大学開放の理念的構築にむけて - 奈良女子大学

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Title
大学開放の理念的構築にむけて‐大学の起源と近代大学の理念を中
心にして‐
Author(s)
元根, 朋美
Citation
人間文化研究科年報, Vol.24, pp.239-250
Issue Date
2009-03-31
Description
URL
http://hdl.handle.net/10935/1118
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大学開放の理念的構築にむけて
一大学の起源と近代大学の理念を中心にして一
元 根 朋 美*
1.はじめに
ユ988年の文部省「我が国の文教施策」において社会人の正規学生化が推奨されたことにより、
大学は社会人学生に対し門戸開放の傾向を強めてきた。また、1991年の大学設置基準改正で打ち
出された「基準の大網化」は、社会人の入学資格緩和や昼夜開講制等、大学制度に新たな局面を
開く契機となった。しかし、文部科学省の「平成18年度国公私立大学・短期大学入学者選抜実施
状況の概要」によると、平成18年度における社会人特別選抜実施大学数の割合は大学全体数の68.4%
であり、社会人特別選抜による入学者数は大学入学者数全体の0.4%にすぎないのである。1)ま
た、廣渡が行った平成13年度文部科学省調査研究「大学開放に関する全学事務局長アンケート調
査」2)(平成13年7−9月に、全国の国公私立4年制大学の事務局長を対象に郵送法により実施。
回答大学数は390校。以下「全学事務局長調査」)によると、社会人入学者数の平均は、学部で27
人、大学院で37人であり、社会人入学の主た.る形態は349件を占めた「科目等履修生」であった。
従って、社会人受け入れ政策として行っている現在の大学開放の実施は十分有効に機能している
とはいえず、また、制度的な課題も未解決のまま残存し続けていることも推測に難くないであろ
う。
一方、社会に向けての大学開放の形態であるが、国立教育政策研究所社会教育実践研究センタ
ーの研修資料には「大学公開講座は、大学開放の中心的な形態」3)と述べられている。よって、
社会人受け入れと公開講座は、社会と大学の双方向的関係をそれぞれ代表するものであろう。実
際、2004年に行われた文部科学省「公開講座のあり方に関する研究調査フォーラム(文部科学省
資料)」によると、公開講座の一校あたりの延べ受講者数平均は1,387人と、学部社会人入学者数
の平均の50倍以上が公開講座には参加している。また、放送大学が行っている「大学等開放推進
事業(文部科学省委託事業)」4)による平成ユ7年度の公開講座数は23,395講座であることから、数
の上においては公開講座は大学開放を推進する実際の機能を果たしているように見える。
しかし、同資料による大学の公開講座内容の内訳によると平成17年度は語学に関する講座が一
番多い。「語学」や「インターネットの使い方」は、市区町村の公民館や民間教育事業において開
催されている講座内容にも存在する。従って、大学開放の視点から考えるならば、同じ内容であ
っても大学らしい公開講座を行う必要があるのであり、大学の公開講座と大学以外の機関の講座
との差異化を図らなければならないのである。鳥距すれば、この大学らしい公開講座の運営に関
しては実に脆弱な実態がみえてくるのであり、その意味からも大学らしさとは何かを改めて問う
ことは焦眉の課題であろう。
このことを考察するために、近代大学の祖といわれ,るフンボルト(Wilhelm von Humboldt,1767
*社会生活環境学専攻
一239一
一1835)の近代大学の理念に立ち戻り、近代大学の理念の成立に向けての大学の起源からの大き
な歴史的変遷を辿っていくことが必要である。その作業を緻密に行うことによって、今日の大学
開放としての公開講座に要請されているものは何であるかが明確になるのではないかと考えるの
である。
したがって、本稿では大学開放において大学と社会の双方的関係の一翼をになう公開講座に関
し、大学らしい公開講座、大学開放のあり方につながる大学らしさとは何かを、社会から要請さ
れた学問内容の視点で、大学の起源から現在の大学の祖である近代大学のフンボルトの理念に至
る歴史的展開の中から解明したい。
2.現代の大学の起源
現代の大学開放には、社会人の正規学生化の推奨にみられるように多様な学生の存在と組織化
の上に成り立つ多様な教育カリキュラムが求められている。この学生の多様性と学生組織の存在
