銀20枚でイシュマエル人の隊商に売り、こうしてヨセフは奴隷とし
てエジプトへ連れて行かれるのです。
この後、穴に落としたヨセフの姿が消えていることに気づいた兄たちは、雄山羊を殺して、その血にヨセ
フから剥ぎ取った着物を浸し、ヨセフが獣に噛み殺されたという新しい物語を作り上げます。その知らせを
聞いたヤコブの嘆きは、人間が経験しうる最も深い嘆きです。御言はそれを次のように描きます。「ヤコブ
は自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ。息子や娘たちが皆やって
来て、慰めようとしたが、ヤコブは慰められることを拒んだ。『ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きな
がら陰府へ下って行こう!』」
Ⅲ. 希望の根拠
わたしは、子どもがいないことで、慰められることを拒むヤコブのこの嘆きを読みつつ、兄たちが本当に
憎んでいたのはヨセフではなく、父ヤコブだったのではないかとの思いに捉えられました。
かつてヤコブは、年老いた父イサクを欺き、兄エサウの祝福を奪ったことがあります。それを知ったエサ
ウは、ヤコブを殺すと決意します。しかしエサウはすぐには行動しませんでした。父を悲しませたくないと
の思いからです。「父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる!」父を悲し
ませたくないとの思いで、エサウは殺人者にならず済んだのです。それどころか殺したいほど憎んだヤコブ
と和解する時が与えられたのです。
しかしヨセフ物語は、父ヤコブの死の床で、ヨセフの仕返しを恐れる兄たちがいるのです。憎しみからヨ
セフを殺そうとしたヤコブの息子たちには、エサウがイサクに抱いていた、父を悲しませることへの配慮は
なかったのです。言い換えますと、父の寵愛を一身に受けたヨセフへの兄たちの憎しみは、自分たちを愛し
てくれない父への敵意の投影ではないのか。兄たちは父の愛情に飢えていたのです。
平等に愛することなどできません。それでも12人の息子たちに同じように向き合っていたら、ヤコブの
家庭は崩壊しなかったのではないのか。そんな思いに捉えられます。
一軒の家庭の平和が崩れる時、それは些細なことからも起きます。神を信じる家庭にもそれは起きます。
家庭の崩壊はいろいろなことで起きるのです。「ルツ記」のナオミの家庭の場合は、飢饉という天災と、夫
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や子供の死によって崩れ去りました。
私たちの周りには戦争のために壊された家庭があり、経済変動のあおりで四散した家庭もあります。一家
の支柱が車にはねられたことから崩れ去る家庭もあります。ヤコブの家庭は、もっと小さなことから崩れま
した。ヤコブがヨセフを他のどの子よりも偏愛したことによるのです。そしてそれは、大きな結果をもたら
しました。ヤコブはヨセフを偏愛したことで、慰められることを拒むほどの悲しみを味わうことになるので
す「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう!」と。
このヤコブの深い嘆きが、ヨセフ物語第一幕のクライマックスです。この慰められることを拒むヤコブの
深い嘆きに慰めはあるのだろうか。言い換えますと、この深い嘆きに答え得る神とは、どのような神なのだ
ろうか、ということです。そのことを黙想していたとき、日本語学者大野晋が『日本語をさかのぼる』で語
った言葉が思い起こされました。
大野氏によれば、古代日本語のカミは上にいますカミ(上)とはミの音が別で、文献からすれば、恐るべ
き、威力をふるう鬼、狐、狼、妖怪の類いで、恐怖の対象でした。人間はこれをマツルこと、つまりものを
さし出し、捧げ、機嫌を鎮めてもらうことが重要であったと。
このカミ信仰は、平安時代にホトケが広まることにより、その後人を愛し、ゆるし、救うという意味を持
つようになったが、「外来のこの思想は、本当は根深く人々の心の底、文化のもろもろの底辺にとどくほど
に浸透したかどうか」と大野氏は疑っています。そして、この書物の「信仰」の項の終わりで語られた言葉、
「収穫が豊かでありさえすればそれをもって幸福と考え、それ以上の心の苦しみの救済などは考えていなか
ったことを示す」という言葉を読むとき、私たち日本人の根底に潜む現世利益の問題性を思わざるを得ませ
ん。
聖書の民は救いをどのように考えて、どう伝えてきたのでしょうか。結論を言えば、聖書が語る慰めは、
慰められることを拒むほどの深い嘆きを癒す慰めであるということです。それを端的に描いているのが、マ
タイが記す主イエスの誕生物語です。マタイは、救い主誕生の喜びを伝えるクリスマス物語の中に、預言者
エレミヤが語った、慰められることを拒む母たちの叫びを記します。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲
しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから!」
実は、預言者エレミヤが語ったこの言葉の後には続きがあります。エレミヤは、子供をなくし、慰められ
ることを拒む母たちの嘆きの声に、こう続けたのです。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙を
ぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなた
の未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰ってくる!」
そしてエレミヤはこの慰めの根拠を、つまり失われた未来に希望があることを次のように語ったのです。
「わたしはエフライムが嘆くのを確かに聞いた。…�…�エフライムはわたしのかけがえのない息子、喜びを与
えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに、わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴
り、わたしは彼を憐れまずにはいられない(我が腸は痛む)!」
わたしは、マタイが主イエスの誕生物語の中に、このラマで叫ぶラケルの嘆きを位置づけた意義は大きい
と考えています。マタイは、救い主イエスの誕生を、わが腸は痛むと語る神として描いているからです。福
音書が描く主イエスの道は、まっすぐ十字架に通じているのです。その名はイエス、インマヌエル! 我ら
と共にいますこの神は、私たちの病を負い、悲しみを担うだけではなく、私たちの不義、罪、咎を全て負っ
て、私たちの身代わりとして神に裁かれたのです。
シモーヌ・ヴェイユがナチス・ドイツから逃れて、アメリカで逃亡生活を送っていた時に書き記した言葉
が心に迫ります。「不幸な人々に対して、神の御国について語らないこと。その人たちにとって、神の御国
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なんて、あまりに縁遠いものであるから。ただ、十字架についてだけ語ること。神が苦しんだのだ。」 ヤコブ=イスラエルが、愛する息子を失い、慰められることを拒んで発した嘆きは、やがてイスラエルが
戦争に敗れる中で、帰らぬ息子を思って母たちが発したうめきとなります。そして預言者は、慰められるこ
とを拒む母たちに、こう語りかけたのです。「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみ
は報いられる…�…�あなたの未来には希望がある、と主は言われる。」 マタイが主イエスの誕生で語ったのは、この希望の未来です。マタイは、慰められることを拒む悲しみへ
の報いとして、神は十字架への道を歩むために、人となられたと語ったのです。あなたを思うたびに我が腸
は痛む、と言われた神の痛みが、十字架のキリストに啓示されたのです。 結びに、この神の痛みについて語られた初代教会の賛美歌の一節を聞いて終わりたいと思います。「キリ
ストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にし
て、僕の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至る従順でした。」 神の自己放棄に至るまでのヤーウェの下降には輝き出る美しさがあると語った人がいます。この後パウロ
は、この美がもたらした救いの実について語ります。「こうして、天上のもの、池上のもの、地下のものが
すべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父で
ある神をたたえるのです!」 神の御子イエス・キリストが、神であることに固執せず、己を空しくして、人間となられたことで、慰め
られることを拒否した者、つまり暗闇だけを親しいと言っていた地下のものが、神を褒め称える者に生まれ
変ったのです。十字架のキリストは、ヤコブの「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下っ
て行こう!」を、ハレルヤ!に変えられたのです。
(祈り) 「これは、なんという恐るべきところか。これは、神の家である。これは天の門である。」 「愛する主よ、教えて下さい。 全世界の贖いのためには、あなたのいとも貴い御血の一滴で十分であったのに、 なぜあなたは御体から御血を残らず流しつくされたのですか。 主よ、わたしは知っています。 あなたがどんなに深くわたしを愛してい給うかをお示し下さったのだということを。」 主よ、あなたが給わる聖霊によって、あなたの愛を私の霊肉に刻みつけ、御名を讃えて生きる者として下
さい。
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