【世界の中の石州銀】

【世界の中の石州銀】
16 世 紀 の 日 本 で は 、戦 国 大 名 に よ る 鉱 山 開 発 が 盛 ん に 行 わ れ ま し た 。な か で も 石 見 銀 山
(島根県大田市)は精錬技術「灰吹法」の導入などを契機として、各地の鉱山開発のさき
がけとなりました。
●世界地図と石見銀山
16~ 17 世 紀 に か け て 、 中 国 や ヨ ー ロ ッ パ 諸 国 で の 銀 使 用 の 増 大 を 背 景 に 、 石 見 で 産 出 さ れ た 銀 は
海 外 へ 輸 出 さ れ ま し た 。 17 世 紀 に 、 日 本 の 銀 と し て 世 界 に 知 ら れ た 「 ソ ー マ 銀 」( 佐 摩 銀 ) は 、 石 見
銀山の一帯の地名「佐摩村」に由来すると考えられます。
◆日本の銀山が記された「タルタリア図」
タ ル タ リ ア( シ ベ リ ア 地 方 )中 心 の 地 図 の 右 下 に 描 か れ た 日 本 に「 Minas de plata」
(銀鉱山)
と記されています。日本が銀の産出国として知られていたことがわかります。
拡大図
タルタリア図は、フラ
ン ド ル( 現 在 の ベ ル ギ ー )
の地図学者アブラハム・
オルテリウスが出版した
地 図 帳 『 地 球 の 舞 台 』
( 15 70 年 初 版 ) に 収 録 さ
れ て い ま す 。1 595 年 版『 地
球の舞台』にはティセラ
からオルテリウスに贈ら
れた「ティセラ日本図」
も収録されました。
タルタリア図
オルテリウス作
1570 年 初 版
(島根県立古代出雲歴史博物館蔵)
●石見銀山と石州銀の登場
●石州銀の特徴
石見銀山の発見の経緯や沿革を記した『銀山旧記』
に よ る と 、 1526( 大 永 6) 年 に 博 多 の 商 人 神 谷 寿 禎 が
石見銀山を発見し、寿禎に招かれた宗丹と桂寿によっ
て銀の精錬方法「灰吹法」が伝えられました。
【使用方法】石州銀は、重量が一定でなか
ったため、使用する際に重さを計り、また
必要な重さに切って使用されました。
【形状】石州銀の表面は、文字の無い長方
形の極印を左右に打って、石州銀であるこ
とを示しています。
極印とは・・・?
銀の品質が銀山や
製造地により異なっ
ていたため、極印を
打つことでその品質
を証明しました。
石州銀
『石見国銀山旧記』
『銀山旧記』
江戸時代
江戸時代
34
16 世 紀
全面に規則的に打
たれた長方形の極
印 。極 印 に は 識 別 に
使ったと考えられ
る文様があります。
●史料に見る石州銀
江 戸 時 代 に 著 さ れ た 貨 幣 の 図 鑑『 金 銀 図 録 』『 三 貨 図 彙 』に は 、「 石 見 国 挺 銀 」「 石 州 銀 」と し て 「石
州 銀 文 禄 二 卯 月 日 」(1593 年 )の 極 印 を 持 つ も の が 記 載 さ れ て い ま す 。豊 臣 秀 吉 に よ る 文 禄 の 役 の 時 期
に当たり、軍用としてつくられたことが史料には記されています。
『 金 銀 図 録 』 近 藤 守 重 著 1823( 文 政 6) 年 初 版
明 和 期 ( 17 64 ~ 17 72 ) ま で の 日 本 の 金 銀 貨 5 50 点 を 収 録 し た 図 録 。
極印の拡大
文禄石州銀
『 三 貨 図 彙 』 草 間 直 方 著 1815( 文 化 12) 年 初 版
江戸時代の代表的な貨幣誌。
『 金 銀 図 録 』『 三 貨 図 彙 』 の 図
と 同 様 で 、丸 い 点 の あ る 長 方 形
