元禄御畳奉行の日記

神坂 次郎
こうさか じろう
作家
1927 年
和歌山県に生まれる。
平成十四年(2002)に南方熊楠賞。 掲載作は、
「中公新書」
昭和五十九年(1984)九月刊『元禄御畳奉行の日記
尾張藩
士の見た浮世』全十章より初章と三章とを抄出。
元禄御畳奉行の日記
抄
八千八百六十三日の日記
もうひとつの元禄
元禄という時代は、日本史のどの時代よりも町人のい
きいきした時代であった。関ケ原からすでに百年。武士は禄をもらって寝て暮
すだけの遊民になってしまい、都市が栄え、町人たちが大きく成長し、
《侍とても貴からず、町人とても賎しからず》(『夕霧阿波鳴門』近松門左衛門)
と、刀よりも金銀のちからがものをいう時代であった。
肥料の改良、灌漑技術の向上などによって農業生産が増大し、城下町の建設
が全国的におわって都市に人口が集中し、貨幣経済が浸透して商品の流通にた
ずさわる町人たちの生活は急上昇し、その余力が独得の町人文化を、市民生活
に密着した大量消費的なあたらしい文化を育てた。文化というものが、不特定
多数の人びとを対象として産業的に成長し得たのは、この時代からのことであ
ろう。
元禄の世は、人びとの表情も動きもきらびやかであった。江戸では大分限者
(だいぶげんじゃ)の紀伊国屋(きのくにや)文左衛門、奈良屋茂左衛門(もざえ
もん)、京の中村内蔵助(くらのすけ)、大坂の淀屋辰五郎といった伊達男たち
が湯水のように金銀を撒いて豪興を競った時代である。松尾芭蕉が俳諧を天下
にひろげ、浮世草子の井原西鶴が、日本のシェイクスピア近松門左衛門が、歌
舞伎では江戸の初代市川団十郎が、上方では初代坂田藤十郎、名女形の芳沢あ
やめが、そしてまた浄瑠璃の竹本義太夫が、画人では土佐絵を再興した土佐光
起(みつおき)、浮世絵の祖、菱川師宣(もろのぶ)、絵画から工芸、染織の意匠
にまで奔放な作風をみせた尾形光琳、その弟の陶芸の乾山ら元禄文化の旗手た
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ちが華やかに登場した季節でもあった。
元禄の世は、庶民の世界に一種の文化革命(衝撃<ショック>といっていいか)
をもたらしている。家庭での食事が、夜食をふくめて三食となり、旅をしても
宿で炊事をしなくても食事が出て来、女中がなにくれと世話をやいてくれるよ
うになり、江戸の町に屋台店の元祖ともいう、一串三文(さんもん)の田楽(で
んがく)の辻売りが現われたのである。それまでの江戸の町には、食物屋さえ
なかった。江戸の人びとが外食できるようになったのは、この頃からのことだ。
そしてやがて蕎麦が大流行し、お茶漬も出現した。菓子の進歩も目ざましく、
その種類も蒸菓子、干菓子、唐菓子と三百五十種におよび、裏通りには駄菓子
を売る"雑菓子屋"ができたと『男重宝記』(元禄六年刊)にいう。
食物ばかりではない。庶民の家にも畳が普及し、着物の左を上に合わせて帯
を後ろにしめる形になったのも、女帯が幅広になり、ぜいたくな元禄袖が、京
絵師、宮崎友禅斎の創案した絢爛多彩な友禅染が、蛇の目傘があらわれ、当世
化粧大秘伝『女重宝記』が出版された。男女(町人)のあいだに見合の風(なら
い)がうまれたのもこの頃である。
住吉具慶描く「洛中洛外図」は、そんな華やかな都のにぎわいをいきいきと
泛(うか)びあがらせている。仕立(したて)屋、縫箔(ぬいはく)屋、扇屋、人形
屋などが軒をつらね、獅子舞や人形つかいなどが町のにぎわいをそえ、色とり
どりに思いのままの模様を染めあげた華麗な小袖をまとった女が、前髪姿の若
衆が、絵巻のなかを通りすぎていく。この、元禄の都市風俗の華やかさを、ひ
ときわ際立たせているのは、
《風流なる出立(いでたち)、肌に綸子(りんず)の白無垢、中に紫鹿の子(む
らさきかのこ)の両面、うへに菖蒲八丈(あやめはちじょう)に紅(もみ)のかく
し裏を付て、ならべ縞の大幅帯、いづれか女の飾り小道具のこる所もなし。…
…此衣裳の代銀にては、南脇にて六七間口(けんぐち)の家屋敷を求めけるに、
したりしたり、寛闊者目 (贅沢者め)と、人皆うち詠(なが)めける》 (『好色一代
女』)
と、西鶴がいった女たちの姿である。
元禄の女たちは寛闊であった。奔放に身を飾り、その生を高らかにうたいあ
げている。着物は金襴、緞子(どんす)、びろうど、金紗(きんしゃ)、惣鹿の子
(そうがのこ)、一尺五、六寸にも及ぶ元禄の袖の、袖口に鯨の鬚(ひげ)を入れ
て形をつくり、その大振袖に鈴を縫いつけ、歩くたびにりんりんと音をひびか
せ、首すじから上だけでも装いに十六品、髪の油、鬢(びん)つけ、長かもじ、
小まくら、平元結(ひらもっとい)、忍び元結、こうがい、指櫛(さしぐし)、前
髪立、臙脂(えんじ)、白粉、黛(まゆずみ)、おもり頭巾(ずきん)、留針、浮世
つらら笠……そして爪先に薄紅をさし、白繻子(しろしゅす)に紅裏(もみうら)
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をつけた足袋に、ばら緒の草履(ぞうり)をはいて花の都の往還を歩いていく。
──その元禄のころ。尾張徳川家六十一万九千五百石の家中(かちゅう)に、
朝日文左衛門重章(しげあき)という御畳奉行(おたたみぶぎょう)がいた。知行
(ちぎょう)百石、役料四十俵。
もっとも、いた……といっても別に武士としての芸にすぐれていたという意
味ではない。それどころか、俊秀とか逸材とかの文字にはおよそ無縁の、あり
ふれた武士である。
文左衛門、酒におぼれ女を愛し博奕を好み、芝居と聞いただけで目のいろを
変える。そしてその芝居見物に夢中になっていて、あろうことか脇差の刀身を
すり盗られ、鞘だけを差したまま帰ってくるという、いささか頼りなげな侍で
ある。
ところが、この文左衛門に奇妙な癖(へき)があった。じつに筆まめなのであ
る。
「時に維(こ)れ元禄四辛未( =かのとひつじ 一六九一)六月十三日、予(=自
分)、佐分氏へ鑓(やり)稽古に行く……」
十八歳の夏の夜、古ぼけた天神机をひきよせ筆を走らせて以来、この日記は
えんえん二十六年八ヵ月。日数(ひかず)にして八千八百六十三日。かれの死の
前年の享保二年(一七一七)の十二月二十九日まで、飽きることなく倦(う)むこ
