塩新田の歴史と風土(PDF

塩新田の歴史と風土
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正保時代(17 世紀)の遠江国の地形
(蓮左文庫所蔵正保遠江国絵図)
江戸時代中期の磐田南部の地図
塩新田
(磐田教育委員会所蔵絵図)
江戸時代後期の磐田南部の地図
南
北
塩新田
(遠州御鷹浜絵図)
明治時代の中遠地方の地図
塩新田
塩新田の航空写真(昭和44年)
塩新田の航空写真(平成17年)
平
成
一
四
年
初
春
筆
者
て
深
甚
な
る
謝
意
を
表
す
る
と
と
も
に
、
塩
新
田
の
さ
ら
な
る
発
展
を
祈
念
す
る
。
な
お
、
資
料
の
収
集
や
昔
話
の
聞
き
取
り
に
大
変
お
世
話
に
な
っ
た
今
は
亡
き
大
橋
敏
夫
さ
ん
及
び
大
庭
し
づ
ゑ
さ
ん
に
対
し
、
こ
の
場
を
借
り
も
し
事
実
の
誤
認
や
誤
字
・
脱
字
等
が
あ
れ
ば
お
許
し
願
い
た
い
。
そ
の
後
の
変
遷
、
そ
し
て
誇
る
べ
き
先
人
達
の
努
力
の
足
跡
や
伝
統
的
気
質
な
ど
を
知
っ
て
も
ら
お
う
と
推
敲
を
重
ね
た
の
で
あ
る
が
、
浅
学
非
才
、
と
な
ど
は
、
私
に
取
っ
て
ま
さ
に
目
か
ら
鱗
で
あ
っ
た
。
よ
っ
て
、
こ
れ
か
ら
塩
新
田
を
支
え
て
い
く
若
い
人
達
に
も
郷
土
塩
新
田
の
生
い
立
ち
や
っ
た
こ
と
や
、
か
つ
て
仿
僧
川
は
塩
新
田
の
北
側
を
流
れ
て
い
た
こ
と
、
そ
し
て
昔
の
塩
新
田
の
村
人
は
操
船
に
優
れ
漁
師
を
本
業
に
し
て
い
た
こ
と
に
か
く
、
調
べ
た
り
話
を
聞
い
た
り
す
れ
ば
す
る
ほ
ど
塩
新
田
に
つ
い
て
の
再
発
見
や
感
動
が
あ
り
、
中
で
も
塩
新
田
は
浜
松
藩
の
所
領
で
あ
と
め
た
も
の
を
手
直
し
し
て
製
本
化
し
た
の
が
本
書
で
あ
る
。
近
所
の
高
齢
者
に
い
ろ
ん
な
昔
話
を
聞
い
た
り
す
る
と
こ
れ
が
面
白
く
、
平
成
一
二
年
に
「
塩
新
田
の
歴
史
と
風
土
」
と
し
て
取
り
急
ぎ
冊
子
に
ま
あ
る
時
、
知
人
か
ら
「
塩
新
田
で
は
昔
は
塩
を
作
っ
て
い
た
の
か
?
」
と
の
質
問
を
受
け
、
市
の
図
書
館
で
塩
新
田
に
関
す
る
資
料
を
調
べ
た
り
、
は
じ
め
に
歴
質
業
勢
史
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
12
6
4
1
頁
次
地
目
産
参
考
図
書
関
連
年
表
気
る
に
、
塩
浜
新
田
か
、
塩
浜
の
新
田
が
転
じ
て
塩
新
田
と
呼
ば
れ
る
よ
う
に
な
っ
た
の
で
あ
ろ
う
。
な
お
、
地
名
大
辞
典
(
角
川
書
店
)
に
よ
る
と
、
塩
新
田
の
名
称
は
「
当
地
で
塩
が
取
れ
、
塩
浜
と
称
さ
れ
た
こ
と
に
よ
る
」
と
な
っ
て
い
る
。
要
す
っ
て
お
り
、
塩
新
田
は
そ
の
名
称
か
ら
も
塩
田
確
保
を
主
目
的
に
開
発
さ
れ
た
新
田
で
あ
る
と
考
え
る
の
が
自
然
で
あ
る
。
当
時
、
こ
の
あ
た
り
は
塩
浜
新
田
と
呼
ば
れ
、
同
じ
頃
、
大
之
郷
に
よ
り
開
発
さ
れ
た
今
之
浦
川
対
岸
の
三
ツ
合
新
田
と
と
も
に
、
以
後
塩
造
り
を
行
衛
新
田
と
な
り
今
日
に
至
っ
て
い
る
。
塩
新
田
の
南
部
は
さ
ら
に
中
泉
の
善
右
衛
門
(
途
中
で
死
去
)
、
続
い
て
南
田
の
庄
屋
伊
兵
衛
に
よ
り
開
発
さ
れ
、
延
宝
二
年
(
一
六
七
四
)
に
は
伊
兵
開
発
地
は
「
草
野
(
畑
)
」
と
「
塩
浜
(
塩
田
)
」
に
分
け
ら
れ
、
寛
永
二
年
か
ら
塩
新
田
は
草
野
の
役
米
四
石
五
斗
五
升
を
納
め
て
い
る
。
そ
の
後
、
た
と
の
記
録
も
あ
り
、
一
六
二
五
年
以
前
に
も
こ
の
地
域
で
何
ら
か
の
活
動
が
行
わ
れ
て
い
た
ら
し
い
。
六
一
二
)
か
ら
元
和
四
年
(
一
六
一
八
)
に
か
け
て
砂
浜
の
見
取
場
の
改
出
(
推
量
に
よ
る
検
地
)
が
行
わ
れ
、
二
斗
五
升
の
野
米
が
差
し
出
さ
れ
て
い
1
分
郷
分
地
に
な
っ
た
こ
と
が
記
録
さ
れ
て
い
る
。
よ
っ
て
、
こ
れ
を
根
拠
に
す
る
と
塩
新
田
の
起
源
は
一
六
二
五
年
と
な
る
。
た
だ
し
、
慶
長
一
七
年
(
一
浜
共
ニ
無
紛
場
所
ニ
御
座
候
」
と
あ
り
、
寛
永
弐
丑
之
年
、
つ
ま
り
、
寛
永
二
年
(
一
六
二
五
)
に
塩
新
田
は
大
之
郷
村
に
よ
っ
て
開
発
さ
れ
、
同
村
の
大
杉
家
に
伝
わ
る
文
書
に
は
、
「
塩
新
田
村
之
義
ハ
八
拾
九
年
以
前
寛
永
弐
丑
之
年
、
高
室
金
兵
衛
様
御
代
官
之
節
、
大
之
郷
村
開
発
之
場
所
ニ
而
、
野
そ
の
昔
、
仿
僧
川
は
現
在
の
塩
新
田
の
北
側
を
流
れ
て
お
り
、
塩
新
田
地
域
は
大
之
郷
に
属
す
る
野
浜
(
浜
に
通
ず
る
原
野
)
で
あ
っ
た
。
大
之
郷
の
塩
新
田
が
歴
史
の
舞
台
に
登
場
す
る
の
は
一
七
世
紀
に
な
っ
て
か
ら
で
あ
る
。
歴
史
一
万
石
余
が
奥
州
白
河
藩
の
領
地
と
な
り
、
以
後
、
明
治
維
新
(
一
