建築 コスト

建築
コスト
近世初期建築書『愚子見記』の中の積算資料
No. 10
古典建築書といえば,古代ローマ帝国紀元前1
著者自身を「愚子」と呼び,無名性に徹して技
世紀とされるウィトルウィウスの『建築十書』
,北
術的内実に富む,真摯な学的姿勢で編纂されてお
宋末(12世紀初頭)に李明仲が編纂した『営造法
り,稿本には付箋・差込等の校訂の跡が多く確認
式』が知られている。実は日本でもそのような書
されるという。江戸幕府作事方大棟梁の平内家の
物がある。1980年代までの研究によると日本の古
家伝書『匠明』
(全五巻)が家格の正当性を誇示
典建築書は571に及ぶことが分かっており,その最
し,技術内容の秘伝性を強調するのとは対比的に,
古のものが長享3(1489)年の「三代巻」という
『愚子見記』には「周辺諸学を可能な限り参照して
木割書だという。
「三代」とは「天竺」→「唐」→
出典をただす学的公開性・多面性がある」とされ
「日本」の建築設計技術ないしは学の伝来過程を
ている。
意味している。
今奥政隆が「京都大工頭中井家配下の頭棟梁に
三代巻の内容は,工匠に関する宗教的物語(大
して,古代以来の法隆寺四姓大工といわれる名門
工や職人の間で聖徳太子を崇拝する太子講に関わ
る記述など)と木割術であり,後者は日本堂(和
様)
・唐様堂・塔・祠(神社)
・屋(住宅)の5種
についての記述で,簡単にいうと,それぞれの標
準的な柱の寸法を単位にして,各部材の寸法を決
定する規準である。このような匠家に伝わる文書
は,血縁を重視し,その技術力維持のための覚書
を元にした家伝書であって,江戸時代中期以後に
木版により木割書が大工間に広がるまでは秘伝さ
れる性格のものであった。
*
*
*
『愚子見記』と呼ぶ建築書もそのようなものの
一つである。
『愚子見記』は奥書がないため作者と
制作年がはっきりしないようだが,研究によれば,
法隆寺の筆頭大工棟梁・今奥出羽平政隆が寛文
11(1671)年∼貞享3(1686)年にかけて編纂し
たものと えられている。
30 建築コスト研究
2010 S UMM ER
図1 愚子見記(建設産業図書館蔵)
(注) 法隆寺の工匠長谷川家に伝わり,明治の変革に際して法
隆寺に納められ,のち法隆寺棟梁・西岡家に保管が委ねら
れてきたもの。大冊のため近年まで全容が紹介されること
はなかった。写真は1988年の法隆寺蔵本が元の復刻本。
表1 「愚子見記」全9冊の書誌
冊
題名
頁数
したものであり,積算技術史上の史料的価値は大
きい」と評されるものである。
内容
*
一 石居立柱建 170 陰陽学における家相論,環境・都城論
二 禁
庭 196 内裏を始めとする宮廷建築論
三 社頭伽藍
おこう。当時は,和算家が建築工事の積算に深く
関与する場合もあったくらいで,建築積算技術が
四 諸 寺 社 278 畿内・近江六ヶ国名所建築論
五 屋舎城郭
80 江戸城を始めとする城郭建築論,武家屋
六 武
86 武具を主とする道具論
和算の知識を取り入れながら大工に必須の知識と
して普及していたと えられている。
敷を主とする住宅建築論
和算といえば,江戸初期の寛永4(1627)年初
七 小 道 具 148 公家・武家屋敷における住道具論
版の吉田光由の『塵功記』や 同18(1641)年 の
算 数 度 量 108 建築設計に必要な和算計数論,日本番匠
記系本を主とする建築職能論,日本建築
『新編塵功記』が当時の人々に広く読まれ,
『塵功
記』といえば和算を表すほど,数学的知識の発展
の様式論,建築積算理論
九 諸
*
まず,和算と建築積算との関係について触れて
74 伊勢神宮を始めとする神社建築論,法隆
寺を始めとする仏堂建築論
用
*
積 222 幕府直轄工事を主とした建築材料論,幕
府直営工事における建築積算資料
と普及に大きな影響を与えた書とされている。他
に「割算書」
「諸勘分物」
「竪亥録」
「改算記」「算
(注) 内藤昌編(1988)による。1000頁を超える大冊である。
法闕疑抄」
「算爼」等の初期和算書が編まれ,「天
に生を受け,江戸時代初期の京都を中心とする近
和(1681∼1684)頃には現代の高等数学にも等し
畿・近江六ヶ国の江戸幕府の直営諸工事を手がけ,
い和算学が確立された」といわれている。
その実績を持って,技術・学術的諸知識を集大成
『愚子見記』の中の設計や積算に関わる部分に
した」のがこの『愚子見記』であり,日本古典建
こうした江戸初期の和算書の記述を引用した部分
築学全書と呼ぶに相応しい先駆的なものであった。
がある。第
前述の「三代巻」も,
『愚子見記』の中(第
