普及駐在員としての思い出 - 長野県林業改良普及協会

第1章
普及活動の思い出
普及駐在員としての思い出
茅野市
篠原
弥寿夫
私は、昭和38年4月、林業改良指導員として採用され、諏訪地
方事務所に勤務してから、昭和60年3月、林業指導所勤務を最後
に退職するまでの22年間、一環して普及業務に携わってきました。
その間、多くの先輩のご指導や援助を受けて、曲がりなりにも全う
することができたことは幸せでした。まだ新入りホヤホヤの昭和3
9年、全国植樹祭が茅野市北山八子ヶ峰で開催されることになり、
茅野市の担当だったことから、3月残雪のある頃から毎日八子ヶ峰
に通って準備作業を受け持ち、植樹祭当日を迎えたときの感激は、
今でも忘れることはできません。22年間の勤務のうち、12年間
が諏訪地方事務所、4年間が南佐久地方事務所、最後の6年間が林
業指導所と3箇所だけの勤務でしたが、南佐久地方事務所勤務中の
昭和42年頃から、諏訪地方事務所に戻った昭和50年頃まで、林
道係の指導を受けて、規格の厳しくない作業道の測量、設計を林業
改良指導員が行い、希望する市町村に開設した時期がありました。
その時の作業道が現在も利用され、形として残っていることは喜び
の一つです。
また、諏訪地方事務所勤務中のことですが、諏訪の離島的存在と
言えば諏訪市湖南後山地区ですが、この後山で、しいたけ栽培をし
ている金子さんの息子さんに、横浜から嫁さんが来ることになりま
した。湖南農協が、都会との交流を図るために募集したグループの
一員として、後山を訪れたことが縁になったとのことでした。果た
して後山に定着してくれるのか心配でしたが、早速リポーター役を
務めて「長野の林業」に紹介させていただきました。それから、今
年で25年位 経過している計算になりますが、本年、林務課で計
画したきのこ講習会に、講師として出席し、林務課の所管する婦人
グループを対象にきのこの話をすることになりました。林業改良指
導員の方と受付に居たところ、その横浜から嫁いだ奥さんが、グル
ープ員の一人として出席し、久しぶりの再会ができたことは、最高
の喜びでした。「篠原さんしばらくです。ご無沙汰しています。ま
第1章
普及活動の思い出
あ、あの頃と全く変わっていないじゃあ」白髪頭で入れ歯ガクガク
の私に大きな声で挨拶し、すっかりたくましい農家の主婦に変身し
ている彼女に目を見張りました。職を退いて10数年余、勤務当時
の地域のことや、関わりのあった人達のことが、懐かしく思い出さ
れる今日この頃です。
私は現在、シイタケ栽培者として諏訪椎茸生産者組合に所属して
おり、事務局が林務課内に置かれていることもあり、林業改良指導
員の方には特にお世話になっています。私達が退職最後の頃は、木
材価格も低迷して林業も厳しい時代にさしかかってはいましたが、
現在に比べれば間伐材等も搬出問題さえ解決できればまあまあ販
路もあり、価格も幾分は手に付くものが残る状態でしたから、客体
の目を森林に向けさせることが、どうにかできる状態でした。現在
のような最悪の林業情勢の中で活動する林業改良指導員は大変だ
と思います。色々アイディアを持ち寄って頑張ってもらいたいと思
います。なお、林業改良指導員は、法律や規則をもとに仕事を進め
る職種と異なり、人を対象として新しい技術や情報を伝達したり、
施策を導入するための場作りをするような仕事が多いと思います。
かつて、現職時代の研修で人と対するときは、教えてやるぞとい
う高い位置から見下ろした視線では駄目、「同じ高さの視線」で人
と接しなさいと教えられました。何を考えているかわからない新人
類の多い時代です。「同じ高さの視線」で接することが相手に信頼
されることにつながると思います。