となく、おそろしいほどの根気で書きつづけられていくのである。日記の名を
『鸚鵡籠中記(おうむろうちゆうき)』という。
この、ちょっと気どった日記の名は、日ごろ自分のまわりに流れてくる風説
(うわさ)、見聞をそのまま、ありのままに写して"鸚鵡返し"に書き記したとい
う意味なのであろうか。
ともあれ文左衛門は、当時の世相、物価から天候気象、日蝕、月蝕の観察、
城下に起った大小の事件から身辺雑記、演劇批評から博奕情報まで、それらを
一種独得のリアリズムをもって赤裸々に書きとめている。
おどろいたことにその記述のなかには、当時のサムライ社会では死を覚悟せ
ねぱ書けなかった幕政への批判、藩政の無能や、名君といわれる藩主吉通の陰
の部分、藩主の生母、本寿院の淫乱きわまりない行状まで、小心な文左衛門が
躊躇することなく書きつづっているのである。
その『鸚鵡籠中記』のなかに現われてくる"元禄"は、豪奢絢爛たる美とロマ
ンに刷き重ねられた華麗な世界ではなかった。ここには、そんな"元禄"のイメ
ージとは裏腹な、幕府の秕政(ひせい)に喘ぎ、市場経済の血液ともいう貨幣の
悪鋳によるインフレ、家康の時代からみると十倍という米価の高騰、諸物価の
値上りのなかで、一粒の年貢米(ねんぐまい)もなく逃散(ちょうさん)していく
潰れ百姓や、貧窮ゆえにわが命を絶っていく微禄な武士や町の人びとの暗い表
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情、そして、なまぐさいまでに揺れあがってくる欲望と痴情に彩られた"もう
ひとつの元禄"があった。
朝日家の来歴
名古屋市の蓬左文庫に納められている尾張藩士たちの系図
「士林泝 かい ( =サンズイへんに、回。しりんそかい)」によると 、『鸚鵡籠中
記』の主人公、朝日文左衛門重章の鼻祖、重虎は甲州の出で、農夫から身を起
して武田信玄の足軽となって戦場を往来するが、やがて三河で戦死する。
その子、古田右衛門また剽悍無双、槍をひっ掴んで奔走奮迅、その戦功によ
ってあるじの朝日永寿から"朝日"の姓をゆるされる。武田家滅亡ののち右衛門
は、徳川家康の老臣、平岩親吉に仕え、再度の軍功によって食禄三十石。のち
慶長の役で加増二十石、大坂の陣で五十石と加増を重ねて都合百石。尾張徳川
家御城代組同心となる。これが文左衛門の曽祖父である。
この曽祖父から祖父の惣兵衛重政、父の定右衛門重村とくだってくると、戦
国風雲の草の根を掻き分けて甲斐の国から這い出てきた朝日家の人びとの顔つ
きも、ひどく柔和になってくる。そうであろう。関ケ原から一世紀、最後の叛
乱があった島原の乱からでも五十年。すでに殺伐武弁の通用する世ではなかっ
た。武士といっても、もはや軍隊仕立ての戦闘要員としての用はなく、尾張藩
庁に出仕する地方公務員といった感がつよい。城下の往還を歩いているのは、
いずれも戦場を知らぬ泰平の武士ばかりで、腰の両刀も武士という身分を証明
する象徴でしかなかった。
文左衛門が『鸚鵡籠中記』のなかに書き留めた侍たちの姿も、そんな元禄の
世のサラリーマン武士たちである。武士の魂だといわれた刀を置き忘れてきた
り、うっかりして踏み砕いたり、紛失したり、そしてそのしくじりのために藩
を追われていった侍たち……そんな時代の下級武士たちの表情や、町人や農夫
たちの哀歓を、文左衛門の日記はヴィヴィッドに描きだしている。
ともあれ、曽祖父以来の家職である百石どり御城代組同心としての朝日家の
住居は、名古屋市の東郊、百人町辺にあった。文左衛門の日記のなかに散見す
る記述を束ねてみると、その屋敷地は二百五十坪前後で、門があり、屋敷の周
辺には板塀や生垣をめぐらし、藁葺き平屋だての母屋には両親を、別棟には文
左衛門たちが住み、野菜などは畑で自給自足、といった暮しぶりであったよう
だ。
御城代組同心というのは、百石どりの同心四十八人が御本丸番組と御深井(お
ふけ)番組の二組に分かれ、一組二十四人の同心が三人で一班をつくり、九日
目ごとに登城、宿直勤務をする。その、月に三度の勤番のとき三人の同心の部
下として足軽が数人付くといった構成で、現代でいえば主任級か、よくても係
長といった役どころであろう。
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武芸者志願
文左衛門がサムライの表芸である武術の稽古をはじめたのは
十八歳の時の、貫流槍術の佐分源太左衛門道場だというのだから、いかに泰平
の世とはいえ、そのスタートは随分おくれている。そのかわり、その出発の遅
れをとり戻そうとするのか、この頃からの文左衛門の武術入門、諸道場への通
いぶりはすさまじい。もともと気の多い、飽きっぽいたちだが、この場合の文
左衛門は、まさに手当り次第といった感がある。
文左衛門の武術遍歴の第二番目は弓術であった。槍の稽古をはじめて三月後
の元禄四年九月に、弓術の師、朝倉忠兵衛の名が日記に現われてくる。
こうして槍、つづいて弓の道場に通いだした文左衛門は、次には据物斬りと
柔術に熱中し、友人の蛯江庄左衛門をさそって猪飼忠四郎の道場に出かけてい
った。そしてその場で神文誓紙二通を書いて出し、入門してしまった。
据物斬りは巻藁や、処刑された死体などを斬ってまなぶ刀術で、刀剣の利鈍
をも様(ため)す。猪飼道場に足を運んでいるうちに、その試し斬りの機会が意
外に早くやってきた。
「十四日、晴、空燭烏(そら、しょくう)。今朝、五つ過ぎに予、師の猪飼忠
蔵、同忠四郎に随つて星野勘左衛門下屋敷にて様(ため)し物を見物す……様し
物胴三つ
是は昨日迄、広小路にさらされし惣七、新六、三郎衛門なり。首は獄門にかかる。もつ
とも首は打て来る。 浅井孫四郎 御馬廻役
一の胴を斬る。これ惣七が胴なり……余も
股の肉を切落す」(元禄 5・12・14)
師の猪飼の供をして、弓術師範の星野勘左衛門の下屋敷に出向くと、折から
広小路で晒されていた獄門首の惣七ら三人の首なし死体が運ばれてきた。で、
文左衛門も、
「またとない機会じゃ、存分に試してみよ」と、師にうながされ、
きざみあげるような手つきで刀を引き抜き、叫びごえをふるわせて土壇場の死
骸の股に斬りつけたというのである。が、はずみというのは恐ろしい。その頼
りなげな刀が、どうしたことか見事にきまって、片脚ががつん!