九
六
八
)
ま
で
塩
新
田
は
白
河
藩
領
と
な
っ
て
い
た
。
明
治
維
新
時
の
記
録
に
は
、
そ
の
後
、
弘
化
三
年
(
一
八
四
六
)
に
浜
松
藩
主
が
水
野
忠
精
か
ら
井
上
正
春
に
変
わ
る
時
、
川
東
組
(
天
竜
川
以
東
の
浜
松
藩
の
村
々
)
四
十
カ
村
と
の
記
録
も
あ
り
、
塩
新
田
は
浜
松
藩
と
深
い
関
係
を
有
し
て
い
た
よ
う
で
あ
る
。
浜
松
藩
主
の
御
用
船
関
連
の
作
業
に
も
従
事
し
て
い
た
ら
し
い
。
ま
た
、
船
役
米
、
魚
猟
運
上
を
納
め
、
高
掛
り
諸
役
(
付
加
税
)
が
免
除
さ
れ
て
い
た
そ
の
ほ
か
興
味
あ
る
と
こ
ろ
で
は
、
前
述
の
大
杉
家
の
文
書
に
塩
新
田
に
関
す
る
記
述
と
し
て
「
浜
松
御
在
城
之
砌
御
船
御
作
事
御
用
相
勤
」
と
あ
り
、
と
な
っ
た
。
そ
し
て
、
こ
の
前
浜
の
排
他
的
使
用
権
が
地
曳
網
を
通
じ
、
そ
の
後
の
塩
新
田
の
発
展
に
大
き
く
寄
与
す
る
の
で
あ
る
。
と
下
大
之
郷
の
間
で
同
様
の
紛
争
が
生
起
し
た
が
、
最
終
的
に
前
浜
は
「
塩
新
田
下
大
之
郷
両
村
地
付
之
浜
」
と
し
て
決
着
し
、
塩
新
田
が
管
理
す
る
浜
正
徳
四
年
(
一
七
一
四
)
の
裁
許
に
よ
り
、
前
浜
は
上
大
之
郷
、
下
大
之
郷
及
び
塩
新
田
の
所
有
浜
で
あ
る
こ
と
が
認
め
ら
れ
た
。
そ
の
後
も
上
大
之
郷
村
の
膨
張
や
新
田
の
開
発
に
伴
い
近
隣
村
と
の
争
い
が
度
々
生
起
し
て
い
た
。
特
に
前
浜
の
使
用
権
に
つ
い
て
は
長
期
間
隣
の
一
色
と
も
め
て
い
た
が
、
2
上
、
塩
運
上
、
地
曳
網
運
上
、
川
船
運
上
、
圦 いり
(
水
門
)
一
一
艘 そう
、
橋
一
カ
所
と
な
っ
て
い
る
。
享
保
三
年
(
一
七
一
八
)
の
「
川
東
三
拾
弐
ケ
村
村
調
書
」
に
よ
る
と
、
塩
新
田
の
戸
数
は
三
三
戸
、
村
人
数
百
四
人
、
小
物
成
(
雑
税
)
は
、
葭 よし
運
す
る
ま
で
に
な
っ
て
い
た
。
分
出
し
た
小
集
落
で
親
郷
を
中
心
と
す
る
組
織
に
付
属
し
た
。
)
と
し
て
で
は
あ
る
が
、
一
七
世
紀
後
半
に
は
人
家
も
増
え
、
塩
新
田
は
村
と
し
て
機
能
六
九
九
)
に
塩
新
田
村
庄
屋
七
兵
衛
が
役
所
に
提
出
し
た
願
書
も
存
在
し
て
お
り
、
大
之
郷
の
枝
郷
(
新
田
開
発
や
開
拓
に
お
い
て
、
そ
の
拡
大
と
と
も
に
二
ノ
宮
庄
塩
新
田
村
、
青
山
下
野
守
(
一
六
八
五
~
一
七
〇
二
の
浜
松
藩
主
)
知
行
所
、
高
六
石
四
斗
八
升
七
合
」
と
あ
り
、
ま
た
、
元
禄
一
二
年
(
一
は
「
浜
松
藩
領
塩
新
田
村
、
石
高
六
石
四
斗
八
升
七
合
」
と
記
さ
れ
て
い
る
。
さ
ら
に
「
遠 とお
淡 とう
海み
地
誌
」
に
よ
る
と
、
「
三
十
余
戸
、
下
大
之
郷
村
枝
郷
正
保
四
年
(
一
六
四
七
)
に
作
成
さ
れ
た
「
遠
江
国
郷
村
高
帳
」
に
塩
新
田
の
記
録
は
な
い
が
、
元
禄
一
五
年
(
一
七
〇
二
)
の
「
遠
江
国
郷
帳
」
に
各村々の領主
18世紀前半
幕府
掛川藩
浜松藩
旗本跡部氏
旗本長谷川氏
19世紀前半
幕府
横須賀藩
掛川藩
浜松藩
旗本跡部氏
旗本長谷川氏
旗本松平氏
旗本高木氏
明治維新時
横須賀藩
白河藩
掛川藩
旗本領
清庵新田(掛川藩預かり)
福田村、中島村、一色村、南田村
の一部
塩新田、三ツ合新田、伊兵衛新田
浜部村、上大之郷村、下大之郷村
南田村の一部
太郎馬新田
清庵新田の一部
福田村、浜部村
中島村
塩新田、三ツ合新田、伊兵衛新田
宇兵衛新田、上大之郷村、下大之郷
村
南田村の一部
太郎馬新田
一色村、南田村の一部
清庵新田の一部
福田村、浜部村
塩新田、三ツ合新田、伊兵衛新田、
宇兵衛新田、上南田村、上大之郷村、
下大之郷村
中島村
一色村、太郎馬新田、南田村
に
至
っ
て
い
る
。
塩
新
田
は
磐
田
市
塩
新
田
と
な
り
現
在
(
二
〇
〇
五
)
磐
田
市
に
合
併
さ
れ
、
合
併
に
よ
り
、
福
田
町
は
平
成
一
七
年
入
さ
れ
た
。
そ
し
て
、
先
の
平
成
の
大
3
に
合
併
さ
れ
、
塩
新
田
は
福
田
町
に
編
保
村
は
分
離
さ
れ
て
磐
田
市
と
福
田
町
の
郡
制
施
行
に
よ
り
於
保
村
は
磐
田
郡
の
一
部
と
な
り
、
そ
れ
以
来
、
磐
田
郡
於
保
村
塩
新
田
の
時
代
が
続
い
た
が
、
昭
和
三
二
年
(
一
九
五
七
)
に
於
明
治
二
二
年
(
一
八
八
九
)
の
町
村
制
施
行
で
は
塩
新
田
を
含
む
近
隣
一
一
か
村
に
よ
り
於
保
村
が
成
立
し
た
。
そ
し
て
、
明
治
二
九
年
(
一
八
九
六
)
と
な
り
、
さ
ら
に
明
治
九
年
(
一
八
七
六
)
に
な
る
と
浜
松
県
が
廃
止
さ
れ
静
岡
県
に
編
入
さ
れ
た
。
そ
の
後
、
明
治
二
年
(
一
八
六
九
)
遠
江
国
は
静
岡
藩
に
、
そ
し
て
明
治
四
年
(
一
八
七
一
)
の
廃
藩
置
県
、
府
県
統
廃
合
に
よ
り
遠
江
国
は
浜
松
県
こ
れ
ら
江
戸
期
か
ら
明
治
維
新
に
お
け
る
塩
新
田
及
び
周
