認定NPO法人 江戸城天守を再建する会 江戸文化サロン 第4回 江戸文化サロン「山岡荘八で味わう『徳川三代の人生』」(2月4日) ご報告 「江戸文化サロン」が2月4日夜、東京・麹町区民館にて開催されました。26年度計 画最終の4回目となるこの日は「山岡荘八で味わう『徳川三代の人生』」のタイトルで行 われました。 当会顧問 西川壽麿氏(総合文化研究所代表)を主宰役に、ファシリテーター(黒田裕 治氏)の誘導で自己紹介や、山岡荘八氏の略歴・作品紹介、参加者による朗読などが行わ れました。参加者からは、「配布テキストが工夫されていて立体的な構成で分かりやすか った」「朗読により本当に家康が目の前に出てきたようで驚きました」などの感想が寄せ られました。 ↑「家康の三大危機」解説(西川壽麿講師) ↑当日の会場風景 ●この日の内容構成 〈開始前〉前回の解説漏れフォロー→〈開始〉木川理事挨拶→出席者自己紹介→今日のね らい・配布テキストの説明→「清洲越し」解説→山岡荘八氏の略歴紹介→山岡作品『徳川 家康』解説→家康の三大危機→伊賀越え→参加者朗読→〈休憩10分〉→その後の小川孫 三→その後の角屋一族→「幕府」の説明→直轄領→普代と外様→家康の子供の数→家康の 養女→質疑応答→参加者の感想 ※紙面の関係上その全てを掲載することはできませんが、西川氏スタッフにまとめていた だいた前半部分を掲載いたします。どうぞお楽しみください。 なお、参加者の自己紹介、講師とのやりとりなどの部分は省略してあります。 また、文中の〈〉は、その場面の状況を描写しております。 1 / 10 講師:西川壽麿(総合文化研究所代表) 認定NPO法人 江戸城天守を再建する会 江戸文化サロン 第4回 江戸文化サロン「山岡荘八で味わう『徳川三代の人生』」記録 講師(サロン主宰役):西川壽麿氏 ⃝プロフィール⃝ シンクタンカー(文化,文化設計,文化戦略,地域づくり) 総合文化研究所代表,日本文化フォーラム代表,神保町シンクタンク座長 (開始前) ❏前回の解説漏れフォロー❏ さて、迎賓のお時間に前回サロンの「天海と寛永寺」に関連して、天海和尚が秀忠・家 光の将軍職に贈った和歌についてご紹介いたします。 ●天海が秀忠に贈った和歌● 〈天海が秀忠に贈った和歌が映し出される〉 これは日光東照宮蔵の『慈眼大師御遺訓』からのものですが、2代将軍秀忠に長寿の秘 訣として贈られたものです。 「長命は 粗食 正直 日湯 陀羅尼 時折 ご下風あそばさるべし」 内容はきんさん、ぎんさんのコメントにも通ずるようなお話ですけれども、そのまま読 んでいきますと、長生きするには、粗食で、正直な言動を心がけ、毎日入浴し、お経をよ み、時折おならをしてくださいという意味です。おそらく天海和尚自身の心がけをそのま ま歌ったものかと推察します。 ●天海が家光に贈った和歌● 〈天海が家光に贈った和歌が映し出される〉 そしてこちらは「気は長く 勤めは固く 色薄く 食細くして 心広かれ」というものです。 家光は短気で女色を好み大食美食漢であったことから贈られたものです。 家康・秀忠・家光と3代にわたって親しくしていた天海和尚は、いまで言えばカウンセ ラー役でもあり、それにユーモアで応えるこうした人柄が敬愛を生んでいたことが窺われ ます。 ●天海の年齢について● 前回もお話ししましたように、天海が亡くなったのは108歳ということになっておりま す。これは東京帝国大学教授で史料編纂所の初代所長でもあった辻善之助先生がご著書 『日本仏教史』の中で採られている次の資料に基づいています。 天海は寛永9年(1632)4月17日に、日光東照宮薬師堂での法華経万部供養で導師を行 っています。