第9課 教会----儀礼と儀式 12月1日 安河内アキラ 基本思想 正しく理解されるならば、私たちの信仰を強める助けとなる儀式を、神は 制定されました。 今週の研究 今週は、私たちの信仰を表明する三つの儀式、つまりバプテスマ、洗足 式、聖餐式について学びます。 日曜日:セブンスデー・アドベンチストはバプテスマ、洗足式、聖餐式を儀式、つまりキ リストに対する私たちの忠誠を表す行為と考えています。それらは私たちの信仰を表 明する象徴的な方法です。 「儀式」をどれほど重要視するにしても、それらが恵みの通路でもなく、私たちが救 いを得たり、神の前に功績を得たりするための行為ではないということを常に覚えな ければなりません。罪と罪が私たちにしたことはあまりに深刻なことなので、キリスト ご自身によって制定されたこれらの儀式は、私たちを贖うことができません。十字架 上のイエスの死だけが、私たちのように深く堕落した者を救う効力を持っていました。 ご存知のように、儀式は、キリストが私たちのためになさったことと、私たちがキリス トに結ばれていること(そして、この関係に含まれる一切のこと)を、私たちが認めてい ることの外面的な象徴です。しかも、それらはその目的を十分に満たすものです。そ れらは目的のための手段であって、それ自体が目的なのではありません。 水曜日:主の晩餐の前に洗足を行うのは、主の晩餐にあずかる前に私たちの心を整 えるためです。私たちはまた、この儀式が持つ共同体としての性質を理解すべきです。 パンとぶどう液にあずかることにはっきりと象徴されているキリストの十字架は、地上 のどんなことが私たちを引き離そうとも、私たちはみな絶えず恵みを必要とする罪人 であることを思い起こさせてくれます。 聖餐式は、主に対する私たちの義務だけでなく、お互いに対する私たちの義務をも 理解する助けになります。 木曜日:「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られる ときまで、主の死を告げ知らせるのです」(Iコリ 11:26)。この聖句を見ると、再臨と聖 餐式が密接な関係にあることがわかります。それも道理にかなったことです。 なぜなら、再臨は実際には、十字架において起こったことが完結するときだからです。 キリストの初臨─私たちのためにキリストの体が裂かれ、血が流されることを含む─ をもたらした最大の理由は再臨であったと言うことができます。初臨は再臨への道を 備えたのです。 今週の学びで、まず最初にしっかりと押さえておいて欲しいことは、儀式の役割につ いてです。このことについては日曜日の引用文にはっきりと書かれています。儀式は 目的のための手段であって、それ自体が目的なのではありません。 バプテスマ、洗足、聖餐式は、それぞれみなさまにいろいろなことを語りかけている でしょう。バプテスマは、受ける方だけでなく、列席する者が再び自らの信仰の歩みを ふりかえり献身を新たにします。聖餐式は、救いを再確認して感謝する時です。 わたしの中で、この三つの儀式の中で、最も心が動かされるのは洗足式です。教会 の牧師をしている時に、だいたい最後に洗足式を始めました。 それは、洗足式は偶数でないとできませんが、毎回割り切れるとは限りません。そ のような時に対応する必要もあるため、最後まで様子を見てから行うことが多かった です。 そうすると、相手の方が最後まで奉仕をしてからやってくる執事さんであることもあり ます。時には、参列するかどうか悩んでからようやく会場にやってきた方の場合や求 道中の方が迷った末に最後にやって来られた時もありました。 そのような方々の足を洗わせていただくたびに、自分はみなさまに支えていただき 講壇での奉仕をさせていただけることを再認識させられ謙虚な想いになりました。ま た真摯に祈りつつ、教会の儀式に参列しようとする方の足を洗いながら、この恵みの 中で毎日を歩むことができることを感謝しました。 このように自らの想いを、もう一度神さまのもとへ立ち返らせる洗足式が、とても大 切な式だと考えています。聖餐式の前に洗足式があり、心の備えをしてから聖餐式に 臨むことによって、救いと永遠の未来への約束を再確認する儀式が深まって行くので す。
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