十字架と御座 アーネストエンジェリー牧師 今日の題名は(十字架と御座)です、私はとてもへりくだる気持ちでこの題名 を語ります、あなた方も大変な喜びを見出すと思います。(ヘブル人への手紙 12:2) “信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいな さい、イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせ ずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました、” ご自分の前に置か れた喜びとは、多くの人の魂が救われるという喜びです、辱しめをものともせず 十字架を忍び、神の御座の右に着座されましたとあります、神の御座の右側 です、彼イエスは栄光の冠と栄光の衣をいのちの救いのために天に残して私 たちのために命をささげられました、その冠と衣は今、彼のもとに帰って来たの です、おそらく天使たちによってその冠と衣は栄光のうちに彼イエスに戻ってき たことでしょう、キリストの十字架は今現在、全世界において最も大切なもので す、その意味はとても深く、そのこと自体に関して長い本を書くことができるでし ょう。キリストの十字架はあなたに天国へのパスポートを与え、私たちに永遠 のいのちを与えてくださいました、この十字架は私たちに大変な敗北と偉大な 勝利を与えました、この世は大変な敗北に終わり、多くの人は奇跡といやしを 求めても、いのちの救いは求めず、イエスを信じようとはしませんでした、彼らの 心は利己主義でありながら、それすらも悟っていません。 人間の歴史は神と人間との間の閉ざされた関係を明らかにしています、神と 人の子との関係が閉ざされていたと言うことです、十字架はキリストの苦しみを 解き明かす鍵となり、同時に神の御座からの神の力を開く鍵ともなります、キ リストのゆえに迫害を受けることは同時に神の御座から力を与えられるというこ とでもあります、キリストは十字架を耐え忍び、それゆえに神の御座を私たちの ために開いて下さいました、“自分の十字架を背負って、私について来なさい” 1 と言われ、もしあなたが十字架を心に深く刻んでおられないならば、神の御 座を受け入れることはできません、あなたは十字架を受け入れることによって、 あなたはいつの日か栄光の冠を受けることができるのです、それ故にあなたは 十字架を見て神の恵みを通して十字架に向かって歩み続けることができるの です、あなたは十字架を耐え忍び、栄光の冠をお受けになったイエスキリスト を思い、その苦しみによって私たちに栄光の冠を取り返してくださったキリストに よって、あなた自身も十字架を耐え忍び、栄光の冠を受けることができるので す、それらのことによって私たちはどのようにこの十字架が私たちに働きかけ、そ してどのようにして私たちのためにいのちとなるかを悟るようになるのです。 木によって作られた十字架そのものには何もないかもしれませんが、十字架に よって開かれた道は私たちに天国への道を開いただけでなく、神の御座を私 たちに開いて下さいました、十字架の目的、そして十字架の力は私たちを神の 御座へ直接結び付けることができるのです、十字架の力はいのちの救いを私 たちに開き、もっとも人間にとって悲しい出来事である罪の存在を打ち砕き、 そしてその罪によって存在した死の力を滅ぼして下さいました、 (ローマ人への 手紙、5:12)“そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪 によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、それというのも 全人類が罪を犯したからです。” 罪によって死の力が全人類を支配したとい うことです、(イザヤ書59:2)“あなた方の咎(とが、罪)が、あなた方とあなた 方の神との仕切りとなり、あなた方の罪が御顔を隠させ、聞いて下さらないよ うにしたのだ。”