漢方と料理の奥深い関係 真柳 誠(茨城大学・中国科学史) 第一話:三つ葉や山椒を「薬味」と呼ぶのはなぜ? 日本語の薬味→香辛料、スパイス、ハーブ 香辛料の中国語→香料 中国で香辛料を薬味と表現することは今も 昔もない。 薬味と同系の中国語に薬気(薬性)があり、 合わせて「気味」という。 薬の品質→気味が好い、気味が悪い→江 戸時代から感情を表す一般用語となった。 中国語の薬味は医学用語 薬に甘・苦・酸・辛・鹹(塩味)の五味あり… ( 1C頃『神農本草経』序例) 経方(処方)は…薬味の滋を仮(借)り… (1C『漢書』芸文志・方技) 中国6世紀までは「右六物を水二升で煮て 云々」(『小品方』など)の指示が普通だっ た→唐代7世紀からは「右六味を水二升で 煮て云々」 (『千金方』など)に変化。 つまり薬味がクスリそのものを指す意味も 唐代に派生した。 宋代12世紀からの処方指示 宋代になって医療が庶民の日常生活 にまで普及すると、家庭にあるものは 処方箋に書いて薬屋で買わせる必要 がない。 代表が煎じ薬のほとんどに配剤される 生姜と棗(ナツメ)で、これらについて は処方箋を書いた後ろに、たとえば 「生姜幾片と棗幾枚を煎じるとき加え なさい」のように指示された。 この指示を加薬味、略して加味や加薬 と呼んだ。 加薬味・加味・加薬の日本伝来 宋医学は鎌倉時代から日本に伝わり、徐々に 生姜が薬味と呼ばれるようになったらしい。 というのも日本の台所にふつうあるのは生姜 だけなので、煎じるときに生姜を、つまり患者 の家にある薬味を自分で加えるよう医者が処 方箋や口頭で「加薬味」と指示したからだった。 知られる最古の記録は室町後期1548年の『運 歩色葉抄』で、加薬と加味が載る。 生姜を加薬・加味・辛味と呼ぶ やがて生姜の別称を加薬味、略して加薬や薬 味、さらに辛味と呼ぶようになった。 江戸中期以降の京都では汁かけソバにのせ る具、五目ご飯の具まで加薬と呼び、いまの 「かやく」ご飯の語源となった。 しかし室町時代で医者にかかったり、薬を買う ことができるのはまだ一部の上流階級に限ら れていた。したがって薬味や加薬の別称はそ う一般的ではなかった。 辛味=薬味となる なおアメリカ大陸原産でコロンブス以降の唐辛 子は、タバコ・トマト・ジャガイモや梅毒ともども、 当時まだ日本に渡来していない。それらの伝来 はポルトガル人の来日前後のこと。 したがって当時はまだ生姜が辛味の代表だっ た。 ついには辛味の別称が薬味や加薬と理解され、 辛みのある台所の食品、たとえばネギや山椒 などまで薬味などと呼ばれるようになった。 薬味の表現の普及 薬味という言葉が広く使われるようになったの は江戸中期かららしい。それにはひとつの要因 があった。蕎麦である。 それまで蕎麦は粉末を湯で練り、団子のように した「そばがき」として食べられていた。 いまのような形の「ソバ切り」つまり麺(中国語 本来の意味は小麦粉)が元禄以降「つなぎ」の 一般化で流行し、全国に普及したからである。 ソバ切りに薬味 その結果、「ソバ切り」におろし生姜、おろし大 根、おろしワサビ、ねり芥子、きざみネギ、唐辛 子、山椒、胡椒など辛いものが添えられるよう になった。同時にそれらを薬味と呼ぶことも広 まった。 このようにソバ切りに辛味を入れるのは、宝永 年間(1704~)から記録がある。 もちろんクスリを食べるんだという洒落っ気も あっただろう。それゆえ役に立つ味の意味で 「役味」と書き換えられることもあった。 薬味の意味の拡張 さらに辛みばかりでなく、香りや色彩のい い紫蘇・柚子・茗荷・葉山椒・三つ葉・海苔 など、あれもこれもと香辛料全般を呼ぶよ うになる。 