囲
の
村
々
の
領
主
は
左
表
の
と
お
り
で
あ
る
。
「
陸
奥
白
河
藩
阿
部
美
作
守
領
分
、
石
高
七
石
三
斗
八
升
九
合
」
と
な
っ
て
い
る
。
く
、
土
地
改
良
ま
で
は
今
之
浦
川
か
ら
お
墓
の
東
側
を
経
て
グ
ラ
ン
ド
の
北
側
に
抜
け
る
昔
の
堤
防
が
残
っ
て
い
た
。
子
供
の
頃
に
は
、
ま
だ
「
西
の
川
」
の
名
称
で
存
在
し
て
お
り
、
川
魚
や
貝
類
、
そ
し
て
萱 かや
の
宝
庫
で
あ
っ
た
。
な
お
、
昔
の
塩
新
田
は
現
在
よ
り
も
狭
仿
僧
川
の
直
線
化
に
伴
い
村
の
西
側
を
流
れ
て
い
た
川
は
不
要
と
な
り
、
昭
和
四
十
年
代
の
土
地
改
良
に
伴
い
埋
め
立
て
ら
れ
て
し
ま
っ
た
。
筆
者
が
で
あ
る
が
、
仿
僧
川
の
本
流
は
村
の
西
側
に
沿
っ
て
北
上
し
、
現
在
の
南
田
排
水
機
場
の
と
こ
ろ
で
今
之
浦
川
に
合
流
し
て
い
る
の
が
確
認
で
き
る
。
で
き
、
さ
ら
に
袖
浦
飛
行
場
の
浸
水
を
契
機
と
し
た
河
川
改
修
に
よ
り
本
流
を
現
在
の
位
置
へ
と
変
え
て
い
っ
た
。
次
頁
の
地
図
は
明
治
二
三
年
の
も
の
江
戸
時
代
初
期
の
地
図
で
は
塩
新
田
の
南
側
に
仿
僧
川
は
な
く
、
前
浜
ま
で
陸
続
き
に
な
っ
て
い
る
。
そ
の
後
、
塩
新
田
の
南
側
に
仿
僧
川
の
支
流
が
か
れ
た
が
、
大
地
震
の
度
に
河
口
は
そ
の
位
置
を
変
え
た
と
い
わ
れ
て
い
る
。
そ
の
後
、
慶
長
年
間
(
一
五
九
六
~
一
六
一
五
)
に
お
け
る
伊
奈
備
前
守
忠
次
に
よ
る
河
川
改
修
に
よ
り
太
田
川
は
福
田
の
東
側
に
お
い
て
河
口
が
開
戸
初
期
ま
で
は
太
田
川
も
南
側
の
砂
堤
列
に
阻
ま
れ
、
東
進
し
て
横
須
賀
湊
に
注
い
で
い
た
(
巻
頭
の
地
図
参
照
)
。
4
そ
し
て
、
こ
の
砂
堤
列
の
た
め
に
今
之
浦
川
や
仿
僧
川
は
南
進
し
て
海
に
出
る
こ
と
が
で
き
ず
、
大
き
く
東
に
迂
回
し
太
田
川
に
合
流
し
て
い
た
。
江
く
か
ら
集
落
が
で
き
、
そ
の
後
、
南
側
の
砂
堤
列
が
開
発
さ
れ
て
い
っ
た
。
以
南
の
現
在
の
海
岸
に
沿
っ
た
南
側
の
列
で
あ
る
。
こ
の
砂
堤
列
は
集
落
の
立
地
に
適
し
て
お
り
多
く
の
村
落
が
形
成
さ
れ
た
。
北
側
の
砂
堤
列
に
は
早
堤
列
と
呼
ば
れ
、
磐
田
南
部
に
は
現
在
二
列
の
砂
堤
列
が
形
成
さ
れ
て
い
る
。
鮫
島
、
浜
部
、
一
色
、
塩
新
田
、
中
島
と
伸
び
る
北
側
の
列
と
、
仿
僧
川
は
る
か
昔
、
天
竜
川
か
ら
太
田
川
に
至
る
海
岸
地
域
に
天
竜
川
の
土
砂
が
運
ば
れ
て
で
き
た
砂
地
の
微
高
地
(
砂
州
)
が
形
成
さ
れ
た
。
こ
れ
ら
は
砂
地
勢
明治時代の地図
響
で
土
砂
が
流
れ
な
く
な
り
、
最
近
は
波
や
潮
流
に
よ
る
海
岸
の
浸
食
が
進
行
し
て
い
る
。
側
に
あ
っ
た
ら
し
い
。
天
竜
川
に
よ
り
運
ば
れ
た
土
砂
で
年
々
砂
浜
が
拡
大
し
て
い
た
が
、
ダ
ム
の
影
松
林
を
抜
け
て
海
岸
堤
防
を
越
え
る
と
そ
の
先
は
太
平
洋
で
あ
る
。
昔
の
海
岸
は
現
在
よ
り
相
当
北
っ
て
い
た
松
林
も
手
入
れ
が
行
き
届
か
ず
雑
木
林
化
し
つ
つ
あ
る
。
に
維
持
さ
れ
て
い
た
。
し
か
し
な
が
ら
、
近
年
は
こ
れ
ら
の
シ
ス
テ
ム
が
崩
壊
し
、
見
事
な
景
観
を
保
ま
た
、
手
入
れ
が
で
き
な
い
場
合
に
は
隣
家
が
手
助
け
を
し
て
い
た
た
め
、
松
林
は
常
に
最
良
の
状
態
た
。
イ
モ
類
の
地
中
保
管
場
所
に
も
活
用
し
て
い
た
。
他
人
が
勝
手
に
手
を
加
え
る
こ
と
は
許
さ
れ
ず
、
育
て
る
と
と
も
に
、
適
時
ゴ
ン
ド
を
集
め
て
い
た
。
時
に
は
、
ハ
ツ
タ
ケ
や
松
露
と
い
っ
た
茸
も
取
れ
が
付
与
さ
れ
て
い
た
。
こ
の
た
め
、
各
家
は
下
草
を
刈
っ
た
り
、
枝
打
ち
を
し
た
り
し
て
松
を
大
事
に
5
た
か
ら
で
あ
る
。
北
側
の
松
林
は
南
田
の
、
海
岸
に
近
い
松
林
は
塩
新
田
が
入
会
権
を
持
っ
て
い
た
。
境
に
は
杭
が
打
た
れ
、
そ
れ
ぞ
れ
の
家
に
管
理
権
前
浜
の
権
利
と
同
様
に
、
各
村
の
間
で
こ
の
入
会
権
を
巡
っ
て
度
々
紛
争
が
あ
っ
た
ら
し
い
。
松
の
落
葉
(
ゴ
ン
ド
)
や
下
草
、
枯
れ
木
が
燃
料
と
な
っ
ま
た
、
こ
の
地
域
に
は
、
防
潮
林
と
し
て
の
松
林
が
存
在
し
て
い
る
が
、
昔
は
そ
れ
ぞ
れ
の
村
に
こ
の
松
林
に
対
す
る
入
会
権
が
設
定
さ
れ
て
い
た
。
つ
て
は
葉
タ
バ
コ
や
西
瓜
、
サ
ツ
マ
イ
モ
、
ネ
ギ
等
の
一
大
産
地
で
あ
っ
た
。
仿
僧
川
を
わ
た
り
南
に
下
る
と
、
南
田
伊
兵
衛
新
田
、
そ
し
て
塩
新
田
の
地
番
を
経
て
海
岸
に
至
る
。
こ
の
海
岸
堤
防
ま
で
の
地
域