とあります、しかし人々の中には、教師や牧師の中には罪から 自由になることができないと語っている人がいます、もちろんあなた方が神との 間に仕切りを持っているならば、罪から自由になって生きることはできません、 したがって誰も天国に行くことはできないということです、神との間に仕切りが あるからです、罪は私たちを神から天国から切り離しました、しかし聖書は(ロー マ人への手紙、5:20)“罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれまた。” と書かれています、イエスキリストはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、す 2 なわち私たちが救われる、私たちの罪がきよめられることのゆえに十字架を耐 え忍ばれました、キリストはこの暗闇の中にあって天国に対しての橋を作って下 さいました、贖いの橋を造られたということです、この贖いの橋は私たちの人生 にあって最も大切な橋です、そしてそれは人類の歴史上、初めて小羊がささ げられたことによって、この橋の建設が始まりました、これらのことのすべての土 台は神の存在、そして神性の力にあります、恵みによって私たちは救われたと 書かれている通りです、旧約聖書においてのさまざまな儀式などは私たちの罪 を取り除くことができなかったと書かれている通りです、しかし処女からお生ま れになったイエスキリストの血によって私たちは購われたと書かれています、と ころが現在、多くの教師、牧師が処女からお生まれになったイエスキリストの 聖なる血を述べ伝えていません、アメリカにおいて数年前の調査によると、98 パーセントのアメリカの教師、牧師は処女からお生まれになったイエスキリスト を信じていません、彼らは真実の福音を述べ伝えるべきなのに悪魔によって 心を欺かれてしまいました、もしあなたが処女からお生まれになったイエスキリス トを信じないのであれば、あなたは真実の神を信じているとは言えません、そして その結果、真実の聖霊を信じることはできません、しかしそれらのことを信じてい ないのであれば、あなたは決して天国へ行くことはありません、処女からお生 まれになったイエス、そして彼の人生は罪のない人生でした、そして彼は十字 架の橋を完成され、私たちに道を開いて下さいました、(ヨハネの福音19:30) “完了した”と言われました、私たちは心から神に感謝すべきです、この橋がそ の時に完成されたからです、私たちにとって最も大切な橋であり、いのちです、 そして誰もこの橋を通らないと天国へ行くことはできません、この橋以外にほか の橋はないのです。 一つのささげものが罪を取り除き、神の右の座に着座されました、しかし彼は今、 私たちとともにおられます、それが神性の力であり、恵みです、それと同時に 私たちはこの橋を通して神の心を見ることができるのです、私は今あなたがたに キリストの十字架をもう一度、見て考えていただきたいのです、二つの木で造ら 3 れた十字架は私たちにとって神の心を悟る心を与えてくださいます、人々の中 には神の心がわからないという人がいます、しかしあなたが十字架を通して神を 見るならば、あなたは必ず神の心を見ることができるのです、このテレスコープ (望遠鏡)を通して私たちは神の心を知ることができるのです、神の福音は 人々が考えているほどに難しいものではなく小さな子供でさえ理解できるもので す、この二つの木でつくられた望遠鏡はそれを現実にして下さいました、この望 遠鏡をそして私たちは神の心をキリストの心を知ることができるのです、この望遠 鏡は遠く離れていた天国と私たちの人生を結びつけて下さいました、十字架 と御座は一つに結びつけられました、罪がそれを閉ざしていたのです、しかし十 字架がそれを取り除かれました。 私たちは十字架を私たちの人生と天国との間の橋として見るだけでなく、私た ちの新しい人生として見るのです、旧約聖書において、私たちはイスラエルの 民がエジプトの国から出てきて以来、長い旅をしてカナンの地へ行く途中、神 に対してイスラエルの民がつぶやき、文句を言った時にモーセは人々に枝の 木を取って水に投げ込むように指示しました、それからその水は清くなり人々が 飲むことのできる水となったのです、これが始めて聖書の中に示されている十 字架の形と影の始まりです、そしてそれは現在の十字架に至り、私たちの人生 を天国に結びつけました、それがこの偉大な橋であるキリストの十字架です、 (ヨハネの福音3:16)“神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を 愛された、それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを 持つためである。”