塩新田の歴史と風土 Shioshinden.com 正保時代(17 世紀)の遠江国の地形 (蓮左文庫所蔵正保遠江国絵図) 江戸時代中期の磐田南部の地図 塩新田 (磐田教育委員会所蔵絵図) 江戸時代後期の磐田南部の地図 南 北 塩新田 (遠州御鷹浜絵図) 明治時代の中遠地方の地図 塩新田 塩新田の航空写真(昭和44年) 塩新田の航空写真(平成17年) 平 成 一 四 年 初 春 筆 者 て 深 甚 な る 謝 意 を 表 す る と と も に 、 塩 新 田 の さ ら な る 発 展 を 祈 念 す る 。 な お 、 資 料 の 収 集 や 昔 話 の 聞 き 取 り に 大 変 お 世 話 に な っ た 今 は 亡 き 大 橋 敏 夫 さ ん 及 び 大 庭 し づ ゑ さ ん に 対 し 、 こ の 場 を 借 り も し 事 実 の 誤 認 や 誤 字 ・ 脱 字 等 が あ れ ば お 許 し 願 い た い 。 そ の 後 の 変 遷 、 そ し て 誇 る べ き 先 人 達 の 努 力 の 足 跡 や 伝 統 的 気 質 な ど を 知 っ て も ら お う と 推 敲 を 重 ね た の で あ る が 、 浅 学 非 才 、 と な ど は 、 私 に 取 っ て ま さ に 目 か ら 鱗 で あ っ た 。 よ っ て 、 こ れ か ら 塩 新 田 を 支 え て い く 若 い 人 達 に も 郷 土 塩 新 田 の 生 い 立 ち や っ た こ と や 、 か つ て 仿 僧 川 は 塩 新 田 の 北 側 を 流 れ て い た こ と 、 そ し て 昔 の 塩 新 田 の 村 人 は 操 船 に 優 れ 漁 師 を 本 業 に し て い た こ と に か く 、 調 べ た り 話 を 聞 い た り す れ ば す る ほ ど 塩 新 田 に つ い て の 再 発 見 や 感 動 が あ り 、 中 で も 塩 新 田 は 浜 松 藩 の 所 領 で あ と め た も の を 手 直 し し て 製 本 化 し た の が 本 書 で あ る 。 近 所 の 高 齢 者 に い ろ ん な 昔 話 を 聞 い た り す る と こ れ が 面 白 く 、 平 成 一 二 年 に 「 塩 新 田 の 歴 史 と 風 土 」 と し て 取 り 急 ぎ 冊 子 に ま あ る 時 、 知 人 か ら 「 塩 新 田 で は 昔 は 塩 を 作 っ て い た の か ? 」 と の 質 問 を 受 け 、 市 の 図 書 館 で 塩 新 田 に 関 す る 資 料 を 調 べ た り 、 は じ め に 歴 質 業 勢 史 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12 6 4 1 頁 次 地 目 産 参 考 図 書 関 連 年 表 気 る に 、 塩 浜 新 田 か 、 塩 浜 の 新 田 が 転 じ て 塩 新 田 と 呼 ば れ る よ う に な っ た の で あ ろ う 。 な お 、 地 名 大 辞 典 ( 角 川 書 店 ) に よ る と 、 塩 新 田 の 名 称 は 「 当 地 で 塩 が 取 れ 、 塩 浜 と 称 さ れ た こ と に よ る 」 と な っ て い る 。 要 す っ て お り 、 塩 新 田 は そ の 名 称 か ら も 塩 田 確 保 を 主 目 的 に 開 発 さ れ た 新 田 で あ る と 考 え る の が 自 然 で あ る 。 当 時 、 こ の あ た り は 塩 浜 新 田 と 呼 ば れ 、 同 じ 頃 、 大 之 郷 に よ り 開 発 さ れ た 今 之 浦 川 対 岸 の 三 ツ 合 新 田 と と も に 、 以 後 塩 造 り を 行 衛 新 田 と な り 今 日 に 至 っ て い る 。 塩 新 田 の 南 部 は さ ら に 中 泉 の 善 右 衛 門 ( 途 中 で 死 去 ) 、 続 い て 南 田 の 庄 屋 伊 兵 衛 に よ り 開 発 さ れ 、 延 宝 二 年 ( 一 六 七 四 ) に は 伊 兵 開 発 地 は 「 草 野 ( 畑 ) 」 と 「 塩 浜 ( 塩 田 ) 」 に 分 け ら れ 、 寛 永 二 年 か ら 塩 新 田 は 草 野 の 役 米 四 石 五 斗 五 升 を 納 め て い る 。 そ の 後 、 た と の 記 録 も あ り 、 一 六 二 五 年 以 前 に も こ の 地 域 で 何 ら か の 活 動 が 行 わ れ て い た ら し い 。 六 一 二 ) か ら 元 和 四 年 ( 一 六 一 八 ) に か け て 砂 浜 の 見 取 場 の 改 出 ( 推 量 に よ る 検 地 ) が 行 わ れ 、 二 斗 五 升 の 野 米 が 差 し 出 さ れ て い 1 分 郷 分 地 に な っ た こ と が 記 録 さ れ て い る 。 よ っ て 、 こ れ を 根 拠 に す る と 塩 新 田 の 起 源 は 一 六 二 五 年 と な る 。 た だ し 、 慶 長 一 七 年 ( 一 浜 共 ニ 無 紛 場 所 ニ 御 座 候 」 と あ り 、 寛 永 弐 丑 之 年 、 つ ま り 、 寛 永 二 年 ( 一 六 二 五 ) に 塩 新 田 は 大 之 郷 村 に よ っ て 開 発 さ れ 、 同 村 の 大 杉 家 に 伝 わ る 文 書 に は 、 「 塩 新 田 村 之 義 ハ 八 拾 九 年 以 前 寛 永 弐 丑 之 年 、 高 室 金 兵 衛 様 御 代 官 之 節 、 大 之 郷 村 開 発 之 場 所 ニ 而 、 野 そ の 昔 、 仿 僧 川 は 現 在 の 塩 新 田 の 北 側 を 流 れ て お り 、 塩 新 田 地 域 は 大 之 郷 に 属 す る 野 浜 ( 浜 に 通 ず る 原 野 ) で あ っ た 。 大 之 郷 の 塩 新 田 が 歴 史 の 舞 台 に 登 場 す る の は 一 七 世 紀 に な っ て か ら で あ る 。 歴 史 一 万 石 余 が 奥 州 白 河 藩 の 領 地 と な り 、 以 後 、 明 治 維 新 ( 一 九 六 八 ) ま で 塩 新 田 は 白 河 藩 領 と な っ て い た 。 