と断ち切れ
た。
〈や、やったぁ!〉
と、ここまではよかったのだが、文左衛門は不覚であった。師と別れての帰途、
友人の渡辺平兵衛宅に寄り、酒を馳走になっている最中、目の前の皿の中の刺
身の色が、にわかに先ほど斬り落した死骸の腿の切り口と重なり……そう思っ
た途端、
「手ふるへて気色悪敷(あし)きゆゑに次の間へ行き休息し……舌強(こわ)ば
り物言ひ定かならず、ほとんど中気に似たり」
そんな哀れな有様であった、と文左衛門はその夜の日記に書き、唾でも吐く
ような調子で、しきりに「燭烏」という文字を書き散らしている。燭烏という
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のは、おそらく触穢 (けがれに触れること=しょくえ)の当て字で、試し斬りをして
身が汚れたという意味なのであろう。以来、これに懲りたのか文左衛門は、ふ
っつりと据物斬りの稽古をやめてしまった。
こうして据物斬りを断念した文左衛門だが、そんなに熱しやすく冷めやすい
彼が、朝倉忠兵衛の弓術道場にだけは熱心に通いつめている。その専心ぶりを
見込まれた文左衛門は、やがて師の愛娘けいを嫁にむかえることになる。
しかし、文左衛門の弓術熱心もそこまでであった。なんのことはない。文左
衛門が夢中になっていたのは、弓よりも、けいの心を射落すことであった。け
いを嫁にしたとたん、文左衛門の弓術熱はけろりとさめてしまった。
稽古を怠けている娘むこを励ますため、師であり義父である忠兵衛は、さま
ざまに心をくだいている。近く行われる藩主の御前での晴の「御的(おまと)御
覧」の競射に文左衛門を(強引に)推挙し、泥縄式の特訓をつづけさせた。
「戌(いぬ)の刻、忠兵衛より手紙来る。曰く、御的御覧有るべき旨仰せ出さ
れ候間(あいだ)、予に明日より来り、的を射る可しと。ここに於いて俄かに弓
を張り、巻藁を射る。去年三、四月の頃より (稽古に)通はず打ち捨てしゆゑ殊
のほか射にくし」(元禄 7・10・26)
「同廿七日、予、忠兵衛へ行く。的を四、五本射て見るといへ共、甚だ射難
きにより巻藁を射る……」
「廿八日、予、朝より忠兵衛へ行く。夕飯たべ、暮すぎて帰る」
と、それからは連日、大あわてで忠兵衛道場に通ってにわか稽古に励んだ。が、
生まれつき武芸ごころのない空っ下手(からっぺた)はどうしようもない。「ち
いっ、またはずれたか」という散々な有様で、さすがの忠兵衛もこれには頭を
かかえてしまった。かくして文左衛門、予選の前に失格。
ところが、そんな頼りない文左衛門が師の猪飼忠四郎から、柔術の免許(ゆ
るし)を授けられているのだ。
「猪飼忠四郎より やわら ( =人ヘンに和。 =柔術)の印可(しるし)の巻物に判
をすへ、余にあたふ」(元禄 6・9・28)
というのだが、入門からわずか一年未満、いかにも嘘くさい免許である。
が、こんなことを気にする文左衛門ではない。あっけらかんとした顔つきで
軍学指南の神谷久左衛門のところへやってきて、
「予、神谷久左衛門軍法の弟子になり、今日、誓紙をなす」(元禄 7・9・29)
と、またしても入門するのである。
文左衛門の武芸志願は、なおもつづいている。軍法の次に入門したのは、恒
河佐左衛門の居合(いあい)術であった。文左衛門が友人の石川瀬左衛門と共に、
この師から居合の印可(いんか)を授けられたのは元禄八年五月二十日のことで
ある。
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「晴。申(さる)ノ刻より雨。恒河佐左衛門、居合の印を予と石川瀬左に授く。
昼過ぎに付き (恒河道場に)至りて之を請ける。萩の花の餅、吸物、酒出る。瀬
左と予と両人して肴代として方金一分(いちぶ)佐左へ遣(つかわ)す」
文左衛門の入門癖はこれだけではすまない。元禄八年六月二十四日、鉄砲場
へ見学に行って玉ぐすりを貰って射ったのが病みつきになって、ついに鉄砲師
範に弟子入りしてしまう。
「予、水野作兵衛鉄砲の弟子に成る。誓盟をなし牛王(牛王宝印の起請文に)血
判」(元禄 8・7・22)
文左衛門の武芸遍歴のなかで、この鉄砲場通いだけは比較的ながく続いたほ
うである。もっとも腕前のほうは相かわらずで 、「予、鉄砲芸に嗜(たしな)む
こと甚だし……」と当人は云うものの、
「七月朔日(ついたち)、予、鉄砲打ちに行く。五ツ打つも皆あたらず」
「七月三日、鉄砲場へ行く。十三発打つも皆はずれ」
「予、玉十打ち一つ中(あた)る」
といった程度であったらしい。
このほかにも文左衛門は、
「予、八田九郎右衛門の兵法(剣術)の弟子となる。今日行き、誓ふ」(元禄 9
・2・26)
と、あちこちで神文誓紙(しんもんせいし)を書き散らし、血判を捺(お)してま
わっている。
こうして文左衛門の日記を繰ってみると、これでだいたい、武芸ひととおり
修業したことになる。なかには目録をうけた槍術、印可をゆるされた居合、柔
術などもあるが、さて実力ということになると、どうにも師匠のヒザツキ (束
修)、謝礼金目あての免状濫発といった感があって、胡散(うさん)くさい。
花嫁のくる夜
文左衛門の結婚は元禄六年(一六九三)四月二十一日、花嫁
は前述の朝倉忠兵衛の娘けいで、文左衛門ときに二十歳。
花嫁の道具が運ばれてきたのは十九日。結婚式は二十一日の酉(とり)ノ刻(午
後六時)から行われている。日記によると、その夜の光景は、
「酉半刻(とりのはんこく)、忠兵衛の娘、駕物(かごもの)来る。挑燈(ちょ
うちん)星の如くに耀(かがや)き、人跡絡繹(じんせきらくえき)たり。彦坂平
太夫 (仲人) 馬上にて来る。渡辺平兵衛、門へ出て対談す。部屋にて待女郎(ま