と書かれているとおりです、罪によって閉ざされていたこの 橋はイエスキリストの愛によって今私たちに開かれているのです、私たちの罪 は清められ、罪は取り除かれました、私たちの人生は罪のない人生となり、清 く聖となり、イエスのように生きることが出来るのです、神に感謝します、誰でも 求める者には開き、受けることができ、この橋を使うことができるのです、滅びる ことなく、十字架の力は私たちのただ中に働き続けるのです、そして私たちには 生きた魂が与えられ、その魂の中には無限の神の力がたくわえられています、 4 この魂は神から来て神のものを無限にたくわえることができるのです、すべての 神の愛、そしてすべての神の恵み、神の力、そしてすべての良いもの、あわれみ、 神の思いなどなどがわき上がるのです、私たちの大脳は一つの小さなカップの ようなものですが、魂は無限の力を持ち、大脳である小さなカップを満たし続 けるのです、そして私たちはそれを人々に分けあたえるのです、この無限の力は 偉大な川から流れ出るいのちの水のように湧きあがり、全世界に流れてゆき、 求める人々に与えられるのです、私たちはこの流れ出るいのちの水によって私 たち自身を成長させ完成させていくのです、このようにして私たちは神の似姿を このキリストの十字架の橋を通して受け入れ保ち続けることができるのです、こ れが私たちにとっての霊的な存在であり、霊の人となり、私たちはキリストのよ うになることができるのです、聖書は私たちがキリストのようになり、キリストの身 たけに達することを教えています、あなたはどれだけキリストにあって成長してい ますか ! イエスキリストは十字架によって愛の深さを測り、十字架によって私 たちへの愛を示し、十字架によってすべての忍耐を示し、十字架がその量りの すべてとなりました、そしてそのすべての目的は天の父である神のみこころを実行 に移すことでした、キリストはこの世に来て“私の願いではなく、あなたの御心の とおりにしてください。”(ルカの福音22:42) キリストはこの苦しみの中にあっ て天の父である神のみこころを求め実行に移されました、私たちは今、私たち の心に問いかけるべきです、私たちは今、現実に天の父である神のみこころを 行うために一体何をすべきでしょうか! どれだけ遠くにあなたは旅をすること ができるでしょうか!どれだけあなたは十字架を受け入れますか! すべてで すか!それとも半分ですか! イエスキリストは十字架の苦しみの中にあって も敵に対して祈り、彼らのために赦しを求められました、この苦しみの中にあって、 彼とともにいたふたりの罪人のことを覚えておられますか、ひとりはキリストを悟り、 受け入れ、キリストも彼の罪を赦されました、キリストは十字架の上から誰であ れ、求める者は来なさいと祈られ、いのちの救いを人々のために祈られたので す、そしてその時に神殿の幕が真っ二つに上から下に引き裂かれました、下 5 から上に引き裂かれたのではありません、それは神がなされたわざであることを 示すためです、神のわざです、十字架は神がなされたわざであるということで す、人々の中には人々をゆるすことのできない人がいます、それは彼が十字 架を通したキリストの愛を受け入れていないからです、あなたはキリストが私た ちに示されたものを受けなくてはなりません、そして使わなくてはなりません、私 にとって人々のした悪を赦すことはとても簡単なことです、神は“復讐はわたし のすることである。”と言われています、私の人生を振り返ってみると様々なこ とがありました、しかしながら神はそのすべてにおいて失敗はしておられません、 私は多くの迫害を受けて来ましたが、すべてを神にゆだねました、神はそのすべ てにおいて正しいさばきをしておられます、私を迫害した人々の人生はみじめな ものとなり、私は十字架の望遠鏡を通して人生を振り返った時に私が神によ ってどれだけ守られていたかを悟るようになります、私は神の愛の中に生き、彼 らは憎しみとねたみの中に生きていたことがはっきりとわかるようになります、私 はその時、私のすべての人生を神にささげ、生きることも死ぬことも私にとって はすべて神のみこころのままになっていったのです、ですから私は自分自身の 人生を神にささげることを悩んではいません、なぜなら私はもはやすでにすべ ての人生を神にささげているからです、神は私をいつでも必要な時に使うこと ができるのです、私たちはキリストの十字架を通して素晴らしい神の力を受ける ことができるのです、人々の中にはこのキリストの十字架の特典を使っていませ ん、ですから悪魔に責められ、恐れと不安があなたをゆり動かしています、あ なたは自分自身を責めて自分自身を苦しめています、しかし神はあなたを責 めておられるのではなく、逆に悪魔があなたを責めているのです、あなたは十 字架の望遠鏡を使っていないのです、それを通してキリストの愛を見ることをしま せん、それであなたは悪魔に責められているということです、あなたはそのよう な時にこそ、十字架の望遠鏡を通してキリストの愛を使うべきです、キリストはこ のためにすべての代価を支払われました、彼にとってこれを私たちに与えるた めにはすべてが必要だったのです、しかし私たちは何も支払わずにそのすべて 6 を受けたのです、あなたはそれを正しく使う義務と責任があります、それは勇 