削ろう会62号(入稿).indd

連載
大工道具に生きる その 44
錐の話
四国大工 香川 量平
の谷」という湿地帯から縄文人の生活用具が数多
く出土した。具体的には鹿骨製の釣り針、銛、縫
い針、真っ赤に塗った漆器、船の櫂、ポシェット
(小さなバッグ)、アンギン(編物)など。また、
「盛
り土遺跡」からは大量の土器、土偶、石器、ヒス
イ玉や琥珀、ペンダント、ネックレス、蔓製の腕輪、
手甲、脚絆、鹿皮の衣服、装飾をかねたアップリ
ケなど、すべてが五千年も昔のもので腐敗したも
のも数多くあったことだろう。昔、小学校で教え
られた縄文人とはまったく異った生活様式に驚い
た。また考古学者たちが更に驚いたのは石鏃(石
のヤジリ)や釣り針の接点を天然のアスファルト
を使って接着していることであった。そして 1994
年に長方形に並ぶ六個の柱穴が発見された。そし
て柱穴に残る根株はクリ材で直径が 1 mもあり、
その発見により、この遺跡は一躍有名となり、全
国に知れ渡った。また、柱の間隔が 4.2 mで、一尺
を 35 ㎝とすると十二尺となる。その当時、すでに
尺度なるものが存在していたのである。そのもの
さしを「縄文尺」と呼んでいる。現在、その近く
鉄の錐(倉敷考古館蔵)
にロシアから直径 1 mのクリ材 6 本を輸入し、地
上 15 mの大型掘立柱の建造物を復元している。
(会
我が国の古い昔、紀元前の頃、私たちの先祖が
誌「削ろう会 45 号」の建築よもやま話を参照)
北は北海道から南は沖縄までの各地で村を作り、 三内丸山遺跡で更に驚くのが出土したヒスイの
集団で暮していたという時代が存在していた。そ
大玉である。直径が 5.5 ㎝から 6.5 ㎝で中央部に糸
して、各地の遺跡から出土した土器の表面に縄を
を通す穴が見事に貫通している。考古学者の藤田
ころがした様な紋様があるところから、それらの
富士夫氏は新潟県の青海町の寺地遺跡や、長者ヶ
土器を「縄文土器」と名付け、その土地に暮して
原(糸魚川市)の遺跡からヒスイを加工した工房
いた人々を縄文人と呼び、その時代を縄文時代と
跡が発見され、工房跡には硬玉製の大玉の加工が
言った。私が小学校の歴史で習った縄文人は、足
認められ、拳大のヒスイの原石や加工に生じる剥
が短く、手は長く、髭が長く伸び、動物の毛皮を
石が出土し、穿孔用の特殊な「石錐」が発見され
まとい、裸足で弓矢を持って野山を駆け巡り、木
ている。三内丸山遺跡から出土したヒスイの大玉
の実や草の根を食べ、海辺では貝を取って生活し
は、このような専門の工房で製作されたものであ
ていたと習った。しかし、観音寺市出身の考古学
ろう。また、志村史夫氏の『古代日本の超技術』
者である小山修三氏の話によると、縄文人は高度
の著書には、ヒスイの大玉には現代にも通じる、
な縄文文化を持ち、栄養バランスのとれた食生活
あるいは現代の技術をも上回る超高度の穿孔(孔
をして暮し、アクセサリーで飾り立て、派手好み
あけ)の技術が見出される。硬玉の穿孔は容易な
であったのだろうと言う。縄文時代の中期、青森
ことではなく、他の遺跡から発掘されたヒスイ玉
県の三内丸山遺跡は江戸時代から知られていたが、 のどれを見ても実に見事に孔があけられている。
1992 年に県が野球場を作る計画を立て、整地と測
鉱物に孔をあける基本的な技術として、(1)叩い
量を行っていると次々と遺跡が発見され、野球場