は
畑
で
あ
り
、
か
と
が
不
可
欠
で
あ
り
、
村
の
周
囲
は
高
い
堤
防
で
囲
ま
れ
て
い
た
。
今
で
も
、
昔
の
堤
防
の
一
部
が
福
寿
荘
と
南
田
排
水
機
場
の
間
に
残
っ
て
い
る
。
に
囲
ま
れ
て
い
た
た
め
、
そ
の
影
響
は
近
隣
村
よ
り
は
少
な
か
っ
た
ら
し
い
。
と
に
か
く
河
川
の
氾
濫
か
ら
村
を
守
る
に
は
堤
防
を
高
く
堅
固
に
す
る
こ
塩
新
田
の
北
方
地
域
は
今
之
浦
・
大
池
低
湿
地
帯
で
あ
り
、
昔
か
ら
天
竜
川
、
太
田
川
の
氾
濫
に
悩
ま
さ
れ
続
け
て
き
た
が
、
塩
新
田
は
周
囲
を
堤
防
(
一
七
七
六
)
に
は
塩
運
上
が
廃
止
さ
れ
て
い
る
。
塩
田
は
次
第
に
田
畑
に
転
換
さ
れ
て
い
っ
た
。
塩
新
田
に
お
い
て
も
、
宝
暦
一
三
年
(
一
七
六
三
)
に
塩
浜
の
一
町
六
反
余
は
田
畑
に
な
り
、
明
和
三
年
そ
の
後
、
太
田
川
河
口
の
東
方
へ
の
移
動
に
よ
る
潮
入
り
の
変
化
や
燃
料
の
ま
き
の
枯
渇
及
び
洪
水
等
に
よ
り
塩
田
の
荒
廃
が
進
み
、
仿
僧
川
一
帯
の
た
と
い
う
。
場
所
が
所
々
に
存
在
し
て
い
る
。
ま
た
、
福
田
一
帯
で
は
仿
僧
川
沿
い
を
裏
浜
、
前
浜
を
表
浜
と
称
し
、
表
浜
に
も
塩
田
が
あ
り
塩
造
り
が
行
わ
れ
て
い
当
時
、
福
田
か
ら
浜
部
の
仿
僧
川
沿
岸
で
は
多
く
の
製
塩
が
行
わ
れ
て
お
り
、
今
日
で
も
塩
新
田
を
含
め
、
仿
僧
川
近
辺
に
は
「
塩
浜
」
と
呼
ば
れ
る
二
三
石
(
約
九
俵
)
余
の
塩
運
上
を
納
め
て
い
た
記
録
も
あ
る
こ
と
か
ら
、
か
な
り
の
生
産
能
力
を
有
し
て
い
た
も
の
と
思
わ
れ
る
。
さ
せ
た
い
と
塩
新
田
庄
屋
七
兵
衛
が
差
配
に
差
し
出
し
た
も
の
で
あ
り
、
こ
れ
に
よ
っ
て
も
、
塩
新
田
が
製
塩
を
行
っ
て
い
た
こ
と
が
理
解
で
き
る
。
6
願
書
は
、
塩
新
田
の
五
兵
衛
の
妻
の
従
兄
弟
で
あ
る
浜
部
村
の
六
兵
衛
一
家
が
困
窮
し
て
い
る
の
で
、
塩
新
田
に
移
住
さ
せ
、
塩
焼
き
(
塩
造
り
)
を
い
る
。
い
た
記
録
の
ほ
か
に
、
「
元
禄
一
二
年
(
一
六
九
九
)
閏
九
月
、
浜
部
村
六
兵
衛
が
塩
新
田
に
引
っ
越
し
、
塩
焼
渡
世
し
た
き
旨
の
願
書
」
が
残
さ
れ
て
塩
新
田
が
塩
作
り
の
た
め
の
新
田
と
し
て
開
発
さ
れ
た
こ
と
は
先
に
述
べ
た
が
、
当
時
塩
新
田
が
塩
を
造
っ
て
い
た
証
拠
と
し
て
、
塩
運
上
を
納
め
て
製
塩
業
産
業
地
で
な
く
、
ど
ち
ら
か
と
い
え
ば
漁
民
だ
っ
た
の
で
あ
る
。
い
ず
れ
に
せ
よ
長
期
間
漁
業
が
塩
新
田
の
基
幹
産
業
で
あ
っ
た
の
は
確
か
で
あ
り
、
塩
新
田
の
民
は
農
民
村
に
比
較
し
て
豊
か
な
村
で
は
あ
っ
た
よ
う
で
あ
る
。
左
兵
衛
ほ
か
五
名
が
土
地
を
担
保
に
塩
新
田
の
庄
屋
七
五
郎
に
百
五
両
を
借
り
た
記
録
も
残
っ
て
お
り
、
他
曳 網
の
、
嘉
永
二
年
(
一
八
五
一
)
に
は
、
南
田
村
庄
屋
惣
右
衛
門
が
凶
作
で
年
貢
を
負
担
で
き
な
く
、
同
村
の
平
均
年
収
は
約
一
五
円
と
な
っ
て
い
る
。
当
時
、
巡
査
の
初
任
給
月
八
円
に
比
較
す
る
と
見
劣
り
す
る
も
の
船
を
有
し
、
漁
戸
数
四
七
、
漁
業
と
そ
の
他
の
職
業
と
の
比
率
は
五
分
五
分
、
年
間
の
漁
者
一
人
あ
た
り
の
明
治
二
七
年
の
静
岡
県
水
産
誌
に
よ
る
と
、
塩
新
田
は
地
曳
船
四
艘
、
鰹
釣
船
四
艘
等
、
合
計
二
二
艘
の
支
え
て
き
た
の
で
あ
る
。
7
頃
既
に
地
曳
網
が
行
わ
れ
て
い
た
こ
と
に
な
る
。
そ
れ
か
ら
江
戸
後
期
、
明
治
、
そ
し
て
大
正
と
、
地
曳
網
漁
を
中
心
と
し
た
漁
業
が
塩
新
田
の
家
計
を
享
保
三
年
(
一
七
一
八
)
に
書
か
れ
た
前
述
の
「
川
東
三
拾
弐
ケ
村
村
調
書
」
に
は
小
物
成
(
雑
税
)
と
し
て
地
曳
網
運
上
が
あ
る
こ
と
か
ら
、
こ
の
化
し
て
い
っ
た
。
生
活
を
支
え
て
い
た
。
さ
ら
に
前
浜
に
お
け
る
排
他
的
漁
業
権
の
確
立
と
塩
造
り
の
衰
退
に
よ
り
漁
業
発
展
に
拍
車
が
か
か
り
、
塩
新
田
は
漁
村
へ
と
深
石
高
六
石
の
塩
新
田
で
は
と
て
も
農
業
生
産
に
よ
り
生
計
を
維
持
す
る
こ
と
は
不
可
能
で
あ
り
、
塩
造
り
と
と
も
に
地
の
利
を
生
か
し
た
漁
業
が
村
の
て
お
り
、
塩
新
田
の
第
一
期
の
基
幹
産
業
が
製
塩
業
な
ら
ば
第
二
期
は
漁
業
で
あ
る
。
漁
十
業
八
世
紀
に
書
か
れ
た
「
遠
江
国
風
土
紀
伝
」
に
は
、
塩
新
田
に
つ
い
て
「
下
大
之
郷
の
分
地
な
り
、
海 うみ
萱 がや
、
塩
草
、
ぎ
漁 ょり
猟 ょう
を
産
と
為
す
」
と
記
さ
れ
あ
る
。
当
然
で
は
あ
る