を現代的な大学の基本的な条件とみた場合、現代の大学の起源をどこに求めるべきであろうか。
そこで本章では、現代の大学の起源を、大学における多様な学生の存在と学生組織の存在の(2
つの)観点から明らかにすることを目的とする。
高等教育の黎明期において優れた研究を行っていた教育機関はプラトンやアリストテレスが開
いたアカデメイアやリュケイオンであった。しかし、アカデメイアやリュケイオンでは特定地域
の支配階級のギリシア人に特権的教育を行っていた。従って、現代の大学開放が求める多様な学
生を前提とした多様な教育という大学の条件には適合しないであろう。
一方、中世における高等な教育機関として区分されていたストゥディウム・ゲネラーレ5)には、
ラシュドール(Hastings Rashdal,ユ858−1924)によると「①あらゆる地域から学生を惹きつけたこ
と。②高等諸学(神学,法学,医学)のうち少なくとも一つが教えられる場であったこと。③複
数の教師がその学科を教えたこと。」の3つの特質が存在する。6)従って、学生の多様性と組織
が存在したという理由から、現代の大学の起源は中世の大学とすることができる。
草創期の中世の大学が生まれる社会的背景には、ボローニャにおいて生まれた、商業活動の活
発化に伴い民衆からの法整備の要請や、教会の組織整備に必要な法的知識の要請が存在した。民
衆や社会は法の専門家を必要としたのである。例えばボローニャでは法を、神学校や多くの教会
や修道院が教育の中心的存在であったパリでは神学を中心とした専門家を育成していた。ローマ
法を学ぶことは公務をはじめとする法を扱う職に就くことを可能にし、既にエリートである僧侶
が法を学ぶことでエリートの再生産も可能とした。社会の要請に応えるための専門家を養成した
草創期の大学は、職業と密接につながっていたことがわかる。
ボローニャの場合、社会が要請した法の専門家になるために各国から集まった「高等遊民」と
呼ばれた学生らは、市当局によって市民と同等の身分や権利が保証されない存在であった。そこ
で、彼らは、身分保証を求め「学ぶ人の集団」(ギルド7))を形成した。ギルドでは、仲間同士の
相互扶助機能だけでなく、内部における集団規律、人間形成機能を有していた。学生たちは、教
師に対しては学びたい内容や授業料などを、市当局や市民に対しては衣食住や法上の優遇を求め、
集団で権利を獲得していった。学生たちは学びたい内容や教師を自由に国境を越えて選択するこ
とが可能であったのであり、学ぶ人を教える教師もまた、当時のほかの職業同様に「教師の集団」
一24CH
を形成していったのである。こうして自然発生的に生まれたのが、ボローニャ大学やパリ大学と
いった草創期の「自生型」8)の大学である。ボローニャ大学創設後も、複数の大学が自然発生的
に生まれた。しかし、古くから存在する大学で発行される教授免許は、万国教授免許と呼ばれる
どこでも教えることができる特別な資格へと変化していった。そうして次第におなじ高等機関の
中にも、学ぶ場所を指すストゥディウムと、ラシュドールが提示した3つの特質を持つストゥデ
ィウム・ゲネラーネと呼ばれる高等な教育機関という区別がなされるようになった。久保は、大
学で法を学ぶことと当時の専門学校である法学校で法を学ぶことの違いは、大学の、専門学校に
はない自由学芸諸科目を基礎として修めた上で専門の法学を学ぶカリキュラムの存在であると述
べている。9)
また草創期の大学は、教会や公民館の一室で教授が行われており、現在のような自前のキャン
パスをもたなかったことから、「学ぶ人の集団」と「教える人の集団」は市当局や市民との抗争が
起こると「集団移住」と呼ばれる抵抗手段をとり、他都市へ移動した。大学団の集団移住は、集
団がもたらす経済効果や大学町である誇りの消失をもたらす強い影響力を有していた。
一方、大学団が在する領地の皇帝や教皇らは、大学団は経済効果をもたらし新しい政治や行政
に有用な人材を輩出する機関であると認識していた。しかし彼らにとって、大学団は市当局や市
民との利害が合致しなければ他の領地へと集団移住することから、大学団がもたらす経済効果や
有用な人材排出は不安定な要素であった。それらの回避策として、皇帝フリードリッヒ2世は自
国内で有用な人材を育成するためにナポリ大学(1244年)を設立した。これが草創期の大学にお
けるもう一つの「設置型」の大学である。
設置型の大学は、自生型の大学に対し、古くから存在する大学だけが有する高い特権を、創立
と同時に当時の権力者である皇帝から付与されていた。しかしその一方で、領地に属する市民は、
領地外の大学で学ぶことは禁じられ、さらに設置者が求めた社会的効果を目的とする限定した内
