「米とくらし」展/常設展示室から/おすすめの一冊。(p - 新潟市歴史博物館

常設展示室から
ヤツメツヅ(ヤツメドウ)
はた
信濃川、阿賀野川の河口では江戸時代からヤツメウ
ものは、機の上へぶら下げておいてもきき目があるという俗
ナギ漁が盛んに行われていました。ヤツメウナギは、
ウナ
信があったためだそうです。
ギに似た姿をした生き物で、生物学では魚類とは異なる
初代萬代橋の写真の橋桁のところに引き上げられたヤ
む がく るい
せきつい
無顎類に属する脊椎動物として知られています。ビタミ
ツメツヅがたくさん写っていたり、佐渡へ渡った江戸時代
ンAを大量に含んでいて、古くから眼の病によい食べ物
の地理学者、小泉蒼軒が、佐渡の水津湊から新潟湊へ
として好まれていました。
帰る際に、信濃川河口でヤツメ漁の浮子として使われて
こいずみそうけん
新潟市域では、
ヤツメウナギを獲る漁法として、網漁とな
いた樽をみたことを記録していたり、新潟の湊について資
うけ
らんで筌漁が行われていました。筌という漁具の歴史は古
料調査を行っていると意外なところでヤツメウナギ漁に出
く、縄文時代から使われていたことが分かっています。内部
会うことがあります。
に返しがある構造の漁具で、生き物がいったん入ると抜け
新潟市域の漁業については、展示室後半の「蒲原平
出せなくなってしまう仕組みになっています。新潟市周辺
野の村々」のエリアにコーナーを設けてあります。あまりひ
でポピュラーだった筌漁には、
ドジョウを獲るために田んぼ
ろいコーナーではありませんが、今回紹介した筌をつかった
の脇の水路にしかけた「ドジョウツヅ
(泥鰌筒)」などがあり
漁の外に、浜の地曳網やネズラ下駄漁なども紹介してい
ます。
ドジョウも新潟市域の名産品で、
「亀田泥鰌」などは、
ますので、
ご覧になってください。
大正∼昭和初期の最盛期には日本各地へむけて専用列
(岩野 邦康 学芸員)
車が編成されるほど獲られていました。
信濃川の河口のヤツメウナギ漁では、筌としては巨大な
「ヤツメツヅ(八目筒、
ヤツメドウともいった)」を使った漁が
盛んに行われていました。ヤツメウナギの漁は秋の終わり
から冬に行われ、
ヨシ
(カヤ)
で作ったヤツメツヅを、縄で縛
って5∼10個ぐらい連結させ川底に沈めておく漁法でした。
ヤツメウナギは夜行性のため、夜の間しかけておいて朝あ
げに行きました。獲ったヤツメウナギは生のまま売るほか、
干したものが機織りの盛んだった信州の松本(長野県)、
上州の高崎(群馬県)
などの地方で売れたそうです。これ
はヤツメウナギが目に良く、
とくに「寒の巳の日」に獲れた
販
売
し
て
お
り
ま
す
。
︵
小
林
隆
幸
学
芸
員
︶
5 帆檣成林 第一五号
す
く
ま
と
め
ら
れ
て
い
ま
す
。
ぜ
ひ
、
ご
一
読
く
だ
さ
い
。
当
館
で
も
本
書
は
市
民
を
対
象
に
し
た
講
座
の
記
録
で
あ
り
、
わ
か
り
や
ま
す
。
あ
ら
た
め
て
感
謝
い
た
し
ま
す
。
が
自
主
的
に
録
音
と
テ
ー
プ
起
こ
し
を
し
て
く
れ
た
こ
と
に
あ
り
左の大きな筒がヤツメツヅ
本
に
な
る
き
っ
か
け
は
、
熱
心
な
受
講
生
で
あ
る
渡
辺
知
夫
さ
ん
澄
夫
氏
、
そ
し
て
当
館
甘
粕
館
長
が
講
座
を
担
当
し
ま
し
た
。
館
長
︵
当
時
︶
の
石
部
正
志
氏
、
金
沢
学
院
大
学
名
誉
教
授
の
橋
本
地
域
ご
と
に
島
根
大
学
教
授
の
渡
辺
貞
幸
氏
、
五
條
文
化
博
物
館
ら
か
に
す
る
こ
と
を
目
的
に
開
催
し
た
当
講
座
で
は
、
そ
れ
ぞ
れ
の
越
等
の
諸
勢
力
の
交
流
と
興
亡
の
軌
跡
を
考
古
学
の
成
果
か
ら
明
前
期
に
至
る
激
動
の
時
代
、
日
本
海
域
で
覇
を
競
っ
た
出
雲
・
丹
波
・
催
し
た
同
講
座
の
記
録
集
で
す
。
弥
生
時
代
後
期
か
ら
古
墳
時
代
生
の
戦
乱
と