明 治 維 新 時 の 記 録 に は 、 そ の 後 、 弘 化 三 年 ( 一 八 四 六 ) に 浜 松 藩 主 が 水 野 忠 精 か ら 井 上 正 春 に 変 わ る 時 、 川 東 組 ( 天 竜 川 以 東 の 浜 松 藩 の 村 々 ) 四 十 カ 村 と の 記 録 も あ り 、 塩 新 田 は 浜 松 藩 と 深 い 関 係 を 有 し て い た よ う で あ る 。 浜 松 藩 主 の 御 用 船 関 連 の 作 業 に も 従 事 し て い た ら し い 。 ま た 、 船 役 米 、 魚 猟 運 上 を 納 め 、 高 掛 り 諸 役 ( 付 加 税 ) が 免 除 さ れ て い た そ の ほ か 興 味 あ る と こ ろ で は 、 前 述 の 大 杉 家 の 文 書 に 塩 新 田 に 関 す る 記 述 と し て 「 浜 松 御 在 城 之 砌 御 船 御 作 事 御 用 相 勤 」 と あ り 、 と な っ た 。 そ し て 、 こ の 前 浜 の 排 他 的 使 用 権 が 地 曳 網 を 通 じ 、 そ の 後 の 塩 新 田 の 発 展 に 大 き く 寄 与 す る の で あ る 。 と 下 大 之 郷 の 間 で 同 様 の 紛 争 が 生 起 し た が 、 最 終 的 に 前 浜 は 「 塩 新 田 下 大 之 郷 両 村 地 付 之 浜 」 と し て 決 着 し 、 塩 新 田 が 管 理 す る 浜 正 徳 四 年 ( 一 七 一 四 ) の 裁 許 に よ り 、 前 浜 は 上 大 之 郷 、 下 大 之 郷 及 び 塩 新 田 の 所 有 浜 で あ る こ と が 認 め ら れ た 。 そ の 後 も 上 大 之 郷 村 の 膨 張 や 新 田 の 開 発 に 伴 い 近 隣 村 と の 争 い が 度 々 生 起 し て い た 。 特 に 前 浜 の 使 用 権 に つ い て は 長 期 間 隣 の 一 色 と も め て い た が 、 2 上 、 塩 運 上 、 地 曳 網 運 上 、 川 船 運 上 、 圦 いり ( 水 門 ) 一 一 艘 そう 、 橋 一 カ 所 と な っ て い る 。 享 保 三 年 ( 一 七 一 八 ) の 「 川 東 三 拾 弐 ケ 村 村 調 書 」 に よ る と 、 塩 新 田 の 戸 数 は 三 三 戸 、 村 人 数 百 四 人 、 小 物 成 ( 雑 税 ) は 、 葭 よし 運 す る ま で に な っ て い た 。 分 出 し た 小 集 落 で 親 郷 を 中 心 と す る 組 織 に 付 属 し た 。 ) と し て で は あ る が 、 一 七 世 紀 後 半 に は 人 家 も 増 え 、 塩 新 田 は 村 と し て 機 能 六 九 九 ) に 塩 新 田 村 庄 屋 七 兵 衛 が 役 所 に 提 出 し た 願 書 も 存 在 し て お り 、 大 之 郷 の 枝 郷 ( 新 田 開 発 や 開 拓 に お い て 、 そ の 拡 大 と と も に 二 ノ 宮 庄 塩 新 田 村 、 青 山 下 野 守 ( 一 六 八 五 ~ 一 七 〇 二 の 浜 松 藩 主 ) 知 行 所 、 高 六 石 四 斗 八 升 七 合 」 と あ り 、 ま た 、 元 禄 一 二 年 ( 一 は 「 浜 松 藩 領 塩 新 田 村 、 石 高 六 石 四 斗 八 升 七 合 」 と 記 さ れ て い る 。 さ ら に 「 遠 とお 淡 とう 海み 地 誌 」 に よ る と 、 「 三 十 余 戸 、 下 大 之 郷 村 枝 郷 正 保 四 年 ( 一 六 四 七 ) に 作 成 さ れ た 「 遠 江 国 郷 村 高 帳 」 に 塩 新 田 の 記 録 は な い が 、 元 禄 一 五 年 ( 一 七 〇 二 ) の 「 遠 江 国 郷 帳 」 に 各村々の領主 18世紀前半 幕府 掛川藩 浜松藩 旗本跡部氏 旗本長谷川氏 19世紀前半 幕府 横須賀藩 掛川藩 浜松藩 旗本跡部氏 旗本長谷川氏 旗本松平氏 旗本高木氏 明治維新時 横須賀藩 白河藩 掛川藩 旗本領 清庵新田(掛川藩預かり) 福田村、中島村、一色村、南田村 の一部 塩新田、三ツ合新田、伊兵衛新田 浜部村、上大之郷村、下大之郷村 南田村の一部 太郎馬新田 清庵新田の一部 福田村、浜部村 中島村 塩新田、三ツ合新田、伊兵衛新田 宇兵衛新田、上大之郷村、下大之郷 村 南田村の一部 太郎馬新田 一色村、南田村の一部 清庵新田の一部 福田村、浜部村 塩新田、三ツ合新田、伊兵衛新田、 宇兵衛新田、上南田村、上大之郷村、 下大之郷村 中島村 一色村、太郎馬新田、南田村 に 至 っ て い る 。 塩 新 田 は 磐 田 市 塩 新 田 と な り 現 在 ( 二 〇 〇 五 ) 磐 田 市 に 合 併 さ れ 、 合 併 に よ り 、 福 田 町 は 平 成 一 七 年 入 さ れ た 。 そ し て 、 先 の 平 成 の 大 3 に 合 併 さ れ 、 塩 新 田 は 福 田 町 に 編 保 村 は 分 離 さ れ て 磐 田 市 と 福 田 町 の 郡 制 施 行 に よ り 於 保 村 は 磐 田 郡 の 一 部 と な り 、 そ れ 以 来 、 磐 田 郡 於 保 村 塩 新 田 の 時 代 が 続 い た が 、 昭 和 三 二 年 ( 一 九 五 七 ) に 於 明 治 二 二 年 ( 一 八 八 九 ) の 町 村 制 施 行 で は 塩 新 田 を 含 む 近 隣 一 一 か 村 に よ り 於 保 村 が 成 立 し た 。 そ し て 、 明 治 二 九 年 ( 一 八 九 六 ) と な り 、 さ ら に 明 治 九 年 ( 一 八 七 六 ) に な る と 浜 松 県 が 廃 止 さ れ 静 岡 県 に 編 入 さ れ た 。 そ の 後 、 明 治 二 年 ( 一 八 六 九 ) 遠 江 国 は 静 岡 藩 に 、 そ し て 明 治 四 年 ( 一 八 七 一 ) の 廃 藩 置 県 、 府 県 統 廃 合 に よ り 遠 江 国 は 浜 松 県 こ れ ら 江 戸 期 か ら 明 治 維 新 に お け る 塩 新 田 及 び 周 囲 の 村 々 の 領 主 は 左 表 の と お り で あ る 。 