が
遭
難
し
か
か
っ
た
こ
と
も
度
々
あ
っ
た
ら
し
い
。
み
ん
な
で
艪
を
漕
ぎ
進
ん
だ
ら
し
い
。
現
在
で
は
考
え
ら
れ
な
い
行
動
で
あ
る
が
、
楽
し
い
年
中
行
事
の
一
つ
と
し
て
当
時
は
当
た
り
前
だ
っ
た
よ
う
で
に
か
け
て
の
風
向
き
の
よ
い
日
に
船
頭
が
ふ
れ
を
出
し
、
事
前
に
決
め
て
あ
っ
た
参
加
者
を
浜
に
集
め
、
舟
に
帆
を
立
て
て
出
発
し
、
風
が
な
く
な
る
と
時
代
で
あ
り
、
風
力
、
人
力
を
頼
り
に
自
分
達
の
持
ち
船
で
行
く
し
か
な
か
っ
た
の
で
あ
ろ
う
。
大
橋
さ
ん
や
大
庭
さ
ん
の
話
に
よ
る
と
、
春
か
ら
初
夏
保
管
さ
れ
て
い
る
。
古
い
も
の
で
は
「
明
治
五
年
三
月
金
刀
比
羅
宮
祈
祷
守
護
」
と
書
か
れ
た
大
木
札
が
残
存
し
て
い
る
が
、
鉄
道
も
開
通
し
て
い
な
い
な
お
、
昔
は
地
曳
網
漁
や
カ
ツ
オ
漁
の
舟
で
伊
勢
参
り
や
金
比
羅
参
り
に
行
っ
て
お
り
、
そ
の
際
に
受
領
し
た
木
札
が
今
で
も
多
く
の
家
々
に
大
切
に
子
供
の
頃
に
「
白
鷹
丸
」
と
呼
ば
れ
た
そ
の
勇
姿
を
見
た
記
憶
が
残
っ
て
い
る
。
に
係
留
し
カ
ツ
オ
漁
等
に
使
用
し
て
い
た
が
、
昭
和
二
十
年
代
末
に
は
川
が
浅
く
な
っ
て
航
行
が
困
難
に
な
り
、
い
つ
の
ま
に
か
姿
を
消
し
て
し
ま
っ
た
。
そ
の
ほ
か
、
戦
前
、
戦
後
の
一
時
期
、
村
で
は
数
ト
ン
の
焼
き
玉
エ
ン
ジ
ン
付
の
漁
船
(
機
械
船
)
を
保
有
し
て
い
た
。
今
之
浦
川
(
北
側
の
川
岸
)
8
村
人
の
生
き
生
き
と
し
た
姿
を
見
る
の
が
何
よ
り
も
楽
し
か
っ
た
。
い
っ
た
。
尤
も
、
塩
新
田
で
は
昭
和
二
十
年
代
後
半
ま
で
は
地
曳
網
が
行
わ
れ
て
い
た
。
二
、
三
回
参
加
し
た
記
憶
が
あ
る
が
、
魚
が
捕
れ
な
く
て
も
、
こ
れ
ら
興
隆
を
極
め
た
地
曳
網
漁
も
昭
和
十
三
年
の
豊
漁
の
後
は
魚
群
が
沖
を
通
る
よ
う
に
な
り
、
さ
ら
に
海
岸
付
近
の
汚
染
も
進
み
次
第
に
廃
れ
て
塩
新
田
で
は
十
輪
寺
の
境
内
に
ま
で
渋
柿
を
植
え
た
と
語
り
継
が
れ
て
お
り
、
今
で
も
そ
の
渋
柿
が
残
っ
て
い
る
。
当
時
は
防
腐
剤
と
し
て
、
ま
た
耐
久
性
を
向
上
さ
せ
る
た
め
に
網
に
渋
を
塗
っ
た
ら
し
い
が
、
そ
の
渋
を
取
る
た
め
の
渋
柿
を
植
え
る
場
所
が
な
く
、
埋
ま
っ
て
い
た
と
い
う
。
浜
に
は
地
曳
網
漁
に
必
要
な
網
小
屋
や
見
張
り
小
屋
、
舟
等
が
置
か
れ
て
年
間
五
、
六
十
回
の
漁
が
行
わ
れ
、
最
盛
期
に
は
塩
新
田
が
干
し
た
イ
ワ
シ
に
地
曳
網
の
た
め
に
「
浜
船
講
」
と
呼
ば
れ
た
網
組
が
集
落
ご
と
に
組
織
さ
れ
て
い
た
。
塩
新
田
で
は
在
住
の
各
戸
が
株
を
持
ち
講
を
運
営
し
て
い
た
。
脱 穀 作 業
瓜
で
あ
っ
た
。
等
に
配
分
さ
れ
た
農
地
に
は
灌
水
設
備
が
設
置
さ
れ
、
砂
地
に
適
し
た
作
物
が
栽
培
さ
れ
た
。
そ
の
代
表
が
西
昭
和
三
十
年
代
に
な
る
と
、
海
岸
に
近
い
広
大
な
砂
地
が
開
発
さ
れ
一
大
農
地
が
形
成
さ
れ
た
。
各
戸
に
均
瓜
に
変
わ
っ
て
い
っ
た
。
州
葉
か
ら
米
葉
に
な
る
と
乾
燥
小
屋
等
が
必
要
と
な
っ
た
た
め
、
昭
和
三
十
年
頃
か
ら
葉
タ
バ
コ
は
次
第
に
西
し
か
し
な
が
ら
、
こ
の
葉
タ
バ
コ
は
葉
の
収
穫
か
ら
出
荷
ま
で
の
作
業
が
大
変
で
あ
り
、
ま
た
、
品
種
が
遠
戦
後
に
最
盛
期
を
迎
え
、
夏
場
に
は
ど
の
家
の
庭
に
も
天
日
乾
し
の
タ
バ
コ
の
葉
が
所
狭
し
と
吊
さ
れ
て
い
た
。
収
入
は
水
稲
の
数
倍
に
な
っ
た
ら
し
く
、
当
時
と
し
て
は
貴
重
な
収
入
源
で
あ
っ
た
。
そ
の
後
、
戦
時
中
に
は
労
働
力
の
低
下
か
ら
一
時
衰
退
す
る
も
、
の
栽
培
が
始
ま
っ
た
の
は
大
正
初
期
ら
し
い
が
、
砂
地
の
畑
が
栽
培
に
適
し
、
栽
培
方
法
も
簡
単
な
上
に
専
売
公
社
の
買
い
上
げ
で
作
付
面
積
当
た
り
の
9
そ
の
後
、
昭
和
初
期
の
繭
の
大
暴
落
を
機
に
養
蚕
は
次
第
に
廃
れ
、
代
わ
り
に
葉
タ
バ
コ
の
生
産
が
主
要
な
農
産
業
と
な
っ
た
。
塩
新
田
で
葉
タ
バ
コ
に
は
蚕
の
餌
に
な
る
桑
の
葉
が
足
り
な
く
、
遠
く
は
天
竜
二
俣
ま
で
買
い
つ
け
に
行
っ
た
と
い
う
。
は
「
お
蚕
様
」
と
呼
ば
れ
、
家
の
い
た
る
所
に
棚
を
設
置
し
て
育
て
、
地
震
や
火
事
に
際
し
て
は
「
お
蚕
様
」
を
第
一
に
守
っ
た
そ
う
で
あ
る
。
最
盛
期
の
母
屋
の
ほ
か
に
倉
、
長
屋
を
備
え
、
堂
々
た
る
屋
敷
構
え
を
し
て
い
た
が
、
そ
れ
ら
の
普
請
に
は
こ
の
養
蚕
が
大
き
く
貢