は江戸初期に流行した吉田光由の『塵劫記』等か
冊
の一部)に収められている。
冊(算数度量)
,第九冊(諸積)に
らの直接の引用があり,建築積算技術には数学的
こうした内容の総合性とは別に,前述のように
知識が結びついていたといえる。これらは今日の
『愚子見記』はやはり秘伝書というべきもので,
数量積算にも通じる内容ともいえ,直角や多角形
稿本のいわゆる法隆寺蔵本があるほかは,長谷川
に関する数学的知識は屋根勾配の把握に役立った
本(法隆寺伝来定本)
,石崎本,木子本(木子は
のであろうし,面積や体積や度量衡に関するそれ
明治初期の東大教授を務めた木子清敬)の写本が
は設計や資材の取引に不可欠な知識だったのだろ
確認されているだけである。その内容は図1や表
う。また,大工がその製作に直接関わった升の大
1に示すように,全9冊からなる大冊である。基
きさの記述なども当然の如く含んでいる。
本的に漢文体で書かれており,返り点や仮名が部
分的に付されている。まだそのままでは読みにく
いが,近年,太田博太郎や内藤昌ら建築史家によ
る注釈本と研究書が刊行されており,後学の者も
読むことができる。
表2に第九冊の項目とその概要説明をまとめた。
和算的内容がその冒頭にある。
*
*
*
続いて以下では,
『愚子見記』第九冊から,積算
に関わる記事を幾つか紹介することにしよう。
このうち,第九冊は「京大工頭・中井家配下の
第九冊の中では最も短い3行で終わる記述であ
頭棟梁としての作事実績に基づく積算資料を集成
る「36 材木中朽知事」では,材木の中が朽ちてい
31
建築コスト遊学 No . 1 0
表2
番
第九冊「諸積」の内容
タイトル
記述内容解説
1 諸色軽重
資材の単位重量についての記述
2 句倍延割付
1寸∼1尺勾配の底辺長に対する斜辺延
3 句股斜之曲尺
3尺,4尺,5尺で直角との記述
4 五角
正五角形の作り方
5 六角
正六角形の作り方
6
角
7 京升
正 角形の作り方;切籠
(キリコ)
も言及
各種の升
(容器)の内法寸法
8 瓦之事
瓦の製法,名称,葺き方,葺き手間等
9 屋根葺手間
檜皮葺,木賊葺,柿葺,土居葺の葺手間
10 釘直値付 付銅
釘と銅 の値段・重量等
11 釘積御家坪当之事
釘の単位面積当たり使用重量等
12 獅子口,同鰭鉤之事
獅子口とその鰭鉤(ヒレカギ)の仕様等
13 銅
銅製の の仕様等
之事
14 銅鎖
銅鎖の取付手間の実例
15 銅黒板
屋根用銅黒板の取付寸法と重量等実例
16 銅瓦之事
銅瓦等の種類別重量と取付手間,実例
17 真鍮
真鍮
18 漆塗物公儀御定
建具等への漆塗りの量を定めたもの
19 翠簾公儀御定直段
簾(スダレ)
の値段を定めたもの
20 畳
仕様別の畳の値段を定めたもの
屋
根
工
事
関
係
の寸法実例等
公儀御定
公儀御定
左官手間賃,壁種類別の仕様等
23 張付
24 左官
和
算
的
内
容
建
具
工
建具等に描く絵の値段
(サイズ・種類別) 事
関
箇所別彩色の単位面積当値段,実例等
係
や障子への紙張付仕様
(重ね枚数等)
御定直-段
21 絵代
22 彩色
類
25 白土之事
石灰の配合割合や左官工事の手間
26 石灰之事
石灰の単価や施工上の留意点
27 土蔵之壁
土蔵の左官工事の仕様と単価
28 大坂土之事
上塗り用壁土の仕様
29 拍土
敲土(タタキツチ;床用の土)の仕様
30 練土
練り土の配合割合と使用上の注意
31 漆
漆
32 大津壁
大津壁の製法
33 (無題)
練り方,塗り方
34 築地
築地塀の歩掛りと見積事例(複数)
35 木・竹切時節之事
伐採の時期
36 材木中朽知事
打診で木材朽を見いだす方法
37 木見知肝要之事
38 吉野木
木材の見分け方
吉野木の製材の寸法と単価
39 尾張寸寸木
尾張の短材の寸法と単価,運賃
40 材木
木曾山の木材の寸法・仕様別の単価
41 材木凡心得之事
産地別の材質・グレード
42 諸材木出所
資材別の産地とグレード等
43 諸家入用銀坪当
坪当たり工事費
(部位別)の例
44 諸色建渡之事
一式坪当たり工事費
45 石方
石工事の入札事例
46 遣水之事
水路工事の仕様や歩掛り
47 材木地曳
材木の運搬方法
(必要人数等)
48 南蛮轆轤
轆轤(ロクロ)=重量物運搬の道具の説明
49 地築石突之枠
地盤工事のための櫓組みの説明
50
51
52
53
54
55
56
57
58
59
60
61
62
63
64
65
金庫のサイズ
米蔵の収蔵可能量
牛車の車庫建設の手間,大工単価
御殿の木工事の様々な付属装飾物一覧
堂の木工事の様々な付属装飾物の一覧
和様の三手先組物,五重塔,仏殿等説明