ちじょろう)おいと、娘と余の三人並び居、引渡す。雑煮、吸物、酒事(さかご
と)終りて、余、源右衛門とともに駕籠に乗じ
忠兵衛方より来る、上下(かみし
も)、扇を用ゆ。鑓(やり)をつかする、戌ノ半刻前に忠兵衛の処へ至る。玄関に野
崎五郎右衛門、前田伝蔵居す。座敷へ出たる人々には、彦坂平太夫……以下客
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の名を省略……」
という有様で、盃ごとが済んだあと文左衛門は駕籠で朝倉家に出向いて、忠兵
衛夫婦や縁者に対面、酒、雑煮、吸物の膳にむかったのち帰宅。
「忠兵衛の内(家)より雨降り出す。かばやき町にて四ツの鐘(午後十時ごろ)を
聞く」
するとこんどは忠兵衛が朝日家にやってきて、挨拶をかわし祝いの膳にむか
う……と、この夜のあわただしさが描かれているのだが、どうしたことか文左
衛門の日記には、花嫁けいを迎えての記述は一行もない。新郎文左衛門の筆は、
花嫁などそっちのけにして、ひたすら結婚式の馳走の品々をえんえんと書きつ
づっていく。
「献立
引渡しさんぼう盃。雑煮 こんぶ、たつくり、餅 ふだん草、花かつほ、大こん、盃、
吸物ひれ、あつめ汁 塩たい、大こん、ごほう、膾(なます) なよし、いか、たつくり、
ささがき大こん、たで、ほうふ、 めうがの紅、香之物、二汁 こち、氷こんにやく、 煮
物 くづし、山のいも、ごほう、竹の子、ふき、あつ物 大根、葉、焼物 かまぼこ、干きす、
取肴 するめ」
こんなところはいかにも筆まめな、記録マニア文左衛門の面目躍如たるもの
があるのだが、おかげで元禄の人びとの食卓を垣間見ることができる。
「忠兵衛殿御出(おんいで)候時(の献立)
引渡し雑煮前の如し、吸物前の如し、冷酒、取肴 のし、数の子、するめ、かん
酒、吸物 鯛、肴、熬物(あつもの) しきふ、かまぼこ、取肴 小梅、からすみ」
新郎の文左衛門は多忙である。一夜明けた二十二日、雨降りしぶくなかを忠
兵衛方の親類への挨拶廻りに出向き、挨拶しては酒を飲み、酒を飲んでは挨拶
にまわり……こうして祝宴はえんえんと二十四日までつづくのである。
二十四日は朝倉・朝日の一族縁者が朝日家に会して酒宴をくりひろげる。瞽
女(ごぜ)のおもんが祝(ほ)ぎ唄をうたって宴を盛りあげ、小唄をうたう者、琴
を弾く娘、あちらこちらで盃が交されて小一日、やがて主人公の文左衛門もろ
ともに泥酔、
「(酒宴)数刻、皆酔戯す……座中多く吐逆す」
というから、よほど飲んだのであろう。正体のなくなった惣兵衛老人は駕寵で
運ばれ帰っていった。
この日の献立は、
「指身(さしみ) すすき、たです、いり酒、九年母、わさび、すいせんのくり、汁 塩鴨、
香の物いろいろ、筒干 竹の子、梅干、くしこ、焼あゆ、焼物 かまぼこ、嶋ゑび
酒一通りでて吸物 鰌、生椎茸、麩、煮〆、塩辛 がうな、鮓、吸物 すすきのわた、
水物 くり、なすひしみ、大こん花、取肴 からすみ、小梅、かずのこ、いろいろ」
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──こうして朝日家の嫁になったけいは、翌、元禄七年九月懐妊、さらに翌
八年三月十日、駈けつけてきた取揚婆、腰抱婆らの手によって巳ノ刻(午前十時
ごろ)女子誕生。歓喜した文左衛門はその嬰児にこんと名づけた。
親父どの攻略
文左衛門が父、定右衛門重村(御城代組同心のち御天守鍵奉行)
の跡式をついで名古屋城、御城代組御本丸御番を命じられて初出仕(はつしゅ
っし)するのは二十二歳のとき。といって、文左衛門のこの家督相続がすんな
りいったわけではない。紆余曲折、じつに涙ぐましいばかりの辛抱の末によう
やく掴んだものだ。
文左衛門が朝日家を嗣ごうという第一番の障碍は、父の定右衛門であった。
嫁も貰ったし、この辺りで朝日家をついで……という文左衛門を引きすえ、定
右衛門は御城代組勤仕の心労の数々を例にあげ、くどくどと語りだしたのであ
る。
「よう聞け文左衛門……儂(わし)が御城内へ初出仕したのは……」
定右衛門の、いつ果てるとも知れぬ長ばなしに文左衛門はうんざりした。要
するに定右衛門は、朝日家当主の座を手ばなす気など毛頭ないのである。一計
を案じた文左衛門は、親類の渡辺弾七や渡辺武兵衛に泣きついた。定右衛門が
苦手の二人である。翌日、弾七たちがやって来た。もちろん、定右衛門に隠居
をすすめるためである。
「考えてもみよ、定右衛門」
と弾七たちは、渋い面(つら)つきで云う。
「おぬしも、もう年だ。御本丸に詰めていても、いつ火事、地震が襲ってくる
かも判らぬ。その突然の場で、霧眼 (かすみ眼)のおぬしがうろたえ不覚をとれ
ば朝日の家はどうなるか。一日も早う御役儀差し上げ(隠居)を願い出られよ」
弾七たちに説得された定右衛門は、
「……そうまで仰言(おッせ)るなら」
しぶしぶ頷いて翌日、御城代組の小頭、相原久兵衛の家を訪れ隠居願を提出。
が、帰宅してからが大変であった。その夜、定右衛門は文左衛門に紋服を着せ、
仏壇に燈明をあげるとおもむろに礼拝を捧げ、ひどく勿体ぶった顔つきで振り
返り、「よいか」と文左衛門に云った。
「もはや、朝日家のあるじはお前である。その心算(つもり)でいよ……そもそ
も、わが朝日家と申すは──」
文左衛門を前にした定右衛門は、おもおもしげな口ぶりで、またしても朝日
家の来歴を物語りはじめたのである。が、その途中からふいにわが身の隠居ば
なしになり、愚痴っぽい調子で、
「……これに依つて役銀も出るなれば、手前殊之外(ことのほか)つめずしては
-9-
成り難く、随分諸事覚悟せよとくどくど唾をやく」