気であり、愛であり、信仰であり正しい神の義です、キリストは今日、私たちに このように問いかけられています、“私はすべてをあなたのためにささげた、あな たは何を私にささげることができるのでしょうか、私はすべてをあなたに与えた、 あなたは私に何を与えることができるでしょうか、”イエスキリストは私にそのすば らしいご自身のいのちを私たちに与えて下さいました、彼は多くの病気を癒し、多 くの人の目を開き、病を治し、すべての人生を私たちのためにささげて下さいまし た、私たちは何をささげればいいでしょうか、だれもイエスのように愛した人はい ません、今日の真実のキリスト信者に心から問いかけます、キリストが十字架 を通して真実の神の性質を明らかにして下さいました、私たちは心から私たち自 身をもう一度はっきりと調べてみるべきです、どれだけあなたは神の愛をあなた の中に持ち、どれだけあなたは神の存在を持っておられますか、十字架の望 遠鏡は私たちに神の愛と神の力を示すだけでなく、あなた自身を明らかにして くださいます、そして私たちは悪魔を足の下に置くと約束されています、あなた は神のことばを使っておられますか、あなたは神のことばをほかのすべてのもの よりも読んでおられますか、そしてあなたが神のことばを現実に食べることを悟っ ておられますか、神は私に素晴らしい神のみことばに対して悟りを与えて下さい ました、それによって私は多くの人々に悟りを与えることができるのです、イエス キリストの苦しみについて、そして愛について、そして約束について多くのことを 悟らなくてはなりません、そして天国について地獄について悟らなくてはならな いことが多くあります、イエスキリストの血について多くの知識を悟らなくてはな りません、これらのことがあなたに対してどのような力を与えるか、悟らなくてはな りません、イエスの血だけがあなたを救うことができるのです、イエスの血だけ があなたの魂を清めることができるのです、(ヨハネの福音12:32)“私が地 上から上げられるなら、私はすべての人を自分のところに引き寄せます。” この 言葉は素晴らしいことばであり、現実に実現しました、あなたがもし、真実の神 の子であるならば、その真実を必ず知ることになるでしょう、神は真実の方であ 7 り、私たちがイエスキリストを上げるならば、あなたは必ず人々を自分のところ に引き寄せます、イエスキリストの十字架は暗い十字架でありながら、それを 彼は栄光の十字架に変えて下さいました、彼は私たちにとって真理を知ること のできる望遠鏡となり、私たちはそれを通して多くの知識を得ることができるので す、聖書を正しく理解することができ、なぜこの世がこのような状態にあるのか、 理解できるようになり、なぜ人類が罪に支配されているのか、同時になぜ、真 実に神を理解した人々がどのような人々であったかを悟るようになります、昔の 時代のアブラハム、エノク、ヤコブ、モーセ、エリヤなど、あなたは理解するこ とができるようになります、十字架はあなたにとってすべてとなり、栄光の子が あの時に死なれたことを悟るようになります、彼はあなたにとって栄光の子です か、神の愛、そして完全な愛、そして神性の愛はとてもすばらしく、人間の愛とく らべることはできません、人間の愛は失敗を重ねてきました、しかし神性の愛は すべての力を持ち、死の力をも滅ぼし永遠の命を十字架を通して完成されまし た、したがって私たちは真実の神の子に対して”さようなら“という言葉を持って いません、しかし私たちにとって死の力は”おやすみ“という言葉とともに私たち は再び彼らに朝(天国の朝)にあって”おはよう“ということができるのです、神 は私たちに朝日が昇る力をあたえられ、その光は沈むことがありません。 イエスキリストは十字架を耐え忍ばれ、死の力を受け入れられました、それは ただ彼にとって死の力を滅ぼすための過程に過ぎず、私たちに命を与えるた めのものでした、私たちはこのことによってイエスキリストの心を十字架の中に見 い出しました、その心は打ち砕かれ、そして彼の死の苦しみは私たちに命をもたら しました、私たちはその良い知らせを全世界に知らせなくてはなりません、私た ちはそのいのちの真理をどのように取り扱い、どのように心に受け入れているの か、もう一度、ひとりひとりで心を調べてみなくてはなりません、あなたの中の十 字架をもう一度調べてみなくてはなりません、勝利の十字架をあなたはいのち の光として全世界の暗闇の中で迷っている子羊を探しておられますか! イエ スキリストは私たちに光を残され、この世の中で生きるために光によって見るこ 8 とのできる足跡を残されました、私たちは彼の光によって、この人生の中で道を 