の 極 印 が 左 右 交 互 に 打 た れ 、中
央に「石州銀文禄二卯月日 」の
極印が 6 個打たれています。
「萩判銀」と記された石州銀
切遣いされた石州銀
山 口 県 内 で 発 見 さ れ た 無 文 銀 は 「 萩 丁 銀 」「 萩
判 銀 」と 呼 ば れ て い ま す 。毛 利 家 所 有 の 石 州 銀 の
な か に 15 70 ( 元 亀 元 ) 年 の 墨 書 を 持 つ も の が 含
ま れ る こ と か ら 、こ の 時 期 に つ く ら れ た も の と 考
えられます。
『 銀 山 旧 記 』 に は 、「 当 時 通 用 銀 は 悉 く 切 銀 に
し て 使 っ て い る 」と あ り ま す 。ま た 、宣 教 師 ル イ
ス ・ フ ロ イ ス ( 15 63 年 来 日 ) は 『 日 本 覚 書 』 に
「 日 本 で は 切 片 の 重 さ を 計 っ て 通 用 し て い る 」と
記 し て お り 、秤 量 貨 幣 と し て 使 用 さ れ た 様 子 が わ
かります。
御公用銀
石州銀(萩判銀)
長方形の極印は他の石州銀
よりも、やや平坦です。
35
石州銀の切片です。長方形と「御
公用」の極印が複数打たれ、切片
でも極印がわかるようになってい
ます。石見銀山を領有していた毛
利 氏 が 天 正 年 間 ( 1573 ~ 1591 ) に
つくらせたものと考えられます。
【武田氏ゆかりの金貨-甲州金-】
武田氏は領国内の金山開発を進め、産出した豊富な金を使用して、甲州金と呼ばれる金
貨をつくり、流通させました。
●甲州金とは?
甲 州 金 は 、戦 国 大 名 武 田 氏 の 領 国 内 で 産 出 す る 豊 富 な 金 を 使 用 し て つ く ら れ る よ う に な っ た 金 貨 で
す。江戸幕府が貨幣制度を統一した後も例外的に甲斐(現在の山梨県)での使用が許されました。
◆古甲金と新甲金
◆史料にみる武田氏時代の甲州金
甲 州 金 に は 、戦 国 時 代 か ら 江 戸 時 代 の 享 保 年
間 ( 1716~ 1736) ま で に つ く ら れ た 古 甲 金 と 、
享保年間以降につくられた新甲金があります。
古甲金
新甲金
露一両金
甲重二朱金
武田信玄と甲州金
の関わりは、江戸初
期に集成された甲州
流の軍学書『甲陽軍
鑑』によって印象づ
けられています。た
だ、武田氏と甲州金
製造を直接結び付け
る史料は確認されて
いません。
『 金 銀 図 録 』に 記 さ れ た「 碁 石 金 」
◆甲州金の製造に関わった人々
甲州には、金を採掘する金山衆のほか、さまざまな専門的技術をもった人々がいました。
甲州金の製造
《甲州金製造にたずさわった4氏》
金 の 品 位 が 高 い 甲 州 金 ( 81 ~ 8 3 % ) を つ く
るためには、金の精錬や品位の鑑定技術など
が必要であり、これが甲州金の信用の裏づけ
となっていました。
天 正 年 間 頃 ( 15 73 ~ ) か ら 甲 州 金 の 製 造 に
は、松木・野中・志村・山下の 4 氏が関わっ
ていたとされています。4氏のうち、松木氏
と野中氏については史料上で実在が確認さ
れていますが、志村氏と山下氏については甲
州金の極印から確認できるのみです。
松木一分金
野中一分金
志村一分金
山下一分金
4氏のうち、松木氏が江戸幕府から甲州金製造
の独占権を与えられました。
甲州金と秤
《秤の特権を与えられた守随氏》
額 面 に「 小 糸 目 」
( 約 0 .1 g )
「小糸目中」
(約
