平成 27 年 2 月 8 日 至宮崎県総合博物館 災害の記憶と記録、我々のミライ。 九州保健福祉大学 山内 利秋 1:もちろん、災害はひとごとではない。 歴史上、我が国はたびたび大きな災害に見舞われてきた。 20 年前の阪神淡路大震災、4 年前の東日本大震災、最近頻発する土砂災害、さらには御嶽山、近くは霧島・阿蘇の噴火 でも明らかなように、我々は時折発生する災害の狭間 (はざま)に生きていると言ってもい いのだろう。どうしても忘れがちになったり、反対に感覚的にマヒしてしまったりする場 合もあるが、災害は自分と家族の生命や財産、そして社会や様々な資源に大きな損害を与 えてしまう出来事である。 南九州、特に宮崎では距離的に離れている事もあって、震災をはじめとする地震に関連 する防災・減災への関心がどうしても希薄になっている 。私は東日本大震災にかかる市民 の記録のアーカイブ化をすすめている、仙台にある NPO20 世紀アーカイブ仙台と協力して 『3.11 キヲクの記録展』を平成 24 年の 3 月に延岡と宮崎で開催した。また 25 年 3~4 月 にかけて、宮崎県総合博物館の協力のもと、当館ロビーにて震災で被災した文化財の救出 にかかわる写真パネル展も開催した。こうした普及啓発活動はさらに行う必要はあるが、 それでもそれを身近に体験していない宮崎の人々の心に訴えるには限界がある。実の事を 言うと、震災から 4 年が過ぎた現在、東北の被災地においてさえ、災害記憶の希薄化が進 行しつつあるのだ。 特にこうした、いつ災 害が発生するのかわから ない世の中では、本当は 常に一定の緊張感を持っ て生きていく事が必要な のだけれども、ヒトがい つもそうした状態を保つ 事は大変難しいだろう。 むしろ災害が続いている 時こそ、そうしたいやな 出来事は早く忘れたいと 思うのが人情なのかもし れない。例えば我々は、 陸前高田市、高田松原「奇跡の一本松」 撮影:山内利秋 台風 14 号の水害や口蹄 疫の状況を、今となって はどれだけ覚えているだろうか? そう考えてみると、大きな災害の直後にしばらくの期間だけ防災の問題を喚起するより 1 も、そうした事がまったく発生していない時に 過去の様々な災害の記憶をトピックとして 提示したり、様々な場所に分散させて配置する事によって、時折 思い起こす機会を提供す るというのは、実に妥当な方法である。これは一定周期で悲しい出来事や故人を思い出す 宗教的な行事にみられる合理性みたいなものかもしれない。 過去の災害の記憶を情報として人々に提示するには、 客観的なデータで示す方法から感 情にうったえるやり方まで、実に様々な手段がある。 私は NHK 宮崎放送局と協力して『過 去からの警告~みやざきの地震・津波~』という 2 分間番組を制作し、夕方・夜のニュー スの合間に繰り返し放送している。これは短い番組を何度も放映 する事で、過去の災害の 記憶を人々の身体に刷り込んでいこうという意図を含んでいる。 重要なのは、こうした何かあるごとに災害の記憶を意識的に思い出させようとするとい う考え方や試みは、つい最近行われるようになったのではなく、インターネットやテレビ 等もない過去、歴史上繰り返し実践され、警告を発してきた。 今こうした方法をあらためて再認識する事で、歴史的に災害の多い我が国において、ヒ トはどう生きてきたのかを考え直す必要がある。 2:過去の記録と記憶は、ヒトを救ってきた。 岩手県宮古市姉吉地区の丘の上に建てられた石碑に、「此処より下に 家を建てるな」と 刻まれている。これは明治 29(1896)年に発生した明治三陸地震大津波と昭和 8(1933)年の 昭和三陸地震大津波という近代になって 2 つの大きな津波によって壊滅的な被害を被った 住民達が、警告として建てたものである。この話は 震災直後にメディアで何度も報じられ たが、この石碑より高い所に住んでいる姉吉地区の住民は、3.11 の際に危機を免れたとい う。 こうした過去の災害の記録は、岩手県だけではなく全国にのこされている。和歌山県や 高知県は三陸海岸同様に津波に襲われた記録が多い。 和歌山県湯浅町の深専寺(じんせんじ)にある「大地震津なみ心え之記碑」は津波災害時 には言い伝えは確認しながらもそれだけにはとらわれない事や具体的な避難経路まで記載 されている。同様に高知県でも津波の様子を示す碑文が多く、特に中央から西部では詳し い状況を記録したものが多い。大方町の伊田海岸、金比羅神社の近くには、かつて周辺に あった松山寺の住職が子孫に対する教訓として刻んだ石碑がのこる。ここには 「すずなみ (大津波の予兆である小さい波)がきたら、舟を沖に出す事によって被害を逃れよ、安政元 年にすずなみの後に大津波がきて海岸一体すべてが流出した。