禁中の雑工事の詳細な仕様と人工
彫り物の工数の実例調べ
大工の人工の実例調べ
上野寛永寺東照宮の部位別工数
労務費等の支払方法
江戸城の部位別の規模,投入工数等
主な寺院建築の部位別の規模,人工等
公儀定めの大工賃料の変遷
大工役別の諸役の説明
諸役御免の許可書雛形
銀箱
米蔵米入用
御車屋鉢大工数
御殿方木積之品々目録
堂方木積之品々目録
日本様組物三手先 数
禁中御作事
彫物工数御勘定帳面
禁裏御造営諸御殿大工数
東叡山御宮 工数
江戸向作事之様躰
江戸御城御作事
上方所々堂舎造建
大工作料
大工高役之差別
御奉書写
の製法と使用上の注意
(注) 記述内容解説,類の欄は何れも筆者。
32 建築コスト研究
2010 S UMM ER
図2「36 材木中朽知事」
るか否かは打診して調べればよいことを伝える内
左
官
工
事
関
係
容である(図2)
。この直前の「35 木・竹切時節之
事」では,木は6月,竹は8月に切り出すのがよ
いとしている。
また「41 材木凡心得之事」
(図3)では,材木
産地のグレードをまとめている。上は尾張(愛知)
,
材
木
関
係
土佐(高知)
,阿波(徳島)の順で中や下にも言及
している。当時の尾張は木曽川上流から豊富に産
出される木曾材の集散地であった。他の箇所に,
当時の豪商の角倉が取り扱っていたという記述も
見える。ここから三都の一つ大坂(大阪)に船運
によって運ばれたようである。また,図3にはそ
れぞれの産地の木の特徴を端的に述べているが,
工
事
単
価
人
工
・
歩
掛
・
仕
様
等
尾張については,読み方に間違いがあるかもしれ
ないが,「山出しは書き付けよりも1,2尺長く,
1寸ほど太い。蔦目(材木の癖の一つ)がある。
木の芯が如何にも浮くようだ。但し,少しだけ木
に黒みがある」となっている。なお,この分類で
は吉野は大木がなかったという記述があるからか,
中の部類に入っている。別の杉丸太類の項には「吉
野,上木」
,そのすぐ後に「北山,中木」とある。
杉では吉野が京都の北山より上だったようだ。
レード,末口径,長さ別の価格数値が示されてい
る。
「小払
値段」とあるから丸太の直接取引価格
であろう。価格関係を図4に示す。金額単位は匁
で現代人には馴染みがないが,
『愚子見記』が成立
し た 寛 文 年 間 の 米 価 が 1 石(=10斗=100升=
1000合)で約50匁前後した時代の数字である。要
するに寸法と上中下のグレードで価格に差がつけ
られているのだが,それを簡単な数学的操作で全
体的価格傾向からの乖離状況を分析してみると,
図3「41 材木凡心得之事」(冒頭部分)
末口径が小さい材では,グレードが下の短材で若
干高めの価格設定をしているさまなど,数字に隠
れた面白い事実も分かる(図5)。また,同箇所
に,尾張から大坂までの運賃が2間6寸角の材が
0.76匁,3間1尺角が3.5匁とあるから,数字は材
料の価格そのものであることが分かる。これはま
た,当時の主要建築資材であった材木の流通の一
端を窺い知ることができ,興味深い。
*
図4「39 尾張寸寸木」にある材木の価格設定
(注) 材の長さ別系列のうち,中のグレードに当たるもののみ
を線で結んでいる。長い8尺,9尺材は若干高めに設定さ
れている。
*
*
以上の記述では,材木の材料調達部分を中心に
掻い摘んで紹介したのみだが,当然,屋根や建具
や左官などの工種や工事そのものに関わる部分の
情報も多数ある(表2参照)。のちに「本途(ほん
と)
」と呼ばれるような公儀定めの価格や人工歩掛
りの数字,今奥政隆が関わった内裏工事等の数々
の詳細な工事記録,また,それらの部分工事の入
札に関する記述,ほかに,各種文書の雛形等も含
まれており,近世初期の建築生産や積算の実態を
知る貴重な資料として,研究的な興味が尽きない
ものである。
(主席研究員 岩松 準)
図5 尾張材の寸法等と価格のバランス
(注) 図4データのうち,空欄のない1間∼8尺長の数字を使
い,価格マトリックスの行列中心化操作を行ったもの。い
わゆるお買い得な価格設定の材がわかる。
*
*
*
上材とされた尾張(尾刕=尾州)材については,
「39 尾張寸寸木」(寸寸とは短材の意)に丸太のグ
【参 文献】
1. 内藤昌編著『愚子見記の研究』井上書院, 1988.6
2. 太 田 博 太 郎 ・ 内 藤 昌『注 釈 愚 子 見 記』井 上 書 院,
1988.6
3. 渡邊保忠『日本建築生産組織に関する研究1959(復刻
版)』明現社, 2004.12
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