0. 06 g ) と い っ た 小 さ な 貨 幣 単 位 が 表 示 さ れ
た甲州金を作るためには、重さを正確に計測
する技術も必要でした。
武 田 氏 は 、1 5 7 4( 天 正 2 )年 、吉 川 茂 済( 守
随家初代)に対し、甲州での秤の製造と販売
の独占権を与えました。甲州では、円滑な取
引のために重量の単位や秤の規格を統一する
必要がありました。
武田氏から秤の製造と販
売の独占権を与えられた守
随 氏 は 、そ の 後 、江 戸 幕 府 の
秤座に取り立てられ、東国
33 か 国 の 秤 の 製 造 ・ 販 売 の
特権を与えられました。
『古 今 要 覧 稿 』より
●いろいろな甲州金
16 世 紀 後 半 ~ 江 戸 時 代 初 期 頃 と 推 定 さ れ る 甲
州 金 に は 、碁 石 、円 形 、四 角 の 形 状 の も の が あ り 、
一つ一つに額面を表わす極印が打たれています。
額面は、
「両」
「分」
「 朱 」の ほ か に 、そ の 下 の「 糸
目 」「 小 糸 目 」 と い っ た 単 位 や 、「 三 朱 」 や 「 二 分
一朱」などの端数を持つものもありました。
36
一分朱中糸目金
角一分金
吉一分金
●甲州金の貨幣単位
甲州金は、4 進法の貨幣単位を採用
し た 貨 幣 で す 。甲 州 金 の「 両 」
「分」
「朱」
という貨幣単位は、徳川家康により江
戸時代の金貨の単位として受け継がれ
ました。
甲 州 金 の 1 両 = 金 4 匁 ( 15g )
〈 田 舎 目 の 場 合 〉 金 4.2 匁 ( 15.75g )
1 両 = 4 分 = 16 朱 = 32 朱 中 = 64 糸 目
「 朱 中 」未 満 の 貨 幣 単 位 と し て 、
「糸
目 ( 朱 中 の 1/2)」、「 小 糸 目 ( 朱 中 の
1 /4 )」、「 小 糸 目 中 ( 朱 中 の 1/8)」
がありました。
【甲州金の歩み】
主なできごと
年代
甲州の主なできごと
室町 時代
戦国時代
(
武田氏が領有
16 世紀中頃
室町幕府滅亡
・甲州の諸金山が開発
・「甲州金」の本格的な鋳造・発行
1573(天正 1)
)
安土桃山時代
1582(天正 10)
1590(天正 18)
1591(天正 19)
1593(文禄 2)
徳川家康、「関ヶ原の戦い」で勝利
けいちょう き ん ぎ ん
1600(慶長 5)
徳川家康、統一貨幣「慶長金銀」を発行
1601(慶長 6)
徳川家康が江戸幕府を開く
1603(慶長 8)
1574(天正 2)年
武田信玄没
武田氏滅亡 徳川家康、甲州領有
豊臣秀勝が領有
加藤光泰が領有
浅野長政が領有
甲州、徳川氏の直轄領となる
守随氏が武田氏から秤
製造販売の特権を得る
天正~文禄・慶長年間頃
4氏(松木・野中・山下・志村)
が甲州金の製造に従事
→ 甲州金、鋳造停止
- 甲州は、享保期まで幕府直轄領と大名支配を繰り返す
1608(慶長 13)頃
:
:
げんろく
か い ちゅう
元禄の改鋳 [初の金銀貨幣改鋳]
全国在来の地方金銀貨の通用を停止
→元禄金銀への引き替えを指示
1696(元禄 9)
幕府、甲州金を元禄金へ引き替えることを指示
領内では甲州金存続願い
→ 幕府、元禄金への引き替えを一時猶予
1704(宝永 1)
幕府老中・柳沢吉保が川越から甲州へ移封となる
1695(元禄 8)
江 戸 時 代
1706(宝永 3)
1709(宝永 6)
しょうとく
正徳の金銀貨改鋳
松木氏が甲州金を
独占的に製造
甲州金、鋳造を再開
ば く ふ ろうじゅう
やなぎさわ よ し や す