見いだすのです、暗闇と影の中にあって私たちは光を見いだし、その光によっ て恐れを締め出します、その光とは完全な愛のことであり、完全な信仰、神の 信仰、イエスの信仰を見いだすのです、私たちはこの肉の中にあって、この肉 体の中にあって多くの難しさを見いだしますが、イエスの光と愛によって私たち は力を見出し、そして勇気を見いだし、そして愛を見いだします、もしあなたにとっ て十字架がなければ栄光の冠も存在しません、もしあなたが 栄光の冠を求 めるならば、あなたはイエスキリストの苦しみ、そしてイエスキリストの十字架を持 たなくてはなりません、あなたの人生の苦しみ、キリストの故の苦しみはあなたに とって栄光の冠を現実のものとして、あなたに知らせて下さるでしょう、イエスキリ ストの受けたあのいばらの冠は彼にとってとても痛々しいものでした、しかしなが ら、あなたがもしキリストのようになろうとするならば、あなたにとってこのいばらの 冠は必ずあなたの人生にとって味わわなくてはならないものです、多くの苦し みや迫害はキリストのゆえにあなたに与えられる栄光の冠の土台となり、それ はすべてあなたを築きあげるためのものです、この世にあって強くなりなさい、こ の世にあって勇敢でありなさい、と言われた主のことばがあなたにとっていのち となるはずです、この世の人生の短い間の苦しみは永遠の苦しみである地獄 の苦しみと比較することもできません、この偉大な秘密とはキリストの故による 苦しみなくして真実の十字架はなく、この真実の十字架なくして栄光の冠はあ りえないということです、あなたの人生が苦しみ、そして迫害、そして痛みのあるも のとなっても思い起こしてください、十字架なくして栄光の冠はあり得ません、 いつの日か私たちは神の御座の前に来てイエスキリストを仰ぎます、神の右の 座に着かれたイエスキリストを仰ぎ見るということです、あなたは天の父によっ て喜びのうちに天の御国に迎えられ、天の父によってその信仰と誠実さをほめ たたえられるのです、(ヘブル人への手紙12:2) “信仰の創始者であり、完 成者であるイエスから目を離さないでいなさい、イエスはご自分の前に置か れた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右 9 に着座されました、” イエスキリストは私たちと同じ人間としてお生まれになり、 この光の道を開いて下さいました、十字架以外に道はなく、十字架だけにい のちがあり、そこに栄光の冠が用意されているのです、あなたは人生の中にお いて様々な苦しみや困難、そして苦難をはるかに高く乗り越えて十字架を通し て見なくてはなりません、真実のあなたと神との間のきずなは、イエスキリストを 通して十字架にあって本物になっていくのです、あなたは神のルール、そして 神の愛の法則を悟らなくてはなりません、そしてあなたは自分自身を知らなくて はなりません、いつの日かあなたが神の御前に来る時、あなたはそこに何のさ ばきもなく、悲しみや苦しみもなく、ただただ愛と喜びに満たされる自分を知る ことになるでしょう、それはすべて十字架を通しての栄光の冠を与えられるあな たの永遠の喜びです、十字架、十字架、十字架、それがあなたにとって真 実のいのちとなるのです、 (黙示録2:10) “死に至るまで忠実でありなさい、 そうすれば、あなたにいのちの冠を与えよう。” 私たちに与えられている多くの 試練や苦難には目的があり、その目的とは純粋な金を砂や泥から、または すべての他のものから切り離すためであり、神の純粋さ、そしてそこから出てくる 香ばしい香り、すばらしい神の存在そのもののすばらしい神の力を私たちのただ 中からわきあがらせるためです、イエスキリストは十字架に至る前はすべての 人々にとって偉大で力強いものでした、しかしながら十字架の上にあってのキリ ストは神の恵みから見放されたような存在となり、人々の目には偉大な存在 としては認められませんでした、しかし現在そのすばらしい香ばしい香りは全世界 に伝わり、全世界で今もなお喜び受け入れられています、それと同じように私 たち神の子たちにとっても同じです、その道にあってはじめて私たちは真実の 意味で十字架を悟り、真実の意味で十字架を背負い、十字架に対して真 実の感謝をすることができるようになるのです、そこで初めて十字架を通して純 粋な神の愛を受けることができるのです、私たちはそこに至ってすべての神から の助け、そして賜物などにより、キリストのように生き、歩き、育つことができるよう になるのです、これらの経験を通して私たちは私たち自身の十字架を悟り、そ 10 の中にあって私たちは自分自身を失うことを真実に知るようになるのです、聖 書が語っているとおりです、(マタイの福音書10:39)“自分のいのちを自分 のものとした者はそれを失い、私のために自分のいのちを失った者は、それを自 分のものとします。” 