に描かれた老人に見る、 ワーズワスの父親像

79
に描かれた老人に見る、
ワーズワスの父親像
高野正夫
1
ワーズワスが多くの詩の主題としてしばしば取り上げるものに、子供と老
人がある。それには何らかの理由があるのだろうが、一般的に考えると、老
人や子供は、普通の成人した大人と比べると、日常生活における様々な義務
や務めに拘束されることが少ないように思われる。両親の庇護の下に育てら
れる子供の場合には、未だ知性や理性が発達していないために、動物的な本
能に近い感情で考えたり、行動したりする傾向にある。しかし、逆な見方を
すれば、彼らはすべてにおいて粗野で未熟ではあるが、大人の経験の世界に
よって損なわれていない、子供独自の純粋無垢な汚れのない世界に生きてい
る。
また、老人の場合も一般的には、子供を一人前に成長させ世の中に送り出
した後は、世間で言う社会的責任から解放されて比較的自由な行動が許され
ている。無論、様々な世間の慣習やしきたりなどの制約を受け、また、狭い
コミュニティーの規律や人間関係に束縛されることはあっても、子供と同じ
ように世俗的な責任や務めから解放されて、孤高の内的な世界に暮らしなが
ら、我が道を自由に進むことも出来る。
恐らく、ワーズワスも老人や子供を、このように純粋で素朴な人間性を最
もよく表す存在として捉えていたのであろう。そして、彼らの無垢な存在を
通して、多くの人々がせわしない日常生活に追われて見失ってしまった、理
性に損なわれていない純粋で素朴な、しかし、確固とした精神性を見出して
80
いる。
2
ある意味では、尊敬の念にも近い感情で老人を見つめるときのその優しい
眼差しは、バラッドの「サイモン・リー」にも見られたが、このようなきわ
めて素直で素朴な老人に対するワーズワスのいたわりの気持ちは、「カンバ
ランドの乞食の老人」にも見られる。
「旅する老人」とともに『隠士』の一
部となったこの作品は、
「彼が『私自身の心にはとても有益だった』と後に
述べているように、ホークスヘッドに行く以前に、子供の頃にワーズワスが
(1)
しばしば見かけたあの実際のカンバランドの乞食の老人」
を基に描いたも
のである。ケネス・R・ジョンストンが、
「ワーズワスのより挑発的な政治
(2)
的なメッセージ」
と述べているように、この詩においてワーズワスは、当
時の行政区の貧民収容施設の設立に反対する自らの立場を表明している。浮
浪生活者の増加を抑制するために作られた、1795年のPoor Relief Act (救貧
法)で制定された「スピーンハムランド制度」によって、イギリスのそれぞ
れの行政区では、浮浪生活をやめさせるために、貧民収容施設を設け、責任
を持って貧しい人々を収容することになったのである。しかし、乞食などを
(3)
強制的に施設に押し込めることは、
「国家による不必要な干渉として」
考
えていたワーズワスは、哀れな乞食の老人などの自由を規制しようとする政
治家たちを強く非難し、次のように戒めている。
But deem not this man useless.−Statesmen! ye
Who are so restless in your wisdom, ye
Who have a bloom still ready in your hands
To rid the world of nuisances; ye proud,
Heart-swoln, while in your pride ye contemplate
Your talents, power, and wisdom, deem him not
81
A burthen of the earth. Tis Nature s law
That none, the meanest of created things,
Of forms created the most vile and brute,
The dullest or most noxious, should exist
Divorced from good, a spirit and pulse of good,
A life and soul to every mode of being
Inseparably, link d. (67-79)
「たえず知恵を働かせて/いつでも手に箒を持って/世間からじゃま者を取
り除こうとしている諸君」と政治家たちに呼びかけ、「この男を無用な者だ
と考えてはいけない」
「この男をこの世のやっかい者と見なしてはいけない」
、
と繰り返しながら、語り手はこの年老いた男をしきりに弁護している。救貧