それを記録した小槻孝亮(おづき・たかすけ)という平安期から代々公式記 録や文書作成を務めとする人物の『孝亮宿祢(たかすけすくね)日次記』に、天海はこの とき数えで97歳であったと書かれている、これが一番信頼できるとして採用されていま す。 ●天海が最初に家康に出会った年齢は?● さて、天海が最初に家康に会ったのは二説ありまして、天正18年10月1日説と、慶長14 年説とあります。天正18年説は徳川家康の側近で2代将軍徳川秀忠の養育係だった内藤清 成が1590年(天正18)5月18日より12月までのごく短い期間を書いた『天正日記』とい 2 / 10 講師:西川壽麿(総合文化研究所代表) 認定NPO法人 江戸城天守を再建する会 江戸文化サロン うものがございまして、それに基づくものです。しかし、これは詳しく述べませんがいろ いろな理由で偽書説濃厚とされています。それで史実としては1609年(慶長14)説が採 用されております。すると、そのとき天海は74歳だったことになります。 ❏木川理事 開会の挨拶❏ 〈木川静雄理事 挨拶〉 木川理事:それではどうも大変お待たせいたしました。昨年から続けてまいりました江 戸文化サロンですが今日は第4回目となります。そして西川先生のこのシリーズの最終回 となります。第1回は「江戸文化を育んだ寛永時代」というタイトルでの基調講演で始ま りまして、8月に行われました第2回は「九品の追求―数寄屋造と御成門―」、12月第3 回は「天海と寛永寺」、そして4回目となります本日は「山岡荘八で味わう『徳川三代の 人生』」というテーマでお送りいたします。 今さら申すまでもなく、講師は総合文化研究所代表の西川壽麿先生です。それからファ シリテーターとして安曇野シンクタンクの黒田裕治さんにお願いしております。それで は、先生よろしくお願いいたします。 ❏出席者の自己紹介❏ 西川講師:では早速皆さんの自己紹介から行きましょう。ファシリテーターの黒田裕治さ んお願いします。 黒田裕治ファシリテーター:皆さんこんばんは!きょう2月4日は「立春」ということ で、なにかひと言いただきたいと思います。それからご自分が今日のこのメンバーの中で 何と呼ばれたいかのニックネームをお願いします。〈出席者自己紹介が行われました〉 ❏今日のねらい❏ 西川講師:さて、きょうは次のような事前課題を案内文に掲載しておりました。 それは、「山岡荘八著『徳川家康』(講談社,山岡荘八歴史文庫,全26巻)『徳川家光』 (講談社,山岡荘八歴史文庫,全4巻)を、書店・古書店・図書館などをご利用いただき、 どれか一巻でもよいのでお読みいただき、その中で特に気に入ったシーンやセリフを三箇 所選んで、当日口頭で発表していただきます」というものでしたが、これをご準備頂いて いるかたは手を挙げていただけますか?〈どなたも手を挙げられませんでした〉 もし居られれば、その方を中心にこの後の予定を組みたいと思いますが…。 そうですか、今日のねらいは、あと二つがございまして、一つはこの本の全巻読破をモ チベート、動機付けをすることにあります。いま山中湖や河口湖に中国人観光客の方が大 勢来て居られますが、もしそうしたホテルや旅館の読書室にこの山岡荘八『徳川家康』が 全巻置いてあれば、湖畔で富士を眺めながら読書というような長逗留・長期リゾートの方 も出てまいりましょう。そのぐらいこのコンテンツというのは利用せねばもったいないで すし、放っておいてもいずれ何年後かには活用することになるでしょう。それならばいち 早く皆さんにも全巻読破の動機付けの機会を提供したいということで、それが目的の一つ であります。