第6章 297 結語 298 第6章 結語 以上の通り、本稿は第4代神奈川県庁舎の成立過程と大正・昭和初期の神奈川県営繕技 術者と作品群を基軸として、これまで未開拓の関連諸事項を調査研究を行ったものであり、 いささかなりとも日本の近代建築史ついて補遺ができたものと思量するものである。 第1節 各章の結語 序章−研究の目的− 本研究は、昭和3年に完成し今なお現役庁舎として使用されているこの神奈川県庁本庁 舎の成立過程、その様式的特質や大正から昭和初期を中心とする設計コンペの有り様、ま たこの全国公開コンペで一等当選を果たしたものの、無名のまま歴史の表舞台から消え去 った建築家・小尾嘉郎らの人物像、さらには関東大震災をはさんだこの時期の神奈川県営 繕技術者とその作品群を明らかにし、近代建築史から俯瞰して如何なる位置づけとなるか などの意義について研究することを目的とした。 第1章 第3代神奈川県庁舎までの庁舎の歴史 初代県庁舎は元々徳川幕府の神奈川奉行所の支所・横浜役所として、1866年(慶応 2)に建設されたものである。明治維新で新政府のものとなるが、横浜裁判所、神奈川裁 判所との名称変更を経て、明治5年に司法上の裁判所が分離され、神奈川県庁となる。幕 末・維新期は奉行所、鎮台、裁判所は同義語であり、しばしば公刊物でも誤用してしまう 要因となっている。 初代については、写真や錦絵に描かれたものが残されており、日本最初の擬洋風公共建 築であると分かる。また建設者は4人の奉行所定式請負人の1人「深見屋・河井松右衛門」 と判明しているが、河井は清水喜助と異なり大工の棟梁ではなく、乾物等を扱う商人であ った。世情混乱の中で、信頼できる施工業者は大工の棟梁である必要はなく、今日のゼネ コンの原初形態ができたと考えられる。 第2代は、初代が明治15年に焼失し、ブリジェンス設計の税関庁舎を買い取り、県庁 舎としたものである。煉瓦造3階建であるが、外観以外内部は不詳である。明治末年にな ると老朽化と狭隘化が進み、周布公平知事の時代に本格的に建替えることが決まる。この 庁舎は解体され、一般に入札により払い下げられたが、大田区山王にあった望翠楼ホテル に階段が、正門は横浜市瀬谷区の川口邸に移築されている。 設計は大蔵省の妻木頼黄と遠藤於莵に委嘱された。明治42年に山下町公園(現横浜公 園)に仮庁舎ができるが、大変な不良工事であった。この責任を取り、第3代県庁舎の設 計は宮内省の片山東熊と木子幸三郎に変更されたとされているが、筆者はこの変更の裏側 には、長州出身の周布知事と幕臣出身の妻木や横浜正金銀行頭取・相馬永胤らの井伊直弼 銅像建立をめぐる相克があったとの仮説をもっている。 第3代は大正2年6月に完成するが、史上都道府県庁舎で最も壮麗なルネサンス様式と 呼ばれているものだ。設計は主に木子幸三郎が担当した。この庁舎は日本の玄関口たる横 浜港の近傍に位置していることから、 「帝国の品位」や「外交上の体面」といった使命を負 299 わされていた。この庁舎は大正12年9月の関東大震災により壊滅的被害を受けた。 第2章 第4代県庁舎(現本庁舎)の建設。 第4代の庁舎再建に当たって、敷地がこのままでよいか、旧庁舎を再利用できないかの 議論がされたが、結局郵便局用地を買い足し元の位置に新築することになった。設計は建 築技師・成富又三が率いる県内務部土木課営繕係の直営で行うこととし、顧問に岡田信一 郎と内藤多仲が招聘された。大正14年には8月には設計が完了、透視図も公表され、建 設費315万円が議会を通過した。清野長太郎から堀切善次郎に知事が交代する直前に岡 田を交えて緊急会議がもたれ、開港記念会館をしのぐ高塔をつけることが決定した。 堀切知事は公開コンペを開催することとし、審査委員長に佐野利器を迎えた。