法に続いて、ちょうどこの頃、イギリスの政治経済学者たちは、あらゆる形
での物乞いや慈善の施しをやめさせようと様々な活動を行っていた。
これは、
後の「救貧法修正案」(1834年)につながる非人間的な運動であったが、そ
れに対してワーズワスは強い憤りを感じて、このきわめて社会的な主題の詩
を書いたのだった。ここでワーズワスは、非情な法の制定を推し進める政治
家たちを非難しているが、それと同時に、彼らの背後で政策作りを手助けす
る政治経済学者たちをも暗に槍玉にあげている。利益の追求のみを優先し、
利益を生まない「貧者、老人、そして病人は『社会にとって無用なもの』で
(4)
あるから隔離すべきだ」
と主張する人々から彼らを守ろうとしている。さ
らに続けて、
「どんなものでも、創造物の中で最も卑しいものでも/最も愚
鈍で有害なものでも/善と離れて存在しない、
というのが自然の法則である」
と、声高らかに語るとき、ワーズワスのこの老人に対する温かな気持ちがさ
らに強調される。
人の施しを受けて生きる哀れな老人ではあるが、彼は決して無用な存在で
はなく、世の中の人々に美徳や善なる行いがいかなるものかを映す鏡のよう
な存在であり、彼を決して軽視してはいけないと、詩人は、当時の「高慢で
82
自惚れた」政治家たちに注意を促している。そして、政治家たちの背後にい
る、産業経営者や成功した商人たちもワーズワスから見れば好ましい存在で
はなかった。それというのも、彼らは、パーキスの言うように、
「自分たち
が自らの所有地で支配する人々に対する義務を確信していたであろう、『紳
(5)
士階級』との交際を好んでいた」
からであった。
「常に貧しい人の友」と
言われたワーズワスであるが、貧しい人々や弱者の側に立つとき、彼らを抑
圧する人々に対するその眼差しには常に厳しさが感じられる。
ワーズワスは、
この老人の存在の意味を訥々と次のように語りかけている。
, all behold in him
A silent monitor, which on their minds
Must needs impress a transitory thought
Of self-congratulation, to the heart
Of each recalling his peculiar boons,
His charters and exemptions; and perchance,
Though he to no one give the fortitude
And circumspection needful to preserve
His present blessings, and to husband up
The respite of the season, he, at least,
And tis no vulgar service, makes them felt. (114-124)
「皆がこの老人に無言の訓戒者を見る、/それは彼らの心に/特別な恩恵や、
特権や免除を/思い出させて、
必ずや束の間の自己満足の思いを与えるのだ」
という、詩人の忠告の言葉は、すべての人の心に切々と訴えかけてくる。そ
して、乞食の老人に比べて非常に恵まれた生活を送っている多くの人々に、
自分たちの立場を改めて認識させている。
哀れな物乞いの老人がいなければ、
当たり前のことだと思ってしまう、自分たちに与えられた様々な恩恵や特権
などの有難さを思い知らせてくれている。たとえそれが束の間の自己満足に
83
過ぎなくても、彼らは老人に比べれば、いかに自分たちが幸せであるかを実
感するのであろう。
そしてさらに、「彼の現在の幸福を保ち/季節の休息を節約するのに必要
な/忍耐や慎重さを誰にも伝えないけれども/彼は少なくとも/粗野な貢献
ではないが、それを人々に感じさせたのだ」と言葉を続けながら、ワーズワ
スは、無言の訓戒者としての老人に対する自らの強い称賛の思いを募らせて
いく。言い換えれば、自分の目の前に立っている老人は、その素朴な生き方
によって、人間が幸福に暮らしていく上で最も必要な要素である、
「忍耐や
慎重さ」の大切さを教えてくれたのである。哲学者や詩人のように教訓的な
あるいは賢明な言葉を用いることなく、老人は人々の模範となっていたの
だった。
ワーズワスは、このような老人の無言の教えを、
「粗野な貢献ではないが」
と称えているが、そこには、彼自身の老人に対する個人的な思いが強く感じ
られる。
「皆がこの老人に無言の訓戒者を見る」と、老人の存在の意味を声
高に語るとき、ワーズワスの彼に対する同情や共感、そして尊敬の思いは、