「 陸 奥 白 河 藩 阿 部 美 作 守 領 分 、 石 高 七 石 三 斗 八 升 九 合 」 と な っ て い る 。 く 、 土 地 改 良 ま で は 今 之 浦 川 か ら お 墓 の 東 側 を 経 て グ ラ ン ド の 北 側 に 抜 け る 昔 の 堤 防 が 残 っ て い た 。 子 供 の 頃 に は 、 ま だ 「 西 の 川 」 の 名 称 で 存 在 し て お り 、 川 魚 や 貝 類 、 そ し て 萱 かや の 宝 庫 で あ っ た 。 な お 、 昔 の 塩 新 田 は 現 在 よ り も 狭 仿 僧 川 の 直 線 化 に 伴 い 村 の 西 側 を 流 れ て い た 川 は 不 要 と な り 、 昭 和 四 十 年 代 の 土 地 改 良 に 伴 い 埋 め 立 て ら れ て し ま っ た 。 筆 者 が で あ る が 、 仿 僧 川 の 本 流 は 村 の 西 側 に 沿 っ て 北 上 し 、 現 在 の 南 田 排 水 機 場 の と こ ろ で 今 之 浦 川 に 合 流 し て い る の が 確 認 で き る 。 で き 、 さ ら に 袖 浦 飛 行 場 の 浸 水 を 契 機 と し た 河 川 改 修 に よ り 本 流 を 現 在 の 位 置 へ と 変 え て い っ た 。 次 頁 の 地 図 は 明 治 二 三 年 の も の 江 戸 時 代 初 期 の 地 図 で は 塩 新 田 の 南 側 に 仿 僧 川 は な く 、 前 浜 ま で 陸 続 き に な っ て い る 。 そ の 後 、 塩 新 田 の 南 側 に 仿 僧 川 の 支 流 が か れ た が 、 大 地 震 の 度 に 河 口 は そ の 位 置 を 変 え た と い わ れ て い る 。 そ の 後 、 慶 長 年 間 ( 一 五 九 六 ~ 一 六 一 五 ) に お け る 伊 奈 備 前 守 忠 次 に よ る 河 川 改 修 に よ り 太 田 川 は 福 田 の 東 側 に お い て 河 口 が 開 戸 初 期 ま で は 太 田 川 も 南 側 の 砂 堤 列 に 阻 ま れ 、 東 進 し て 横 須 賀 湊 に 注 い で い た ( 巻 頭 の 地 図 参 照 ) 。 4 そ し て 、 こ の 砂 堤 列 の た め に 今 之 浦 川 や 仿 僧 川 は 南 進 し て 海 に 出 る こ と が で き ず 、 大 き く 東 に 迂 回 し 太 田 川 に 合 流 し て い た 。 江 く か ら 集 落 が で き 、 そ の 後 、 南 側 の 砂 堤 列 が 開 発 さ れ て い っ た 。 以 南 の 現 在 の 海 岸 に 沿 っ た 南 側 の 列 で あ る 。 こ の 砂 堤 列 は 集 落 の 立 地 に 適 し て お り 多 く の 村 落 が 形 成 さ れ た 。 北 側 の 砂 堤 列 に は 早 堤 列 と 呼 ば れ 、 磐 田 南 部 に は 現 在 二 列 の 砂 堤 列 が 形 成 さ れ て い る 。 鮫 島 、 浜 部 、 一 色 、 塩 新 田 、 中 島 と 伸 び る 北 側 の 列 と 、 仿 僧 川 は る か 昔 、 天 竜 川 か ら 太 田 川 に 至 る 海 岸 地 域 に 天 竜 川 の 土 砂 が 運 ば れ て で き た 砂 地 の 微 高 地 ( 砂 州 ) が 形 成 さ れ た 。 こ れ ら は 砂 地 勢 明治時代の地図 響 で 土 砂 が 流 れ な く な り 、 最 近 は 波 や 潮 流 に よ る 海 岸 の 浸 食 が 進 行 し て い る 。 側 に あ っ た ら し い 。 天 竜 川 に よ り 運 ば れ た 土 砂 で 年 々 砂 浜 が 拡 大 し て い た が 、 ダ ム の 影 松 林 を 抜 け て 海 岸 堤 防 を 越 え る と そ の 先 は 太 平 洋 で あ る 。 昔 の 海 岸 は 現 在 よ り 相 当 北 っ て い た 松 林 も 手 入 れ が 行 き 届 か ず 雑 木 林 化 し つ つ あ る 。 に 維 持 さ れ て い た 。 し か し な が ら 、 近 年 は こ れ ら の シ ス テ ム が 崩 壊 し 、 見 事 な 景 観 を 保 ま た 、 手 入 れ が で き な い 場 合 に は 隣 家 が 手 助 け を し て い た た め 、 松 林 は 常 に 最 良 の 状 態 た 。 イ モ 類 の 地 中 保 管 場 所 に も 活 用 し て い た 。 他 人 が 勝 手 に 手 を 加 え る こ と は 許 さ れ ず 、 育 て る と と も に 、 適 時 ゴ ン ド を 集 め て い た 。 時 に は 、 ハ ツ タ ケ や 松 露 と い っ た 茸 も 取 れ が 付 与 さ れ て い た 。 こ の た め 、 各 家 は 下 草 を 刈 っ た り 、 枝 打 ち を し た り し て 松 を 大 事 に 5 た か ら で あ る 。 北 側 の 松 林 は 南 田 の 、 海 岸 に 近 い 松 林 は 塩 新 田 が 入 会 権 を 持 っ て い た 。 境 に は 杭 が 打 た れ 、 そ れ ぞ れ の 家 に 管 理 権 前 浜 の 権 利 と 同 様 に 、 各 村 の 間 で こ の 入 会 権 を 巡 っ て 度 々 紛 争 が あ っ た ら し い 。 松 の 落 葉 ( ゴ ン ド ) や 下 草 、 枯 れ 木 が 燃 料 と な っ ま た 、 こ の 地 域 に は 、 防 潮 林 と し て の 松 林 が 存 在 し て い る が 、 昔 は そ れ ぞ れ の 村 に こ の 松 林 に 対 す る 入 会 権 が 設 定 さ れ て い た 。 つ て は 葉 タ バ コ や 西 瓜 、 サ ツ マ イ モ 、 ネ ギ 等 の 一 大 産 地 で あ っ た 。 仿 僧 川 を わ た り 南 に 下 る と 、 南 田 伊 兵 衛 新 田 、 そ し て 塩 新 田 の 地 番 を 経 て 海 岸 に 至 る 。 