て孔をあけるボーリング法、(2)抉り法、(3)錐
は中止となり、遺跡は永久保存となった。そして「北
を使った回転法(ドリル法)があるが、錐を使っ
12
た回転法がもっとも有力である。幸い、縄文人の
て火を起し、食事を作るのであるが、古代から一
穿孔法を推測する上で決定的な証拠が発掘されて
日として休むことなく、その儀式が今も行われて
いる。それは穿孔途中で放棄したと思われるヒス
いる。また、島根県の熊野神社でも元旦の早朝、
イ片である。その孔の底に小さな突起が残ってい
伊勢神宮と同様「火起しの儀」が行われ、その火
る。それは管錐(パイプ錐)を使って穿孔した確
種は出雲大社へと移されるのである。
かな証拠である。管錐に用いられたのは竹(簾竹) 1637 年に中国の明代に刊行された産業技術書
か鳥の骨である管骨と思われる。それらを弓錐か
である『天 工開物』という著書に錐の話が書かれ
舞錐の先端に取付けて回転させ、水を注ぎながら
ている。「錐は熟鉄を鍛練してつくり、鋼を混ぜ
珪砂(石英)や蛇紋石やヒスイの粉末を加えなが
ない。書物などを綴じるには〈円 鑽〉を用い、皮
ら押し進め穿孔して行く方法を「回転管錐穿孔法」 革に穴をあけるには〈扁 鑽〉を使う。木工が紐を
であると志村氏は述べている。その穿孔技術は後
廻して穴をあけ、釘を打って木を合せる場合には
の装身具である勾玉や管玉の穿孔に大変に役立っ 〈蛇頭鑽〉を用いる。その形は先から二分ばかり上
たことであろう。
のところが一面が切れ込んで、その縁に二つの刃
ができており、紐で廻しやすいようにしてある。
銅板に穴をあけるには〈鶏 心鑽〉を用いる。錐の
全体に三つの刃のあるものを〈旋 鑽〉といい、全
体が四角で尖端が鋭いものを〈打 鑽〉という。注
釈には鑽とは〈きり〉の意であり、〈蛇頭鑽〉とは
舞錐の一種である」と説明しているが、意味の不
明な錐がある。また『江戸萬物辞典』では錐のこ
とを「すい」と呼び、円錐と方錐とがあり、円錐
のことを突き通すといい、方錐のことを四方錐と
いう。錐のことを鑽(さん)とも呼び、物に穴を
あける錐をいう。鑽には「とうしきり」と「三つ
目きり」とがあると説明している。『和名類聚抄』
の工匠具の項には
を和名で「毛遅鑽」なりと説
明し、刻 鏤具の項では錐を和名で「岐 利」と読ま
せている。法隆寺の蔵本である『禺子見記』では
「
」を阿弥陀如来の化身であるとし、「モジキリ。
木材に円孔をあける錐。軸を長くして上端に T 字
型に挿して廻しながら押して用いる。軸が螺旋状
になったものを〈南蛮錐〉という。」と説明してい
る。また、
『和漢三才図会』では絵図に圓錐、方錐、
サッカラー墳墓(エジプト)の壁画の弓錐
三稜錐、三又錐、壷錐と書き、和名「岐利」と書き、
福井県の鳥浜貝塚は縄文時代の前期の遺跡であ
を和名で「毛遅鑽」と書き、「南蛮錐」と説明し
るが、その貝塚の中から舞錐らしき遺物が出土し
ている。また舞錐の絵図をのせて「未 比岐里」と
ている。その当時すでに舞錐が使用されていたの
している。
であろう。縄文人が弓錐や舞錐を考え出したのに
は火種を作り出すのに両手を使って、火 鑽の棒を
廻すのは大変な重労働であるため、それを解消し
ようと弓錐や舞錐を作り出す発想に繋がっている
と思う。これらの道具は東西を問わず、ヨーロッ
パや中国でも古い昔から使われていた。また、エ
ジプトのサッカラー墳墓の壁画に弓ドリル(弓錐)