温かな優しさに
れた、穏やかな愛情の眼差しに変わる。そしてそれ故、次
のようなきわめて愛に満ちた人間観が自然に生まれてくるのである。
No−man is dear to man: the poorest poor
Long for some moments in a weary life
When they can know and feel that they have been
Themselves the fathers and the dealers out
Of some small blessings , have been kind to such
As needed kindness, for this single cause,
That we have all of us one human heart. (140-146)
「人間はお互いにとって大切な存在である」という思いに立つとき、ワーズ
ワスにとっては、どのような人間でもお互いに助け合いながら生きていくべ
84
きものなのであろう。どのような貧しい人でも、他人に少しでも祝福を分け
与えてあげたいと願っている。自分以上に親切さを必要とする人がいれば、
親切にしてあげるのが人間の優しさであり、ただこのような素朴な理由から
でも純粋に、「われわれは皆同じ人間の心を持っているのだ」という気持ち
が生まれてくる。このように明言するとき、ワーズワスにとって、人間はた
とえどのような人でも皆、
同じ大切な存在であり、
決して身分や生まれによっ
て差別されてはいけないものとなる。
一人の哀れな老人に対する優しさに満ちた詩人の眼差しは、最後にはより
大きな人間愛へと広がっていった訳であるが、キリスト教的な慈悲の心に近
い、熱い人間への思いへと自らを導いてくれた老人に、ワーズワスは、詩の
最後の場面で、 Then let him pass, a blessing on his head! (「だから彼が通
り過ぎるときには、祝福を捧げよう」)と心のこもった言葉を二度繰り返し
て投げかけている。老人に対するこの祝福の言葉には、ワーズワス自身の老
人に対する感謝の意味も込められているのであろう。それまで以上に印象深
く自然に、人間相互の助け合いの大切さを教えてくれた老人に、ワーズワス
は、観察者としての詩人の枠から飛び出して、心から一人の人間として感謝
を捧げ、彼が、
「大自然に見つめられて生きてきたように/大自然に見つめ
られて死んでほしいのだ」と、いかなる試練にも耐えながら自由に生きる老
人の幸せな最期を願いながら、詩を終えている。
このような老人に対する優しい、愛情に
れた言葉は、ワーズワスの代表
作の一つである「決意と自立」の最終の第二十連にも明確に記されている。
And soon with this he other matter blended,
Cheerfully uttered, with demeanour kind,
But stately in the main; and, when he ended,
I could have laughed myself to scorn, to find
In that decrepit Man so firm a mind.
God said I, be my help and stay secure;
85
I ll think of the Leech-gatherer on the lonely moor.
(134-140)
ワーズワスの詩人観を示した作品と言われるこの詩は、
元々は「蛭とるひと」
( The Leech-gatherer )と呼ばれていた。妹のドロシーが
に記しているように、1800年9月26日にワーズワスとドロシーが実際に出
会った蛭とりの老人との偶然の出会いを基に書かれたものであり、内容的に
(6)
も、
「
『ティンタン・アベイ』と同様にきわめて自叙伝的な抒情詩である」
。
蛭をとり、それを売って生計を立てている、弱弱そうな老人との何気ない会
話を通して、老人がその弱弱しい外見や物腰とは正反対に、確固とした精神
のたくましさを備えていることに気づいたワーズワスが、自らの詩人として
の生き方を再び見つめ直して強く生きていく決意を示した、多少教訓的な詩
である。
ワーズワスとドロシーが、途中までロバート・ジョーンズを伴ってケジッ
クに戻るときに荒野で出会った老人に、「今朝はすばらしい日になりそうで
すね」とワーズワスの方から話しかけると、老人は静かに自分の仕事の苦労
や辛さを率直に話し出すのだった。そして、詩の最終連で、「その老衰した