容しか学ぶことができなかった。国や領地を越えた地域での学びが禁じられたことから、出身地
域別のギルドを始めとする「学生のギルド」が消失する一方、学生は大学を出ることで将来を保
障された。「教師のギルド」も、学生のギルドとの折衝により得ていた収入源が設置者からの領野
となり雇用状態が安定したことから、他の集団との交渉をするための集団を形成する必要が薄く
なり、教師は役人化していった。その結果、教授内容も含め、設置者の意向に従う教師のみが組
織するギルドだけが残っていった。やがて、教皇か皇帝が発行する創立特許状を有する設置型の
大学だけが、大学として認識されるようになった。越境して学ぶことが禁止され、設置者の意向
を反映し固定化した知識の伝授を繰り返すだけとなった設置型の大学は、学問が硬直化しただけ
ではなく、教師や学生も頽廃し堕落していった。
しかし、絶対主義国家の時代となり、商業や貿易の拡大によるマニュファクチュア制の拡大で
勢力を伸ばした手工業や貿易にかかわる市民層は、経済的に安定した職に就くための手段として
大学に進学した。lo)17世紀後半に貴族の師弟を受け入れ貴族化した大学にこうした市民層が増加
することを受け、設置者である国尽君主の中には、貴族のみを優遇し、下層階級の進学を公式に
阻害する措置をとった者もいた。11)ここには設置者による多様な学生の排除がみられる。
このような大学の貴族化により、固定化した知識の伝授を行う大学は、啓蒙主義者や世俗化し
た社会から不必要な存在として批判され、代わりに社会に役立つ人材育成を目指し実用に役立つ
一24ユー
知識を伝授する職業教育を取り入れる改革が要望されていった。12)その結果、設置型の大学は領
導国家の時代、20以上の大学が乱立された。しかしながら、こうした大学は創立基盤が弱く自治
組織も存在しなかったことから、結局18世紀末には廃校となった。
18世紀には硬直化した中世の大学における学問研究の批判13)から、大学の機i能は研究、学問の
教授、訓練に区分され、大学と異なる新しい組織としてアカデミーや専門学校も生まれた。アカ
デミーは研究のみを行い、専門学校では職業と密接に結びついた専門的技能の習得を目的とした。
こうした機関では直接職業に役に立つ研究が行われ、現実的な知識が伝えられた。14)さらにナポ
レオンは、硬直化した中世の大学に対し、国家が繁栄し強大化するために必要な様々な科学や技
術を教える施設として総合技術学校を作った。しかし総合技術学校は、アカデミーや専門学校の
ような大学と異なる新しい組織ではなく、大学を意味するストゥティウム・ゲネラーネとされ
たのである。15)総合技術学校がストゥティウム・ゲネラーネと同等に扱われことは、当時の権力
者である設置者が、大学に対し自らが意図する社会的効果を重視した一面化を意味し、そのこと
は大学における学生の多様性や多様なカリキュラムの排除を意味するといえよう。
一方ベルリンでは、1694年にはじめて「大学の自由」を主張し、権力者による学問内容の統制
からの開放と人間の教養を目指し、学問内容の多様性の回復を行ったハレ大学(Halle16))17)が
ユ806年に閉鎖されたことで、それに代わる新しい高等学術機関設立への動き18)が生まれた。その
中には、実学を教える専門学校的な新しい高等学術機関を作ることを王に提案する者も現れた。
19)一方で、新しい高等学術機関を学術的な学問研究を行う場、教育の場、哲学する場とし、中世
の大学と、実学への傾倒を批判する者も現れたのである。20)
こうしてベルリン大学は、ナポレオン式の大学と中世の伝統的大学に対して批判的な態度をと
って生まれるに至った。言いかえれば、ベルリン大学は職業教育の一面化や、学生の多様性の衰
退に対する克服を目指し、生まれたといえよう。
3.近代の大学の理念
フンボルトが提唱した大学の理念は、権力者による支配が強まり堕落腐敗していった大学と、
啓蒙主義者らが大学を職業教育のための専門単科大学に改造しようとする動きに対する批判から
始まった。フンボルトがベルリン大学創設にあたり執筆した建白書の中で、特に重要だとされて
いるのが、1809年に書かれた未完の草書『ベルリン高等学問施設の内的ならびに外的組織につい
て』21)(以下、『内外組織』と略す)である。フンボルトはこの『内外組織』の中で、最初に「高
等学術機関は、国民の道徳的文化のために直接的に生ずる一切のものが集合する頂点である」22)
と述べた。続いて高等学術機関を内面的なものと外面的なもの分類し、さらに学校と高等学術機
関との違い、教師と学生の関係、大学とアカデミーの違いについて述べている。