い ふ う
甲州金、元禄金に準じて改鋳することで存続が許可される
→「甲安金」の鋳造・発行(宝永4年)<金の品位:約 61%>
よ し さと
吉保の子・柳沢吉里が領主となる
1714(正徳 4)
1721(享保 6)
1724(享保 9)
1727(享保 12)
1732(享保 17)
正徳改鋳
→「甲重金」の鋳造・発行<金の品位:約 75%>
領主・柳沢吉里の移封に伴い甲州が幕府直轄になる
→「甲重金」
、鋳造停止
ぞ う ちゅう
領内は金貨不足、幕府への増鋳願い
→「甲定金」の鋳造・発行<金の品位:約 72%>
「甲定金」
、鋳造停止
- 以後、甲州金の改鋳・増鋳はされなくなる
37
【石州銀の計測データ】
凡例
当 館 で 所 蔵 す る 石 州 銀 9 点 の デ ー タ ( 縦 ・ 横 ・ 厚 ・ 重 量 ) を 掲 載 ( 口 絵 6. 7 、 3 9 頁 「 石 州 銀 図 版 」 参 照 ) 。
掲載するデータは次のとおり。
(1)番号
分類保管番号
(2)縦・横・厚・重量
縦 ・ 横 ・ 厚 の 計 測 に つ い て は 、 電 子 ノ ギ ス ( AB S ソ ー ラ 式 デ ジ マ チ ッ ク キ ャ リ パ 50 0- 44 5 〈 最 小 表 示 量
0. 01 mm , 株 式 会 社 ミ ツ ト ヨ 製 〉) を 使 用 し た 。 な お 、 縦 ・ 横 ・ 厚 の 数 値 は 、 1 箇 所 に つ き 2 回 測 定 を 行 い 、
その測定値の平均値の小数点第三位を四捨五入した値とした。
重 量 の 計 測 に つ い て は 、電 子 は か り( 音 叉 式 多 機 能 電 子 は か り HG 20 00〈 最 小 表 示 単 位 0. 01 g, 新 光 電 子 株
式 会 社 製 〉) を 使 用 し た 。
測定は 1 名で行った。
No
1
2
3
4
5
6
7
8
9
番号
縦
68.64
116.39
108.58
98.27
158.73
121.20
124.69
110.98
72.53
ⅡAカマc1(1)
ⅡAカマc1(2)
ⅡAカマc1(3)
ⅡAカマc1(4)
ⅡAカマc1(5)
ⅡAカマc1(6)
ⅡAカマc1(7)
ⅡAカマc1(8)
ⅡAカマc1(9)
大きさ
横
35.58
42.53
46.32
46.00
54.61
56.14
59.16
54.28
42.11
厚
3.99
5.24
5.23
6.51
6.72
5.64
4.10
4.71
5.34
重量
54.66
144.10
167.24
167.68
371.72
164.66
167.54
154.78
94.22
口絵カラー
口絵6-1
なし
口絵6-2
口絵6-3
口絵6-4
口絵7-5
口絵7-7
口絵7-6
口絵7-8
* 表 の 単 位 は 、 大 き さ mm 、 重 量 g
【甲州金(古甲金)資料概要】
(『 図 録 日 本 の 貨 幣 1』 311 頁
No
名称
数量
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
露一両金
〃
駒露金
二分一朱金
角二分金
角一分金
吉一分金
二朱中糸目金
角二朱金
一分朱中糸目金
甲一分金
二朱中小糸目金
松木二分金
松木一分二朱金
松木一分一朱金
松木一分金
野中一分金
志村一分金
山下一分金
松木三朱金
松木二朱金
松木一分金
松木二朱金
松木一朱金
松木朱中金
松木角朱中金
松木糸目金
5
6
1
1
2
1
1
3
2
2
2
1
2
1
1
9
2
1
3
1
2
51
20
20
6