男にこれほど堅固な意志を/見て、私は自分を
笑したい気持ちになった」
と自らに告げるとき、
老人に対する強い尊敬の気持ちを覚える。弱弱しいが、
牧師がスコットランドで使うような堂々とした言葉で語る老人の話を聞いて
いるうちに、彼は、老人が貧しい惨めな外見とは異なって、人間本来の威厳
と不撓不屈の堅固な精神を持っていることに感動し、思わず自分自身を戒め
ている。
「決意と自立」が書き始められたのは、1802年の 5 月 3 日で、完成したの
は7月4日であった。二か月ほどで完成した作品であるが、ワーズワスが実際
にこの老人と出会ってからは、一年十か月ほどたっていた。そして、「これ
らの詩の幸福な表面にもかかわらず、1802年の彼の特に詩に関する問題は、
実際には1798年や1800年よりもはるかにひどかった。それは、困窮する貧し
い人々に対する彼の態度にではなく、彼自身の想像力の状態に関わるもので
86
あった。1798年と1800年には彼は、ほとんど何でも力強い詩に変えることが
(7)
できたが、
1802年には、
結果はほとんど感銘を与えるものではなかった」
と、
ケネス・R・ジョンストンが述べているように、1802年にこの作品を書き始
めた頃のワーズワスは、詩人としての強い自信を多少失いかけていた時期で
もあった。
詩人として生き続けることの難しさは、驚異の少年と呼ばれたチャタトン
や栄光と歓喜に生きたバーンズに思いを馳せながら、「われわれ詩人は青春
時代には喜びで始まるが/それから最後には失意と狂気が訪れる」と、自分
自身の状況と重ね合わせながら述べるとき、実際に表現されている。自分の
そばに立って静かに語りかける老人の的確な訓戒によって「人間の力」を得
た彼は、詩の後半で再び詩人の運命について考えている。不安、失望、寒気、
苦痛、労働、あらゆる肉体の病など詩人に降りかかる様々な苦悩、そして、
「悲
惨な死を遂げた偉大な詩人たち」を思い起こしながら、自らの詩人としての
苦悩について深く瞑想する。そして最後に、同じ説話を繰り返してくれた老
人の力強くたくましい精神に詩人は感動し、詩人としての迷いを断ち、新た
な決意をするのである。
「神よ、私を助け、確かな支えを与え給え、/淋し
い荒野の蛭とる老人のことを思います」という詩人の最後の言葉には、詩人
としての自信を失いかけ将来に不安を抱いていた自分に、確固とした生き方
や強い意志を示し、いわば人生の指針を与えてくれた老人に対する深い感謝
の気持ちが込められているのであろう。
に見られる細やかな人間観察を通してワーズワスは、幾つ
かの形の人間愛を描いている。人間の愛情の中でも最も強い糸で結ばれた男
と女の愛、それに劣らず深い絆で結ばれた母と子の母性愛、そして兄弟愛な
ど。また、
「マイケル」における父性愛も彼にとっては重要な主題であった。
そして、マイケルやその他の多くの老人を主題とした詩に関して共通するの
は、ワーズワス自身が彼らに対して常に優しい愛情と尊敬の眼差しを注いで
いることである。若者から見れば老人は惨めな弱弱しい哀れな存在かもしれ
ないが、彼は決して老人を外見からは判断せずに、その人間としての様々な
87
経験や深い知恵などを通して、不屈のたくましさや威厳を内面にたたえた、
精神性豊かな存在であることを再認識している。
3
老人を描くときにワーズワスが見せる優しさは、父と子の絆の断絶をう
たった「マイケル」における、父親の人物描写にも見られる。愛する息子が
自らの期待に背いて、恥ずかしい不品行に身を落とし外国に逃げてしまった
後でも、父親のマイケルは仕事に精を出し、黙々と山に登って行っては羊の
世話を続けていた。普通ならば、あまりの落胆に生きる気力さえなくなると
ころであろうが、老いた父親マイケルを支え、絶望から救ったのは、過ちを
犯したとはいえ、自分の血を分けた息子に変りのない、息子ルークに対する
深い愛なのである。
子供に深い愛情を注ぐ父親の姿は、
「子を亡くした父親」に登場する、子
供を亡くした父親ティモシーにも共通するものである。ワーズワスが、
「彼
(8)
の最も深遠に素朴な抒情詩の一つ」
と言われる、この詩の下書きらしいも
のを書いたのは、ドイツのゴスラに滞在していた時であった。恐らくはワー
ズワスが、子供の頃に見かけた当時の葬式のしきたりや、実際に子供を亡く
した父親の姿を思い浮かべながら書いたものであろう。
愛する子供を亡くし、
悲しみにくれる父親を慰めようとする語り手の温かな思い遣りは、親しい友
人に語りかけるような優しい語り口で始まる。
Up, Timothy, up with your Staff and away!