こ の 海 岸 堤 防 ま で の 地 域 は 畑 で あ り 、 か と が 不 可 欠 で あ り 、 村 の 周 囲 は 高 い 堤 防 で 囲 ま れ て い た 。 今 で も 、 昔 の 堤 防 の 一 部 が 福 寿 荘 と 南 田 排 水 機 場 の 間 に 残 っ て い る 。 に 囲 ま れ て い た た め 、 そ の 影 響 は 近 隣 村 よ り は 少 な か っ た ら し い 。 と に か く 河 川 の 氾 濫 か ら 村 を 守 る に は 堤 防 を 高 く 堅 固 に す る こ 塩 新 田 の 北 方 地 域 は 今 之 浦 ・ 大 池 低 湿 地 帯 で あ り 、 昔 か ら 天 竜 川 、 太 田 川 の 氾 濫 に 悩 ま さ れ 続 け て き た が 、 塩 新 田 は 周 囲 を 堤 防 ( 一 七 七 六 ) に は 塩 運 上 が 廃 止 さ れ て い る 。 塩 田 は 次 第 に 田 畑 に 転 換 さ れ て い っ た 。 塩 新 田 に お い て も 、 宝 暦 一 三 年 ( 一 七 六 三 ) に 塩 浜 の 一 町 六 反 余 は 田 畑 に な り 、 明 和 三 年 そ の 後 、 太 田 川 河 口 の 東 方 へ の 移 動 に よ る 潮 入 り の 変 化 や 燃 料 の ま き の 枯 渇 及 び 洪 水 等 に よ り 塩 田 の 荒 廃 が 進 み 、 仿 僧 川 一 帯 の た と い う 。 場 所 が 所 々 に 存 在 し て い る 。 ま た 、 福 田 一 帯 で は 仿 僧 川 沿 い を 裏 浜 、 前 浜 を 表 浜 と 称 し 、 表 浜 に も 塩 田 が あ り 塩 造 り が 行 わ れ て い 当 時 、 福 田 か ら 浜 部 の 仿 僧 川 沿 岸 で は 多 く の 製 塩 が 行 わ れ て お り 、 今 日 で も 塩 新 田 を 含 め 、 仿 僧 川 近 辺 に は 「 塩 浜 」 と 呼 ば れ る 二 三 石 ( 約 九 俵 ) 余 の 塩 運 上 を 納 め て い た 記 録 も あ る こ と か ら 、 か な り の 生 産 能 力 を 有 し て い た も の と 思 わ れ る 。 さ せ た い と 塩 新 田 庄 屋 七 兵 衛 が 差 配 に 差 し 出 し た も の で あ り 、 こ れ に よ っ て も 、 塩 新 田 が 製 塩 を 行 っ て い た こ と が 理 解 で き る 。 6 願 書 は 、 塩 新 田 の 五 兵 衛 の 妻 の 従 兄 弟 で あ る 浜 部 村 の 六 兵 衛 一 家 が 困 窮 し て い る の で 、 塩 新 田 に 移 住 さ せ 、 塩 焼 き ( 塩 造 り ) を い る 。 い た 記 録 の ほ か に 、 「 元 禄 一 二 年 ( 一 六 九 九 ) 閏 九 月 、 浜 部 村 六 兵 衛 が 塩 新 田 に 引 っ 越 し 、 塩 焼 渡 世 し た き 旨 の 願 書 」 が 残 さ れ て 塩 新 田 が 塩 作 り の た め の 新 田 と し て 開 発 さ れ た こ と は 先 に 述 べ た が 、 当 時 塩 新 田 が 塩 を 造 っ て い た 証 拠 と し て 、 塩 運 上 を 納 め て 製 塩 業 産 業 地 で な く 、 ど ち ら か と い え ば 漁 民 だ っ た の で あ る 。 い ず れ に せ よ 長 期 間 漁 業 が 塩 新 田 の 基 幹 産 業 で あ っ た の は 確 か で あ り 、 塩 新 田 の 民 は 農 民 村 に 比 較 し て 豊 か な 村 で は あ っ た よ う で あ る 。 左 兵 衛 ほ か 五 名 が 土 地 を 担 保 に 塩 新 田 の 庄 屋 七 五 郎 に 百 五 両 を 借 り た 記 録 も 残 っ て お り 、 他 曳 網 の 、 嘉 永 二 年 ( 一 八 五 一 ) に は 、 南 田 村 庄 屋 惣 右 衛 門 が 凶 作 で 年 貢 を 負 担 で き な く 、 同 村 の 平 均 年 収 は 約 一 五 円 と な っ て い る 。 当 時 、 巡 査 の 初 任 給 月 八 円 に 比 較 す る と 見 劣 り す る も の 船 を 有 し 、 漁 戸 数 四 七 、 漁 業 と そ の 他 の 職 業 と の 比 率 は 五 分 五 分 、 年 間 の 漁 者 一 人 あ た り の 明 治 二 七 年 の 静 岡 県 水 産 誌 に よ る と 、 塩 新 田 は 地 曳 船 四 艘 、 鰹 釣 船 四 艘 等 、 合 計 二 二 艘 の 支 え て き た の で あ る 。 7 頃 既 に 地 曳 網 が 行 わ れ て い た こ と に な る 。 そ れ か ら 江 戸 後 期 、 明 治 、 そ し て 大 正 と 、 地 曳 網 漁 を 中 心 と し た 漁 業 が 塩 新 田 の 家 計 を 享 保 三 年 ( 一 七 一 八 ) に 書 か れ た 前 述 の 「 川 東 三 拾 弐 ケ 村 村 調 書 」 に は 小 物 成 ( 雑 税 ) と し て 地 曳 網 運 上 が あ る こ と か ら 、 こ の 化 し て い っ た 。 生 活 を 支 え て い た 。 さ ら に 前 浜 に お け る 排 他 的 漁 業 権 の 確 立 と 塩 造 り の 衰 退 に よ り 漁 業 発 展 に 拍 車 が か か り 、 塩 新 田 は 漁 村 へ と 深 石 高 六 石 の 塩 新 田 で は と て も 農 業 生 産 に よ り 生 計 を 維 持 す る こ と は 不 可 能 で あ り 、 塩 造 り と と も に 地 の 利 を 生 か し た 漁 業 が 村 の て お り 、 塩 新 田 の 第 一 期 の 基 幹 産 業 が 製 塩 業 な ら ば 第 二 期 は 漁 業 で あ る 。 漁 十 業 八 世 紀 に 書 か れ た 「 遠 江 国 風 土 紀 伝 」 に は 、 塩 新 田 に つ い て 「 下 大 之 郷 の 分 地 な り 、 海 うみ 萱 がや 、 塩 草 、 ぎ 漁 ょり 猟 ょう を 産 と 為 す 」 と 記 さ れ あ る 。 