2
1
大きさ
重量
1.8~1.9 14.7~15.3
1.6 15.0~15.2
1.8
15.5
2.4
8.8
3.0×2.7
7.7~7.9
1.2×2.0
4.0
1.6
4.1
1.4~1.7
2.5~2.8
1.8×0.9
1.9
2.2×2.8
4.4~4.9
1.5
4.0
1.7
2.5
1.8~1.9
7.0~7.5
1.6
5.0
1.8
4.8
1.4~1.7
3.7~4.0
1.6
3.6~3.7
2.6
3.6
1.4~1.6
3.8~4.1
2.3
1.8
1.2~1.3
1.9
1.5~1.7
3.7~3.8
1.2~1.3
1.9
1.1~1.2
0.9~1.0
1.1
0.4~0.5
0.8×0.6
0.4
0.8×0.5
0.2
表「日本銀行所蔵の古甲金」より作成)
品位
形状
81~83
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
碁石形
〃
〃
〃
長方形
〃
円形
〃
長方形
円形
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
長方形
〃
表の極印
金、吉、壱両
桐、松木、壱両
馬の絵
金、吉、弐分壱朱
吉、弐分
金、吉、壱分
吉、壱分
吉、弐朱中糸目
ア、ホ、金弐朱
甲、壱分朱中糸目(裏に「国」の字)
甲、壱分
弐朱中小糸目
松木、弐分
壱分弐朱
桐、松木、壱分壱朱(裏に桐文)
桐、松木、壱分
野中、壱分
志村、壱分
山下、壱分
松木、三朱
松木、弐朱
桐、松木、壱分
桐、松木、弐朱
桐、松木、壱朱
桐、松木、朱中
桐、松木、朱中
桐、松木、糸目
* 表 の 単 位 は 、 大 き さ cm 、 重 量 g 、 品 位 %
38
【 石 州 銀 図 版 】( 原 寸 の 7 0 % )
2
1
5
3
4
7
6
9
8
39
【 16 世 紀 に つ く ら れ た 金 貨 ・ 銀 貨 】
16 世 紀 、石 見 銀 山 を は じ め と す る 国 内 各 地 の 鉱 山 で は 、戦 国 大 名 が 先 を 争 っ て 金 銀 を 採
掘 し ま し た 。 石 州 銀 、 甲 州 金 以 外 の 16 世 紀 に つ く ら れ た 金 銀 貨 を ご 紹 介 し ま す 。
●さまざまな金貨
蛭藻金
ヒルムシロとよばれる植物
に形が似ていることから、
蛭藻金と呼ばれています。
天正大判(天正菱大判)
譲葉金
蛭藻金より大きく、表面
全体にタガネ目が施され
ています。
豊臣秀吉が彫金師の後藤
家につくらせた最初の大
判です
山内一豊の妻が貯めていた金貨で馬を買い、一豊が出世するという
エピソードがありますが、ここに登場する金貨は、こうした楕円の
形状のものであったと考えられます。
天正越座金
円歩金
(表)
(裏)
越後上杉氏の領国貨幣といわ
表 の 中 央 に 「 桐 」、 裏 の 中 央
れ 、「 扇 に 菊 桐 」「 天 正 」「 越 座 」
の極印が打たれています。
に「 花 押 」の 極 印 が 打 た れ て
います。
●さまざまな銀貨
永楽通宝
( 左 : 金 銭 )( 右 : 銀 銭 )
天正通宝
筑前博多御公用銀
山口天又銀
「 文 禄 二 中 山 与 左 衛 門 」の 文 字
文字の無い長方形の極印を全
のある長方形の極印が左右に、
面に打ち、上下左右 5 ヶ所に
「 博 多 御 公 用 」の 極 印 が 中 央 3
「 山 口 天 又( 花 押 )」の 極 印 が
打たれています。
( 左 : 金 銭 )( 右 : 銀 銭 )
ヶ所に打たれています。
40