Not a soul in the village this morning stay;
The Hare has just started from Hamilton s grounds,
And Skiddaw is glad with the cry of the hounds. (1-4)
「さあ、ティモシー、伺を持って出かけなさい/今朝村には一人も残ってい
88
ないよ」と、詩人が呼びかけるティモシーは、六か月前に末っ子を亡くして
いた。そして、悲しみ癒えぬ彼を元気づけようとして、詩人は、村人たちが
行う狩りに誘うのである。「ここに記されたように老人が参加することにな
る歩いて行う狩りは、私が子供の頃には、われわれの村では普通のほとんど
習慣的な行事であり、人々はそれを大いに楽しんでいた。今ではそれは以前
(9)
と、イザベラ・フェンウィックの注にワーズワスが
ほど頻繁ではない。
」
記しているように、村人総出の狩りは、年中行事の一つとして習慣的に村で
は行われていたようである。
ティモシーは、最後には狩りに出ていくのだが、その微妙な心持は、最終
連で次のように細やかに描写されている。
Perhaps to himself at that moment he said,
The key I must take, for my Ellen is dead
But of this in my ears not a word did he speak,
And he went to the chase with a tear on his cheek. (17-20)
「そして彼は頬に涙を浮かべて狩りに出かけた。
」
という最終行によって、
ワー
ズワスは見事に、悲しみをこらえながら村人との狩りに後からついていく
ティモシーの姿を描いている。末娘のエレンを亡くした父親ティモシーの悲
しみの涙は、
まだ乾いていない。愛する娘を亡くしたティモシーの喪失感は、
それほど簡単には拭い去されない。「時は偉大な癒やし手」であると言われ
るが、娘を失った父親の悲しみは、わずか六か月では癒えることはないので
あろう。言い換えれば、亡くなった娘に対する愛の思いが強ければ強いほ
ど、その喪失感はいかなるものによっても容易に和らぐことはないのであり、
ティモシーの場合には、彼が年を老いて味わった娘の死の悲しみ故に、それ
は一層辛いものとなるのであろう。
このように家族の愛の様々なすがたを執拗に描いたワーズワスであるが、
彼自身の両親や兄弟との関係についてその実際の生涯に照らし合わせてみる
89
と、少年時代の頃のワーズワスは、幸せな家族のぬくもりを十分味わうこと
はなかったようである。ワーズワスは八歳になる前に母親のアンを亡くし、
父親のジョンは十三歳で亡くなっていた。そして母が亡くなってから兄弟五
人は父と別れて暮らすことになり、ワーズワスは、九歳で兄のリチャードと
ともにホークスヘッドのグラマー・スクールに入学していた。十七歳でケン
ブリッジ大学に入学するまでは学校の近くのアン・タイソン夫人の家に下宿
し、ハリファクスの伯母エリザベス・スレルケルドのもとに預けられた最
愛の妹ドロシーとも、その後、南英のレースダウンに一緒に移り住むまで、
十六年間は離れて暮らしていた。
つまり、ワーズワスがコッカマウスの生家で両親の愛情を一身に受けて、
兄弟五人そろって普通の幸せな生活を送ることが出来たのは、母親が亡くな
る八歳頃までのことだった。ワーズワスは『序曲』の第五巻で、優しい慈愛
に満ちた母親のことについて長々と述べている。また、第十一巻でも、父親
を亡くしたときの悲しみが次のように記されている。
Ere I to School return d
That dreary time, ere I had been ten days
A dweller in my Father s House, he died,
And I and my two Brothers, Orphans then,
Followed his Body to the Grave. The event
With all the sorrow which it brought appear d
A chastisement; and when I call d to mind
That day so lately pass d, when from the crag
I look d in such anxiety of hope,
With trite reflections of morality,
Yet in the deepest passion, I bow d low
To God, who thus corrected my desires; (Ⅺ. 305-316)
90
クリスマスの休暇に父の家に帰省して十日もたたないうちに迎えた父親の突
然の死に呆然とする少年、ワーズワスの姿が目に浮かぶようであるが、彼