つまり、家督相続をして新しく役職に就いた藩士は"御礼銭"として藩主へ役
銀を差し出さねばならない。このためわが家の家計もよほど切りつめ倹約せね
ば暮し向きが立つまい。で、お前もそのつもりで覚悟していろよ、と文左衛門
に掻きくどくのである。
「予、その迷惑さ、対悩 (脳)響胆鬱腸一時に九回するかと怪しまる」(元禄 6
・7・11)
いつ果てるともない親父の愚痴に"頭にきて、腹わたがでんぐり返る思い"で
あったと文左衛門は日記の中で溜息する。
が、定右衛門が隠居願を出したからといって、すんなりと家督が相続できた
わけではない。なにしろお役所仕事である。鬱陶しいくらい時間がかかる。待
望の切紙(きりがみ)がきたのは、翌、元禄七年の三月二十一日である。
「晴天。酉(とり)ノ二刻(小頭の)源右衛門、久兵より連(れんの)切紙来る。
明朝五ツ前に三左衛門殿(城代)へ親と同道つかまつれと申し来たる」
「同廿二日、親の御役義兼ての願ひの如く御免(おゆるし)……予、今日落梅
之詩つくる。
得春字
流水几前花落辰
満空玉雪委泥塵
香魂一夜馬嵬夢
従是姑山減却春」
と丈左衛門は詩などひねくりまわしていい気なものだが、これで相続がすんだ
わけではない。まだまだ煩雑な手続きと、藩主へのお目見えの機会を得るため
のうっとうしいくらいの長い時間と根気が必要であった。お目見えが得られな
ければ家督を相続することができないのである。
御目見の衆
主君と家臣の主従関係が確立するのは、お目見えの時である。
家督の相続がそのまま、家禄の相続というこの時代では、お目見えは公的にも
私的にも、藩士の身分、地位を確立する起点となっていた。父子といえども、
私的な契約による家督相続は許されなかった時代である。以下の文左衛門の日
記には、その「御目見(おめみえ)」の文字がひしめいている。
「十七日、昨日、卯ノ刻、予、御目見に出る」(元禄 7・5・17)
「廿日、晨(あさ)の間曇。辰ノ刻、予、御目見に罷り出る」
「廿一日、公、御下屋敷へ御成り。御目見ノ衆大勢にて、どやつき(殺到し)
御供之節、御先へ参るな、と叫ぶといへ共、大勢崩れ立ち聞き入れず、御先へ
走りぬく……」
「廿二日、巳ノ刻、公、大殿様へ御成り。予、四つ過ぎに出る。両度御目見
つかまつらず」
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「廿三日、暁より雨降、辰ノ刻止む。予、御目見に出るも(藩主)御出なし」
「廿四日、晴天。卯ノ七点。予、御目見に出る」
「廿五日、予、御目見に出、御出なし」
「廿六日、辰ノ七点。予、御目見に出」
こうして文左衛門の"お目見え"運動は、やがて「土用に入る、極暑蒸すが如
し」という炎暑をくぐりぬけ「雪降る、厳寒膚(はだ)を裂くが如し」というな
かで、連日、つづけられていく。
なにしろ、数十人もの裃(かみしも)すがたの御目見の衆が、藩主の視線を浴
びるため、城内の大腰掛(下級藩士たちが主君に拝謁するための場所)や、その行く
先々に待ちうけて平伏するのである。時にはお供衆の制止をもきかず、糸の切
れた奴凧さながらにどっと駈け走り、われ先に、人よりも前に坐ろうと場所を
求めて争うのである。このため幾度か御国御用人から「自今、××御門に一切
居るべからず 」「御目見に罷(まか)り出(いで)、昼迄に (藩主)御出の沙汰なく
ば帰る可し」などの警告を受けている。
とはいえ、御目見の衆の辛労もまた並たいていではない。くる日も来る日も
大腰掛に坐りこんで、いつお成りになるともしれぬ殿様を待ちかね、ときには、
「去る人の子、退屈やしけん、涙をほろりほろりと流したる有(あり)と」
ということもあった。こうした御目見の衆のあいだでは、どこから湧いたかも
知れないデマも、まことしやかに囁きかわされる。
「御目見の衆は今日より勝手次第に、新番頭(しんばんがしら)の町野助左衛
門宅へ行くべしとの御意(ぎょい)あり」
という話を耳にした文左衛門は、早速、おなじお目見えの友人と一緒に、町野
邸に出かけ、玄関に置かれている帳面に記名して帰ってきた。以来、御目見の
衆たちも押しかけ署名してくるという日がつづいたが、どうにも様子がおかし
い。で、玄関番に訊いてみたが、ぽかんとしていて要領を得ない。結局、それ
が嘘ばなしであると判ったのは数日後のことである。
「……故に是より後は行かず」
デマに振りまわされて無駄足をはこんだ文左衛門は、いまいましげにこう書
きとめている。
この、お目見えに奔走している人びとのあいだにも、運不運がある。七月十
五日に、文左衛門より後に願い出た若尾弥次右衛門の跡役を伜の政右衛門に仰
せつけられる旨、沙汰があった。その七月二十九日、その日は篠つく雨でお目
見えに出る衆わずか三十九人であった。その三十九人に、思いがけなく、
「当人の名、ならびに頭(かしら)の名、親の名を書付けて出すべし」
との申し付けがあった。三十九人は躍りあがった。いよいよだな。けれど、そ
の"願い書"は糠よろこびであった。
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「九月廿五日、城代組、加藤清左衛門、平岩弥左衛門、隠居相済み、家督相
違なく世伜(せがれ)に下さる。
余が親も前に隠居願ふといへども、此の度済まず、是非ともに思案に落つる。
余、鬱々として楽しまず」(元禄 7・9・25)
ここにきても、まだ文左衛門の名は出てこない。忿懣(ふんまん)やるかたな
い文左衛門は「終日大酒し」乱酔のあまりその日の日記に意味のわからない歌
を書きつらねている。
老いぬれば枯木とぞなる五十余りただ酒呑まん夢の浮世に