献
し
た
ら
し
い
。
当
時
、
蚕
明
治
時
代
か
ら
昭
和
初
期
ま
で
の
塩
新
田
は
養
蚕
が
盛
ん
で
あ
っ
た
。
こ
の
養
蚕
は
儲
か
っ
た
ら
し
く
、
筆
者
が
子
供
の
頃
は
多
く
の
家
々
が
茅 かや
葺ぶ
き
大
に
伴
い
買
い
増
し
た
り
し
て
、
明
治
、
そ
し
て
大
正
、
昭
和
に
な
る
と
か
な
り
の
田
畑
を
有
す
る
ま
で
に
な
っ
て
い
た
。
漁
業
に
続
き
塩
新
田
の
第
三
期
の
基
幹
産
業
と
な
っ
た
の
は
農
業
で
あ
る
。
か
つ
て
僅
か
し
か
な
か
っ
た
耕
作
地
も
浜
辺
の
新
田
開
発
や
経
済
力
の
増
農
業
織 布 工 場
と
し
て
全
国
に
も
そ
の
名
を
知
ら
れ
て
い
た
。
台
頭
と
と
も
に
急
速
に
衰
退
し
姿
を
消
し
た
。
最
盛
期
の
頃
の
福
田
町
は
そ
れ
こ
そ
別
珍
、
コ
ー
ル
テ
ン
の
産
地
殊
な
織
物
を
織
り
、
ガ
チ
ャ
マ
ン
景
気
と
呼
ば
れ
て
一
時
代
を
築
い
た
が
、
昭
和
四
十
年
代
に
な
る
と
新
興
国
の
と
す
る
家
が
数
軒
存
在
し
た
。
数
台
か
ら
十
数
台
の
自
動
織
機
を
導
入
し
、
別
珍
、
コ
ー
ル
テ
ン
と
呼
ば
れ
た
特
工
戦 業
前
ま
で
は
塩
新
田
に
工
業
を
生 なり
業 わい
と
す
る
家
は
な
か
っ
た
が
、
戦
後
の
一
時
期
織
物
の
生
産
、
加
工
を
本
業
は
村
中
に
も
休
耕
田
や
非
耕
作
地
が
目
立
つ
よ
う
に
な
っ
た
。
こ
の
よ
う
な
農
業
も
高
度
成
長
期
に
な
る
と
世
代
交
代
や
企
業
の
進
出
等
に
よ
り
次
第
に
下
火
に
な
り
、
専
業
農
家
は
僅
か
に
な
っ
て
し
ま
い
、
最
近
10
休
日
を
決
め
な
い
と
、
農
作
業
を
休
ま
な
い
時
代
で
あ
っ
た
。
た
の
で
あ
る
。
今
で
は
死
語
に
な
っ
て
い
る
が
、
農
休
(
毎
月
一
日
及
び
十
五
日
)
や
サ
ナ
ブ
リ
(
田
植
え
終
了
後
の
休
日
)
と
称
し
、
村
で
無
理
矢
理
れ
て
い
た
。
そ
の
た
め
、
田
植
え
の
時
期
に
は
小
学
校
に
家
の
手
伝
い
を
さ
せ
る
た
め
の
農
繁
休
暇
と
呼
ば
れ
た
休
日
が
あ
っ
た
。
そ
れ
ほ
ど
忙
し
か
っ
栽
培
技
術
の
進
歩
、
耕
耘
機
の
普
及
等
に
よ
り
生
産
性
は
著
し
く
向
上
し
た
が
、
こ
の
頃
は
、
稲
作
、
畑
仕
事
と
、
と
に
か
く
一
年
中
農
作
業
に
追
わ
西
瓜
の
裏
作
と
し
て
は
、
イ
チ
ゴ
や
サ
ツ
マ
イ
モ
、
ネ
ギ
等
が
栽
培
さ
れ
て
い
た
。
な
る
と
タ
バ
コ
の
葉
同
様
、
各
家
の
庭
先
に
は
西
瓜
が
山
と
積
ま
れ
、
連
日
、
広
場
の
集
荷
場
は
西
瓜
の
出
荷
で
大
賑
わ
い
で
あ
っ
た
。
け
、
そ
れ
か
ら
毎
日
水
や
り
し
て
七
月
頃
に
収
穫
す
る
の
で
あ
る
。
と
に
か
く
壮
観
で
浜
の
畑
に
は
見
渡
す
限
り
西
瓜
が
転
が
っ
て
い
た
。
収
穫
時
期
に
春
が
来
る
と
各
家
で
フ
レ
ー
ム
と
呼
ば
れ
た
苗
床
で
接
ぎ
木
を
し
た
ス
イ
カ
の
苗
を
育
て
、
そ
れ
を
ビ
ニ
ー
ル
の
ト
ン
ネ
ル
で
保
温
し
た
畑
に
植
え
付
技
能
を
漁
業
以
外
に
も
活
用
し
て
い
た
こ
と
は
間
違
い
な
く
、
水
運
も
大
き
な
収
入
源
に
な
っ
て
い
た
も
の
と
思
わ
れ
る
。
朝
鮮
通
信
使
の
天
竜
川
通
行
に
際
し
舟
を
提
供
し
た
記
録
も
存
在
し
て
お
り
、
江
戸
時
代
、
塩
新
田
は
多
く
の
舟
(
船
)
を
保
有
し
、
優
れ
た
そ
の
船
舶
正
徳
二
年
(
一
七
一
二
)
の
朝
鮮
通
信
使
の
通
行
に
際
し
、
塩
新
田
は
「
天
竜
川
船
橋
御
用
役
」
を
勤
め
た
と
の
記
録
が
あ
り
、
ま
た
、
そ
の
ほ
か
の
た
可
能
性
が
あ
る
。
来
元
船
(
大
き
な
荷
船
)
村
申
由
有
之
」
と
表
現
し
て
お
り
、
さ
ら
に
浜
松
藩
と
の
関
係
を
考
え
る
に
、
川
舟
運
送
だ
け
で
な
く
海
運
に
も
関
係
し
て
い
め
て
お
り
、
福
田
湊
や
三
ツ
合
湊
を
ベ
ー
ス
と
し
た
川
舟
運
送
を
行
っ
て
い
た
も
の
と
思
わ
れ
る
。
ま
た
、
前
述
の
大
杉
家
文
書
に
は
、
塩
新
田
を
「
古
寺
田
勝
彦
氏
の
「
遠
州
山
名
郡
三
ツ
合
新
田
村
」
に
は
、
三
ツ
合
新
田
に
お
け
る
川
舟
運
送
に
つ
い
て
の
記
述
が
あ
る
が
、
塩
新
田
も
川
舟
運
上
を
納
11
こ
の
福
田
湊
の
繁
栄
が
周
囲
の
河
川
を
利
用
し
た
川
舟
運
送
を
盛
ん
に
し
た
。
れ
た
ら
し
い
。
藩
の
年
貢
運
搬
船
な
ど
大
小
の
和
船
が
数
多
く
出
入
り
し
、
最
盛
期
に
は
「
嫁
に
行
く
な
ら
福
田
の
川
岸
へ
、
お
江
戸
帰
り
の
船
が
着
く
」
と
ま
で
歌
わ
に
代
わ
っ
て
い
っ
た
。
そ
の
結
果
、
福
田
か
ら
三
ツ
合
新
田
・
塩
新
田
に
か
け
て
の
仿
僧
川
が
繋
船
地
と
し
て
賑
わ
う
よ
う
に
な
り
、
浜
松
藩
や
横
須
賀
宝
永
四
年
(
一
七
〇
七
)
の
大
地
震
に
よ
る
地
殻
変