自身は、悲しいこの突然の出来事を一つの「懲らしめ」として捉えながら、
「私の欲望をこのように矯正してくれた神に/深く頭を垂れていた」
。気丈に
も父親の死に耐えながら、そこに道徳的な反省を見出そうとする少年ワーズ
ワスの心の強さが感じられる。実際の人生において直面した悲しい状況にお
いても、必死に兄弟が力を合わせて懸命に生きていこうとする姿が一層われ
われの共感を誘う。しかしながら、少年ワーズワスの心に深い悲しみを刻ん
だ父親ジョンに対する愛情は、母親アンに対するものに劣らず強く深いもの
だった。このような、ワーズワスが自らの父親に抱いていた父親像と、「マ
イケル」に描かれた父親像をまったく同一視することはできないが、ワーズ
ワスにとっては、マイケルを描くときには、自然と、父親ジョンの現実の姿
が自らの父親像として思い浮かんだのであろう。
ワーズワスが
において描いた主要な主題の一つは家族の愛
であるが、
その様々な愛のすがたの描写に注いだワーズワスの関心の強さは、
きわめて並々ならぬものがある。多少感傷的に思われるかもしれないが、恐
らく、ワーズワスが、普通の少年と同じように両親の愛情をいっぱいに受け
て幸福に育っていたなら、これほど様々な家族の愛の形を描くことはなかっ
たであろう。そして、ワーズワスが常に願う父と子の愛情の絆は、放浪する
哀れな女性をうたった詩である「ルース」にも非常に象徴的に描かれている。
And then he sometimes interwove
Dear thoughts about a Father s love,
For there, said he , are spun
Around the heart such tender ties
That our own children to our eyes
Are dearer than the sun. (79-84)
91
この詩の主人公ルースは、
アメリカからやって来た無法者の若者に求愛され、
彼を信じ、彼の妻としての生活を夢見て結婚した。しかし、彼に捨てられた
ルースは気が狂って牢屋に入れられるが、抜け出して哀れな放浪者として物
乞いをしながら美しいクォントックの山で暮らしていたという内容のバラッ
ドである。しかも、
「ワーズワスだけでなく、ナポレオン一世時代には、典
(10)
型的な求愛と遺棄の物語」
であったと言われるように、バラッドの伝統的
な主題を扱ったものである。
上に引用した一節は、若者がルースに一緒に森に住んでくれないかと結婚
を申し込む場面で、彼はルースに父親の愛について自らの思いを語りかけて
いる。ルースの純粋な愛の思いを無情にも投げやって、彼女を捨てて再び勝
手気ままな無法者の暮らしに戻ってしまう、若者が発する言葉としては、あ
まりにもふさわしいものではないが、多少教訓的なものである。しかし、
「自
分の子供は太陽よりも大切な」、なくてはならない掛け替えのないものだと
言いきれるほどの、
強い優しい愛情を子供に注ぐような父親こそ、
恐らくワー
ズワスにとっては理想の父親像であったのである。いわば、いつの日も変わ
ることなく、何も求めることなく、無償の愛の光を注いでくれる太陽のよう
に、温かくて大きな存在に、父親の愛の証しを見たのであろう。いつどのよ
うな状況にあっても子供たちを見守り続けてくれる太陽のような、熱いそし
て力強い絆をワーズワス自身も求めていたのであり、
このような父親こそが、
ワーズワスが探し求めていた父親の姿であったのであろう。
4
リーアン・ウォルドフは、
「
『決意と自立』を書く前に、ワーズワスは父と
息子の関係を扱った幾つかの詩を書いていたが、その四編は、死や出立によ
る喪失についての、予期される、実際のあるいは比喩的な経験を表現してい
(11)
る」
と述べているが、それらは、
「旅する老人」
、
「二つの四月の朝」
、
「泉」、
と「マイケル」である。
92
ウォルドフが最初にあげた「旅する老人」に登場するのは、ワーズワスが
述べているように、
「単純な要素を持った登場人物であり、風習よりもむし
(12)
ろ自然に属して、今でもそして常に存在するような人物である」
。そして、
この旅する老人の見事な風采と強い精神性が、自然との関わりで簡潔に表現
されている。
He is insensibly subdued
To settled quiet: he is one by whom
All effort seems forgotten, one to whom
Long patience has such mild composure given,
That patience now doth seem a thing, of which
He hath no need. He is by nature led
To peace so perfect, that the young behold