を使っている絵図がある。我が国の伊勢神宮では
今も神様にお供えする食事を作るのに毎朝「火起
ボールト錐(撞木錐ともギムネとも呼ぶ)
しの儀」が行われいる。その儀式には舞錐を使っ
13
竹中大工道具館の錐の解説によると、手揉み錐
を引いて自ら刺す」という中国の故事がある。昔。
は、日本に従来からある錐の形で、柄を両手で挟
中国の蘇 秦(戦国時代の人)が勉学に励んでいた
み交互に摺り合せながら刃先を部材に押しつけて
若い頃の話である。襲い来る睡魔と闘うべく錐を
穴をあける。(1)三つ目錐、釘穴をあける時に使
側におき、睡魔が襲い来ると、その錐をとり、自
用する。(2)四方錐、木釘や竹釘穴をあける時に
分の股を刺して勉学に励んだという中国の故事で
使用する。(3)壷錐、埋木穴や太
ある。
穴をあける時
に使用する。(4)ネズミ歯錐、竹などに穴をあけ
錐の語源には、いろいろと説はあるが、火種を
る時に使用する。その他の錐には「ハンドル錐」
「く
起す「火鑽り」から「キリ」という言葉が生れた
り子錐」「ボールト錐」「打込錐」「舞錐」「ハンド
と親方は言った。錐は大工道具の中で一番古参で
ドリル」「自動錐」などと解説している。昭和 30
上位のはずだが、最近あまり使われず道具箱の片
年頃から電気ドリルの進出によって、長年苦労し
隅で哀れな姿で横たわっている。
てきた錐もみの仕事は解消したが、昔、錐もみの
仕事は大工泣かせであった。そのため「一錐、二
鋸、三釿」などという大工言葉が生れたのであろう。 ◆ 問い合わせ先
香川 量平
大工の見習中に泣かされたのがボールド錐で「撞
木錐」とも「ギムネ」とも呼ばれる手廻しの錐で、 TEL:0875-25-4468
一日中使うと掌には大きな肉 刺だらけとなり、そ
の上、腰痛で泣くに泣けなかった辛い見習の時代
があった。竹中大工道具館の錐解説の中にある「く
り子錐」というのは昔、下駄屋が鼻緒の穴あけに
使っていたもので、樫の木で作っているが、西洋
のハンドル錐に良く似ていて先端の錐がいろいろ
と取換えられるようになっている。また「打込錐」
というのは別名「ぶち錐」とも呼ばれ、先端が鋭
く二つに割れていて、昔、桶屋の職人が使っていた。
大工は長押の穴あけに使った。位置を決めて打ち
込み穴が貫通すると鐔 を下から叩き上げて抜き取
るという錐である。竹細工の職人が使っている「ト
打ち込み錐
ン錐」というのもある。一般の家で使われている
「千枚通し」も錐で、昔の円鑽とか円錐と呼んでい
たのは千枚通しのことであろう。昭和 22 年に正倉
院の南倉から錐(鑽)が一本出展されていた。手
揉み錐と表示されていたが、あの柄では手揉みす
ることは不可能であろう。先端部分が折れ、基部
がわずかに残っている。まだ他に鑽が六本あると
伝えられている。
昔、川口市に錐作りの名人がいた。新井行雄氏
である。「アライの錐」と言えば有名で、特に「手
志三つ目」は名が高かった。昔から大工仕事で一
番きつくて、むつかしいのが錐揉みであるが、大
工の見習に入った当初、「お前の錐揉みが悪いので
釘が他に出た」と怒鳴られて、意地悪の兄弟子に
背中を錐で突かれたことがあった。「錐揉みは押さ
えた人が吹いてやり」という江戸川柳がある。ま
た「片手で錐は揉まれぬ」という諺もある。両者
が力を合せなければ何事も成功なし、と言うとこ
中国人が使う弓錐
ろから、結婚式のスピーチなどで良く言われる。
「錐
14