の年を迎え、過去 回の平和展の 年「邑楽町平和展」を開催してい 楽 町 平 和 展 実 行 委 員 会 で は、 毎 和展の歩み」も配布されました。 れ、その歴史を解説した冊子「平 歴史を振り返る特別展示も行わ ます。同展は、若者たちの手によ だった少年兵が語る戦争体験」と さらに、町内の戦争体験者によ る 講 演 会 も 行 わ れ、「 当 時、 歳 区)に貴重な体験談を語ってい 題して、松島七郎さん(店高原・ 15 あるのです。 劇を次の世代へと語り継ぐために 昭和 年から始まったこの取り 組みも今年で 年。県内でも、こ ただきました。 ておかなければならない戦争の悲 てはならない過去の事実や、知っ り企画から運営まで行われていま 町職員労働組合の青年婦人部 歳以下)の皆さんでつくる邑 ↑平和へのメッセージカード付き風船を、来場者の皆さんと飛 ばしました。願いの込められた風船は、大空へ舞い上りました す。その最大の目的は、風化させ ( 29 ネル展示などを行いました。 を紹介。会の取り組みについてパ ンで活動する 「ペシャワール会」 マにパキスタンやアフガニスタ 今 年 は、 「平和のために活動す る人々~今できること~」をテー 和 へ の メ ッ セ ー ジ は、 バ ト ン リ 者たちの発信する未来へ向けた平 どういう形で続いていくのか、若 りません。今後、この取り組みが、 のように長く続く平和展は類があ 開催が今年で 回目という節目 あの悲惨な戦争を体験して 今ある幸せが本当に夢のようです 昭和5年、私は三男七女の次男 として、貧しい農家の家に生まれ レーのように続いていくのです。 ほう 日 やっとのことでたどり着いた奉 てん 天で、天皇陛下の終戦を告げる玉 音放送を聴いたのです。8月 ぷ さ ん のことでした。逃避行の末、釜山 からやっとのことで九州の博多港 に上陸することができました。 今でも忘れられないのは、列車 が広島を通過しようとしたときの 4月 日の出発の朝、長柄神社 で村長をはじめとした地域の皆さ 原子爆弾が投下された広島はまさ く つ も 駅 に 横 た わ っ て い ま し た。 こ と で す。 街 は 全 て 灰 と な っ て、 んが、祈願祭を開いてくれました。 に地獄でした。 鉄の塊になったSL機関車が、い 皆さんの「万歳、万歳」の掛け声 の中、出発しました。 8月 日、高崎の連隊に戻ると 私たちに軍から解散命令が下りま 弟も5歳のときに病気で他界して から満州鉄道の列車に乗り、目的 港にいかりを下ろしました。清津 三晩航行を続け、朝鮮半島の清津 富山県の伏木港から輸送船に乗 り込んで、船は玄界灘を越え三日 お袋は私の顔を見るなり涙を流 しながら大喜びで、その喜びよう れたので一安心しました。 くと、姉ちゃんたちが出迎えてく とても心配でしたが、中野駅に着 した。「自分の家は、あるだろうか」 ふ し ぎ いたので、戦時中家にいる男は私 地の竜江省白城県平安鎮まで4日 て働くことになったのです。 …。あの顔を私は今でも決して忘 ら、どうか軍隊にはいかないでく せいしん だけでした。 間。そこから、飛行場のあるホロ 夜の不寝番(毎晩2時間交代制) のときは、残飯をあさりにくる狼 れることができません。 へいあんちん 長柄村国民学校 (現長柄小学校) 高等科に進学したときに戦争が激 は 人 一 倍 で し た。 軍 隊 に 入 る と され、中島飛行機製作所で戦闘機 が怖くてしかたなかったのが印象 今の幸せが本当に夢のようで す。戦争は本当に地獄。二度と起 はくじょう 化。本当に勉強どころではありま ン バ イ ル 平 原 へ 向 か い ま い し た。 き、「 家 に は 男 が お 前 ひ と り だ か の部品をつくる手伝いに駆り出さ 的でした。