古
墳
の
出
現
﹂
を
テ
ー
マ
に
、
二
〇
〇
七
年
三
月
に
開
全
四
回
の
連
続
講
演
会
で
す
。
本
書
は
、
﹁
日
本
海
域
に
お
け
る
弥
当
館
の
館
長
講
座
は
、
甘
粕
館
長
自
ら
が
コ
ー
デ
ィ
ネ
ー
ト
す
る
み
な
と
ぴ
あ
の
﹁
館
長
講
座
﹂
が
本
に
な
り
ま
し
た
。
二
〇
〇
八
年
十
月
甘
粕
健
編
同
成
社
﹃
市
民
の
考
古
学
5
倭
国
大
乱
と
日
本
海
﹄
お
す
す
め
の
一
冊
数
多
く
の
道
具
を
展
示
し
て
い
ま
す
。
ま
た
、
土
臼
な
ど
、
江
戸
時
代
か
ら
使
わ
れ
て
き
た
に
使
う
ヤ
チ
キ
リ
ガ
マ
、
ほ
か
に
も
セ
ン
バ
や
ン
ジ
キ
、
葦
原
を
ひ
ら
い
て
新
田
を
作
る
時
し
た
。
同
じ
く
深
田
で
の
稲
刈
り
で
使
う
カ
の
輸
送
に
キ
ッ
ツ
ォ
は
欠
か
せ
な
い
道
具
で
て
運
び
ま
し
た
。
水
が
た
ま
っ
た
田
で
の
稲
し
た
稲
を
載
せ
て
押
し
た
り
、
ひ
い
た
り
し
キ
ッ
ツ
ォ
は
田
で
使
う
舟
で
、
深
田
で
収
穫
あ
り
ま
す
。
キ
ッ
ツ
ォ
は
そ
の
代
表
で
す
。
の
稲
作
か
ら
は
想
像
も
で
き
な
い
道
具
が
六
〇
点
を
展
示
し
て
い
ま
す
。
中
に
は
現
在
期
ご
ろ
に
市
域
で
使
わ
れ
た
農
具
な
ど
約
一
業
に
不
可
欠
な
道
具
を
は
じ
め
、
昭
和
初
さ
ん
集
め
て
展
示
し
て
い
ま
す
。
深
田
の
作
用
さ
れ
て
い
た
道
具
を
で
き
る
か
ぎ
り
た
く
今
回
の
展
覧
会
で
は
、
当
時
の
農
業
で
使
上
げ
て
、
田
の
収
穫
を
維
持
し
て
い
ま
し
た
。
田
に
農
家
は
毎
年
土
を
入
れ
て
土
か
さ
を
年
中
水
が
た
ま
り
や
す
く
、
こ
う
し
た
深
湿
な
土
地
で
し
た
。
平
坦
な
地
形
の
た
め
に
、
を
貫
流
す
る
信
濃
川
の
最
下
流
部
に
立
地
新
潟
市
域
は
、
越
後
平
野
の
中
央
、
平
野
ま
で
開
催
中
で
す
。
ら
し
展
﹁
米
と
く
ら
し
﹂
を
二
月
一
日
︵
日
︶
み
な
と
ぴ
あ
で
は
、
第
五
回
む
か
し
の
く
で
す
。
江
戸
時
代
後
期
に
は
市
域
で
も
使
ズ
、
玄
米
と
モ
ミ
ガ
ラ
等
を
選
別
す
る
道
具
稲
作
の
脱
穀
調
整
作
業
で
、
モ
ミ
と
ワ
ラ
ク
全
部
で
二
三
台
集
め
た
展
示
で
す
。
唐
箕
は
も
行
い
ま
し
た
。
市
域
で
使
わ
れ
た
唐
箕
を
き
る
限
り
た
く
さ
ん
集
め
た
﹁
特
集
展
示
﹂
今
回
の
展
覧
会
で
は
、
同
種
の
資
料
を
で
域
の
個
性
に
気
づ
く
こ
と
も
で
き
ま
す
。
料
を
借
用
し
、
並
べ
て
見
比
べ
る
と
、
各
地
市
内
各
区
の
諸
施
設
が
保
存
し
て
い
る
資
あ
る
こ
と
は
、
共
通
性
の
中
の
個
性
で
す
。
し
た
が
、
同
種
の
道
具
に
バ
リ
エ
ー
シ
ョ
ン
が
キ
・
ハ
コ
カ
ン
ジ
キ
と
い
う
資
料
を
展
示
し
ま
の
施
設
が
保
存
す
る
高
台
状
の
ダ
イ
カ
ン
ジ
目
で
わ
か
り
ま
す
。
一
方
で
、
西
区
や
西
蒲
区
風
土
が
市
域
で
共
通
性
を
持
つ
こ
と
が
ひ
と
ン
ジ
キ
を
使
う
農
業
や
そ
の
基
盤
と
な
る
わ
れ
た
カ
ン
ジ
キ
を
並
べ
て
展
示
す
る
と
、
カ
に
し
ま
し
た
。
た
と
え
ば
、
複
数
の
区
で
使
き
る
だ
け
複
数
の
資
料
を
展
示
す
る
よ