先行研究の多くは、『内外組織』を、「学問による人間形成」「研究と教授の統一」「孤独と自由」
の三つの面から論じている。「学問による人間形成」とは、常に学問を未解決のものとして取り組
むことにより、人格が内面で形成されること。「研究と教授の統一」とは、常に学問を未解決のも
のとして取り組む時、教師と学生は共に同じ学問に向かう場に立った上で研究を通し人格を酒養
すること。さらに「孤独と自由」とは、学問の自由は、純粋な学問に専念するために社会に背を
向ける孤独と設備を整える以上に干渉しない国家の上に成り立つことである。ここから、「自由」、
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「学問」、「教養(人間形成、野僧、陶冶)」の三つの関連する概念が見出された。23)
①すべての基礎の「自由」
フンボルトは、『内外教育』において「(国家が:筆者注)学問に干渉することは、いつも直ち
に(学問の自由を:筆者注)妨害するだけであること、事柄自体は国家の無いほうが無限に良く
ゆくであろうこと」24)と述べ、国家は、大学を整備する義務はあっても、それに干渉してはなら
ないとしている。
領邦君主ら権力者が大学や学問に関与するまでは、学生は自由に学びたい内容や教師を広範囲
にわたって選択することが可能であった。それ故に、学生は自身にとってよき教師を求めること
ができた。しかし領邦君主は自生型大学における優れた面を独占的な権利として奪い、自らの権
力下にある設置型大学において越境の禁止や学問内容の限定化など自生型の大学が持ったあらゆ
る面の範囲を狭めていった。その結果、大学の学問は発展することなく大学は解体を求められる
ようになった。発生時の大学には、大学らしい学生の多様性や組織化の上に成り立つ多様なカリ
キュラムが存在した。これらを大学から喪失させた要因は政治的・経済的目的をもつ権力者の意
向から生まれた制約である。大学は制約されることで硬直化した。あらゆる制約によって奪われ
ているものは自由である。したがってフンボルトはその理念に全ての基礎としての「自由」を取
り入れたのである。この「自由」とは、学生の学問内容選択の自由であり、つまり多様な選択肢
を持つことにつながるのである。
②「自由」の上に成り立つ「学問」
フンボルトは、『内外組織』の冒頭において、学問は「高等学術機関」によって取り扱うとして
いる。フンボルトが高等学術機関と二分したもう一方は「学校」である。他の教育機関との差異
化を図るためにも、大学で扱う内容の違いを明らかにする必要がある。フンボルトは学校を「出
来上がった解決済みの知識のみ取り扱う」25)場であり、教師が一方的に生徒に知識を与えるだけ
の教授の場としている。「解決済みの知識」は設立者である領邦君主の意向に沿った公認の教書と
捉える事ができる。つまり、学校は設置型大学と同様の型をとっていると考えることができる。
もし高等学術機関に対して設置型大学のように設置者が関与すれば、学問内容に制限がかかり、
設置者の意向だけで構成されることで一面化される可能性が大いにある。設置者が大学に干渉す
る行為は、硬直化を招くことがこれまでの歴史で明白である。高等学術機関における権力者の干
渉からの自由は、多様なカリキュラム選択の可能性を意味するであろう。フンボルトは権力者の
干渉からの「自由」を獲得した高等学術機関を学問研究の場とした上で、そこにおける「学問」
の存在の不可欠性について述べているのである。
シェルスキーと共に『フンボルトの大学の理念』の論説を書き「孤独と自由」に主眼を置いた
フォスラーは、学問は所有するものではなく、絶えず新しく産み出す行為であり活動だとしてい
る。この見解から、フンボルトの『内外教育』における「死んだ蒐集物の堆積を主要な事柄とみ
なすべきではない」26)を考察すると、フンボルトは学問に創りだすことも求めていると考えられ
る。27)加えてフォスラーはその論説の中で、大学の本質は学問の産出であり、大学における学ぶ
ことと教えることは共に活動的であり創造的な行為であるとしている。さらにフンボルトは『内
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外組織』において「一周期」という観点から専門学校を否定している。個別に特化した職業教育
は、技術や実務に直結する知識を模倣することのみを必要とすると同時に、自主的に自由に業務
を改善し発展させる能力や創造力を必要としないため、教授を通して創造性や発展性を身につけ
ることができない。生活に直接役立つが達成目標が定まっている専門学校の知識は、墨黒君主が
