ホワイトヘッド形而上学における存在者の連続性と非連続性について

飯盛元章
[研究主題]ホワイトヘッド形而上学における存在者の連続性と非連続性について
本研究は、ホワイトヘッド形而上学の体系において連続性が優位に置かれているという
点を描きだし、そのうえで、そうしたつよい連続性に絡めとられることのない非連続性を
見いだすことを目指す。そのさいに、ハーマンの「オブジェクト指向哲学」
、レヴィナスの
全体性批判を補助線として参照することによって、ホワイトヘッド形而上学の特徴を描き
だすことになる。
(1)形而上学体系としての「有機体の哲学」と非連続性
ホワイトヘッドは、主著『過程と実在』において「有機体の哲学」という形而上学体系
を構築し、
「実体」概念の乗り越えを目指した。
デカルトは「実体」に対して、
「存在するために自己自身のほかになにものをも必要とせ
ずに存在している事物」
(デカルト、
『哲学原理』51 節)という定義をあたえる。だがホワ
イトヘッドは、経験主体をそうした実体とみなすことに異議を唱える。なぜなら、わたし
たちの日常的経験のうちには、外界や過去との連続的・関係的な要素がふくまれているか
らだ。それら関係的な要素を捨象し、この世界を明晰判明な要素だけから成り立っている
のだと思い込み、そしてそれこそが具体的なものであると考えることは、
「具体性置きちが
いの誤謬」である。ホワイトヘッドは、デカルトやヒュームのテキストのうちに、関係的
要素(デカルトにおける「表現的実在性」、ヒュームにおける身体性)を読み込み、それら
を強調することによって、17 世紀以来の哲学図式が独我論的隘路へといたるのとはべつの
道を示そうとする。
意識的経験によって覆い隠されてしまう連続的・関係的な要素を、ホワイトヘッドは「抱
握」
(prehension)として術語化し、自らの形而上学体系のうちに位置づける。経験主体は、
抱握が目的因にしたがって統合される「合生」
(concrescence)の過程をとおして、自己自
身へと生成していく。経験主体は実体ではなく、徹頭徹尾、抱握という関係的・連続的要
素によって編みあげられた、宇宙の結節点である。世界のただなかで、外部的・過去的な
ものとの関係をとおして生成するというこうしたあり方は、人間の意識的経験にだけ当て
はまるものではない。ホワイトヘッドは、抱握の合生過程によって生じる契機的な存在者
を「現実的存在」
(actual entity)と術語化し、植物も岩も電子もふくめた、この宇宙のあ
らゆるものを現実的存在としてあつかう。人間の意識的経験だけでなく、宇宙のあらゆる
存在者が、抱握という関係的・連続的要素によって、他のあらゆるものとかかわることに
よって成立しているのだ。
このようにして構築されたホワイトヘッド形而上学の体系は、他のものとの連続性が優
位に位置づけられていて、その力が非常につよい。だが、その力に対抗できるほどの非連
続性が見いだされないかぎり、以下の難題を回避することはできないだろう。
まず、現実的存在の多元性が挙げられる。ホワイトヘッドは多くの現実的存在から成る
宇宙を描きだすが、上述のような強力な連続性が支配する宇宙では、すべてが関係しあい、
ひとつの連続体だけが存在することになってしまうだろう。
〈多〉を語るためには、連続性
を断ち切る非連続的要素が不可欠となる。
またホワイトヘッドは、現実的存在はそれまでのものとは異なる「新しさ」を持つのだ
とする。さらには、現在の現実的存在たちに流布しているものとはまったく異なった、べ
つの法則性をともなった「宇宙的エポック」の到来の可能性をも論じている。だが、それ
らが可能であるためにも、やはり非連続的要素の存在は不可欠である。過去と現在、ある
いは現在と未来のあいだを断ち切る非連続性が見いだされなければならない。
本研究では、補助線としてハーマンの「オブジェクト指向哲学」を参照する。ハーマン
は、一方ではホワイトヘッドを高く評価し、自らの哲学を構築する際の重要な参照項とし
ている。だが他方では、ホワイトヘッド形而上学が関係主義におちいっていて、個体的存
在をじゅうぶんに扱いきれていないという点を問題視する。
ハーマンのオブジェクト指向哲学では、自律した個体的存在者がまず存在し、それらが
ある種の機会原因によって間接的に関係する。これに対して、ホワイトヘッドの有機体の
哲学では、存在者は抱握という関係的要素によってまず生じ、合生の過程を経ることによ
って最終的に十全な個体性を獲得することになる。本研究は、この過程の詳細な検討をと
おして、ホワイトヘッドの形而上学体系における存在者の非連続性について考察する。
■「オブジェクト指向哲学」と「思弁的実在論」について■
グレアム・ハーマンの名は、「思弁的実在論」との関係で知られている。2007 年 4 月 27
日、ロンドン大学のゴールドスミス・カレッジにて、雑誌『コラプス』との共催でワーク
ショップが開催された。そのときのタイトルが「思弁的実在論」であった。発表者は、レ
イ・ブラシエ、イアン・ハミルトン・グラント、クァンタン・メイヤスー、そしてハーマ
ンである。このワークショップは、メイヤスーの『有限性のあとで』(原著はフランス語)
を英訳したブラシエの呼びかけによって実現することになった(なお、このときの 4 人の
発表と質疑応答は、すべて『コラプス』第 3 号に収められている)。
4 人ともそれぞれに異なった哲学的立場を採用しているので、「思弁的実在論」という名
前はそれらをたんにゆるく包括する立場を表現しているにすぎない(「思弁的実在論」とい