そんな生活を約3か月 の体験談を、少しでも心にとどめ りゅうこう せんでした。高等科2年(中学2 私たちは、飛行場で整備担当とし になって特攻隊 間送りました。 ておいてくれたら、幸いです。そ ※1 が命令 ていました。国のために尽くした 8月8日、突然ソ連が日本に宣 戦布告。隣の飛行場が爆撃を受け 年生)のとき学徒動員 いと強く思っていたのです。 火の海になってしまいました。私 ※2 入隊を希望し こしてはいけない。若い世代が私 れ」と大粒の涙を流していたお袋 昭和 年4月から、館林陸軍飛 行場で勤務しました(現在の開拓 れました。その頃私はパイロット と館林市にまたがった所) 。とこ き して、戦争の悲惨さを伝えていっ み たちは着の身着のままトラックに てもらいたいと願います。 き ろが、3日後突然、満州へ行けと 分乗し、飛行場から逃げました。 ↑「かわいそうなぞう」を題材とした 朗読劇を行い、平和の尊さを訴えました →戦時食の無料配布 ※戦時中に食べられてい た「すいとん」や「はった い粉あめ」、 「脱脂粉乳」を 無 料 配 布。 す い と ん は、 戦時中の味と現代の味を 作り、来場者が食べ比べ できるよう工夫しました。 体験談に聴き入っていました ↑その場にいる誰もが松島さんの戦争 ソビエト連邦 昭和6年(1931)関東軍(大 平安鎮 日本帝国の陸軍)は満州事変 を起こし、全満州を占領。「満 満州国 州国」という植民地をつくり 奉天 ました。建国2年後、帝政を 清津 敷いたので、「満州帝国」とも 伏木 いいます。清王朝最後の皇帝 釜山 愛新覚羅溥儀(あいしんかく 朝鮮 ら・ふぎ)が帝位につきました。 現在の 満州国は、日本の太平洋戦争 中華民国 邑楽町 博多 敗北を機に中国に戻りました。 30 ※1学徒動員…工場などの労働 力不足を補うために、昭和 19 年 頃から学生を戦争へ動員。 ※2特攻隊…神風特別攻撃隊の こと。敵艦に必死の体当たりを 行う部隊の通称。 いう命令が下ったのです。 戦時中の日本周辺略図➡ 31 ま し た。 兄 は ビ ル マ 戦 線 で 戦 死。 15 57 15 ←パネル展示(ペシャワール会の取り組み) ※ペシャワール会は、1983 年キリスト教系団 体からパキスタンに派遣された中村哲医師の現 地での医療活動を支援する目的で結成。パキス タンでのハンセン病医療から始まった活動は、 山岳巡回医療、アフガン難民医療へつながり、 さらにはアフガニスタンでの井戸掘削、用水路 建設、農業支援、イスラム神学校建設など現地 住民の生活全般に関わる事業へと拡大しまし た。こうした支援活動は、ペシャワール会員や 支援者の会費、寄附によって支えられています。 31 若者たちでつくりあげる邑楽町平和展では、 毎年平和とは何かを問いかけています。 今回、松島七郎さんが「当時、15 歳だった少年兵が語る戦争体験」 と題して、貴重な体験談を語ってくれました。 28 まつしま・しちろう ● 昭和5年 生まれ。昭和 19 年、国民学校高 等科2年のとき学徒動員。昭和 20 年満州で航空機の整備士とし て従軍。同年8月 15 日、奉天(ほ うてん)にて終戦を迎える。 30 松島七郎さん(店高原・28 区) 伝え守り抜く 平和への願い 風化させてはならない事実があります。 知っておかなければならない悲劇もあります。 戦争を経験された地域の人から話を聴くことが、 今ある平和の尊さを気付かせてくれる近道です。 ORA TOWN * Public Relations 14 15 2013 * OCT 20 第 30 回邑楽町平和展(9 月 7 日㈯開催) Close up クローズアップ
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