星岡茶寮時代の北大路魯山人にみる空間プロデュース概念

星岡茶寮時代の北大路魯山人にみる空間プロデュース概念
キーワード:空間プロデュース、北大路魯山人、星岡茶寮
デザイン文化計画教育研究分野:岩田彩子
■研究の背景と意義
また建物面からも、星岡茶寮において魯山人が茶道に強い関
本研究は、これまで料理・陶芸・書・絵画のそれぞれの事績
心を抱き、重要視していたということがうかがえる。星岡茶寮
別に論じられてきた北大路魯山人を、「星岡茶寮」という、す
に使用された建物は明治期に奥八郎兵衛が設計した数寄屋建築
べての分野において魯山人の意識が結実していた例を総合的に
である(図1)。また、大阪の星岡茶寮の建物である旧志方別
みることによって、より具体的に魯山人の意図を明らかにする
邸も、普請道楽で趣味人であった志方勢七氏による数寄屋造り
ことを目指したものである。そうすることによってより魯山人
建築である。数奇屋造り建築とは茶室建築である。そして魯山
の創作理念を明らかにすることができ、更に現代のデザイン理
人自身も鎌倉の星岡窯の敷地内に茶室「夢境庵」を造っている。
念にも通ずるものを明らかにすることができると考えられる。
いずれの場合も数奇屋造りの建物を選び、そこに自己の理想
を実現しようとしたという事実には、魯山人が茶道に理想を見
■研究の目的
出していることを裏付けるものである。
本研究は、北大路魯山人の著作を主たる資料として、星岡茶
茶道には茶を点てる際の作法以外にも、立ち居振舞いに関し
寮時代の魯山人の「空間プロデュース概念」を導き出し、ひい
ての作法があり、それは現在でも礼儀作法においてもっとも洗
ては現代の私達の空間形成、プロデュースに必要な姿勢を学ぶ
練されたものと考えられ、しばしば身に付けることを望まれる。
ことを目的としたものである。
その所作のすべての根幹にあるものは「もてなしの心」である。
■研究の方法
北大路魯山人の著作(注1)を中心に、参考文献(注2)も
加え、その内容から「空間プロデューサー」としての要素を抽
出し、考察・検討を行なった。
■研究内容
星岡茶寮では、魯山人は従業員の雇用から教育、料理の食材
からメニュー、調理法、サーヴァント、各部屋の調度や装飾、
などすべてに己の理想を具現化していった。特に料理を盛り付
ける食器や手洗い場のタイルなどは自作し、そのために個人の
窯を築くまでに至っている。
図1 星岡茶寮利休庵(中村竹四郎『星岡茶寮』 より)
魯山人は「美食倶楽部」(1921−1923)や「花の茶屋」
(1923)などで料理屋を運営し、その能力を発揮してきた。そ
●もてなしの空間
の後、それらの経験を活かし、1924(大正13)年から1936(昭
魯山人が「もてなしの心」を大切にしていたということは、
和11)年の期間、星岡茶寮の経営に携わった。それまで以上に
茶道や華道といったものと同様「道」にまで高められると考え、
すべてに理想を追求した「星岡茶寮」は、まさに魯山人の美意
魯山人が唱えた料理人の心得、「料理道」にも表れている。
識の集大成であり、料亭を舞台とした総合芸術の現れと言える
魯山人は、「料理道」の中で、「料理とは利益本位で行なう
であろう。
ものではない」「真心を込めて料理をすることや相手の状態に
●コーディネートされた空間
応じて臨機応変に料理することが肝要である」「客へのサーヴ
星岡茶寮の経営において魯山人は、料亭の客、つまりもてな
ァントまで全て気を配る必要がある」と述べている。実際、星
される側の人間のためのものとして、「料理」「サービス」
岡茶寮では客の食の好みを全て把握して嫌いなものを出さない
「建物」に力点を置いた。
ような心配りをし、場合によっては珍しい地方の産物をわざわ
魯山人の場合のすべての起点は「料理を美味しく食べたい」
ざ取り寄せて、客の故郷の料理を作って出すこともあった。
ということである。そのために、素材・調理法・盛り付け・器