また日本料理全般にも薬味の表現が使わ れるようになった。 つまり薬味は日本語化した中国語なのだ が、かくも漢方と料理は縁が深い。 第二話:料理の語源と敦煌医書 中国での料理の意味は日本と違う。なぜ? ①世話する:汝若為選官、當好料理此人(南朝 劉宋『世説新語』德行) ②損傷する:眼昏久被書料理、肺渇多因酒損傷 (唐・白居易「對鏡偶吟贈張道士抱元詩」) ③処理する:可急差人到彼守禦城池、並料理葬 事(明『三国志演義』第五十三回) ④日語漢字詞(和製漢語):烹調。亦借指肴饌 料理・調理・処理 なお調理にしても、「ととのえる、治療・ 養生する」が中国語本来の意味で、 「料理する」の意味は日本語にしかな い。 さらに明代1522年に兪弁が著した『続 医説』巻2の劉宗序の治験には、「(あ る人は)家人の病をいつも自ら料理し ていた」とあるので、料理には「処理」 から派生した「治療」の意味もあった。 日本における料理の古い用例 ほぼ現代日本語と同じ ①「味物(うましもの)料理」の墨書(平城京跡出 土、奈良時代760~780年の須恵器) ②「請胡麻油…右料理の為…」 ( 『大日本古文 書』巻5 にある8世紀の記述) ③「魚鳥を料理する者、これを庖丁という」 (平安 時代922~31年 『和名類聚抄』) 以上の用例は中国の理解と合致しない。何故 だろう。実は辞書に載らない中国の用例がある。 中国正統本草での用例 料治→料理 ( 唐 写 本 、 龍 谷 大 学 図 書 館 所 蔵 ) 五 〇 〇 年 『 本 草 集 注 』 敦 煌 本 12 C 『 ( 大 観 ) 証 類 本 草 』 ( 清 代 仿 元 版 ) 『史諱挙例』所載の唐代避諱 「料治」 が後世「料理」に変化していた 理由ははっきりしている。 唐の高宗帝は名前が李治なので、唐政 府編纂物の『新修本草』が皇帝の諱の 「治」を使えず、『本草集注』の「料治」を 「料理」に改めたのだ。 同様に唐の太宗は李世民だったので、 書物の「民」字は「人」に改められた。 そうした歴代の避諱を列記した『史諱挙 例』にも例が多数ある。 避諱改字は医薬書でも少なくない。 「中医、医民」→「中医、医人」 倉5 写C 本『 小 ( 重品 文方 、』 遣 尊隋 経使 閣将 文来 庫本 所系 蔵鎌 ) 江7 戸C 写『 ( 本真 本 ( 宮) 内千 庁金 蔵方 )』 遣 唐 使 将 来 本 系 7 C 『 千 金 方 』 宋 改 本 系 ( 江 戸 医 学 館 仿 宋 版 ) 治中湯(人参湯)→理中湯(丸→圓) 仲『 景( 大 医観 書) 証 ( 唐類 以本 前草 ) 佚』 所 文載 は『 治本 草 中図 湯経 』 所 引 の 宋 改 『 金 匱 要 略 』 元 版 は 人 参 湯 宋 改 『 金 匱 玉 函 経 』 清 版 は 理 中 圓 ( 円 ) 及 湯 主治→主 世→俗 五 ( 隋〇 末〇 ~年 唐『 初本 写草 本集 、注 国』 ト 立ル ベフ ルァ リン ン出 図土 書本 館断 所簡 蔵 ) ( 平7 C 安『 写新 本修 、本 武草 田』 国 杏宝 雨仁 書和 屋寺 所旧 蔵蔵 )本 治→主、療 ( 重5 C 文『 、小 尊品 経方 閣』 遣 文隋 庫使 所将 蔵来 )本 系 鎌 倉 写 本 8 C 『 外 台 秘 要 方 』 宋 改 系 南 宋 版 ( 静 嘉 堂 文 庫 所 蔵 ) タタク・ツクの意味に隋代までは冶や舂の字 5C『小品方』遣隋使将来本系鎌倉写本 (重文、尊経閣文庫所蔵) 10 C 『 医 心 方 』 安 政 版 杵研冶→杵研治→杵擣 10 C 『 医 心 方 』 ( 安 政 版 ) の 引 く 『 本 草 集 注 』 文 龍五 谷〇 大〇 学年 図『 本 書草 館集 所注 蔵』 敦 ) の煌 誤本 写( 唐 写 本 、 仿 12 元C 版『 ( 大 ) に観 残 る) 証 唐類 代本 の草 避』 諱( 清 代 料冶→(料治)→料理 以上の避諱改字例からすると、『本草集注』の「料 治」は本来、「料冶」だった可能性がきわめて濃厚だ ろう。 