動
に
よ
り
横
須
賀
湊
や
浅
羽
湊
の
港
湾
機
能
が
衰
え
る
と
、
福
田
湊
や
三
ツ
合
新
田
湊
が
こ
れ
ら
最
後
に
、
江
戸
時
代
に
お
け
る
塩
新
田
の
活
動
の
一
つ
と
し
て
水
運
を
挙
げ
て
お
き
た
い
。
水
運
第
二
は
、
血
縁
で
あ
る
。
塩
新
田
に
は
今
で
も
数
個
の
一
門
が
存
在
し
て
い
る
。
こ
の
一
門
内
の
結
束
は
当
然
で
あ
る
が
、
時
に
は
一
門
間
や
そ
の
親
間
意
識
が
自
然
に
形
成
さ
れ
て
い
っ
た
の
で
あ
る
。
に
囲
ま
れ
、
他
村
へ
の
出
入
り
は
一
、
二
か
所
の
橋
を
渡
ら
な
く
て
は
な
ら
な
か
っ
た
。
よ
っ
て
、
境
界
が
明
確
な
た
め
、
同
じ
地
域
に
住
む
住
民
の
仲
ま
ず
そ
の
第
一
は
地
縁
で
あ
る
。
孤
立
と
ま
で
は
い
か
な
い
も
の
の
、
川
に
囲
ま
れ
た
独
特
の
地
形
が
村
人
の
結
束
を
強
め
た
の
で
あ
る
。
周
囲
を
川
何
故
に
こ
の
様
な
気
質
が
醸
成
さ
れ
た
の
か
、
つ
ら
つ
ら
考
え
る
に
次
の
三
点
が
影
響
し
て
い
た
の
で
は
な
か
ろ
う
か
。
結
束
が
堅
か
っ
た
こ
と
を
示
し
て
い
る
。
要
す
る
に
集
団
暴
行
で
あ
る
が
、
村
内
の
仲
間
が
屈
辱
を
受
け
た
か
ら
と
い
っ
て
、
徒
党
を
組
ん
で
皆
で
押
し
か
け
る
と
こ
ろ
な
ど
は
明
ら
か
に
村
の
怪
我
を
負
わ
せ
た
と
い
う
の
で
あ
る
。
左
衛
門
が
難
癖
を
つ
け
た
の
を
勘
七
が
村
役
人
に
届
け
出
た
の
で
、
そ
れ
を
怒
っ
て
塩
新
田
の
若
い
衆
が
勘
七
の
と
こ
ろ
に
押
し
か
け
て
袋
叩
き
に
し
て
12
こ
れ
は
、
太
郎
馬
新
田
の
知
行
所
か
ら
塩
新
田
領
主
の
浜
松
藩
庁
に
対
し
て
提
出
さ
れ
た
訴
状
で
あ
る
が
、
内
容
は
、
太
郎
馬
の
勘
七
に
塩
新
田
の
弥
八
月
、
太
郎
馬
新
田
勘
七
と
塩
新
田
村
多
数
村
民
と
の
喧
嘩
に
つ
き
浜
松
藩
あ
て
吟
味
願
」
と
い
う
資
料
が
残
さ
れ
て
い
る
。
も
ち
ろ
ん
、
時
代
と
と
も
に
こ
れ
ら
の
気
質
も
希
釈
さ
れ
て
い
る
が
、
察
す
る
に
昔
は
顕
著
で
あ
っ
た
。
そ
の
一
端
を
示
す
事
例
と
し
て
「
天
明
四
年
厚
い
と
こ
ろ
も
目
立
つ
が
、
こ
れ
は
遠
州
人
総
て
に
共
通
し
て
い
る
気
質
で
あ
る
。
塩
新
田
の
気
質
は
、
よ
く
言
え
ば
剛
毅
闊
達
、
団
結
強
固
、
悪
く
言
え
ば
粗
野
、
付
和
雷
同
と
い
う
こ
と
に
な
る
。
さ
ら
に
理
屈
嫌
い
で
義
理
人
情
に
気
質
村
は
幾
多
の
災
害
や
他
村
と
の
確
執
を
乗
り
越
え
て
今
日
ま
で
繁
栄
を
維
持
し
て
こ
ら
れ
た
の
で
あ
る
。
は
し
な
い
が
、
困
っ
た
こ
と
が
あ
れ
ば
一
門
や
隣
家
で
、
さ
ら
に
は
組
、
村
で
助
け
る
の
が
当
た
り
前
で
あ
る
。
こ
の
様
な
風
習
が
あ
っ
た
か
ら
こ
そ
、
取
れ
た
魚
や
利
益
は
均
等
に
分
配
さ
れ
、
新
た
に
開
発
さ
れ
た
土
地
も
全
戸
に
平
等
に
分
け
与
え
ら
れ
る
の
が
原
則
で
あ
っ
た
。
ま
た
、
余
計
な
干
渉
ス
テ
ム
が
存
在
し
て
い
た
か
ら
で
あ
る
。
な
お
、
当
然
で
は
あ
る
が
、
こ
れ
ら
強
固
な
団
結
が
長
年
保
た
れ
て
き
た
の
は
、
地
縁
、
血
縁
だ
け
で
な
く
、
背
景
に
平
等
・
共
助
の
精
神
や
社
会
シ
ろ
う
か
。
そ
の
ほ
か
、
領
主
が
異
な
る
事
情
も
隣
接
村
と
の
公
的
な
関
係
を
希
薄
に
し
、
自
然
と
村
内
の
関
係
に
重
き
を
置
く
風
習
が
強
化
さ
れ
た
の
で
は
な
か
魚
の
配
分
、
さ
ら
に
は
浜
や
漁
場
の
管
理
に
村
人
の
結
束
は
不
可
欠
で
あ
っ
た
の
で
あ
る
。
村
人
が
結
束
し
一
致
団
結
し
て
取
り
組
ま
な
く
て
は
な
ら
な
か
っ
た
の
で
あ
る
。
ま
た
操
船
は
元
よ
り
、
船
や
漁
具
の
取
得
及
び
手
入
れ
並
び
に
取
っ
た
13
例
え
ば
地
曳
網
で
あ
る
が
、
地
曳
網
は
個
人
や
家
族
単
独
で
行
え
る
漁
法
で
は
な
く
、
少
な
く
と
も
数
十
人
の
人
力
が
必
要
で
あ
る
。
そ
の
た
め
に
は
、
第
三
は
、
村
が
生
業
と
し
て
い
た
製
塩
や
漁
業
が
村
の
結
束
を
必
要
と
し
て
た
め
、
団
結
の
気
風
が
育
成
さ
れ
た
の
で
あ
る
。
号
を
有
す
る
家
が
多
数
存
在
す
る
の
で
あ
る
。
か
つ
て
三
十
数
軒
の
村
に
し
て
は
驚
く
べ
き
数
で
あ
る
。
も
い
る
が
、
決
し
て
そ
う
で
は
な
く
、
歴
と
し
た
氏
素
性
を
有
す
る
家
々
の
集
落
な
の
で
あ
る
。
そ
の
証
拠
に
、
戒
名
に
院
号
を
有
す
る
家
が
三
軒
、
軒
当
然
で
あ
る
が
、
こ
れ
ら
の
血
縁
が
お
互
い
の
関
係
を
自
然
と
強
固
に
し
て
い
っ
た
の
で
あ
る
。
そ
う
聞
く
と
、
何
か
訳
あ
り
の
集
落
と
邪
推
す
る
輩
を
聞
く
機
会
も
あ
り
、
今
日
で