文左衛門が念願の朝日家の当主になるのはその年の暮、十二月十日のことで
ある。
この日、城代組同心小頭(こがしら)の相原久兵衛、渡辺源右衛門同道のもと
に城代、沢井三左衛門邸に出向いた文左衛門は、そこで首尾よく「隠居相済み、
家督相違なく世伜(せがれ)文左衛門に下しおかる」の沙汰をうける。が、こう
なると文左衛門も負け惜しみがつよい。お目見え運動八カ月間の愚痴や泣きご
となどけろりと忘れたように、
「……願ひの趣きを昨日三左衛門殿へ指し出ししに、早や今日に相叶(あい
かな)ふ」
といった調子で日記に書きこんでいる。もちろん、前日の日記のどこを引っく
り返してみても、三左衛門に願い書を提出したという記述など一行もありはし
ない。数カ月まえ祈るような思いで文左衛門が願い書を差し出したくだりは、
すでに読まれたとおりである。
御畳奉行どの
文左衛門出世する
文左衛門が"もっけもない"幸運を掴んで御畳奉行に就
任するのは二十七歳の時である。御畳奉行というのは、この元禄期あたりから
ようやく一般化されるようになってきた"畳"の需要が、にわかに増えたため設
けられた役向きである。
江戸幕府で、御畳奉行が三人置かれたのは元禄九年(一八九六)十一月。文左
衛門が拝命するのはその四年後だから新設早々の、新しいもの好みの文左衛門
にはうってつけの職名だし、御畳奉行の仕事といっても、べつに忙しいわけで
はない。畳の新造、取替、修繕、調査といった御用を管理するだけで、あいか
わらずのんびりしたもので、そのうえ御役料四十俵を給され、警備係長から一
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躍、管理職の用度課長といった席に抜擢されたのである。
文左衛門にしてみれぱ、役付き手当のこの四十俵はなによりもありがたかっ
たし、百人町の同心屋敷を離れて、建中寺から善光寺街道(現国道19号線)を越
えた西の、三の丸に近い白壁町と撞木町の間(あい)の主税(ちから)町(四丁目付
近)の、三百石クラスの屋敷に移り住んだことが嬉しかったようだ。
それに新しい仕事といっても、仕事のほとんどは手慣れた部下の手代(てだ
い)や御畳蔵番たちが取り仕切ってくれる。文左衛門は、その部下の仕事をみ
て頷いてさえいればよいのだ。なにしろ、一人分の仕事を三人で分担するとい
った、仕事よりも武士の員数のほうが多い時代である。暇がたっぷりあるのは
前の、御本丸御番のころとかわりはない。
で『鸚鵡籠中記』に描かれている御畳奉行としての記述も、きわめて微量で
ある。新奉行として登場した文左衛門の活躍ぶりを期待して、まる一日『鸚鵡
籠中記』の頁を繰り返し、引っ繰り返し探し求めたのだが、結局、その仕事ぶ
りらしい記述を数ヵ所見出しただけであった。
奉行就任の翌日、こんど配下になる御畳方の手代四人、それに御畳屋治兵衛、
弥左衛門などが挨拶にやってきたほか、べつに(文左衛門としては)あらためて書
き留めるほどの出来事もなかったのであろう。以来、日記のなかには時折、畳
見分(検査)などに出向したことなど二、三行、それもきわめて無表情に書かれ
ているだけである。
「御具足多聞へ出る(出向)。今度、瑞竜院様 (二代光友)、泰心院様(三代綱誠=
つななり)の御具足請取ゆゑ、新に畳替。縁がはに新規に薄縁(うすべり)敷込の
由……」(元禄 14・7・23)
「万松寺へ政右と畳見分に行く。予、昨夜より風邪悪感(おかん)あり、昼す
ぎ帰り、悪感つよく衾(ふすま)を重ねて臥す。熱あり」(宝永 2・2・22)
ということだが、これだけの記述ではまったくとりつくシマもない。新製品と
して登場した"畳"という元禄文化を人びとはどのように受けとめたのか、その
値段は、また藩邸や城下での利用度、普及度は、などと御畳奉行の目を通した
記録を期待していたのだが……。もっとも文左衛門のこの『鸚鵡籠中記』三十
七冊は、書くことが何よりも好きな文左衛門が自分の愉しみとして書いたもの
だ。世間に公開するためでも他人に見せるために書いたものでもない。それを
後世の私などがとやかく云うのは、文左衛門にしてみれば余計なお世話、筋ち
がいというものであろう。で、ここのところは文左衛門の筆のすすむにまかせ
て頁を繰っていくとしよう。
御畳奉行を拝命した文左衛門が嬉しかったのは、役料の四十俵だ。もともと
が知行(ちぎょう)百石。わかりきったことだが、知行百石というのは、百石の
米の穫(と)れる土地を拝領しているということで、実収は米四十石。白米にす
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ると搗(つ)き減りして三十五石、俵に直して約百俵。その上に四十俵もの役料
がころげこんできたのである。軍役は槍一本。槍持ち、中間(ちゅうげん)が一
人。普通の生活をしていれば充分すごしていける収入である。元禄の一つ前の
貞享年間に書かれた『豊年税書』によると、夫婦二人、子供一人、作人四人の
家計で、一ヵ年の入用は生活費その他雑費をふくめて米十八石、小判に直すと
十八両。このうち十二石が食費だという。
こうして文左衛門は、この四十俵の役料とともに主税町の御畳奉行の屋敷に
移っていく。この界隈は中級武家屋敷の町で、名古屋市蓬左文庫に現存する城
下町古図「尾府名古屋図」にも、主税町筋に、
朝日文左衛門
と記された屋敷を見ることができる。
文左衛門の俸給
ところで、この文左衛門の収入源だが、前述したように、
元禄の頃は諸大名家では家臣の知行地 (領地支配権)を廃して蔵米制によるとい
う傾向になってきていたのだが、尾張藩はその例外で、依然として地方(ぢか