この講座の帰り際には、「絶対に読むぞ」とすぐにでも24時間営業の書店を 3 / 10 講師:西川壽麿(総合文化研究所代表) 認定NPO法人 江戸城天守を再建する会 江戸文化サロン 捜すような心持ちとなっていただければ幸いです。 いま一つは、本来歴史学に文学を持ち込むことはタブーであることは重々承知しており ますが、「徳川三代にまつわる登場人物の名前を覚えるだけでも大変だ」という声をいた だきますので、そこで今日はこの書籍を素材に、特に家康周辺の関連人物について名前だ けでも触れていただければと願う次第。またこれを補うために、山岡荘八原作にて制作さ れた1983年NHK大河ドラマ『徳川家康』の各回構成や登場人物表を用います。 ❏今日の配布テキストについて❏ では今日配布いたしましたテキストのご説明をいたします。バインダークリップを外し ていただきますと、ホッチキスで綴じましたAからEの5つの冊子に分かれます。 先ずAは、徳川家康の人生を年表にいたしまして、右側のところに山岡荘八の『徳川家 康』の第何巻に当たるか、さらに右側にNHK大河の『徳川家康』では第何回に当たるか を入れてあります。 Bは、山岡荘八『徳川家康』全26巻の表題と各巻のリード文をまとめたものです。 Cは、NHK大河ドラマ『徳川家康』全50回の内容を、これもNHKのあらすじ説明文を まとめたものです。 Dは、その登場人物配役をまとめたものです。 Eは、山岡荘八『徳川家康』全26巻の中から、もっとも重要なシーンを最少引用でご紹 介するとすれば、やはりこのシーンは第一候補となると思いましてそこを束ねてみまし た。というのも、山岡荘八自身が文中で「しかし家康が、その人生で最も多くを学んだの は…」と書いていますので。家康の三大危機の一つ「伊賀越え」のシーンにあたります 『民の声』という部分です。 なお、このテキストはコーネル大式に若干本文を右に寄せ、左側に3センチの余白をと ってあります。本文からの人名やキーワードなどをご自分で余白に書き込んでいただくと 記憶にも定着し、あとからも読みやすいと思います。ご活用ください。 ❏家康チームへの質問❏ さて、前回のサロン関連で皆さんにどうしても知っておいていただきたいことがござい ますので取り上げます。 前回「ディオール少年への宿題」「家康チームへの宿題」と対(つい)にして、その偉 大な取り組みについてお話ししました。詳しくは、HPに前回サロン講義録前半がありま すのでダウンロードしてお読みください。 ダイジェストいたしますと、ディオール少年15歳のとき、母のマドレーヌ・ディオール から、宿題を出されます。すでに母が薬草園としているそこにバラ園と蔓棚などを造る建 設監督をしてほしいと…。そこはフランス西部海岸のグランヴィルという地で、風も強く 切り立った崖地でした。かなりの工夫が必要でした。悪条件の崖地に盛り土をし、採水に も工夫しました。植物の植生にも気を遣いました。セイヨウサンザシ、キダチルリソウ、 フジ、モクセイソウ、そしてバラ…。 彼の最初のデザイン作品、それはこの庭園でした。 そして1947年2月、「ニュー・ルック」を発表し鮮烈なデビューを果たします。また同 年にフレグランス「ミス・ディオール」を発表。庭園の花々の中で培った調香師としての 4 / 10 講師:西川壽麿(総合文化研究所代表) 認定NPO法人 江戸城天守を再建する会 江戸文化サロン 才覚を発揮します。強い海風にも負けない香がディオール香水の特色でした。 以後、そのアーキテクトな感覚の本領がその後も発揮され、Hライン、Aライン、Yライ ンなど話題作を発表して行きます。 