定めた目的が存在する公認教書の知識や様相と同じであろう。28)
『内外教育』では「学問をまだ完全に解決されない問題として常に取り扱い、常に研究のうちに
あること。」29)、「死んだ蒐集物の堆積を主要な事柄とみなすべきではない」30)としている。権力
者らが支配することで堕落腐敗した中世の大学で扱われていた学問と啓蒙主義者らによる職業教
育は、共に硬直化したものである。これらを否定していることにより、フンボルトの指す学問と
は常に新しいものを求め動き続けるものだとよみとれる。31)従って大学で扱う学問は、単に固定
した知識の伝達のみに限定するのではなく、新しいものを求め動き続けることのできる変化を持
つことが求められよう。
③最終目的としての「教養」
ナポレオン戦争で敗れたプロイセンでは国家に役に立つ人材の育成が求められ、その課題を担
う施設として生まれたのがベルリン大学である。フンボルトは『ベルリン大学の創立の提案』32)
(以下『創立提案』と略す)の冒頭で、「国民=教育と教養という重要な点を見失わないこと」そ
して大学の意義を「大学のみが国に、その国境を越えて影響を確約し、同一の言語を話す国民の
育成に効力を及ぼすことができるのである」33)と述べ、大学は国民の教育と教養の育成を行う場
と位置づけている。同時に、フンボルトにとっての教育と教養の最高目標は、人間を形成するこ
とであった。34)
フンボルトは教育について宗務公教育庁長官として教育政策の大網を語った際「国家が国民を
かかる人間に教育するならば、国家は彼らを養うという『重荷』を負うことになる」35)と述べて
いる。当時、学問内容や学ぶことのできる地域をはじめとする様々な領域で範囲を規制した領邦
君主ら設置者の支配下にあった大学の教育は、機械的に彼らの意向に沿った枠組みの内における
一面的模倣的教育に対して受身であり、画一的人材を複製していた。36)したがってフンボルトの
大学における教育とは、受身ではない能動的な人材の育成と考えることができる。
また、フンボルトが全人類へ「自己自身でBildung(形成、教養)、 Weisheit(智慧)、 Tugend(徳)
を広めることであり、人間の内面的な価値を高めること」37)を要求するとともに、「人間は常に
ただ自己の本性の力を強め高めようとし、自己の存在に価値と持続をあたえようとする」38)人間
形成を求めていることから考えると、教養とは、自分自身で自己内面の価値を高めるための力と
考えることができる。3g)したがって、差異化を図るには、自己自身で内面的な価値を高めること
ができる力の獲得を付与することが求められよう。
学問と人間形成の関係は、『内外教育』で「内面から由来し内面に植えつけられる学問のみがま
た性格をも改造し、そして国家にとっても人類にとっても知識と雄弁ではなく性格と行動が重要
である」40)と述べていることからも、学問を通じて人間形成を獲得する関係が見いだせる。これ
らのことから、フンボルトの理念における大学の差異化を図るためには、多様な選択肢を可能に
した上で、常に新しいものを求め動き続ける学問を通じ、能動的に自己自身で内面的な価値を高
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める力の獲得が求められよう。
4.結論
大学の公開講座と大学以外の機関の講座との差異化を図るために、大学らしさとは何かを、大
学草創期の自生型の大学と新たに生まれた設置型の大学、ならびにこれらを踏まえた上で生まれ
たフンボルトの近代大学の理念の中から検討した。
近代大学の理念は設置者が存在するという点においては設置型の大学と同じであるが、フンボ
ルトが『内外組織』において大学に対する国家の干渉を全面的に否定していることからも、それ
以外の点は大きく異なっている。また、中世の大学における学問は、常に誰かの意向を反映した
内容を指していた。それに対しフンボルトの理念における学問は、中世の大学には存在していな
かった新しい定義である。フンボルトは学問を固定化した知識内容を繰り返すことではなく、逆
に流動化することをその定義とすることで多様性を求めると同時に、学問が再び硬直化するのを
防ごうとしたのである。しかしながらフンボルトのいう学問の自由には、実利実学的学問(職業
教育)に対する排除の論理が含まれていることが明らかになった。
現在、大学は社会と密接に繋がっている社会人に向けて大学を開放しようとしている。にもか
かわらず職業教育を排除するならば、大学本来が持ちえた多様性が成立しない。
職業教育は、明治期に、実社会における生産や流通業務を意味する実業の概念の延長上にある