私はその聖書の箇所をとても大事にしています、私たちに 与えられた多くの苦難はすべて十字架を通して栄光の冠への道を開き、人の 目には敗北のように見えても、私たちはどんどん高く高く上がっていくのです、 いつでもあなたが目の前に高い山を見て、それを登らなくてはならないと思っ た時に、そこにはイエスの足跡が必ずあるはずです、そして必ずあなたはその 山を登ることができるのです、もしもあなたがそこにイエスの足跡を見いだすこと ができないのであれば、それはあなたの歩むべき場所ではありません、これが 私たちにとっての土台であり、基盤です、そしてそこには神の力、神の偉大さが 存在しています、そこにあなたは橋を見いだすのです、十字架の橋、イエスの 血それがあなたにとってのこの世と天国とを結ぶいのちの橋であり、永遠のい のちです、そして今、神である主はイエスを通してこのように語っておられます、 誰でも栄光の冠を見いだす者は、そして私のあとについて来る者は私が勝利 を得て、私の父とともに父の御座に着いたのと同じように私の座に着かせよう、 (マタイの福音書16:24)“だれでも私について来たいと思うなら、自分を捨 て、自分の十字架を負い、そして私について来なさい。” おお、何とすばらし い十字架の勝利でしょう、私たちがもし耐え忍んでいるなら、彼とともに治める ようになる。と書かれているとおりです、イエスキリストの十字架によって全世 界は自由になったのです、すばらしいキリストの十字架、しかし神に感謝します、 私にも与えられた十字架があるのです、私たちには見えないものがあります、 “今私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合 わせて見ることになります、今、私は一部分しか知りませんがその時には私が 完全に知られていると同じように私も完全に知ることになります。”(コリント人 への手紙、第一、13:12) これこそが私たちのいのちの橋、そして望遠鏡、 十字架を通してのみ私たちは神の心を知ることができるのです、イエスキリスト 11 の十字架は何と力強いものであり、私たちの魂をはかることができ、そして私た ちの心を励まします、十字架こそが私たちの勝利です、多くの人々はほかの道 を通して真実なもの、または神を見いだそうとしますが、この道以外に真実の道 はありません、私たちは神の力、そして神性の血から神性の力をどのようにして 使うかを学ばなくてはなりません、そのようにして私達のただ中に神からのイエ スを通しての聖霊の実が実るのです、すべてのしみや、しわや、そのようなものの 何一つない聖く傷のないものとなった栄光の教会を神の御座の前に立たせ るためのものです、これはキリストの花嫁のためのものであり、このすべてのこと は十字架の橋を通してのみ完成することができるのです、神である主は主の 2 度目の来臨を待ち望んでいる者に来て下さるのです、十字架の橋、そして十 字架の望遠鏡を通して不信仰は消えてなくなり、信仰だけが残るのです、イ エスキリストは私たちの時代に来てくださいます、私の心にはひとかけらの疑い や不信仰がありません、イエスキリストはキリストの花嫁のために私たちの時 代に来られます。 私とともに罪人の祈りをしてください、神の御前にすべてを清めて、すべてを 告白してすべての罪の赦しを受け入れてください、“おお神様、私はあなたの 御前に来ます、私はあなたが十字架の上で死なれ、三日ののちによみがえら れたことを信じます、そして私はあなたの流されたイエスの血が私の罪をきよめて くださることを信じます、イエスキリスト、私のすべての罪を赦してください、私はイ エスキリストを信じます、私の心の中に来て下さい、私の心の中にたった今、 来て下さい、イエスキリストの名によって祈ります、すべての栄光を神に帰しま す。 さて、病気と病を持っている人、神よ、私はこの人々をあなたの御前に連れて きます、神の力、そしてあなたのいやしの力を示してあげてください、イエスキリス トの聖なる名によって祈ります、イエスキリストの血の力を示してあげてください、 私はこの人々に神の愛、そしてあなたの力をたった今注ぎます、イエスキリスト 12 の血の名によって、たった今、この人々をいやしてあげてください、たった今祈 ります、いやされなさい、いやされなさい、主の名によって祈ります。イエスキリ ストを信じつづけ、よくなることを信じていて下さい、すべての栄光を神に返しま す、アーメン。 13
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