以上のことから魯山人が星岡茶寮でつくりあげた「もてなし
に理想を求めた。特に器へのこだわりは、骨董品愛好、古陶磁
の空間」とは以下のようなものであったのだという結論が導き
器蒐集に始まり、最終的には個人の窯を築き、自作するまでに
出される。
なった。その結果生まれた作品が、花・掛け物・家具調度品な
建物、内装、調度品、従業員の仕草などすべてを調和させた
どと共に室内空間構成要素の相互協調関係のための重要なアイ
コーディネートを行なうこと(空間)。そしてその調えられた
テムとなった。
空間の中で、客の好みを把握して、客が不快になるようなこと
魯山人は星岡茶寮経営において従業員教育を行なっている。
を避け、その状態に応じた料理を作りサーヴァントを行なうこ
それは魯山人のサービスにおける理想を従業員の振る舞いとし
と(心)。その空間にいる時間のすべてを総合的にプロデュー
て具現化したものであり、いわばソフト面におけるこだわりで
スすること(時間)。「食」という行為を核とし、それらの要
ある。その具体的な内容は、茶道や華道といった、日本文化の
素をバランスよくコーディネートされうみだされる空間。これ
精神を学ぶというものであった。
が魯山人が日本の伝統文化である茶道の精神を基にして、星岡
魯山人は茶道を非常に重視しており、著作の端々で茶道につ
茶寮でつくりあげた「もてなしの空間」なのである(図2)。
いて触れている。そして茶道を「美的趣味総合大学」と称し、
●伝統とモダンの融合
「料理・礼儀作法・書・画・花・建築・造園・工芸、また石や
魯山人は伝統を重視しつつもそれにとらわれることはなかっ
土などの審美眼など、芸術のすべての範囲にわたって真に理解
た。むしろ日本以外の文化や新奇なものを積極的に受け入れ、
を求めるなら茶道の知識が不可欠である」とまで述べている。
取り込もうとしていたのである。
図2 北大路魯山人のもてなしの空間づくり
図3 自邸洋間(梶川芳友 他・著『魯山人の世界』株式会社
もてなしの空間
新潮社、1989年1月20日発行1998年2月25日21刷 より)
時間
食
空間
心
その姿勢は星岡窯での食器制作活動においてよく表れている。
西欧化は世の流れにつき致し方ないことである。しかし日本
陶磁器製作においての魯山人の制作活動は「本歌取り」などと
の文化のすべてが失われるようなことは避けたい。そして日本
評される。それは古き良き作品に倣い、更に独自色を出すとい
のよい文化はしっかりと後世に残してゆきたい。そのために自
う制作スタイルを称したものである。また、その作品は実際に
分が新たなスタイルを作って世間に示そう。奥と魯山人の意図
料理を盛りつけたときに最も映えるというものである。そんな
したことはこのようなことではなかったのだろうか。
魯山人の作品は現在にも充分通用する質実を備え、国内外で高
このことは、グローバル化、あるいはボーダーレス化が進み、
い評価を受けている。
日本の伝統がなくなってしまうのではないかとの危惧を抱いて
また、魯山人の好んだ建物は数奇屋造りに代表されるように、
いる現代の私たちにも通ずる意識であろう。そして現在の我々
伝統文化を基に個人の好みやこだわりを付加するといったもの
のデザインコンセプトにおいても留意すべきことであり、参考
であった。星岡茶寮の新館には和室だけではなく椅子席の洋間
にすべき考え方であるといえよう。
も造られた。そこは日本の古建材や古陶片を利用して造られ、
調度品を外国のアンティークによって統一したものであった。
■結論
また、自邸にも洋間を造り、書斎として使用していた(図3)。
以上のことから、北大路魯山人が星岡茶寮で行なったことは、
このことは、魯山人は和風建築を好みつつも洋風建築を否定せ
「「食」を核とした空間コーディネートともてなしの心による
ず、むしろ和風建築の中にその要素を積極的に取り込み、各々
総合時空間プロデュース」「伝統的精神・技術を引き継ぎ、現代
の長所を活かしていたのだということを表している。この辺り