なぜなら『新修本草』や『証類本草』の「合薬分剤料 理法」でも、敦煌本『本草集注』の「合薬分剤料治 法」でも意味不通だが、「合薬分剤料冶法」なら「薬 を合わせて方剤に分けるためのはかり(料)くだく (冶)法」であり、意味がはっきり通じるからである。 したがって方剤を作るまでの操作全般を以前は料冶 と表現していたが、唐代からその操作を料理と呼ぶ ように変化したに相違ない。 唐以前の他の用例 一方、310年頃の葛洪『肘後卒救 方』にも鼠瘻(頚部潰瘍)の治療に 「猫狸(ハクビシン?アナグマ?タヌ キ?ネコ?)一匹を料理して羮(具 沢山スープ)とし、食事と同様に空 腹時に服用すると、鼠が死んで傷 口から出てくる」とある。 唐代の孫思邈『千金翼方』巻22に ある「猪肚煮石英服方」という処方 では、配剤する猪肚(ブタの胃)に 「一具。浄め、食べる方法のように 料理する」の注記がある。 唐代は料理にcookの意味もあった 両者ともに日本語の料理と同様の意味にとれ るが、『肘後卒救方』の料理は当書の伝本経緯 が不明瞭なため、葛洪本来の文で料理の語彙 だったかは判断が難しい。 『千金翼方』もはたして孫思邈(581~682頃)の 著述か相当にあやしいが、『外台秘要方』 (752)が引用するので、それ以前の成立は間 違いない。 とすると唐代8世紀まではブタの胃を洗浄し、湯 がく加工法などを料理と呼んだのだろう。 料冶・料治・料理の語の日本伝来 ちなみに『肘後卒救方』の別伝本らしい『葛氏方』は 『日本国見在書目録』(875~91頃)に載るので、平安 時代までに伝来しているが、『千金翼方』の伝来は鎌 倉以降になる。 さらに530年頃の農書『斉民要術』巻3と9では、野菜 を加工したり、加工野菜を盛りつけたりする操作全般 を料理と表現する。 本書は宋以降の版本しか現存しないので推測にとど まるが、これも本来は「料冶」だった可能性が高いだろ う。 本書名も『日本国見在書目録』に載るので、それが唐 代の写本で日本に渡来していたなら、必ずや料冶で はなく料理と記述されていたに違いない。 『斉民要術』巻3と9の記載 Cookとしての料理の日本定着 なお『本草集注』は大宝律令(701)以前に、『新修本 草』も奈良時代731年以前に渡来しており、医生や薬 園生のテキストに指定されていた。 この歴史背景があるなら、あるいは奈良時代からの宮 人たちに料冶→料治→料理の表現変化は自明だった かも知れない。 そして唐文化の影響を強く受けた結果、料理の語彙お よび食品加工操作の意味が奈良・平安時代の日本で 普及していったと思われる。 つまり料理の語彙と意味の淵源は医薬書と農書に見 いだせた。やはり料理と漢方には奥深い関係がある。 第三話:医食同源の思想-成立と展開 医食同源と薬膳の語源:近代の造語だがルーツは 古い。 医食同源のルーツ:中国古代には食医がどうも存 在していた。 五味論と食宜・食禁:五味とは食物・薬物の作用や 性格をになう成分で、現在の栄養素に相当する概念。 食医はこの五味概念で食宜・食禁を論じていた。 食医思想の影響:中国医学体系の最古典すべてに 食医の思想と知識が影を落としている。 ご 静 聴 あ り が と う ご ざ い ま し た
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