当 然 で は あ る が 遭 難 し か か っ た こ と も 度 々 あ っ た ら し い 。 み ん な で 艪 を 漕 ぎ 進 ん だ ら し い 。 現 在 で は 考 え ら れ な い 行 動 で あ る が 、 楽 し い 年 中 行 事 の 一 つ と し て 当 時 は 当 た り 前 だ っ た よ う で に か け て の 風 向 き の よ い 日 に 船 頭 が ふ れ を 出 し 、 事 前 に 決 め て あ っ た 参 加 者 を 浜 に 集 め 、 舟 に 帆 を 立 て て 出 発 し 、 風 が な く な る と 時 代 で あ り 、 風 力 、 人 力 を 頼 り に 自 分 達 の 持 ち 船 で 行 く し か な か っ た の で あ ろ う 。 大 橋 さ ん や 大 庭 さ ん の 話 に よ る と 、 春 か ら 初 夏 保 管 さ れ て い る 。 古 い も の で は 「 明 治 五 年 三 月 金 刀 比 羅 宮 祈 祷 守 護 」 と 書 か れ た 大 木 札 が 残 存 し て い る が 、 鉄 道 も 開 通 し て い な い な お 、 昔 は 地 曳 網 漁 や カ ツ オ 漁 の 舟 で 伊 勢 参 り や 金 比 羅 参 り に 行 っ て お り 、 そ の 際 に 受 領 し た 木 札 が 今 で も 多 く の 家 々 に 大 切 に 子 供 の 頃 に 「 白 鷹 丸 」 と 呼 ば れ た そ の 勇 姿 を 見 た 記 憶 が 残 っ て い る 。 に 係 留 し カ ツ オ 漁 等 に 使 用 し て い た が 、 昭 和 二 十 年 代 末 に は 川 が 浅 く な っ て 航 行 が 困 難 に な り 、 い つ の ま に か 姿 を 消 し て し ま っ た 。 そ の ほ か 、 戦 前 、 戦 後 の 一 時 期 、 村 で は 数 ト ン の 焼 き 玉 エ ン ジ ン 付 の 漁 船 ( 機 械 船 ) を 保 有 し て い た 。 今 之 浦 川 ( 北 側 の 川 岸 ) 8 村 人 の 生 き 生 き と し た 姿 を 見 る の が 何 よ り も 楽 し か っ た 。 い っ た 。 尤 も 、 塩 新 田 で は 昭 和 二 十 年 代 後 半 ま で は 地 曳 網 が 行 わ れ て い た 。 二 、 三 回 参 加 し た 記 憶 が あ る が 、 魚 が 捕 れ な く て も 、 こ れ ら 興 隆 を 極 め た 地 曳 網 漁 も 昭 和 十 三 年 の 豊 漁 の 後 は 魚 群 が 沖 を 通 る よ う に な り 、 さ ら に 海 岸 付 近 の 汚 染 も 進 み 次 第 に 廃 れ て 塩 新 田 で は 十 輪 寺 の 境 内 に ま で 渋 柿 を 植 え た と 語 り 継 が れ て お り 、 今 で も そ の 渋 柿 が 残 っ て い る 。 当 時 は 防 腐 剤 と し て 、 ま た 耐 久 性 を 向 上 さ せ る た め に 網 に 渋 を 塗 っ た ら し い が 、 そ の 渋 を 取 る た め の 渋 柿 を 植 え る 場 所 が な く 、 埋 ま っ て い た と い う 。 浜 に は 地 曳 網 漁 に 必 要 な 網 小 屋 や 見 張 り 小 屋 、 舟 等 が 置 か れ て 年 間 五 、 六 十 回 の 漁 が 行 わ れ 、 最 盛 期 に は 塩 新 田 が 干 し た イ ワ シ に 地 曳 網 の た め に 「 浜 船 講 」 と 呼 ば れ た 網 組 が 集 落 ご と に 組 織 さ れ て い た 。 塩 新 田 で は 在 住 の 各 戸 が 株 を 持 ち 講 を 運 営 し て い た 。 脱 穀 作 業 瓜 で あ っ た 。 等 に 配 分 さ れ た 農 地 に は 灌 水 設 備 が 設 置 さ れ 、 砂 地 に 適 し た 作 物 が 栽 培 さ れ た 。 そ の 代 表 が 西 昭 和 三 十 年 代 に な る と 、 海 岸 に 近 い 広 大 な 砂 地 が 開 発 さ れ 一 大 農 地 が 形 成 さ れ た 。 各 戸 に 均 瓜 に 変 わ っ て い っ た 。 州 葉 か ら 米 葉 に な る と 乾 燥 小 屋 等 が 必 要 と な っ た た め 、 昭 和 三 十 年 頃 か ら 葉 タ バ コ は 次 第 に 西 し か し な が ら 、 こ の 葉 タ バ コ は 葉 の 収 穫 か ら 出 荷 ま で の 作 業 が 大 変 で あ り 、 ま た 、 品 種 が 遠 戦 後 に 最 盛 期 を 迎 え 、 夏 場 に は ど の 家 の 庭 に も 天 日 乾 し の タ バ コ の 葉 が 所 狭 し と 吊 さ れ て い た 。 収 入 は 水 稲 の 数 倍 に な っ た ら し く 、 当 時 と し て は 貴 重 な 収 入 源 で あ っ た 。 そ の 後 、 戦 時 中 に は 労 働 力 の 低 下 か ら 一 時 衰 退 す る も 、 の 栽 培 が 始 ま っ た の は 大 正 初 期 ら し い が 、 砂 地 の 畑 が 栽 培 に 適 し 、 栽 培 方 法 も 簡 単 な 上 に 専 売 公 社 の 買 い 上 げ で 作 付 面 積 当 た り の 9 そ の 後 、 昭 和 初 期 の 繭 の 大 暴 落 を 機 に 養 蚕 は 次 第 に 廃 れ 、 代 わ り に 葉 タ バ コ の 生 産 が 主 要 な 農 産 業 と な っ た 。 塩 新 田 で 葉 タ バ コ に は 蚕 の 餌 に な る 桑 の 葉 が 足 り な く 、 遠 く は 天 竜 二 俣 ま で 買 い つ け に 行 っ た と い う 。 は 「 お 蚕 様 」 と 呼 ば れ 、 家 の い た る 所 に 棚 を 設 置 し て 育 て 、 地 震 や 火 事 に 際 し て は 「 お 蚕 様 」 を 第 一 に 守 っ た そ う で あ る 。 