麻酔関連偶発症からみた周術期リスクマネジメント

特 集
麻酔関連偶発症からみた周術期リスクマネジメント
九州大学病院医療安全管理部
入田 和男
PROFILE ────────────────────────────────
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入田 和男 九州大学病院医療安全管理部 副部長・准教授
Kazuo Irita
1984年:九州大学大学院医学研究科修了
1985年:九州大学医学部麻酔科学講座 講師
1989年:麻生飯塚病院麻酔科 部長
1991年:九州大学医学部麻酔・蘇生学講座 助教授
2010年:九州大学病院医療安全管理部 副部長・准教授
趣味:ダジャレ、ダジャレと同レベルのゴルフ、全く記憶に残らない読書
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医療安全とリスクマネジメン
ト
医療安全は、安全管理(safety management)・医事紛争対応(medical conflict
management)・苦情対応(medical complaint management)・臨床倫理相談(clinical
ethics consultation)の 4 つの活動に分けて考えることができる。
医療側がインフォームド・コンセントを得たつもりでも、患者・家族はその内容
を理解していない場合が少なくない。従って、医療側が手技に伴う合併症であり過
失ではないと判断した有害事象でも、苦情・紛争へと拡大する可能性が常に存在す
る。しかし、過失の有無は病院としての、あるいは第三者による検証を経なければ
判断は難しい。従って、有害事象が発生した場合には「隠さない・逃げない・ごま
かさない」という基本姿勢を堅持し、事実のみを速やかに説明するとともに原因は
調査の後に改めて説明することを伝える。そして、過失の有無にかかわらず発生し
た障害・損害に共感を表明することが重要である。しかし、いかに医療側が説明を
尽くしたと考えていても、苦情は発生しうる1)。
安全管理はさらに予防活動(risk management)
・被害最小化活動(crisis management)
・事業継承活動(business continuity management)の 3 つに分けて考えること
ができる。自然災害に限らず、停電や電子カルテシステムの障害が発生した際にど
のように対応するかは、火災発生時の対応と同様に、シミュレーションで訓練して
おく必要がある。
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ノンテクニカルスキルの重要
性
青戸病院事件や大野病院事件に象徴されるように、危機的麻酔関連偶発症による
死亡の最大の原因は出血であり、出血死の回避は手術室における最大の課題の一つ
と言える。その診療ガイドラインが「危機的出血への対応ガイドライン」2)である。
本ガイドラインの特徴は、緊急度に応じた緊急輸血を強く推奨するとともに、危機
的出血への対応にはノンテクニカルスキル(コミュニケーション・リーダーシップを
含めたチームワーク・状況認識・意思決定)が重要であることを示したことにある
(Fig.1)。出血死に複数のヒューマンファクタが関与していることがその背景にあ
る3)。平成22年度の医学教育モデル・コア・カリキュラム改正では、従来の医学知
識偏重からテクニカルスキルとノンテクニカルスキルのバランスのとれた教育へと
大きく舵が切られた。このような教育を受ける機会がなかった現場の医師に対して
は、施設単位あるいは学会レベルでの教育・研修が必要である。
3
A net
Vol.16 No.2 2012
コントロール困難な出血
‥ 状況認識
コマンダー決定
‥ リーダーシップ
緊急度コードⅠ →「非常事態宣言」
‥ 意思決定
1. 迅速なマン・パワー召集
2. コミュニケーション確立
3. 軌道修正
緊急輸血・ダメージコントロールなど
Fig.1.「危機的出血への対応ガイドライン」に示された手順と
ノンテクニカルスキルを照合させたもの (文献2より作成)
ノンテクニカルスキルを別のフォントで示した。 WHOは手術安全にも積極的な関与を深めている。「手術安全のチェックリスト」
の推奨、普及もその一環である。麻酔導入前のサインイン、執刀前のタイムアウト、
手術室退室前のサインアウトからなり、それぞれのタイミングで多職種全員が手を
止める時間を確保し、最低限の項目について確認しあうものである。「チェックリス
トなんか使わなくても確認できる。時間の無駄だ」というのがおおかたの医師の意
見であろう。しかし、その意義は確認の枠を超えて、チームとしてのコミュニケー
ションが大いに促進されるという点にある。コメディカルの当事者意識や責任感が
高まるとともに、発言しやすくなるので、危機発生時のチームワークが格段に良く
なる。さらに本チェックリストの運用により、権威勾配を超えて絶対に協力しあう
というルールがチームに形成されるとともに、規律を守るという文化が醸成される4)。
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人による「確認」の限界
確認手段としては、従来から声出し確認や指差し呼称の有用性が指摘されてきた。
しかし、人が「考えるのは苦手で、見たいように見るし、聞きたいように聞く」と
いう特性を有していること、またダブルチェックにも「相手がきちんと見ているハ
ズだから大丈夫」という社会的手抜きという落とし穴があることから、注意喚起や
経験のみでは間違いを排除することは不可能である。2005年からの 3 年間にわたっ