に活かす」ということであったことがわかった。
が魯山人の独自性の表現であろう。
食に関しても、それは同様である。
■まとめ
それらのことを考え合わせれば、魯山人は伝統を大事にしな
本研究において導き出された星岡茶寮時代の北大路魯山人に
がらもただそれを保持することのみに終わるのではなく、そこ
みる空間プロデュース概念とは、「茶道に代表されるような日
に更なる変革をもたらすことを実行していたことがわかる。
本の伝統文化の精神(【作法・技術・精神】=【道】)を核とし、
●伝統とモダンの融合−明治期星岡茶寮との比較
他の文化や時代性の良いところを積極的に吸収し融合させる。
星岡茶寮時代の魯山人に関しての「伝統とモダンの融合」に
そこから物・心・時間のすべての要素において、もてなされる側
は、東京星岡茶寮の建物の前身である、明治期に奥八郎兵衛ら
が快適を覚える空間を創造するという考え方」というものであ
が造り、経営していた「星岡茶寮」との相似点がある。
る。つまり魯山人の諸活動の基本には、日本文化を大切にする
星岡茶寮は1882(明治15)年に建設許可願いが出され、1884
意図と、その上で新奇の文化を受け入れようとする姿勢があっ
(明治17)年の6月に開業している。一方明治日本の有名な迎
たのである。
賓施設である鹿鳴館の建設計画が立案されたのが1880(明治
13)年で、完成したのが1883(明治16)年のことである。この
■注
タイミングをみてもまったく意識していなかったということは
1)北大路魯山人・著 平野雅章・編:魯山人著作集、第一巻-第
考え難い。ましてや鹿鳴館をはじめとした当時の迎賓施設のほ
三巻、株式会社五月書房、昭和55年
とんどが西欧風の洋館を模し、その内装や料理、集う人の格好
2)北大路魯山人以外で参考にした文献はおおよそ以下の通り。
などすべてが西欧に倣ったものであったのに対して、星岡茶寮
飛鳥井雅道:鹿鳴館、岩波ブックレット シリーズ日本近代史
は建材から庭木、内装や料理のすべてを、日本文化の凝縮され
№2、岩波書店、1992年7月20日
た文化を持つ京都にこだわって造られたのである。
桐浴邦夫:東京府の公園経営と星岡茶寮の建設経緯 星岡茶寮
渡邊勝利氏の『小説「星岡茶寮」』(注3)によれば、奥八
の建築の研究 その1、日本建築学会計画系論文集 第491号、
郎兵衛は「このままでは日本の伝統そのものがなくなってしま
日本建築学会、1997年1月。創世記における星岡茶寮について うのではないか」との危機感を持ち、「日本の伝統を生きた商
星岡茶寮の建築の研究 その2、日本建築学会計画系論文集 売の中で遺してゆきたい」と考えたという。京料理屋に生まれ、
第512号、日本建築学会、1998年10月
元は京都で宮中出入りの商人をしていた奥八郎兵衛は、京都や
星岡茶寮関連の参考文献はおおよそ以下の通り。
天皇が象徴する日本文化に強い愛着を持っていた。そして特に
中村竹四郎:星岡茶寮(パンフレット)、星岡茶寮、昭和10年6
茶道は日本の伝統の中でも大切にしなければならないものだと
月15日印刷納本・昭和10年6月18日発行
考えていたという。そこで京都を感じさせる雰囲気を持った山
星岡八月号 第三十三号、星岡窯研究所、昭和8年8月12日印刷
王台に、「星岡茶寮」をつくりあげたのである。
納本・昭和8年8月30日発行
一方、魯山人の活躍した時期は明治後期から大正を経て昭和
中村竹四郎・秦秀雄:星岡随筆、新英社、昭和11年11月20日発
中期にかけてである。その時期は江戸から明治にかけてのよう
行
な激変ではなくとも、日本文化の危機を感じさせるには充分な
その他
欧化があったことが想像される。そのような時代に生きていた
3)渡邊勝利:小説「星岡茶寮」、株式会社東京経済、平成6年
魯山人も、奥同様「日本という国の伝統がなくなってしまうの
4月14日初版発行
ではないか」という危機感を持っていたのではないか。