も
六
、
七
代
さ
溯 かの
ぼ
れ
ば
ほ
と
ん
ど
の
家
々
が
な
ん
ら
か
の
繋
が
り
が
あ
る
と
言
わ
れ
て
い
る
。
し
て
、
村
の
多
く
の
家
々
が
そ
れ
ぞ
れ
親
戚
関
係
に
よ
り
結
ば
れ
る
よ
う
に
な
っ
て
い
っ
た
。
冠
婚
葬
祭
な
ど
で
、
古
老
か
ら
始
め
て
相
互
の
家
の
関
係
戚
間
で
の
婚
姻
に
よ
り
姻
戚
関
係
を
結
ん
だ
た
め
、
そ
れ
ぞ
れ
の
一
門
は
他
の
一
門
と
も
な
ん
ら
か
の
血
縁
関
係
が
確
立
し
て
い
っ
た
の
で
あ
る
。
こ
う
そ
が
、
塩
新
田
が
誕
生
以
来
育
ん
で
き
た
矜
恃
と
す
べ
き
気
質
で
あ
り
、
伝
統
な
の
で
あ
る
。
(
終
わ
り
)
と
は
、
ま
さ
に
彼
ら
を
称
す
る
の
で
あ
ろ
う
。
そ
し
て
、
こ
の
「
粗
に
し
て
野
だ
が
卑
で
は
な
い
」
気
風
こ
そ
れ
に
し
て
も
、
ハ
ン
チ
ン
グ
に
ベ
ス
ト
と
こ
の
男
達
は
粋
で
あ
る
。
「
粗
に
し
て
野
だ
が
卑
で
は
な
い
」
こ
と
な
く
敵
に
向
か
っ
て
い
っ
た
結
果
な
の
で
あ
ろ
う
が
、
こ
の
あ
た
り
に
も
剛
毅
な
気
質
が
う
か
が
え
る
。
軒
に
一
人
の
戦
没
者
が
存
在
す
る
こ
と
に
な
る
。
少
な
か
ら
ぬ
数
で
あ
る
。
最
前
線
に
配
置
さ
れ
、
臆
す
る
兵
役
と
い
え
ば
、
明
治
以
降
、
塩
新
田
は
十
人
の
戦
没
者
を
出
し
て
い
る
。
村
の
戸
数
四
十
戸
と
し
て
四
役
で
鍛
え
上
げ
、
そ
し
て
日
夜
、
浜
や
田
畑
で
汗
を
流
し
て
き
た
男
達
の
迫
力
な
の
で
あ
る
。
14
そ
が
塩
新
田
の
気
質
そ
の
も
の
で
あ
る
。
こ
の
男
達
に
は
温
和
で
優
し
さ
を
感
じ
る
一
方
で
、
何
事
も
恐
れ
な
い
堂
々
と
し
た
気
迫
が
み
漲 なぎ
っ
て
い
る
。
兵
写
っ
て
い
る
の
は
、
わ
れ
わ
れ
の
一
世
代
前
の
男
達
で
あ
る
。
存
命
の
方
も
い
る
が
多
く
の
方
は
鬼
籍
に
入
っ
て
い
る
。
こ
の
男
達
の
発
す
る
オ
ー
ラ
こ
さ
て
、
こ
こ
に
大
橋
さ
ん
か
ら
借
り
受
け
た
一
枚
の
写
真
が
あ
る
。
時
期
は
昭
和
二
十
年
代
後
半
、
広
場
に
お
け
る
サ
ツ
マ
イ
モ
の
出
荷
風
景
で
あ
る
。
な
場
合
は
皆
で
助
け
合
え
ば
済
む
か
ら
で
あ
る
っ
て
得
手
不
得
手
や
都
合
が
あ
る
も
の
の
、
何
の
問
題
も
な
く
そ
れ
ぞ
れ
の
役
職
が
遂
行
さ
れ
て
い
る
の
は
協
力
や
共
助
の
土
壌
が
背
景
に
あ
り
、
必
要
自
治
会
長
や
組
長
等
の
役
員
が
年
齢
順
や
家
順
に
各
家
長
に
自
動
的
、
つ
ま
り
平
等
に
割
り
当
て
ら
れ
る
仕
組
み
に
な
っ
て
い
る
こ
と
で
あ
る
。
人
に
よ
前
に
な
っ
て
い
る
。
ま
た
、
村
の
重
要
事
項
は
大
寄
合
を
い
わ
れ
る
全
戸
の
代
表
者
が
参
加
す
る
集
会
で
決
定
さ
れ
る
。
さ
ら
に
興
味
深
い
の
は
、
村
の
今
で
も
村
の
結
束
は
堅
く
、
祭
り
や
そ
の
他
の
行
事
に
そ
の
一
端
が
垣
間
見
ら
れ
る
ほ
か
、
葬
儀
に
際
し
て
は
組
の
全
戸
で
手
助
け
す
る
の
が
当
た
り
関
西暦
連
和暦
年
出
表
来
事
1625 寛永2年
大之郷村により開発
1633 寛永10年
大之郷は、上大之合及び下大之合に分かれる。
1674 延宝2年
伊兵衛新田開発完了
1702 元禄15年
塩新田石高6石4斗8升7合(遠江国郷村高帳)
1707 宝永4年
宝永大地震、横須賀湊の使用困難となる。
1712 正徳2年
朝鮮使節通行に際し、天竜川舟橋御用役を勤める。
1714 正徳4年
一色との前浜所有権争い決着
1718 享保3年
戸数30戸、村民104人(川東三拾弐ケ村村調書)
1776 明和3年
塩運上廃止
1846 弘化3年
浜松藩領から陸奥白河藩領となる。
1854 安政元年
安政東海大地震
1869 明治2年
遠江国は静岡藩領となる。
1871 明治4年
廃藩置県により遠江国は浜松県となる。
1876 明治9年
浜松県は静岡県に編入される。
1889 明治22年
町村制施行で於保村が成立、於保村塩新田となる。
1957 昭和32年
於保村は磐田市と福田町に分離、福田町塩新田となる。
2005 平成17年
福田町は磐田市に合併、磐田市塩新田となる。
15
遠
州
山
名
郡
三
ツ
合
新
田
村
(
寺
田
勝
彦
)
昭
和
六
一
年
地
名
大
辞
典
静
岡
県
(
角
川
書
店
)
昭
和
五
七
年
静
岡
県
水
産
誌
(
静
岡
県
図
書
館
協
会
)
昭
和
五
九
年
静
岡
県
磐
田
郡
誌
(
磐
田
郡
教
育
会
)
昭
和
四
六
年
16
福
田
町
史
資
料
編
・
民
俗
(
福
田
町
)
平
成
一
一
年
福
田
町
の
歴
史
(
福
田
町
)
平
成
一
四
年
福
田
町
史
資
料
編
・
於
保
村
近
世
(
福
田
町
)
平
成
六
年
磐
田
市
史
・
通
史
編
中
巻
・
近
世
(
磐
田
市
)
平
成
三
年
磐
田
の
新
田
開
発
(
磐
田
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昭
和
六
二
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考
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