最 盛 期 の 母 屋 の ほ か に 倉 、 長 屋 を 備 え 、 堂 々 た る 屋 敷 構 え を し て い た が 、 そ れ ら の 普 請 に は こ の 養 蚕 が 大 き く 貢 献 し た ら し い 。 当 時 、 蚕 明 治 時 代 か ら 昭 和 初 期 ま で の 塩 新 田 は 養 蚕 が 盛 ん で あ っ た 。 こ の 養 蚕 は 儲 か っ た ら し く 、 筆 者 が 子 供 の 頃 は 多 く の 家 々 が 茅 かや 葺ぶ き 大 に 伴 い 買 い 増 し た り し て 、 明 治 、 そ し て 大 正 、 昭 和 に な る と か な り の 田 畑 を 有 す る ま で に な っ て い た 。 漁 業 に 続 き 塩 新 田 の 第 三 期 の 基 幹 産 業 と な っ た の は 農 業 で あ る 。 か つ て 僅 か し か な か っ た 耕 作 地 も 浜 辺 の 新 田 開 発 や 経 済 力 の 増 農 業 織 布 工 場 と し て 全 国 に も そ の 名 を 知 ら れ て い た 。 台 頭 と と も に 急 速 に 衰 退 し 姿 を 消 し た 。 最 盛 期 の 頃 の 福 田 町 は そ れ こ そ 別 珍 、 コ ー ル テ ン の 産 地 殊 な 織 物 を 織 り 、 ガ チ ャ マ ン 景 気 と 呼 ば れ て 一 時 代 を 築 い た が 、 昭 和 四 十 年 代 に な る と 新 興 国 の と す る 家 が 数 軒 存 在 し た 。 数 台 か ら 十 数 台 の 自 動 織 機 を 導 入 し 、 別 珍 、 コ ー ル テ ン と 呼 ば れ た 特 工 戦 業 前 ま で は 塩 新 田 に 工 業 を 生 なり 業 わい と す る 家 は な か っ た が 、 戦 後 の 一 時 期 織 物 の 生 産 、 加 工 を 本 業 は 村 中 に も 休 耕 田 や 非 耕 作 地 が 目 立 つ よ う に な っ た 。 こ の よ う な 農 業 も 高 度 成 長 期 に な る と 世 代 交 代 や 企 業 の 進 出 等 に よ り 次 第 に 下 火 に な り 、 専 業 農 家 は 僅 か に な っ て し ま い 、 最 近 10 休 日 を 決 め な い と 、 農 作 業 を 休 ま な い 時 代 で あ っ た 。 た の で あ る 。 今 で は 死 語 に な っ て い る が 、 農 休 ( 毎 月 一 日 及 び 十 五 日 ) や サ ナ ブ リ ( 田 植 え 終 了 後 の 休 日 ) と 称 し 、 村 で 無 理 矢 理 れ て い た 。 そ の た め 、 田 植 え の 時 期 に は 小 学 校 に 家 の 手 伝 い を さ せ る た め の 農 繁 休 暇 と 呼 ば れ た 休 日 が あ っ た 。 そ れ ほ ど 忙 し か っ 栽 培 技 術 の 進 歩 、 耕 耘 機 の 普 及 等 に よ り 生 産 性 は 著 し く 向 上 し た が 、 こ の 頃 は 、 稲 作 、 畑 仕 事 と 、 と に か く 一 年 中 農 作 業 に 追 わ 西 瓜 の 裏 作 と し て は 、 イ チ ゴ や サ ツ マ イ モ 、 ネ ギ 等 が 栽 培 さ れ て い た 。 な る と タ バ コ の 葉 同 様 、 各 家 の 庭 先 に は 西 瓜 が 山 と 積 ま れ 、 連 日 、 広 場 の 集 荷 場 は 西 瓜 の 出 荷 で 大 賑 わ い で あ っ た 。 け 、 そ れ か ら 毎 日 水 や り し て 七 月 頃 に 収 穫 す る の で あ る 。 と に か く 壮 観 で 浜 の 畑 に は 見 渡 す 限 り 西 瓜 が 転 が っ て い た 。 収 穫 時 期 に 春 が 来 る と 各 家 で フ レ ー ム と 呼 ば れ た 苗 床 で 接 ぎ 木 を し た ス イ カ の 苗 を 育 て 、 そ れ を ビ ニ ー ル の ト ン ネ ル で 保 温 し た 畑 に 植 え 付 技 能 を 漁 業 以 外 に も 活 用 し て い た こ と は 間 違 い な く 、 水 運 も 大 き な 収 入 源 に な っ て い た も の と 思 わ れ る 。 朝 鮮 通 信 使 の 天 竜 川 通 行 に 際 し 舟 を 提 供 し た 記 録 も 存 在 し て お り 、 江 戸 時 代 、 塩 新 田 は 多 く の 舟 ( 船 ) を 保 有 し 、 優 れ た そ の 船 舶 正 徳 二 年 ( 一 七 一 二 ) の 朝 鮮 通 信 使 の 通 行 に 際 し 、 塩 新 田 は 「 天 竜 川 船 橋 御 用 役 」 を 勤 め た と の 記 録 が あ り 、 ま た 、 そ の ほ か の た 可 能 性 が あ る 。 来 元 船 ( 大 き な 荷 船 ) 村 申 由 有 之 」 と 表 現 し て お り 、 さ ら に 浜 松 藩 と の 関 係 を 考 え る に 、 川 舟 運 送 だ け で な く 海 運 に も 関 係 し て い め て お り 、 福 田 湊 や 三 ツ 合 湊 を ベ ー ス と し た 川 舟 運 送 を 行 っ て い た も の と 思 わ れ る 。 ま た 、 前 述 の 大 杉 家 文 書 に は 、 塩 新 田 を 「 古 寺 田 勝 彦 氏 の 「 遠 州 山 名 郡 三 ツ 合 新 田 村 」 に は 、 三 ツ 合 新 田 に お け る 川 舟 運 送 に つ い て の 記 述 が あ る が 、 塩 新 田 も 川 舟 運 上 を 納 11 こ の 福 田 湊 の 繁 栄 が 周 囲 の 河 川 を 利 用 し た 川 舟 運 送 を 盛 ん に し た 。 れ た ら し い 。 藩 の 年 貢 運 搬 船 な ど 大 小 の 和 船 が 数 多 く 出 入 り し 、 最 盛 期 に は 「 嫁 に 行 く な ら 福 田 の 川 岸 へ 、 お 江 戸 帰 り の 船 が 着 く 」 と ま で 歌 わ に 代 わ っ て い っ た 。 