大正15 年6月10日で応募が締め切られ、五重塔をデフォルメした塔を持つ小尾嘉郎の案が39 8件の応募から一等に当選した。県庁コンペの要綱は先行した議院議事堂や大阪府庁舎の 事例を参考にしているが、最も異なるのは各室面積表がなく、300分の1のラインプラ ンのみが与えられていたことである。佐野利器は昭和3年の落成式における工事報告の中 で、 「懸賞によりて広く其外形の意匠図案を募集」したと発言していることからも、神奈川 県庁舎コンペはプランより見た目、特に塔の形体のコンペであったと分かる。 佐野は岡田に代わって、庁舎建築事務所顧問として招聘され、構造・意匠の両面で指導 した。実施設計で塔はやや短くなり、外部はライトの影響を受けた装飾やスクラッチタイ ルが使われ、内部装飾には仏教の宝相華がモチーフになった。さらに佐野は、玄関やタワ ーなどに日本趣味が横溢しており、これで私の建築が生まれた気持ちがするとまで記者に 語る。そして昭和6年2月に宮内省の使節が、天皇の直々の神奈川県庁をお手本にとの言 葉で来庁参観した事実があり、佐野の日本趣味への自信を深めた可能性がある。 神奈川県庁完成後、今日帝冠様式と呼称される名古屋市庁舎、愛知県庁舎、静岡県庁舎 が佐野利器の関与のもとに出来上がっていった。 第3章 神奈川県庁舎設計コンペ一等当選者・小尾嘉郎とその他の入選者達 小尾嘉郎は明治31年5月20日に山梨県北巨摩郡甲村字五町田で農家に生まれるが、 その出自は甲斐武田氏の国衆である。父小太郎は甲府市に出て洋服屋を経営し、順調な経 営にあった。小学校では絵と作文に才能を見せ、先生は天才的と評価している。甲府中学 から名古屋高等工業学校に1年浪人の後入学し、大正10年に卒業し、東京市役所電気局 に採用された。吉祥寺に家を持ち、甲府から両親を呼ぶ。 大正15年に神奈川県庁舎コンペに応募に一等に当選する。塔は父親からのアドバイス で五重塔をモチーフにし、応募暗号は婚約者の「登畿」から「登」とした。図面作成には 親友の松岡太郎が手伝った。10月から神奈川県職員となるが、わずか3ヶ月で退職し、 恩師鈴木禎次のつてで、上野松坂屋の工事管理を2年した後設計事務所を開業する。 昭和5年の軍人会館設計コンペに応募し、佳作に入選している。この時小尾は、日本的 な様式をいかに無理なく洋風とさせるかが自分の設計テーマと語っている。 戦時下の不況で、小尾は近所に住む住宅営団理事の宮沢小五郎のつてで昭和18年、営 団に採用された。戦後 GHQ により、営団が解散させられると、ゼネコン勤務の後、設計 事務所を再開した。今日小尾の作品として残されているのは、戦前のものとしては井荻浄 300 水場の上屋(昭和7年頃完成)と甲府市内の恩賜林記念館(昭和28年)だけである。1 男2女に恵まれた小尾は、昭和47年12月に脳梗塞でこの世を去った。享年76歳。 神奈川県庁舎コンペに入選した者はすべて無名であった。二等一席の相賀兼介は旧満州 で活躍した。三等一席の土浦亀城はその後モダニズムの大家となるが、この時点では無名 であった。土浦の応募案イメージは大倉別館のデザインに生かされた。 三等二席の泰井武は小尾と同じ名古屋高工卒で3期後輩である。大正13年東京市臨時 建築局学校建設課に採用され、神奈川県庁舎コンペに応募した。その後第一銀行に行き、 昭和6年西村好時が設計事務所を設立した際、請われて西村事務所に参加した。泰井は昭 和9年の静岡県庁舎の設計コンペで帝冠様式で一等当選を果たした。昭和19年に鹿島建 設に採用され、戦後は主に工事管理部門で働いた。昭和46年以降は片山建築事務所で工 事管理を行い、平成9年8月この世を去る。享年96歳。 第4章 大正・昭和初期の神奈川県営繕技術者とその作品 大正・昭和初期は、公共建築についてみれば、明治期の煉瓦造を中心とする古典様式か らモダニズムへと橋渡しする中間項的な意味合いがある。