実業教育と呼ばれており、1969年には政府による職業訓練法において基本的原則が示された。そ
こでは職業訓練に関与する、政府や地方自治体によって運営される公共の訓練施設等の役割が述
べられている。1985年に改正され新たな名称となった職業能力開発促進法における基本理念は、
第三条において、労働者に必要な職業訓練や教育を受ける機会を保障すること、技術の進歩や産
業構造の変化に即応した職業能力の開発や促進を職業生活の全期間を通じ行われることとしてい
る。この基本理念により、職業教育においても機会の保障がなされていることがわかる。41)また、
変化に即応した職業能力の開発は現実社会に適応的である。しかしながら、変化に即応した職業
能力は、変化に即応する主体性としての職業能力ではなく、既に変化に即応した職業能力つまり
出来上がった知識への適応性であると考えられる。これはフンボルトの大学の理念における出来
上がった知識への挑戦とは大きく異なる。ここから、大学の公開講座以外での職業教育がいかに
現実社会に適応的であり、大学は現実社会に批判的なところであることを改めてみることができ
る。同時に、これらは大学とそれ以外の機関の特性を示唆しているといえよう。
こうした機関としての特性を活かしながら現在の教育制度の本来のあり方である、一人一人の
特徴を活かした教育を図るための多様な選択肢を可能にするには、フンボルトの近代大学の理念
と職業教育との共存を図る必要がある。このような共存は、常に新しいものを求め動き続ける学
問を通じ、能動的に自己自身で内面的な価値を高める力の獲得を求める職業教育であれば可能で
あり、差異化も図れると考えられる。
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注
1)文部科学省HP「平成18年度国公私立大学・短期大学入学者選抜実施状況の概要」(平成18年
9月12日)より。
2)詩聖修一「大学開放に関する全学事務局長アンケート調査」クロス集計結果。
3)国立教育政策研究所社会教育実践研究センター研修用資料「社会教育主事のための社会教育
特講i(平成14年度)」。
4)放送大学HP(調査研究活動について〉大学等開放推進事業(文部科学省委託事業)につい
て〉参考資料を参照[http:〃www.u.air.ac.jpthpltyousa/kaihou/sankoU/sankouO1.html](2007.7.23)
5)当時大学に関係するギルドには、集合体をさすもの、学部、国民団等が存在した。
・ウニヴェルシタス(Universitas)とコレギウム(collegium)
現在使われているユニバーシティ(university)の原語であるウニヴェルシタスという言葉は、12
世紀末頃までは単に多数、集団、組合、団体という人の集合体を意味する普通名詞であった。
カレッジ(college)の原語であるコレギウムも同様であった。これらの言葉は、大学に限らず
様々な種類の団体にも用いられていた。それ故にウニヴェルシタスのみが単独で使われること
はなく学生の団体は「学生のウニヴェルシタス」(ラシュドール、1966:40.)と称された。中
世では、教師のウニヴェルシタスは教師の集団であり学生のウニヴェルシタスは学生の集団を
指す人の集合体を意味し、集合体の存在する場所を指すものではなかった。(ヘースティング
ズ・ラシュドール・横尾壮英訳(1966)『大学の起源(上)一ヨーロッパ中世大学史一』
(Hastings Rashdal The universities of Europe in the〃midale ages.)東洋館出版社:40、横尾壮英(1999)
『大学の誕生と変貌一ヨーロッパ大学史断章』東堺堂:5−6.)
・ウニヴェルシタス(Universitas)とストゥディウム(Studium)
ウニヴェルシタスが人の集団を指したのに対し、学ぶ集合体の存在する場所を指したのはスト
ゥディウムである。14世紀以降、ストゥディウムの中に教師や学生のウニヴェルシタスが存在
したことから、ウニヴェルシタスがストゥディウムと同様に集合体の存在する場所を表すよう
になった。(ラシュドール、1966:41、横尾、1999:6、松川成夫(1962)「中世大学の成立」、
『東京女子大学附属比較文化研究所紀要』1962年13号1−20頁:9.)
・学部1学科(ファクルタスfacultas)
ウニヴェルシタスは、学生や教師の組合といった大きな組織であった。その下の組織には、法
律や神学等の特定の知識や職業能力に優れた人々の集団が存在した。それがファクルタスであ
り、学部1学科を意味した。(横尾、1999:7.)