With envy, what the old man hardly feels. (7-14)
この老人は、
「気づかないうちに彼は自分を抑制して、/平静を身につけた
のだ」という描写が暗示しているように、
威風堂々とした風格の老人であり、
その落ち着き払った態度は、自然の中での暮らしによって身につけたもので
ある。そして、
「彼は自然によって/完璧な平和に達しているので若者たち
は/羨望の眼差しで老人が感じないものを見ている」という言葉が続き、老
人のいかなるものにも動じることのない落ち着き払った平静さは、若者が自
分もこうあったならと思うほどのもので、思わずワーズワス自身も敬意を
払って見つめてしまっている。
しかし、自然によって育まれたきわめて素朴な、
「賢明な受動状態」の一
例としてあげられる「旅する老人」であるが(13)、最後に話し手が彼に「旅
の目的は何ですか」と尋ねると、海戦で傷つきファルマスの病院で死にかけ
ている船乗りの息子に会いに行く途中なのですと答える。その落ち着き払っ
た外見からは想像も出来ないような心配と不安を抱いていた、老人の心の内
93
を知って、さらに語り手である詩人は、老人の克己心の強さに心打たれる。
それとともに、
死の息子を思う「旅する老人」の愛情の強さと素晴らしさ
に感動している。老体に佃打ちながら、はるばるファルマスへの遠い道のり
を歩いていく老人の哀れな息子に対する思いの強さに、詩人は父親の無償の
愛を見出している。多少感傷的な詩の終わり方ではあるが、ここには、ワー
ズワス自身の理想とする父親像が反映されているのであろう。
ウォルドフが先にあげた四編の詩はいずれも
の第二版に出
版されているということからも、いかにこの時期のワーズワスが父と息子の
関係について関心を抱いていたかが想像される。さらにウォルドフは、
「ワー
(14)
ズワスはこれらの詩において、父親を探し求める自分自身の姿を描いている」
と述べているが、ワーズワスにとって、父親の存在は自らの生涯を通しての
重要な主題であったのであろう。成人するまで両親と兄妹に囲まれて幸せに
育つことのなかったワーズワスにとっては、十三歳で亡くした父親ジョンの
姿を自らの詩において追い求めることは、その精神の成長と自立のためにも
必要なことであった。それ故、これほど多くの父と息子の関係を扱った詩を
書き、父と子の愛の絆の強さを描いたのであろう。失意に打ちひしがれるマ
イケルを描いた最後の場面で、ワーズワスは愛の持つ不思議な力について優
しく語りかけている。
There is a comfort in the strength of love
Twill make a thing endurable, which else
Would break the heart: −Old Michael found it so. (457-459)
「愛の力には慰めがある/愛がなければ悲嘆に暮れるような/ことにも耐え
られるようにしてくれる」
と自らに語りかけるマイケルは、いかに息子のルー
クが期待を裏切って堕落しても、彼を見捨てることはないのである。どのよ
うな息子であっても息子への愛がある限り、いかなる悲嘆にも耐えられるの
だと彼は信じている。多少理想化され過ぎた感はあるが、このような父親像
94
こそワーズワスが探し求めていたものなのであろう。
[注]
使 用 テ ク ス ト は、R.L. Brett and A.R. Jones (ed.), Wordsworth and
Coleridge,
(Routledge, 1996)とErnest De Selincourt (ed.),
William Wordsworth,
(Oxford U.P.,1959)に拠る。
(1)Hugh Sykes Davies,
(Cambridge
U.P., 1986) p. 151.
(2)Kenneth R. Johnston,
(Norton, 2001) p. 409.
(3)Carl Woodring,
(Harvard U.P. ,1968) p. 55.
(4)John Purkis,
(Longman, 1970) p. 61.
(5)Ibid., p. 63.
(6)Leon Waldoff,
(University of Missouri
Press, 2001) p. 77.
(7)Kenneth R. Johnston,
p. 557.
(8)John Williams,
(Macmillan,
1996) p. 109.
(9)R.L. Brett and A.R. Jones,
(10)Carl Woodring,
(11)Leon Waldoff,
p. 35.
pp. 89-90.
(12)John Williams,
p. 102.
(13)John Williams,
(14)Leon Waldoff,
p. 308.
(Palgrave, 2002), p. 59.
p. 90.