た)知行制をとりつづけていた。寛永八年(一六三一)の記録をみると百石以上
の知行取りは九百三十一人、そのうち千石以上が八十余人。もちろん、文左衛
門も小なりといえども給人、地頭 (じとう=知行取り)のひとりである。時にはひ
とかどの面つきをして庄屋を呼びつけ、年貢をきめ、村役を叱りとばしたりな
どしている。
「今日、野崎村へ検見(けみ)に行く筈のところ、庄屋来て免を請ひし故止む。
長良村の免四ッ八分五厘、野崎村の免三ッ九分五厘、ともに去年のに一分づつ
上がる」(元禄 9・10・2)
右の野崎村、長良村というのは御城代組同心衆の知行地である。文左衛門の
御畳奉行としての役料は藩庫から四十俵の禄米を支給されるが、知行地は元の
まま。で、文左衛門もよく段之右、三郎左、儀平といった友人の御城代組同心
たちと知行地へ検見、つまり年貢の課税のため稲の稔り具合を調査に行く相談
をしている。
だが、村方としてはそんな同心衆たちにぞろぞろ押しかけられては接待の酒
代、肴代とモノ入りがかさむ。そこで毎年その時期になると先手をうって、庄
屋や頭百姓たちは同心屋敷を訪ねて行って、なにとぞ 、「検見なしに仰せつけ
下され候へ」と懇願する。
文左衛門たち同心衆にしても、わざわざ肥臭い田舎まで足を運ばなくても済
むのだから、手間がはぶけて好都合なのである。そこで同心衆があつまって、
年貢の賦課率を算定して、
「長良村、去々年の免の通り四ッ七分五厘に申しつくるなり。(そう云えば庄
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屋たち)畏(かしこ)み奉ると請け合う……」(宝永 5・9・10)
ということになる。免とは、全収穫の一部から租税をとり残部を免(ゆる)して
やるという意味で、一石の収穫に対して租税一斗が免一つである。
で、こうして庄屋たちに受状へ判を捺させると、あとはその年貢率の交渉成
立を祝って酒、こわめし、吸物などが出てき、まずは落着ということになる。
年貢地はこういうことだが、例の、役職に対する俸禄、役扶持を貰うには制
規の券証、米手形を蔵奉行まで出さねばならない。もちろん、いつでもという
わけではない。蔵米給付の時期は春、夏、冬の三期に分けられている。文左衛
門はその米を、
「役料手形七斗八升かへに払ふ、六両三百余」(元禄 16・3・5)
「御役料の米手形を御蔵へもたせ遣(つか)はし、四分通り御買留の金一両と
五十六匁請け取る」(元禄 16・7・1)
などと、藩の御買留の手数料を差引かれたりしながら現金化している。
二人の妻に妾ふたり
文左衛門が結婚をしたのは元禄六年(一六九三)二十歳
の時であった。が、女ごころは変りやすい。新婚当初、内気で、花はずかしき
風情であった新妻のけいも、娘こんを生んだあとは手のつけられないヒステリ
ィ女房に変貌している。
「けい、禽妬出づるにより、吾が憂鬱、堪ゆべからざるが如く、かつ懼(お
そ)る」(元禄 13・10・2)
というのが御畳奉行に就任した年、結婚七年目の日記である。懼る……という
ところをみると、よほどすさまじく嫉妬に荒れ狂ったのであろう。
翌十四年二月、この無類のやきもち女房は城下に流行した疱瘡に罹(かか)っ
て、看病する文左衛門を悩ませている。顔と手にできた庖瘡は膿(うみ)をもち
熱もでてきたのか、けいはあたりかまわぬ大声で「ああ痛い、痛い」と呻きご
えをあげる。近所の医師の通庵が脈を診ているあいだも、声を叫(あ)げつづけ
る。その夜、顔と手の庖瘡が膿みきってしまったのか、その痛みは他の部分に
うつり、
「……痛し、痒(かゆ)しとて、堪へかね、熱もつよく妄語あり、高く哥(歌)
うたひ、また笑ひ、また浄るり……」(元禄 14・2・15)
と、突然あらぬことを口ばしり、高い声で唄ってみたり、かと思うと気味の悪
い顔つきで笑いだし、次には浄瑠璃を唸りだすという有様である。文左衛門と
母親が、あまりのけいの狂態におろおろしているうちに夜が明けてしまった。
が、その夜もまた、
「狂言妄語、甚だ痛む由、悶ゆるが如し……」
文左衛門を悩ませたけいの疱瘡も、十日ほどでようやく癒った。しかし、平
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癒したからといっても顔のアバタだけは残る。このことがけいをさらにヒステ
リックな女にし、病的なまでの嫉妬心を掻きたてさせるようになっていったの
であろう。
そのころ文左衛門には、妾同様の、
"茶の間の女"
女中の連(れん)がいる。つまり、文左衛門は一つ屋根の下に妻妾を同居させて
いたのである。もっとも、外泊を許されなかつた当時の武士社会では、べつに
めずらしいことではないのだが、悋気症のけいにしてみれば、穏やかでおれる
筈はない。文左衛門をみると、
「ええい、お前(みゃい)さまというひとは……」
と武者ぶりつくように声を荒げ、目を吊りあげる。文左衛門にしてみれば、身
から出た錆とはいいながらそんな険悪な、鬱陶しい家に居る気はしない。すっ
かり女房恐怖症になってしまって、友人宅を転々として深夜まで酒を飲みにま
わっている。その午前さまの文左衛門の帰宅を待ちかまえてけいは……と、連
日、そんな悪循環を繰り返している。
「地獄だな」
文左衛門もそう思うのだが、気の弱い彼には、酒の他に逃げ場がなかったの
であろう。この間(かん)、妾の連が妊娠している。青くなった文左衛門は、あ
わてて知りあいの中条流の医師に頼んで処置をして貰い、
「正月十七日、連、安く堕胎」(元禄 16・1・17)
その夜、吻(ほ)っとした思いで文左衛門は、日記をひろげて一行、そう筆を