そ の 結 果 、 福 田 か ら 三 ツ 合 新 田 ・ 塩 新 田 に か け て の 仿 僧 川 が 繋 船 地 と し て 賑 わ う よ う に な り 、 浜 松 藩 や 横 須 賀 宝 永 四 年 ( 一 七 〇 七 ) の 大 地 震 に よ る 地 殻 変 動 に よ り 横 須 賀 湊 や 浅 羽 湊 の 港 湾 機 能 が 衰 え る と 、 福 田 湊 や 三 ツ 合 新 田 湊 が こ れ ら 最 後 に 、 江 戸 時 代 に お け る 塩 新 田 の 活 動 の 一 つ と し て 水 運 を 挙 げ て お き た い 。 水 運 第 二 は 、 血 縁 で あ る 。 塩 新 田 に は 今 で も 数 個 の 一 門 が 存 在 し て い る 。 こ の 一 門 内 の 結 束 は 当 然 で あ る が 、 時 に は 一 門 間 や そ の 親 間 意 識 が 自 然 に 形 成 さ れ て い っ た の で あ る 。 に 囲 ま れ 、 他 村 へ の 出 入 り は 一 、 二 か 所 の 橋 を 渡 ら な く て は な ら な か っ た 。 よ っ て 、 境 界 が 明 確 な た め 、 同 じ 地 域 に 住 む 住 民 の 仲 ま ず そ の 第 一 は 地 縁 で あ る 。 孤 立 と ま で は い か な い も の の 、 川 に 囲 ま れ た 独 特 の 地 形 が 村 人 の 結 束 を 強 め た の で あ る 。 周 囲 を 川 何 故 に こ の 様 な 気 質 が 醸 成 さ れ た の か 、 つ ら つ ら 考 え る に 次 の 三 点 が 影 響 し て い た の で は な か ろ う か 。 結 束 が 堅 か っ た こ と を 示 し て い る 。 要 す る に 集 団 暴 行 で あ る が 、 村 内 の 仲 間 が 屈 辱 を 受 け た か ら と い っ て 、 徒 党 を 組 ん で 皆 で 押 し か け る と こ ろ な ど は 明 ら か に 村 の 怪 我 を 負 わ せ た と い う の で あ る 。 左 衛 門 が 難 癖 を つ け た の を 勘 七 が 村 役 人 に 届 け 出 た の で 、 そ れ を 怒 っ て 塩 新 田 の 若 い 衆 が 勘 七 の と こ ろ に 押 し か け て 袋 叩 き に し て 12 こ れ は 、 太 郎 馬 新 田 の 知 行 所 か ら 塩 新 田 領 主 の 浜 松 藩 庁 に 対 し て 提 出 さ れ た 訴 状 で あ る が 、 内 容 は 、 太 郎 馬 の 勘 七 に 塩 新 田 の 弥 八 月 、 太 郎 馬 新 田 勘 七 と 塩 新 田 村 多 数 村 民 と の 喧 嘩 に つ き 浜 松 藩 あ て 吟 味 願 」 と い う 資 料 が 残 さ れ て い る 。 も ち ろ ん 、 時 代 と と も に こ れ ら の 気 質 も 希 釈 さ れ て い る が 、 察 す る に 昔 は 顕 著 で あ っ た 。 そ の 一 端 を 示 す 事 例 と し て 「 天 明 四 年 厚 い と こ ろ も 目 立 つ が 、 こ れ は 遠 州 人 総 て に 共 通 し て い る 気 質 で あ る 。 塩 新 田 の 気 質 は 、 よ く 言 え ば 剛 毅 闊 達 、 団 結 強 固 、 悪 く 言 え ば 粗 野 、 付 和 雷 同 と い う こ と に な る 。 さ ら に 理 屈 嫌 い で 義 理 人 情 に 気 質 村 は 幾 多 の 災 害 や 他 村 と の 確 執 を 乗 り 越 え て 今 日 ま で 繁 栄 を 維 持 し て こ ら れ た の で あ る 。 は し な い が 、 困 っ た こ と が あ れ ば 一 門 や 隣 家 で 、 さ ら に は 組 、 村 で 助 け る の が 当 た り 前 で あ る 。 こ の 様 な 風 習 が あ っ た か ら こ そ 、 取 れ た 魚 や 利 益 は 均 等 に 分 配 さ れ 、 新 た に 開 発 さ れ た 土 地 も 全 戸 に 平 等 に 分 け 与 え ら れ る の が 原 則 で あ っ た 。 ま た 、 余 計 な 干 渉 ス テ ム が 存 在 し て い た か ら で あ る 。 な お 、 当 然 で は あ る が 、 こ れ ら 強 固 な 団 結 が 長 年 保 た れ て き た の は 、 地 縁 、 血 縁 だ け で な く 、 背 景 に 平 等 ・ 共 助 の 精 神 や 社 会 シ ろ う か 。 そ の ほ か 、 領 主 が 異 な る 事 情 も 隣 接 村 と の 公 的 な 関 係 を 希 薄 に し 、 自 然 と 村 内 の 関 係 に 重 き を 置 く 風 習 が 強 化 さ れ た の で は な か 魚 の 配 分 、 さ ら に は 浜 や 漁 場 の 管 理 に 村 人 の 結 束 は 不 可 欠 で あ っ た の で あ る 。 村 人 が 結 束 し 一 致 団 結 し て 取 り 組 ま な く て は な ら な か っ た の で あ る 。 ま た 操 船 は 元 よ り 、 船 や 漁 具 の 取 得 及 び 手 入 れ 並 び に 取 っ た 13 例 え ば 地 曳 網 で あ る が 、 地 曳 網 は 個 人 や 家 族 単 独 で 行 え る 漁 法 で は な く 、 少 な く と も 数 十 人 の 人 力 が 必 要 で あ る 。 そ の た め に は 、 第 三 は 、 村 が 生 業 と し て い た 製 塩 や 漁 業 が 村 の 結 束 を 必 要 と し て た め 、 団 結 の 気 風 が 育 成 さ れ た の で あ る 。 号 を 有 す る 家 が 多 数 存 在 す る の で あ る 。 か つ て 三 十 数 軒 の 村 に し て は 驚 く べ き 数 で あ る 。 も い る が 、 決 し て そ う で は な く 、 歴 と し た 氏 素 性 を 有 す る 家 々 の 集 落 な の で あ る 。 そ の 証 拠 に 、 戒 名 に 院 号 を 有 す る 家 が 三 軒 、 軒 当 然 で あ る が 、 こ れ ら の 血 縁 が お 互 い の 関 係 を 自 然 と 強 固 に し て い っ た の で あ る 。 