No.3196 2014年5月4日 先週の説教要旨 江守秀夫 「 復活のただ中から

No.3196 2014年5月4日
先週の説教要旨
江守秀夫
「 復活のただ中から 」
ルカによる福音書24章36~49節
▼「弟子たちに現れる」という小標題
が掲げられます。物語は36節から43節
まではイエス自身が自らの手足を弟子
たちに見せ、また焼いた魚を食された
ことが最初に配置されます。よくある
解釈にこの箇所はイエス自らが自分の
物体性、つまり甦りの証明であったな
どと説明しますがはたしてそうなので
しょうか。
▼ルカは物語を36節のイエスが彼らの
真ん中に立ったという書き出しから始
めます。これはイエスが生きていた頃
の弟子たちとの共同体の継続を最初に
宣言するのです。そして続く「平和」
の挨拶もそれまでのイエスの宣教指針
の確認であり、これからの弟子たちが
人々に平和をもたらす基礎になること
への宣言でもあります。しかし、それ
らのイエスの側からの呼び掛けに対し
弟子たちは37節と41節でかたくなに否
定します。
▼そんな弟子たちの生き方に対し、イ
エスは「手と足」を見せ、共に食卓に
つくのです。しかし、ルカは「わたし
はあなたたちと同じ手足と骨肉を持っ
ている」とは記しません。 ここでの中
心句は 39節にある 「まさしくわたし
だ」という言葉です。それは復活者の
肉体の証明なんかではなく、十字架と
復活をはさんで揺らぐことなき福音の
質を宣べ伝える共同体の働きを宣言す
る言葉なのです。
それは44節の「まだあなたがたと一
緒にいたころ、言っておいたこと」と
記されるように、十字架の前のイエス
が語った福音と復活後のイエスがこれ
から語る福音はまったく同一であると
いうことなのです。ここで食事をする
イエスはかつてのイエスであり、この
食事の席で話すイエスの言葉はかつて
のイエスの話した言葉であり、さらにそ
の内容も同じであるという意味なので
す。
▼弟子たちの思い描いていた願いとは
何だったのでしょうか。無理解ながらも
イエスと旅した頃はそれなりに充実も
していたし、それまでの自分たちの生活
を振り返れば冒険心を満たしてくれた
ことでしょう。ひょっとしたら地位も名
誉も金も保証される人生が開かれるか
も知れないと願っていたことかと思い
ます。イエスにさえくっついていれば、
何も考えなくてもイエスがすべてやっ
てくれてくれるし、分からないときは黙
って頭を下げとけばよい位の理解でし
ょう。しかし、リーダーと目していたイ
エスは十字架にかかり、後に残された自
分たちは路頭に迷うばかりか夢破れて
田舎に帰るしか選択肢はなかったので
す。
▼わたしたちが抱く願いもこのような
欲や自惚れがまといつくものです。わた
したちが錯覚しやすいのは、自己執着を
願いだと勘違いすることでしょう。自己
執着が満たされなければそっぽを向い
てしまうのです。そういう意味では案外
わたしたちは一度たりとも願いと言う
にふさわしい願いを持ったことがない
のかもしれません。
▼ おそらく弟子たちにとってはイエス
の死と同時に福音宣教時代を卒業した
つもりだったのでしょう。願いは叶えら
れなかったのです。しかし、復活の出来
事とは、これまでイエスにおんぶにだっ
こだった弟子たちが、これからは自分た
ちが責任を負って福音を宣べ伝える側
に立つという主体的転換なのです。つま
り、人が持つべき、そしておそらくその
名に値する唯一の願いは、自己執着から
自由になることなのです。
これが復活なのです。