走らせている。思ったより費用もかからなかったのであろう 。「安く堕胎」な
どと安堵しているところなど、いかにも小心な文左衛門の浮気らしくて可笑(お
か)しい。
文左衛門はこの悋気妻と、宝永二年 (一七〇五)一月七日、離婚する。結婚十
二年目の破局である。宝永二年乙酉(きのととり)一月七日、午前十時ごろ、け
いは広井町の実家へ帰っていった。
離縁状は夕がたの四時ごろ、文左衛門の父、定右衛門重村がけいの父、朝倉
忠兵衛のもとへ持参した。朝日家が迎えた嫁だからである。
「申(さる)ノ刻、親より予が妻離別する由の状を忠兵衛へ遣(つかわ)す。予
は肝煎(きもいり)、彦坂平太夫へ遣す」
文左衛門自身もまた、離別の理由を仲人の彦坂のもとに書きおくった。江戸
時代の結婚は家同士のものであったから、離別もまた婚家先の事情によって決
められてしまう。夫婦の絆(きづな)、子は鎹(かすがい)などといっても、生ま
身の人間の関係など儚(はかな)いものだ。ときに文左衛門三十二。こののち日
記のなかにけいの名が出てくることはない。
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こうして文左衛門は、ふたたび生気を甦らせて『鸚鵡籠中記』のなかを闊歩
(かっぽ)していくのだが、男というのは面妖(みょう)なものでいままで頭の上
におおいかぶさっていたけいがいなくなると、急に茶の間の女、連(れん)への
興味も失せてしまったのか、その後、連の名もまた日記の中にみることはない。
久しぶりで独身生活をたっぷりと味わっている文左衛門を、悪友の神谷段之右
衛門や加藤平左衛門などが揶揄(からか)うと、
「なにを仰言(おッせ)る」
そういうと文左衛門は、顔の前で掌(て)をひらひらとふった。
だが、そんな文左衛門の自由な時間もながくはなかった。もともと女が嫌い
なわけではないのだ。おとこ三十二歳、独り寝の寂しさを怺(こら)えかねたの
か、けいと離婚した年の秋、文左衛門は海東郡東条村の百姓娘 りよを客分 (内
妻)として屋敷に入れている。
やがてりよの道具、長持や箪笥(たんす)、葛籠(つづら)などが運ばれてき、
内輪で結婚式をすませたのが翌、宝永三年九月二十七日。
「巳ノ刻、双親来たり、客分を妻と為(す)る。よつて祝儀の強飯、吸物、酒
など出す。謡曲これ有り万歳を祝ふ……」
内縁の妻から正式に迎え入れるまで一年近くかかっているのは、りよが百姓
の娘であったからだ。ひとまず藩士の古田勝蔵妻の妹として入籍し、その手続
きに時間がかかったのである。
文左衛門の後妻におさまったりよは、二年後の宝永五年(一七〇八)すめ と改
名している。
改名の理由はよくわからないのだが、その前年、女子を死産したことによる
のかもしれない。が、改名したもののすめの死産はなおつづく。二度目の死産
は改名の翌年、宝永六年六月であった。
「すめ腹亦すこしづつ痛む。穏 (産)婆秘行(ひぎょう)を尽す。背二重になり
出すを、もみ直して産ましむ……女子胎死……胎死子を西趣院へ遣(つかわ)し
埋めしむ」
この二度の出産に失敗した後ごろから、すめは先妻のけいに輪をかけたよう
な悋気女房になる。
「ああ、こやつもか……」
思わぬ計算ちがいであった。野育ちの百姓娘なら素朴だと思っていた。が、
素朴だとみえたのは粗野であった。その野性を丸だしにしてすめもまた嫉妬に
暴れ狂うのである。そんな颱風のような呶声、罵倒、叫喚にくらべれば、武士
の家庭で躾られたけいの悋気などは団扇の風であろう。文左衛門は頭をかかえ
てしまった。
文左衛門がふたたび乱酔し、深夜の帰宅をつづけるようになるのはこの頃か
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らである。
ところが、おどろいたことに文左衛門は、そんな最悪の状況の中にあって、
稀代の妬妻すめの目を盗んでひそかに女中の えんに情をかけていたのである。
大胆といえば大胆だが、そんなつまみ喰いがいつまでも露見しないわけはない。
やがて発覚、
「このオジョロまむし(お女郎蝮)め」
と、えんに躍りかかろうとするすめを文左衛門は制(と)めたが、嫉妬で目前が
真っ暗になっているすめである。こんどは文左衛門に掴みかかって悪態のかぎ
りをつくし、あげくの果てに、
「廿七日、戌(いぬ)前、すめ悪妬の余り、そよ一人つれ弥四郎へ行き宿す」
(正徳元 6・27)
と家出してしまった。このことを知ったすめの両親は、弥四郎の家に泊りこん
でいるすめを口が酸(す)くなるほど説得して、ようやく翌日、帰ってくること
になるのだが、それからがまた大変である。
「廿八日、双親度々催促して、昼前すめ来る。いぶり詈(ののし)り大言止ま
ず……えん、堪へがたく、未(ひつじ)半出で去る」
すめが帰ってきたと思うと、こんどは妾のえんが家を出てしまった。文左衛
門はその嵐の中にあって、ただうろうろしているばかりである。さいわい、四
日目の午後四時前に妾のえんが帰ってきた。
「七月朔日、大幸にして、えん申(さる)前帰り来る」
大幸というのは大幸運といった意味なのであろう。だが、えんの帰還をまだ
手放しで喜んではいられない。以来、文左衛門・えんの二人はすめの、黒けむ
りをあげるばかりの嫉妬に黒焦(こ)げにされつづけていくのである。そのすさ
まじさが、どれだけ文左衛門をふるえあがらせたか、二ヵ月後の日記に書きと
められたその一行をみれば、説明は不要であろう。
「八月二十七日、未(ひつじ)より雨、終夜降る。すめ悪妬ほとんど通宵寝(い)
ねず」
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