そ う 聞 く と 、 何 か 訳 あ り の 集 落 と 邪 推 す る 輩 を 聞 く 機 会 も あ り 、 今 日 で も 六 、 七 代 さ 溯 かの ぼ れ ば ほ と ん ど の 家 々 が な ん ら か の 繋 が り が あ る と 言 わ れ て い る 。 し て 、 村 の 多 く の 家 々 が そ れ ぞ れ 親 戚 関 係 に よ り 結 ば れ る よ う に な っ て い っ た 。 冠 婚 葬 祭 な ど で 、 古 老 か ら 始 め て 相 互 の 家 の 関 係 戚 間 で の 婚 姻 に よ り 姻 戚 関 係 を 結 ん だ た め 、 そ れ ぞ れ の 一 門 は 他 の 一 門 と も な ん ら か の 血 縁 関 係 が 確 立 し て い っ た の で あ る 。 こ う そ が 、 塩 新 田 が 誕 生 以 来 育 ん で き た 矜 恃 と す べ き 気 質 で あ り 、 伝 統 な の で あ る 。 ( 終 わ り ) と は 、 ま さ に 彼 ら を 称 す る の で あ ろ う 。 そ し て 、 こ の 「 粗 に し て 野 だ が 卑 で は な い 」 気 風 こ そ れ に し て も 、 ハ ン チ ン グ に ベ ス ト と こ の 男 達 は 粋 で あ る 。 「 粗 に し て 野 だ が 卑 で は な い 」 こ と な く 敵 に 向 か っ て い っ た 結 果 な の で あ ろ う が 、 こ の あ た り に も 剛 毅 な 気 質 が う か が え る 。 軒 に 一 人 の 戦 没 者 が 存 在 す る こ と に な る 。 少 な か ら ぬ 数 で あ る 。 最 前 線 に 配 置 さ れ 、 臆 す る 兵 役 と い え ば 、 明 治 以 降 、 塩 新 田 は 十 人 の 戦 没 者 を 出 し て い る 。 村 の 戸 数 四 十 戸 と し て 四 役 で 鍛 え 上 げ 、 そ し て 日 夜 、 浜 や 田 畑 で 汗 を 流 し て き た 男 達 の 迫 力 な の で あ る 。 14 そ が 塩 新 田 の 気 質 そ の も の で あ る 。 こ の 男 達 に は 温 和 で 優 し さ を 感 じ る 一 方 で 、 何 事 も 恐 れ な い 堂 々 と し た 気 迫 が み 漲 なぎ っ て い る 。 兵 写 っ て い る の は 、 わ れ わ れ の 一 世 代 前 の 男 達 で あ る 。 存 命 の 方 も い る が 多 く の 方 は 鬼 籍 に 入 っ て い る 。 こ の 男 達 の 発 す る オ ー ラ こ さ て 、 こ こ に 大 橋 さ ん か ら 借 り 受 け た 一 枚 の 写 真 が あ る 。 時 期 は 昭 和 二 十 年 代 後 半 、 広 場 に お け る サ ツ マ イ モ の 出 荷 風 景 で あ る 。 な 場 合 は 皆 で 助 け 合 え ば 済 む か ら で あ る っ て 得 手 不 得 手 や 都 合 が あ る も の の 、 何 の 問 題 も な く そ れ ぞ れ の 役 職 が 遂 行 さ れ て い る の は 協 力 や 共 助 の 土 壌 が 背 景 に あ り 、 必 要 自 治 会 長 や 組 長 等 の 役 員 が 年 齢 順 や 家 順 に 各 家 長 に 自 動 的 、 つ ま り 平 等 に 割 り 当 て ら れ る 仕 組 み に な っ て い る こ と で あ る 。 人 に よ 前 に な っ て い る 。 ま た 、 村 の 重 要 事 項 は 大 寄 合 を い わ れ る 全 戸 の 代 表 者 が 参 加 す る 集 会 で 決 定 さ れ る 。 さ ら に 興 味 深 い の は 、 村 の 今 で も 村 の 結 束 は 堅 く 、 祭 り や そ の 他 の 行 事 に そ の 一 端 が 垣 間 見 ら れ る ほ か 、 葬 儀 に 際 し て は 組 の 全 戸 で 手 助 け す る の が 当 た り 関 西暦 連 和暦 年 出 表 来 事 1625 寛永2年 大之郷村により開発 1633 寛永10年 大之郷は、上大之合及び下大之合に分かれる。 1674 延宝2年 伊兵衛新田開発完了 1702 元禄15年 塩新田石高6石4斗8升7合(遠江国郷村高帳) 1707 宝永4年 宝永大地震、横須賀湊の使用困難となる。 1712 正徳2年 朝鮮使節通行に際し、天竜川舟橋御用役を勤める。 1714 正徳4年 一色との前浜所有権争い決着 1718 享保3年 戸数30戸、村民104人(川東三拾弐ケ村村調書) 1776 明和3年 塩運上廃止 1846 弘化3年 浜松藩領から陸奥白河藩領となる。 1854 安政元年 安政東海大地震 1869 明治2年 遠江国は静岡藩領となる。 1871 明治4年 廃藩置県により遠江国は浜松県となる。 1876 明治9年 浜松県は静岡県に編入される。 1889 明治22年 町村制施行で於保村が成立、於保村塩新田となる。 1957 昭和32年 於保村は磐田市と福田町に分離、福田町塩新田となる。 2005 平成17年 福田町は磐田市に合併、磐田市塩新田となる。 15 遠 州 山 名 郡 三 ツ 合 新 田 村 ( 寺 田 勝 彦 ) 昭 和 六 一 年 地 名 大 辞 典 静 岡 県 ( 角 川 書 店 ) 昭 和 五 七 年 静 岡 県 水 産 誌 ( 静 岡 県 図 書 館 協 会 ) 昭 和 五 九 年 静 岡 県 磐 田 郡 誌 ( 磐 田 郡 教 育 会 ) 昭 和 四 六 年 16 福 田 町 史 資 料 編 ・ 民 俗 ( 福 田 町 ) 平 成 一 一 年 福 田 町 の 歴 史 ( 福 田 町 ) 平 成 一 四 年 福 田 町 史 資 料 編 ・ 於 保 村 近 世 ( 福 田 町 ) 平 成 六 年 磐 田 市 史 ・ 通 史 編 中 巻 ・ 近 世 ( 磐 田 市 ) 平 成 三 年 磐 田 の 新 田 開 発 ( 磐 田 市 誌 編 纂 委 員 会 ) 昭 和 六 二 年 参 考 図 書
© Copyright 2024 ExpyDoc