6)ラシュドール:41、児玉善仁(1977)「Studium generaleの概念一その普遍性と法的根拠を
めぐって一」『イタリア学会誌』1977年25号:134−135.
7)ギルド(gildもしくはguild)とは、兄弟団、同胞会という名称で、もともと血縁関係を持
たない人々が自己利益の保護や権力の獲得や、同じ目的や同じ宗教観を持つ価値観などを共有
しながら、親族のような連帯感を持ち結成した組合をさす。
8)横尾壮英は草創期の大学を自生型、設置型、分派型の三つに分類している。また、横尾はラ
シュドール(Hastings Rashdal,1858−1924)の『大学の起源(上、中、下)』の訳者であり、成
立の分類を書いている章の参考文献に『大学の起源』をあげている。(横尾、1999:13.)
一246一
9)久保正幡(1978)「大学とは何か一ボローニアの歴史を顧みて思う一」『日本文化研究所紀
要』42,p.174.
10)ハンス=ヴェルナー・プラール・山本尤訳(1988)『大学制度の社会史』(Prahl, Hans−
Werner・ed. Sozialgeschichte des Hochschulwesens)法政大学出版局:137−139.
11) フ。ラール、1988:167.
12)古くから存在した大学も領脚国家に組み入れられ、宗派に分類されただけでなく商業化の影
響を受け貴族化のように儀式化していった。本来大学が所持していた自治機能はそれに伴い脆
弱化した。(プラール、1988:141,144、高坂正顕(1961)『大学の理念』半文社:72、H・シェル
スキー(1970)『大学の孤独と自由』未来社:38−39.)
13)当時、支配者による規定教書に従った注釈講義や学問的発展のない討論を行う中世の伝統的
大学を批判した啓蒙主義者らは、教育の目的を産業社会に適応する市民を効果的に且つ生産的
に作ることにおいた。(シェルスキー、1970:38、阿部謹也(1999)『大学論』日本エディター
スクール出版部:17.)
14)18世紀になると、ベルリンでも職業と密接に結びついた専門的技能の習得を目的とする専門
施設として医師養成所(1724年)や鉱山アカデミー(1776年)などの専門学校やアカデミーが
生まれた。こうした専門的な職業教育を行う施設では、現実的な知識が伝えられ直接役に立つ
研究が行われた。(シェルスキー、1970:36−37、プラール、1988:161−163.)
15)1793年にフランス国家が直営学校としてナポレオン式とも呼ばれる「総合技術学校」を作っ
たことはストゥティウム・ゲネラーネに新しい形態を与えた。総合技術学校は、未だ権力下で
新しい創造性を妨げスコラ的な学問を繰り返していた大学に対し、国家が繁栄し強大化するた
めに必要な、様々な科学や技術を教える施設となった。(梅根悟監訳(1970)『世界教育学選集
53大学の理念と構i想』明治図書出版:245.)
16)現在は1933年よりハレ=ヴィッテンベルク・マルチン・ルター大学(Martin Luther University
Halle−Wittenberg)に名称変更されている。
17)1694年、国家権力からの解放を説き哲学を神学から解放したクリスチャン・ウォルフ(Christian
Wolf、1679−1754)を中心に、はじめて「大学の自由」を主張したハレ大学(Halle)が生まれ
た。ハレ大学は、現実から乖離し一面化した内容や教授を繰り返す大学に対して、設立趣意書
に「真理を探究することと、そうした探求の準備をすること」(プラール、1988:143)と記し、
近代的な科学や思想の自由を取り入れた。さらに研究や教授の自由を認めゼミナールを生み出
し、ラテン語のみの教授言語にドイツ語を加え、文章模倣ではなく人間の教養を目指すように
なった。(プラール、1988:143、梅根、1970:242、皇至道(1977)『皇至道著作集第5巻大学
制度史』第一法規:118−119、145、ステファン・ディルセー・池端次郎訳(1988)『大学史
(下)その起源から現代まで』東洋館出版社:136.)
18)ハレ大学閉鎖に先立つ18世紀後半、中世の硬直化した大学を批判する人々は新しい高等学術
機関の創設を望んでいた。そこに閉鎖されたハレ大学から投げ出された所属教師や学生がハレ
大学のベルリン移転を皇帝に陳述したことで、ハレ大学に代わる新しい高等学術機関設立への
動きが生まれた。(梅根、1970:243−244、シェルスキー、1970:62.)