一方、「家康チーム」の方ですが、それは西暦で云えば1590年、小田原城攻めの後で した。無事、小田原城が落ち、秀吉は家康にそれまでの三河・駿河などの5カ国を召し上 げ、相模・武蔵など関八州への国替えを命じました。 家康は、鎌倉・小田原といった古くからの都市のさらに東にある低湿地帯、「江戸」を 中心とする遠大な都市計画に取り組みました。 ●「そのノウハウは他に活かされたのか?」● 家康チームが、家光まで50年費やして大事業を成し遂げたことは前回ご承知頂けたと思 います。そこで、外国人の方から当然のように出てまいりますのが、「それだけのノウハ ウを他に応用することはなかったのか?」というご質問です。これは皆さん、いかがです か?何か思い浮かぶ事業がありますか? ❏「清洲越し」❏ はい、その代表例がこれです。〈「清洲越し」についてのフリップが投影される〉 「清洲越し(きよすごし)」」です。 これは「し」の字の送り仮名入れて表記しませんと、「ごえ」と読まれてしまうと困り ますから。「引っ越し」という意味の「越し」です。現在の名古屋はこの時できたんで す。 ●秀忠の実弟(松平忠吉)にて「尾張藩」が誕生● 経過をお話しします。先ず「尾張藩」は家康が、はじめ四男である松平忠吉(ただよ し)に西国に対する役割として清洲城主として誕生させました。つまり尾張藩の核は清洲 でした。 この忠吉は、今日ご紹介するNHK大河ドラマ『徳川家康』の中では、竹下景子さん演 ずる「お愛,西郷局」が産んだ秀忠の実の弟になります。家康としては江戸に秀忠、名古屋 に忠吉の実兄弟布陣です。 ●幼少 徳川義利(のちの義直)と附家老 平岩親吉● しかし、その忠吉も1607年(慶長12)には亡くなってしまいます。そのため、家康は 甲斐甲府城主だった九男の義利(のちの義直)を清洲に封じました。 ただ、のちの名君・徳川義直となるこの義利も関ヶ原の年の1600年生まれですから当 時未だ幼少のため駿府の家康のもとに居りました。国政は家康が竹千代時代に人質として 駿府の今川義元のもとにあった時から側にいた重臣中の重臣、平岩親吉(ちかよし)が担 当しました。 ●家康が下した「清洲越し」の決断● その2年後1609年(慶長14)家康の命により、清洲から名古屋への移転が決せられま す。これを「清洲越し」と申します。この大規模なお引っ越しこそ、家康チームの真骨頂 と言えましょう。 清洲の地は城地狭く、水害に弱く、また1586年(天正13)の天正地震での液状化目立 つことから大阪豊臣氏に対抗するには不十分と判じたと考えられます。天正地震は本州の 5 / 10 講師:西川壽麿(総合文化研究所代表) 認定NPO法人 江戸城天守を再建する会 江戸文化サロン くびれ部分、若狭湾から三河湾の部分に起きた大規模地震です。その記録は家康の家臣で あった松平家忠(いえただ)が書きとめていた『家忠日記』にありますから、活用された 可能性があります。なおこの『家忠日記』は、安土桃山時代に関する基礎史料の一つで す。ご記憶ください。 ●「名古屋」の重要性● 家康にとっては「江戸」建設と同等、あるいはそれ以上に重要な施策と考えていたと思 われるこの新都市「名古屋」の建設を、改めて実感してください。結果的にも「百年の 計」という以上の重みをもたらしました。 木曾・長良・揖斐(いび)の三川流域であり、東海道とその脇往還である佐屋(さや) 街道、美濃路と中山道が収斂する要衝地でもあります。市を開けば、産物も濃尾平野・信 濃・三河・伊勢方面から、青物も魚介も入ります。 ●天守作事奉行は小堀遠州、天守台石垣は加藤清正● 1609年(慶長14年)に検地・縄張が始まり、翌1610年(慶長15年)には西国諸大名の助 役により千石につき一人の割で人足を出して、天下普請が行われました。その石取りは瀬 戸内・四国・九州に及びました。 計画的な地割のもとに、名古屋城の築城を為しつつ、侍屋敷・町家・寺社など総移転の ための都市づくりでした。建築資材運搬のために堀川を開削しています。また、「碁盤 割」と呼ばれる町割も行われています。 天守は1612年にできあがりました。作事奉行は小堀遠州、大工棟梁は中井正清(まさ きよ)、大工頭は岡部又右衛門(またえもん)、天守台石垣は加藤清正です。清須城小天 守も移されました。 ●「清洲越し町人」● この天守が完成した1612年(慶長17年)から清須からの引っ越し・移住が行われたと 見られます。社寺3社110か寺、家臣、町人も移りました。まさに全島避難ならぬ内陸都 市移転です。 1614年(慶長19年)、すなわち「大坂冬の陣」直前には、ほぼ城下町の形を整えまし た。この間、清洲から移ってきた町人は「清洲越し町人」と呼ばれ、百一家ありました。 ●「駿河越し」● そして、家康は1616年(元和二年)に亡くなります。先ほどの徳川義利(のちの義直) は名古屋城に移住し、その時、駿府から名古屋に移住した住民を「駿河越し」と申しま す。「清洲越し」のときに名古屋に来た家か、「駿河越し」のときに来た家か…などとい うことが今日でも言われたりします。 なお、義利が「義直」と改名するのは1621年のことです。 ●改めて知る「家康チーム」が見据えていた未来● いかがでしたでしょうか? 江戸・東京だけを見ていると、家康という人の大きさが見 えません。この前例があったればこそ、後の全島避難という計画にもリアリティがあった と言えるのではないでしょうか? 内陸部の都市から新都市への移転を既に行っていたの です。 このように、前回ご紹介したディオール少年が目指したところと通底するものはあるや に思います。都市のまるごと引っ越しという大計画を実行する「家康チーム」のノリと申 6 / 10 講師:西川壽麿(総合文化研究所代表) 認定NPO法人 江戸城天守を再建する会 江戸文化サロン しますか、国家デッサンへの視点と行動力は十分に語り継がれる価値があると思います が、皆さんいかがでしょうか? ●「金の鯱」は?● 〈参加者から質問が出る〉 参加者:「金の鯱」はそのときから有ったんですか? 西川講師:はい、創建当初からございました。寄木の粗彫(あらぼり)に、鉛板を竹釘で 張りまして、その上に鱗(うろこ)型の雨除けに銅板を銅釘で止めまして、さらにいよい よその銅板に薄い金の延板をかぶせ張りにして作りました。雌雄一対で1940枚分の慶長 大判、計320キログラムもの金を延ばしたとのことです。なおこの「鯱(しゃちほこ)」 という文字は我国で生まれた漢字です。中国にはありませんのでご注意ください。文字通 り「虎の頭部に魚のボディ」です。 ❏山岡荘八氏の略歴❏ 〈山岡荘八氏略歴が投影される〉 山岡荘八さんは、1907年(明治40)生まれ。本名は「山内庄蔵(しょうぞう)」とお っしゃいまして、ご結婚後に藤野(ふじの)姓となられました。新潟県の小出町佐梨(こ いでまち・さなし)、現在の魚沼市佐梨のご出身。東京からですと関越自動車もしくは国 道17号沿い、上越線ですと小出駅下車の地です。ペンネームの由来は、本名の「庄蔵」の 『庄』とお父さまが「太郎七」というお名前だったので、そこから発想して『荘八』とさ れたようです。 地元「佐梨尋常小学校」から「小出小学校高等科」に進まれて2年のとき中退して上 京。