う
た 資 で 館 中 。 料 す 所 こ
で
う
館 。
そ 蔵
も
な こ の し
湿
ど で 資 た
田
か 、 料 網
農
ら 資 だ 羅
業
借 料 け 的
に
用 を で な
特
し 市 行 資
有
て 域 う 料
な
展 の こ 展
資
示 博 と 示
料
し 物 は を
は
ま 館 困 、
、
し や 難 当
で
い
ま
す
。
以
降
に
開
発
さ
れ
た
農
機
具
も
展
示
し
て
よ
う
に
、
鉄
の
歯
車
を
組
み
込
ん
だ
、
明
治
手
回
し
脱
穀
機
や
近
代
唐
箕
、
除
草
機
の
江
戸
時
代
末
か
ら
明
治
ま
で
活
動
し
て
い
区
巻
に
は
複
数
の
唐
箕
作
り
の
職
人
が
い
て
、
れ
た
唐
箕
が
保
存
さ
れ
て
い
ま
し
た
。
西
蒲
な
る
も
の
の
、
同
じ
型
で
﹁
巻
請
合
﹂
と
書
か
鎧
潟
周
辺
の
各
施
設
に
は
、
職
人
名
は
異
合
︵
職
人
名
︶
﹂
と
の
墨
書
が
あ
り
ま
し
た
。
ば
、
前
述
の
江
戸
時
代
の
唐
箕
に
は
﹁
巻
請
れ
は
極
め
て
興
味
深
い
こ
と
で
す
。
た
と
え
じ
形
を
し
た
唐
箕
が
含
ま
れ
て
い
ま
す
。
こ
ま
た
、
実
は
二
三
台
の
中
に
は
、
ほ
ぼ
同
き
ま
す
。
の
効
率
化
へ
の
志
向
を
読
み
取
る
こ
と
が
で
製
作
技
術
の
進
化
や
使
用
す
る
側
の
作
業
あ
る
こ
と
に
気
づ
き
ま
す
。
こ
の
違
い
か
ら
、
を
見
比
べ
る
と
、
形
態
や
仕
組
み
に
違
い
が
ら
明
治
・
大
正
・
昭
和
と
、
各
時
代
の
唐
箕
五
〇
年
前
の
も
の
で
す
。
こ
の
江
戸
時
代
か
も
古
い
唐
箕
は
文
久
元
︵
一
八
六
一
︶
年
、
約
一
ま
ず
古
い
資
料
が
含
ま
れ
て
い
ま
す
。
最
き
ま
す
。
て
見
比
べ
る
と
実
に
多
く
の
こ
と
を
発
見
で
面
積
の
都
合
で
す
が
、
こ
れ
だ
け
多
く
集
め
す
。
数
が
二
三
台
と
な
っ
た
の
は
展
示
室
の
で
は
六
〇
台
以
上
の
唐
箕
を
保
存
し
て
い
ま
用
し
た
も
の
で
す
。
現
在
、
市
の
施
設
全
体
料
、
後
の
半
数
は
各
区
の
施
設
の
資
料
を
借
二
三
台
の
唐
箕
は
、
半
数
は
当
館
所
蔵
資
に
普
及
し
ま
し
た
。
作
り
に
欠
か
せ
な
い
道
具
と
し
て
各
農
家
用
さ
れ
る
よ
う
に
な
り
、
近
代
に
入
る
と
米
る
こ
と
が
わ
か
り
ま
す
。
っ
て
も
新
潟
市
全
体
に
と
っ
て
も
重
要
で
あ
が
伝
え
保
存
し
て
い
る
資
料
が
、
各
区
に
と
域
像
を
豊
か
に
構
築
し
て
い
く
上
で
、
各
区
と
も
に
地
域
の
歴
史
と
し
て
再
発
見
し
、
地
新
市
域
全
体
の
共
通
性
と
各
区
の
個
性
を
、
え
て
く
る
こ
と
を
改
め
て
実
感
し
ま
し
た
。
る
こ
と
で
、
資
料
情
報
が
一
層
広
く
深
く
見
よ
り
広
い
範
囲
の
資
料
を
並
べ
て
見
比
べ
買
い
求
め
て
い
た
こ
と
を
教
え
て
く
れ
ま
す
。
た
こ
と
、
巻
の
唐
箕
を
鎧
潟
周
辺
の
農
家
が
︵
も
り
ゆ
き
ひ
と
学
芸
員
︶
小
の
水
路
が
交
錯
し
、
潟
が
点
在
す
る
低
大
規
模
な
排
水
施
設
が
整
う
以
前
は
、
大
さ
れ
た
美
田
が
広
が
っ
て
い
ま
す
。
し
か
し
、
し
ま
す
。
現
在
の
市
域
に
は
、
整
然
と
区
画
特
2 集
﹁
米
と
く
ら
し
﹂
第
五
回
む
か
し
の
く
ら
し
展
森
行
人
帆檣成林 第一五号 4