19)フリードリッヒ・ヴィルヘルム3世の側近で枢機顧問官だったバイメ(Karl Freiegrich Grafvon
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Beime、1765−1838)は、1802年に権力者の営造物であり、実学を教える専門学校的な施設とし
てのストゥディウム・ゲネラーレを意味するAllegemeine Lehranstaltを作る事を王に提案した。
(梅根、1970:244.),
20)梅根、1970:248.
21)“びber die innere und dULI3ere Organisation der hb’heren wissenschafalichen /lnstalten in Berlin”
22)ウィルヘルム・フォン・フンボルト・小倉志祥訳(1969)「ベルリン高等学術機関の内外の組
織について」『実存主義』1969年4月47号72−79頁:72.
23)大川勇(2005)「フンボルトの教養理念一フンボルトからシュティフターへ一」『ドイツ
文学研究』2005年50号:45−46,51、関正夫(1993)「現代大学における教育改革の一方向
フンボルトの教養理念「学問による教養」の現代的意義の検討一」『大学論集』1993年第23
集:8.
24)フンボルト、1969:73.
25)同上、1969:72.
26)フンボルト、1969:75.
27)西村貞二(1986)「フンボルトの教育理念一没後150年に一」『西洋史研究』1986年15号65
−80頁:72−73.
28)伊藤恒夫(1971)「フィヒテとフンボルトの大学論一ベルリン大学の誕生とその理念(その
二)一」『松山商大論集』1971年22(5)号:92、小倉志祥(1969)「大学の理念一一歴史的考
万一」『実存主義』1969年4月47号:86、大川、2005:64、プラール、1988:22.
29)フンボルト、1969:72.
30)同上、1969:75.
31)大川の見解では、フンボルトの学問は、単なる知識の集積や拡大のように思考や意志を働か
さず獲得したり伝達したりできるものではないとしている。(大川、2005:45.)ここからも、
フンボルトが学問を変動するものと捉えていることが推察される。
32) “Antrag auf Errichtung der Un iversitdt Berlin” (1809)
33)小倉、1969:69.
34)関、1993:7、西村、1986:72、藤平恵郎(1972)「ヴィルヘルム・フォン・フンボルトと18
世紀」『明治大学教養論集』1972年68号32−52頁:37.
35)小倉、1969:86.
36)メンツェ・C・小宮芳幸訳(1991)「人間性陶冶と目指したW.v.フンボルトのベルリン大学の
構想一「研究と教育の一致」という理念を中心として一」『四国学院大学論集』1991年76
号:199、小倉、1969:86.
37)藤平、1972:38.
38)同上、1972:36.
39)同上、1972:38.
40)フンボルト、1969:74.
41)「職業能力開発促進法」(昭和44年7月18日法律第64号)[http:〃law.e−gov.go.jp/htmldata/S441
S44HOO64.html]、上林喜久子(2000)「〈研究ノート〉外国人研究者による日本の職業教育・訓
一248一
練の特質についての記述(1):職業資格制度を中心にして」『自然人間社会』Vol.28pp.131−153、
上林喜久子(2001)「〈研究ノート〉外国人研究者による日本の職業教育・訓練の特質について
の記述(II):職業教育・訓練政策に関わる法律・答申を中心にして」Vbl.30 pp.309−330、法政
大学大原社会問題研究所(1985)「日本労働年鑑 第56集 1986年版」
[http:〃oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/56!m l 986−448.html]
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A study on the construction of the idea to open the universities
The point of the origin of Modern University’s histo’
窒?cal transition
and The ldea of Modern University−
MOTONE Tomomi ’
This research is conducted with the purpose of proposing the academic idea to open the
universities to the public in present Japan. lt deals with the struggle to realize the academic freedom of
universities in both sides of vocational implications and systems and the author tried to clarify the
historical phase of the development of them from the idea of Medieval university to 19th idea of
W.v.Humboldt.
At the first, the author examined the origin of Modern University in its fundamental conditions
of the idea of “various students” and “student unions”. And she researched into the ideas of Humboldt
from freedom, academic and liberal’s point of view in his thesis “Uber die innere und aPere Organisation
der hδheren wi∬enschaf−tlichen Anstal彪n in Berlin”. As a result, Humboldt excluded vocational
education from his idea of university.
This paper concludes that the coexistent with the ideas of Humbold and new view on vocational
education in universities will be usefu1 to open the universities to the public in present Japan.
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