お父さまご病気のとき一旦帰郷され小出郵便局にお務めでしたが、再度上京されて印 刷製本業「三誠社」を創立されましたが倒産。昭和8年に『大衆倶楽部』を創刊されて編 集長をされましたが二年で挫折され、そこで文筆で立つ決意をかため、昭和9年頃から小 説を書き始め、大衆文学の大御所 長谷川伸(はせがわしん)さんに師事されました。 ●師 長谷川伸● ちなみに長谷川伸さんもお父さまの会社が倒産されて小学校中退となり文字も独学で覚 えたというこれまた立志伝中のかたですが、横浜出身の戯曲家・小説家で当時『沓掛時次 郎』『瞼の母』『一本刀土俵入』『一本刀土俵入』といった戯曲や、『荒木又右衛門』に 始まるいわゆる史伝物で著名なかたでした。『瞼の母』は、4歳のとき実母と別れた実体 験からの思慕の情を描いたものです。 ●戦後の執筆原点● そして、山岡さんは昭和13年「藤野荘三」の筆名で『約束』を書き、第23回「サンデ ー毎日大衆文芸」に撰ばれました。 昭和20年8月に終戦を迎えるわけですが、その直前に鹿児島県鹿屋(かのや)飛行場に 派遣されて特攻隊を見送った体験が非常に重いものとなります。その隊員の手帳を師の長 谷川伸さんにお見せになったとのことで「こののちはその中にある精神を活かすことが使 命だ」と薫陶を受けたとのこと。そしてそれが戦後の作品に貫かれていくことになりま す。 ●『徳川家康』の執筆● 7 / 10 講師:西川壽麿(総合文化研究所代表) 認定NPO法人 江戸城天守を再建する会 江戸文化サロン まず、山岡荘八著『徳川家康』は、昭和25年(1950)3月26日から昭和42年(1967) 4月まで足かけ18年にわたって「北海道新聞」に連載されました。 弱小国三河は、駿河今川・尾張織田・甲斐武田に挟まれた地です。その中でいかに耐 え、切り抜け、平和を建設して行くかがテーマとなっています。 徳川家康執筆の期間も、『小説明治天皇』(1963∼68)、『太平洋戦争』(1962∼ 71)など、平行して作品が書かれています。『新太平記』『異本太閤記』『春の坂道』な どもいずれもその奥にあるモチーフは共通しているかに思えます。 1978年(昭和53)9月30日71歳でご他界されました。 ❏山岡荘八著『徳川家康』について❏ 山岡荘八著『徳川家康』は、1967年に第二回長谷川伸賞、1968年に第二回吉川英治文 学賞を受賞しております。現在は、講談社から山岡荘八歴史文庫,全26巻として発刊されて おります。 台湾で繁体字版が1980年代に出版されましたほか、2007年11月中国でビジネス本とし て販売されまして全13巻計200万部を売るベストセラーとなりました。 山岡荘八著『徳川家光』は、1974年1月から1975年12月まで「小説サンデー毎日」連 載されたものです。これも講談社より山岡荘八歴史文庫,全4巻として出ています。 なお、今日取り上げますNHK大河のほかに、この本を原作に時代劇の父と呼ばれる 伊 藤大輔(いとう・だいすけ)監督・脚本で東映にて映画化されています。1964年東京五輪 の年に撮影され、翌年正月映画として総天然色で封切られました。主役「松平三郎元信」 (のちの家康)を北大路欣也、「織田信長」を中村錦之助(のちの萬屋錦之介)、「今川 義元」を西村晃、「於大」を有馬稲子…といったキャスティングで、出生前から桶狭間の 戦いまでが描かれました。しかし、本当は五部作で撮影する予定でしたが、この第一部で 打ち切られてしまいました。 ●26巻の内容● さて、その内容ですが、テキストにリード文をご紹介してあります。 第1巻は、『出生乱離の巻』で「於大、広忠の婚姻 家康の出生」が描かれます。 