て日本麻酔科学会が実施した誤薬インシデント調査では、インシデントの57%が麻
酔経験年数 6 年以上、つまり麻酔専門医相当以上の医師からの報告であった5)。つ
まり、熟練者で偶発的に発生する間違いに対しては、間違いに耐えうる防御システ
ムを構築する必要があることを意味している。
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教育と標準化
Fig.2 に「麻酔関連偶発症例調査2004~2008」における麻酔管理の内訳別に見た
危機的偶発症の発生率とその結果としての術後30日以内の死亡率を示した6)。麻酔
管理による死亡の原因としては、誤嚥、主麻酔薬過量投与、輸液・輸血管理の不適
切、薬物投与
(過量・選択不適切)
が上位を占めている。一方、危機的偶発症発生率
を見てみると、薬剤関連と、誤嚥を含めた気道関連が多くを占め、これに輸液・輸
4
特 集
偶発症発生率・死亡率(/1万症例)
0
0.05 0.1 0.15 0.2 0.25 0.3 0.35
主麻酔薬過量投与
高位脊髄くも膜下麻酔
局所麻酔薬中毒
薬物投与(過量・選択不適切)
アンプル・注射器の間違い
ガス流量設定エラー
換気不適切
導入時気道確保操作不適切
維持中の気道管理不適切
誤嚥
不適合輸血
輸液・輸血管理の不適切
血管内カテーテル穿刺・挿入不適切
硬・脊麻穿刺不適切
体位・機械的圧迫
■ 死亡率
■ 偶発症発生率
Fig.2. 麻酔死亡症例に関する原因別の偶発症発生率ならびに死亡率
(文献6より作成)
血管理の不適切が続いている。薬剤関連は過量投与と選択不適切に集約され、術前
評価不十分、判断、知識に問題があったと考えられる。
気道確保操作不適切の場合、危機的偶発症発生率の高さに比べて死亡率は低い。
気道確保器材の進歩や気道確保困難時のアルゴリズムの周知が効果を挙げている可
能性がある。一方、誤嚥は危機的偶発症発生率に比べて死亡率が高く、今後とも注
意が必要なことが分かる。誤嚥による死亡例のほとんどは上腹部手術の緊急症例で
あった。また、同じ調査期間中に血管内カテーテル穿刺・挿入不適切による死亡が
3 症例報告された。
このような偶発症の発生に関与した成因としては、術前評価不十分と状況判断の
遅れが多く、知識不足、技術不足、コミュニケーション不足がこれに続いた6)。知
識・技術の不足に対しては教育と手技の標準化が必要となる。中心静脈穿刺に関し
ては日本麻酔科学会から手引き7)が出され、医療安全全国共同行動でもマニュアル
と体制の整備が推奨されている8)。手技の標準化と教育・研修体制を整備していく
上でのモデルと考えられる。
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おわりに
医療者の間違いが患者の障害・損害に直結することを回避するため、IT 技術が
導入されている。しかし、IT 技術も人が作り人が使うがゆえに、新たな間違いの
発生源となる。病院として作成した再発防止策が現場に伝わらない、伝わっても拒
否されたり無視されるというのも日常茶飯事である。事故の記憶が風化すると、何
故そのような対応をする必要があるのかということが忘れ去られる。医療安全が終
わりなき最終戦争と表現される所以である。悪循環を断つには、確認の文化・報告
の文化・失敗から学ぶ文化・規律を守る文化の醸成が必要である。
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引用文献
1 )和田仁孝, 前田正一:医療紛争―メディカル・コンフリクト・マネジメントの
提案, 医学書院, 東京, 2001.
2 )日本麻酔科学会,日本輸血・細胞治療学会:危機的出血への対応ガイドライン.
5
A net
Vol.16 No.2 2012
日本麻酔科学会ホームページ,
http://www.anesth.or.jp/guide/pdf/kikitekiGL2.pdf
3 )入田和男, 川島康男, 森田 潔, 他:「術前合併症としての出血性ショック」
ならびに「手術が原因の大出血」に起因する麻酔関連偶発症に関する追加調
査2003の集計結果.麻酔 54:77−86, 2005.
4 )アトゥール・ガワンデ(吉田竜訳)
:アナタはなぜチェックリストを使わない
のか?−重大な局面で“正しい決断”をする方法. 晋遊舎, 東京, 2011.
5 )日本麻酔科学会安全委員会.薬剤インシデント調査2005~2007年の解析結果.
日本麻酔科学会ホームページ,
https://member.anesth.or.jp/App/datura/news2010/r20100227.html(2011年12
月28日参照)
6 )日本麻酔科学会安全委員会.偶発症例調査2004~2008:危機的偶発症に関す
る粗集計結果の公表について.日本麻酔科学会ホーム―ページ,
https://member.anesth.or.jp/App/datura/news2010/r20100301.html(2011年12
月28日参照)
7 )日本麻酔科学会安全委員会麻酔手技における事故防止対策調査ワーキンググ
ループ:安全な中心静脈カテーテル挿入・管理のための手引き2009.
日本麻酔科学会ホームページ,
http://www.anesth.or.jp/guide/pdf/kateteru_20090323150433.pdf
8 )医療安全全国共同行動ホームページ, http://kyodokodo.jp/index.html
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