う名前は、ブラシエが考案)
。4 人の共通点は、ハーマンによれば、カントのコペルニクス
的転回をそれぞれのしかたで拒否しているというところにある。この意味で、彼らの立場
はみな「実在論」なのである。ここからさらに具体的にどのような実在論的立場を採用す
るかは、4 人ともまったく異なっている。しかし、
「たんに意識の外に事物が存在する」と
いう素朴実在論はとらないという点では一致する。4 人とも、ハーマンいわく「怪奇的な」
実在のあり方を描いているのだ。これが、「思弁的」ということの意味である。
ハーマン自身は、自らの哲学的立場を「オブジェクト指向哲学」と称している。それは、
ハーマンいわく、
「ハイデガー的であると同時にホワイトヘッド的であると言われうる、建
設的で体系的な哲学への最初の試みである」
。オブジェクト指向哲学は、一方ではハイデガ
ーから、「退隠」(withdrawal)という要素を受け継いでいる。オブジェクト、つまり個体
的存在は、その関係や性質によって、けっして完全に汲み尽くされることはない。オブジ
ェクトは、こちら側の接近から、どこまでも隠れて退いてしまうのだ。
また他方で、オブジェクト指向哲学は、ホワイトヘッドから、人間中心主義の解体とい
う要素を受け継いでいる。上述のように、オブジェクトはこちら側の接近から退隠するが、
そうしたあり方は、人間と事物の関係に限定されない。たとえば、火がコットンを燃やす
場合、それらは可燃性という性質を媒介にして関係しあっている。だが、その関係を成り
立たせている性質はごく一部のものであって、火とコットンはおたがいに対して自身その
ものをさらすことなく、関係性の場からその身を隠して退いているのだ。オブジェクト指
向哲学では、あらゆるものが、退隠するオブジェクトであるとされる。
さらにハーマンは、ホワイトヘッドが批判的に用いる「空虚な現実」
(vacuous actuality)
という表現を、むしろ積極的に用いる。退隠するオブジェクトは、空虚な現実態であると
される。つまり、ハーマンの読み換えによれば、オブジェクトは、空虚に包まれた現実態
なのだ。オブジェクトは空虚に包まれていて、その関係や性質から切り離されている。オ
ブジェクトは、空虚のむこう側から、こちら側へ向けてその性質を発してくる。オブジェ
クトどうしは、そうした性質を媒介にして間接的に関係するのだ。
ハーマンはこうした戦略をとおして、存在者に対して、関係によって汲み尽くされるこ
とのない自律した個体性を確保する。ハーマンからすれば、ホワイトヘッドは、一方で「相
関主義」
(哲学を人間と世界の関係に基礎づける立場)を乗り越えたという点で評価に値す
るが、他方では「関係主義」
(個体的存在者を関係に還元する立場)に陥っていて、個体性
をじゅうぶんに扱いきれていないという点で問題があるのだ。
(2)方法論としての「思弁哲学」と非連続性
ホワイトヘッドは、形而上学体系の構築の方法論を、「思弁哲学」として提示する。この
方法論は、
『過程と実在』第 1 部第 1 章「思弁哲学」や、
『理性の機能』
、『観念の冒険』第
15 章「哲学的方法」などにおいて語られている。
ホワイトヘッドは、あらゆるものを説明しつくすことのできる、もっとも一般的な説明
図式として、形而上学体系を構築することの重要性を主張する。だが形而上学者は、この
体系的図式に対して、漸次的なしかたでしか接近することができない。というのも、この
世界にはつねに、体系的図式をはみだす要素が存在するからだ。それらは体系的図式によ
る説明を受けつけず、それらに体系内部の名があてはまることはない。形而上学体系の最
終的な完成を主張することは、この要素の存在を黙殺することであって、独断論におちい
ることにほかならない。
ホワイトヘッドによれば、
「思弁的理性」は、そうした要素にたえず向き合い、それによ
って撹乱され、形而上学体系をより包括的で一般的なものへと改変していく。だが、この
運動におわりはない。既存の体系的図式をはみだす要素はつねに存在している。それらは、
思弁的理性にとっての与件としてたえず存在しつづけ、体系的図式を攪乱しつづけること
になるのだ。
本研究は、形而上学にとってのこうした与件と、形而上学体系とのあいだに非連続性を
見いだす。形而上学的与件は、ハーマンの用語を拡張的に用いれば、体系的図式そのもの
から「退隠」している。思弁哲学という方法論の次元で語られるこの非連続性は、有機体
の哲学という体系内部の次元で語られる非連続性よりも、はるかに強度のたかいものとな
る。
ところで、哲学体系が示す全体性を徹底的に批判し、それによっては汲み尽くせない他
者との関係(
「関係なき関係」)を倫理として描き出した哲学者として、レヴィナスの名を
あげることができる。本研究は、レヴィナスのこうした全体性批判を補助線として参照し
つつ、ホワイトヘッド形而上学の体系と(体系にとってのある種の他者である)その与件
とのあいだの非連続性を検討する。
※ハーマンは、レヴィナスが倫理学を第一哲学としたのに対して、美学、つまり感性の
学としての美学こそが第一哲学であるとしている(「第一哲学としての美学」)。ハーマンは、
全体性を突き破る、他者的なものとの関係が、倫理という人間的な次元の手前である感性
的な次元でも生じているだと考え、その次元を強調する。だがホワイトヘッドにおいては、
他者的なものとのかかわりは形而上学(の構築)という場面で生じている。それゆえ本研
究は、ハーマン、レヴィナスの主張をひっくり返し(そして元へと戻して)
、形而上学こそ
が第一哲学であるとする。