第2巻 『獅子の座の巻』で「今川家へ人質へ行く途中、織田家に拉致される 父、広忠 の死 人質交換で今川家に」と、幼き頃の信長との出逢いが描かれます。 第3巻は『朝露の巻』でいよいよ「織田家の台頭 桶狭間の戦い」です。 第4巻『葦かびの巻』となり「岡崎への帰還 織田信長との同盟 一向一揆」となり家康 の三代危機の一つと云われる一向宗との関わりが…。 そして第5巻『うず潮の巻』ではこれまた三大危機として刻まれるあの「しかみ像」で 有名な「三方ヶ原の大敗 信玄の死」が書かれています。 第6巻『燃える土の巻』では「武田勝頼との戦い 家臣の裏切り」とここではNHK大河 では池上季実子さんが好演された築山殿や大賀弥四郎の陰謀が…。 以下、タイトルだけご紹介しておきます。 第7巻 颶風(ぐふう)の巻では「信康の切腹 長篠の戦い」、第8巻 心火(しんか)の巻 「武田家の滅亡 本能寺の変」、第9巻 碧雲の巻「羽柴秀吉と織田家の内紛」、第10巻 無 相門(むそうもん)の巻「秀吉との確執 外交戦略」、第11巻 竜虎の巻「秀吉の台頭 和 8 / 10 講師:西川壽麿(総合文化研究所代表) 認定NPO法人 江戸城天守を再建する会 江戸文化サロン 解」、第12巻 華厳の巻「秀吉との同盟」、第13巻 侘茶の巻「北条氏の滅亡 関東移 封」、第14巻 明星瞬くの巻 (利休の死 朝鮮出兵)、第15巻 難波の夢の巻 (秀吉の死 家康の台頭)、第16巻 日蝕月蝕の巻 (石田三成との確執)、第17巻 軍荼利(くんだ り)の巻 (関東出兵 三成の陰謀)、第18巻 関ケ原の巻 (関ヶ原の戦い)、第19巻 泰平 胎動の巻 (戦後処理 豊臣家との関係構築)、第20巻 江戸・大坂の巻 (家光の誕生 内 紛)、第21巻 春雷遠雷の巻 (国内統治 海外貿易)、第22巻 百雷落つるの巻 (大坂の軍 備増強)、第23巻 蕭風城(しょうふうじょう)の巻 (平和交渉決裂 一触即発)、第24 巻 戦争と平和の巻 (真田幸村入城 大坂冬の陣)、第25巻 孤城落月の巻 (大坂夏の陣 豊臣家の滅亡)、第26巻 立命往生の巻 (伊達政宗の反乱 家康の死)となります。 ●石川数正の描き方に特色● 後ほどご紹介する「伊賀越え」の折も同行している、石川伯耆守数正(いしかわ・ほう きのかみ・かずまさ)について触れておきましょう。 日本人の文学的教養を描く際に、例えば小津映画では『彼岸花』の宴会で笠智衆が「楠 木正行(まさつら)、如意輪堂の壁板に辞世を書するの図に題す」を吟じ始めます。「乃 父之訓(だいふのおしえ)は骨に銘じ、先皇の詔は耳猶熱す…」と。楠木正成・正行父子 は、忠孝の臣とされました。 山岡著の『徳川家康』では、石川数正こそ忠孝の臣と描かれます。孫子の兵法「明主・ 賢将のみ、能く上智を以て間者と為し、必ず大功を成す」です。外交不得手な三河武士の 中で、石川数正は人材でした。家康や本多重次との阿吽(あうん)の中で数正自ら慟哭の 選択をいたします。あえて秀吉の家臣となるのです。それが描かれるのは「第11巻 竜虎 の巻 (秀吉の台頭 和解)」に於いてです。 家康の「平和への希求」「極楽浄土の建設」という真の腹を知る人物でなければならな かったのです。その家康の「腹」が出来上がるシーンが今日の『民の声』のところです。 ●本多重次という人物● NHK大河ドラマの中で長門裕之さんが好演されたのが本多重次(ほんだ・しげつ ぐ)、通称「作左衛門(さくざえもん)」です。皆さんが仮にこの人物をご存じなくと も、知られている有名なフレーズあります。「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥や せ」です。