神奈川県営繕においても、本格 的に鉄筋コンクリート造が使用され、関東大震災がこの流れを加速させた。 神奈川県においてこれら建築を直営で設計をしたのは、大半が明治後期に各地に設置さ れた公立工業学校か私立専門学校出身の下級判任官以下の技術者であった。かれらの正確 な経歴は「震災復興功労調」を見ることで判明する。しかしその身分は極めて不安定なも ので、言わばお雇い技術者に過ぎなかった。しかしそれなるが故に、彼らは懸命に技術取 得に努めた。 そのトップとして君臨したのが、佐賀県立工業学校出身の建築技師・成富又三である。 また神奈川県庁舎のコンペについても事務局として取り仕切っている。成富は身分上最後 まで判任官であったが、大正2年から昭和11年で退官するまで、学校、警察署、測候所、 社会館、日本赤十字社神奈川支部など多様な公共建築に関与した。これら建築の様式はセ セション風、モダニズム、日本趣味を取り込んだ和洋折衷など多様であるが、全体として は古典様式からモダニズムへと繋げる広義のアール・デコ様式の珠玉のような建築群であ った。 第5章 (付論)帝冠様式について 帝冠様式の定義が整理されたのは近年のことであるが、大抵は神奈川県庁舎をその嚆矢 としている。明治43年の「我國将来の建築様式を如何にすべきや」の討論会において、 辰野金吾の総括は「洋式を体としてこれに我が国固有の美術的装飾のある部分を被覆とし て発展する」であり、伊東忠太と佐野利器は実現するプロセスの考えこそ異なるが、国民 趣味を反映した様式を作り出すとのことでは共通していた。 かくして昭和初期に、鉄筋コンクリート造の日本趣味と呼ばれる和洋折衷建築がコンペ を主体に生み出され、左翼モダニストはこれをブルジョア建築、モダニズムを新興階級の 建築と強引に階級闘争史観を建築様式論に置き換えてしまった。戦前から戦後にかけてこ の傾向は同じであった。 帝冠様式には様式と呼ぶほどの規範性や統一性はなく、モダニストサイドから恣意的に 301 「式」から「様式」へと格上げされた。また神奈川県庁舎以前にも大連市役所のように日 本趣味を取り入れた公共建築がすでにあった。旧満州に建てられた官衙建築も、中国に同 様のスタイルが多く見られ日本固有とは言い難い。今日無装飾を是としたモダニズムがポ ストモダニズムによって超克されつつあるが、建築装飾は人間性の復権として考えられる。 第2節 本稿の総合体系 以下本稿の主要事象の関連を体系的に示す。 図表4−1本稿総合関連体系図 |← 明治時代 →|← 大正時代 →|← 昭和時代 →| 明治維新------------------------------------------------関東大震災--------------------------------------------大戦終結----------------(擬洋風----------古典主義------表現主義・セセション・アールデコ等------モダニズム---------------------------ポストモダン) 明治43年討論会 日本趣味---------帝冠式(戦後帝冠様式) (我國将来の建築様式を如何にすべきや) 佐 野 利 名古屋市庁舎 満州国官衙建築 器 伊東忠太 桑 原 英 治 藤生 満 同潤会 ―― 宮 議事堂 初代県庁 2代県庁 沢 住宅営団 小 五 郎 大阪府庁舎 設計コンペ、4代県庁舎 3代県庁 県庁舎建築事務所 小 尾 嘉 郎 泰井 武 県立工業学校の設立 神奈川県営繕組織 成富又三 渡邊元四郎 横浜社会館 貝塚良雄―樺太庁官衙建築 神奈川県測候所 高等女学校 加賀町警察署 戸部警察署 女子師範学校 金沢文庫 日本赤十字社神奈川支部 武道館 等 302 、
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