この事を後世の ために記録 しておく 」と刻まれている。特に重要なのは、ここでは広く子孫に読まれるように出来る だけ平易なかな文字で、しかも崩し字を使わないで書かれている点である。実際、現代人 でも読み取れるという。 私は平成 25 年の夏に和歌山県那智勝浦町にある、天神神社を訪れた。ここは南海トラ フ地震で最大 20m の津波の襲来が予想されている所であるが、昭和 19(1944)年の昭和東南 海地震において甚大な津波被害を被り、その災害の継承をはかるために太平洋戦争後の昭 和 25(1950)年に石碑が建立されている。この昭和東南海地震は戦時中で報道管制がひかれ ていたため、被害が大きかったものの各地の実体がよくわからないとされている。それで 2 も、この地区の人々が戦後そう時間が経過しないうちに実行したのは災害を伝承していく 事だった。 3:宮崎県の地震の記録、いくつか。 和歌山県の深専寺と高知県の伊田海岸の事例に挙げたのは、いずれも安政東海・南海地 震(安政元年/1854 年)の記録である。この東海・南海地震は2つの地震が連動して発生し たものであり、さらにこれに東南海地震を加えての3連動地震の発生可能性が予測されて いる。 宮崎県は石碑は少ないものの、 この安政地震 やそれ以前の宝永南海地震 (宝永 4・1707 年)の記録が残されている。特に延岡藩には地震・津波の記録が多いが、『内藤家文書』に ある「万覚書」や、 『万歳記大学』にのこされた「甲斐家文書」では、安政南海自身 の様子 が詳細に記録されている。 甲斐家文書「万歳記大学」安政元年(1854)11 月 6 日 『宮崎県史 史料編 近世3』所収 一[ ]月五日夕申下刻ニ当時大地しん、(中略)、又①五日夕四ツ前後、津波うちくる聞、川 ②年より・子供・牛馬至る迄引つれ、そり道つたいのぼる人ごゑちゝちん、たい松ほしの ごとく、山下中茂さわぎ□もはや津波とゆふこゑ者山茂くづるゝ [ ] 若者共追々[ ]たいせつとつげしらせたる、お水□わき本村中之者共、氏神の御山をさして のぼる人、③木山のいげもいとわずして、ほふぼふよりあつまりたる其人数、凡三百人之 余と覚、④其津波ハけなしがはまをうちこし、其塩道壱丈計まとのく瀬迄たるみ侯也、⑤ 尤其人数、氏神御山に一七日の間立こもる、⑥又町・家中之儀者取訳ケ大地しん、今山・ あたご山に登る、⑦大武町中者無鹿山にはせあつまる、道はし・川筋いたみ之儀ハ申スニ かきらず、 (中略)又⑧此川筋ハせい天之ひよりニ水かさ弐尺之余まし、谷々の水まし、小 川奥分ハ水川上ミとなかれ、川内名御庄屋元前辺者、川そこをふきほぎ、⑨又長井本村け づがさこ下タハ、地面をふきほぎ、水わき出る也、⑪とびのふ御神の前ハ、地面三尺はゞ に、長サ七拾間計ゆりわり、 (中略)⑫右□国うんぜん山くずれしより六拾壱年二当り、又 (後略) 注目すべきなのは、延岡では比較的大きな被害が出ているにも関わらず、人的被害がな いという点がある。人口の問題もあるかもしれないが、延岡藩の記録をみると、海からか なり離れた現在の北川町でも高台へ真っ先に避難している事がわかる。防災のための巨大 堤防が整備されているわけでもなく、また、現代的な避難訓練が行われているとも考えに くい。ここには過去の津波の被害を伝承として記憶し、理解してきた人々の姿勢と、強固 な地域コミュニティの存在がある。延岡市の消防局で戦前から消防人として活動してきた 西村祝一さんが昭和 41 年に書かれた『郷土物語 火と水との戦い』(同書刊行会)という本 を読むと、この時代まで安政南海地震の記憶が 地元にはのこっていた事がわかる。 高度成 長期に多くの伝統文化が失われていったのと同様、 水害の多い延岡の街で河川や海岸の護 岸工事がすすんでいった結果、こうした記憶が失われていったと考えられる。 4:400 年前の記憶を継承する。 外処(とんところ・とんどころ)地震は寛文 2(1662)年に日向灘沖で発生したマグニチュ 3 ード 7.6 の巨大地震であり、当時の日向国に甚大な被害をのこした。宮崎市木花地区の沿 岸が全滅し、サンマリンスタジアムの近く、現在の島山地区にあった集落一つがまるごと 海に沈んでしまったという。その際一箇所の高い所だけが残ったので、 「島山」と呼ばれて いるとの事。 この地区の人々は、かつてあった西教寺の敷地で、 満 49 年、50 年ごとの供養を行って いる。仏教では通常は 50 回忌を「弔いあげ」と言ってそれ以上は供養を行わない 。それ以 上 50 年単位で行う供養は極めて大きな悲しみを表す場合であり、著名な僧侶の遠忌 (おん き)や、歴史上の戦災供養等にこうした例がある。