原文は「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」となっています が、「お仙」は後に丸岡城主となる本多成重の幼名「仙千代」のことです。 既に江戸時代から、この人の武勇伝は語り継がれています。新井白石が元禄期に徳川綱 豊の命で編集著述した諸大名337の家伝集『藩翰譜(はんかんふ)』にも書かれ、白石自 身が本多重次を褒めております。 ●作品に登場する架空人物● 山岡作品には、何人か架空の人物が登場します。それは重々承知の上お読みください。 先ず、熊野若宮だという「竹之内波太郎」、後に堺の商人となる「納屋蕉庵」、これは ドラマでは石坂浩二さんが演じて居られます。 そして、その養女「木の実」、その養孫「おみつ」(のちの栄の局)。 本阿弥光悦が石田三成の許へ間者として送る博多の遊女「お袖」、本阿弥光悦の妹「於 こう」は架空人物です。 それから、天海が「随風」という名で早くから登場しますが、これも小説ならではの架 9 / 10 講師:西川壽麿(総合文化研究所代表) 認定NPO法人 江戸城天守を再建する会 江戸文化サロン 空の動きをいたします。 ❏NHK大河ドラマでの配役❏ さて、家康には次の十一男までおりましたが、その名前と生母を覚えていただかなくて はなりません。 長男・松平信康(母:築山殿)、次男・結城秀康(母:小督局)、三男・徳川秀忠 (母:西郷局)、四男・松平忠吉(母:西郷局)、五男・武田信吉(母:お津摩)、六 男・松平忠輝(母:茶阿局)、七男・松平松千代(母:茶阿局)、八男・平岩仙千代 (母:お亀)、九男・徳川義直(母:お亀)、十男・徳川頼宣(母:お万)、十一男・徳 川頼房(母:お万)…となります。 ドラマの配役で馴染んでいただくのも一法かと思います。例えば、長男・信康を産んだ のは、築山殿ですが、ドラマでは池上季実子さんが好演されました。 結城秀康の生母「小督局(こごうのつぼね)」は東てる美さん、秀忠・忠吉の生母「西 郷局(さいごうのつぼね)」は竹下景子さん…など、詳しくはテキストをご参照ください。 なお、この時は「淀君」を夏目雅子さんが演じておられます。 ❏伊賀越えのシーン『民の声』❏ 家康の三大危機として、三河一向一揆、三方ヶ原の戦い、伊賀越えの3つが挙げられま す。きょうは「第8巻 心火(しんび)の巻」に描かれた伊賀越えのシーンから、『民の 声』の部分を味わっていただきたいと思います。 「しかし家康が、その人生で最も多くを学んだのは、実は、丸柱(まるばしら)から河 合(かわい)、柘植(つげ)、鹿伏莵(かぶと)とぬけ、鈴鹿川の川原(かわら)に沿って 伊勢の海の白子浜(しろこはま)へ抜けるまでの一昼夜の旅であった。」とありますよう に、この伊賀越え『民の声』シーンを非常に重要だと山岡氏も訴えています。山岡氏渾身 の筆の部分です。「あらゆる人々がこぞって願う『極楽浄土』の建設に生命がけで協力す るのがまことの武将のつとめであった。」までを、皆さんで読みたいと思います。ファシ リテーターの黒田さん、よろしくお願いいたします。 〈このあとファシリテーター黒田裕治さんの進行で「民の声」の部分を参加者で朗読し、休憩となりまし た〉 ※ 「江戸文化サロン」事務局より このあと休憩を挟んで後半へと続きましたが、このホームページでの掲載はここまで とさせていただきます。ここまでお読みいただきありがとうございました。 10 / 10 講師:西川壽麿(総合文化研究所代表)
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