桐生新町町立て祭・422年 ~ 桐生春まつり ~ 桐生新町町立て祭は、まちに賑わいを取り戻すため、毎年春に桐生のイベントの一つとして開催して行こうとするものです。桐 生発祥の地、地域の宝として、桐生新町に誇りを持ち、先人が築いた歴史文化を大切に守り、育むため、再認識してもらう場とし て実施します。 桐生新町は、 「徳 川 家 康」の命により天正 19 年(1591)より慶長 11 年(1606)につくられました。代官「大 久 保 長 安」の手代 大 野八右衛門が派遣され、基点に天満宮を遷座し、止めには浄運寺を配した、神様と仏様に守られた町です。その後、安永8年(1779) には、庄内松山藩「酒 井 忠 休」の所領地となりました。陣屋が設けられるなど、歴史的な繋がりがあり、現在も旧松山町(山形 県)の人たちとの交流が続いています。そして又新たに八王子や府中の皆さんとの交流も始まりました。 桐生新町の歴史展 桐生祇園祭の『神輿と屋台襖絵』展 について 【日 時】 平成25年3月22日(金)から4月3日(水)まで 10:00~16:00(月曜日休み) 【場 所】 桐生市有鄰館 煉瓦蔵 【概 要】 桐生祇園祭の本町一丁目から六丁目までの屋台襖絵及び横山町の金屏風の展示。 桐生祇園祭のお神輿(先代)の展示ほか。 (特別展示)大野八右衛門が大国魂神社に奉納した太刀の原寸大パネル 桐生祇園祭の由来 祇園祭りは元来、祇園会(ぎおんえ)とか天王祭礼(てんのうさいれい)と云い、牛頭天王(ごずてんのう)を祀った。 貞観 18 年(876 年)に京都を起源とした神仏習合の信仰であった。祇園精舎の守護神で、疫除として祇園社に祀ったこと から、全国津々浦々に広まったのである。 桐生の場合、天正 19 年(1591 年)から町並みを整い始めたが、明暦2年(1656 年)の祭礼記録が最も古く、これを桐 生祇園の起源とする。当初は子供の手踊りが中心で素朴なものであった。現在の本町三丁目市営アパートの地に衆生院とい う寺があった。この地に午頭天王社を祀ったのである。 商業都市として活気をもち、市がたち市神(いちがみ)を建てた。この市神と天王社が一緒に祭りをするようになってか ら一層華やかになり、賑わうようになった。江戸末期には、屋台の曳き違いなどが行われ、4,5台出ることも珍しくなか った。江戸芝居など各町が競い、見物人も夜通し徹夜で楽しんだという。関東の三大夜祭りと云われた所以である。 華美な祭りは時には禁止されもしたが、安政の頃より本町惣六町の屋台が本格的に建造され始めたのである。 明治維新が実現し、神仏分離の布告が出されると、仏教の守護神である牛頭天王の神号は廃止され、祭神は素戔鳴命(す さのおのみこと)とした。 京都の感神院祇園社が八坂神社と改めたのを機に全国へ広がり、桐生でも明治3年に衆生院が廃寺となり、八坂神社と改 名今日に至っている。明治 41 年、末社と共に美和神社へ合祠され、神輿蔵を建造したのである。 織物業を中心として栄えた自由都市桐生は、京文化と江戸文化を貪欲に採り入れ、独特の町人文化を形成した。 経済力と文化的資質が、多くの文人達を呼び寄せ、そして輩出してきた。そのような土壌や気風が、祇園祭の鉾や屋台、 祇園囃子や神輿、大幟にみられるように彫刻、絵画、書など、素晴らしい祭礼芸術を創造することになった。 先人達の残したこれらの文化遺産は、町衆の心意気と街への愛着が生み出したものであり、決して忘れてはならないもの である。 【桐生市ホームページ】 (桐生市観光交流課)より
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