この 50 年毎という感覚は、災害の記憶 そのものを継承するのにはちょうどいい年代幅であると考えている。 実際、この島山地区 は防災意識の高い地区として以前より宮崎県内で評価されている。 興味深い事に、心理学 においても 50 年というスパンは人々が大きな悲しみから開放され、記憶が歴史の中に入っ ていく年代幅であると言う。 延岡の伊形地区には、伊形花笠踊りという伝統民俗芸能が保存会によって継承されてい る。この踊りには、3 つの由来があるのだが、その中の一つに津波伝承がある。 約 400 年前、伊形の村は大きな津波に襲われた。津波は 7 日 7 夜続き、村人は神社の山 に避難して、津波が静まるように熱心に祈ったところ、7 羽の白サギが飛び立ち白い波頭 の上を舞い回った。村人が「神の使いの白鷺だ」と見ていると、波は静まり、津波が引い た。 この事を切っ掛けに、神への感謝の気持ちとして、白衣(はくえ)に白袴、花笠をかぶっ て踊りを旧暦のお盆の 16・17 日に奉納するようになったという。 この伊形花笠踊りは、災害の記憶を 人々の身体を通して継承してきた。も しかしたら先人達は、石に刻むよりも 体に刻み込んだ方が、長い期間継承さ れると考えていたのかもしれない。伊 形花笠踊りをはじめ、延岡市内の民俗 芸能の映像記録化を行っている。この 時、身体化されてきた記憶を文字のあ る言葉にするという事を含め、踊りを 伊形花笠踊り 全く知らない人が映像のみから技術を 習得する事が可能か、また踊りの習得からそこに含まれている意味を理解する事が実際に 出来るのかを研究している。 5:災害の記憶と地域コミュニティの役割。 東北の三陸地方では、 津波発生→住民が教訓から高所に移転する→利便性の問題が生じる→結果的に 10 年 前後で元の場所に戻る→次の津波が発生 4 というサイクルが繰り返されてきたという。生業の利便性から「仕方なく」低地への居住 が行われるとしても、必要なのは地域コミュニティ単位での防災・減災の意識であろう。 自治体や消防署などが推進する防災訓練は、学校や職場といった組織単位で実施されてい る事が多いが、地区のような単位ではなかなか実施されていない。特に高齢化が進行して いる日本社会では、この事は重要な問題でもある。 過去の被害を継承していく事で防災・減災を強く意識付けるには、脆くなったコミュニ ティをどう支えていくのかが課題となる。 地域社会に眠っている文化資源を災害からまもり、回復させる活動そのものが、過去の 記憶と記録への意識の強化につながっている場合も多い。例えば東北大学を中心に組織さ れている NPO 宮城歴史資料ネットワークでは、東日本大震災で被災した旧家の歴史資料の レスキュー活動を行い、クリーニング等の処置を行っているが、地道な作業が必要となる クリーニングには、大学のある仙台市周辺の高齢者がボランティアとして活躍している。 高齢者達は 「震災で全国各地から支援を受けているが、我々年寄りは何も出来ない。せめてこうい った活動を行う事で先祖から受け継がれてきた街の誇りを取り戻したい」 と、一様に話していた。 高齢化や人口減少によって衰退した地域コミュ二ティを 、場合によっては他所に住む 人々が支え、防災・減災につなげていくのが将来的な展望である。 平成 25 年 9 月には、先に述べた 20 世紀アーカイブ仙台の関係者らを招き、伊形花笠踊 り関係者と意見交換を行った。その際には、県総合博物館の学芸員や、今後地域コミュニ ティを支えていく県内の若いまちづくり関係者にも出席してもらい、災害の記憶の継承 に ついて考えてもらった。 従来、文化の領域にかかわる活動は、 災害との関係の中では脇に追いやられ ていたケースが多かった。しかしなが ら東日本大震災で明らかになったよう に、災害の記憶や、記憶の集積として の様々な記録をのこす事の重要性は、 地域コミュニティや被災者個々人 が自 らの存在意義を確認し、現在・将来を 生きていく上で極めて重要な価値を持 っている。 政府が「災害遺産」という考え方を提案し、災害の記憶を後世にのこしていく方針を明 確にしたのは、このような災害の記憶や記録の持つ役割を認識したからに他ならない。 最後に、終戦直後の昭和 21 年の南海トラフ地震に遭遇した方の証言 をみてもらいたい。 地方の衰退が叫ばれる中、こうした災害のキオクをのこし、未来につないでいく 事は、 コミュニティそのものをつないでいく上で緊急に行うべき作業でもある 。 5
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