・ 灌漑・水利事業 2003年 3月 、マル ワリー ド灌漑用水 路建設計画開始。 比 較 的水量 豊 富 な クナ ール 河 水 系 か ら取水 し、 2010年 3月 、最終地点 ガンベ リ沙漠 まで、貯水池 13カ 所 を備 えた 25.5kmが 開通。 一 日送水量約 30∼ 40万 面、灌漑面積 3,000ha。 工事 には、日本 の伝統工法 が多用 さ れ た。用 水路 で は蛇 籠 工・柳 枝 工 を採 用 。特 に重要 な取 水部 で は、斜 め堰方 式 を採用、 堰板方式水 門・沈砂池 土砂 吐き・石 出 し水制 と共 に、一連の「洪水 と渇水 に耐 える取水 システム」が確立 された。 ガンベリ沙漠横断水路》 《 一 ・ ・ ・・ 水路掘削前 A この 取水 システムは、2010年 8月 以 来頻発 する大洪 水 を経て、護岸技 術 と 共 に完成度 が高くなつた。この結 果、近 隣郡 の 灌 漑 水 路 の 再 生 が可 能 とな つ て多 くの地域 が守 られ、その有用性 が 実 証 され た 。更 に 改 良 を加 え な が ら 次 々と各地 に建設 されている。 困難 であつた安定 灌漑 を実現 し、合 人 +16,500haの 耕 士 也の安定、 65万 ノ の 言 、 農 民 の生活 を護 る「地域 復 興 モ デル」 を目す 旨している。 灼熱沙漠、必死の作業が続 く また、用水路沿 いに約 50万 本 、 砂防 林 に約 20万 本 の植 樹 が行 わ れ 、河リ 堤防沿 いを加 えると、75万 本 を超える。 マル ワ リー ド用水路 は、保 全 の段 階 に入 り、地域住民 による維持管理 体制 作 りを継続中である。 <自 立定着村 > 試験 農場用地 として、用水路最終地 点のガンベ リ沙漠 に 180ha開 墾 中。 水利 事 業 に携 つた 農民 や 職 員 が 自 活 しな が らその経験 を生 か し、用水路 の維持 管理 を世代 か ら世代 へ 繋 ι ずて いくという構想。既 に 10年 以上の作業 経験で熟練 した集 団は、今後東部アフ ガ ニ スタンに於 いて重 きをなすと期待 される。 ペ シヤ ワ ー ル会 事務局 〒810-0023 電 話 F e A 福 岡市 中央 区警 回 2-1… 092-731-2372 X 092-731-2373 17ハ イ ツ み か げ 803号 レ [email protected] メ ー タ ホームページ http:∫ ∫ la.big10be.ne.jp/peshawar/ … 【 会長】 村上 優 【 現地代表】 中村 哲 ペ シヤワーフ レ会 は 1983年 9月 、中村 暫 医師 のバ キスタンで の 医療 活 動 を支援する 目的で 結 成され 、現在 はアフガ ニ スタンでの、医療 活動 、 灌漑水 利事 業等 、総合 的農 村復興事 業 を支援 していま鳥 通水後 3年 経過 (Aと 同地 ■F■■■ 111 ) 砂嵐で埋まつた試験農場の給 排水路 ・ 農業事業 「自給 自足の農村回復」を掲 ι 2002年 、 大試験農場をグラヌール渓谷 に開 設 したが、 将来 を考え2009年 、 用水路最終地点のガンベ リ沙漠 に移 した。 全 180haの うち、 現在約45haを 開墾 し、 穀類、 芋、 町菜の他果樹園ではザ クロ、ミカス 桃等果樹 2万 本が育 つており、 近い将来出荷 も見込まれている。 畜産 も可能 となり、徐 々に拡大 していく計画。 かつて 100%近 い食糧 自給 を誇つていたアフガニスタンは、 現在半分以 下 に自給率が落ちたと言われる。 農業復興のモデルを示す意義 は少なくない。 ペ シ ヤワール 会 PMS(平 日 和 医 療 団 日 本 ) のあゆみ ―′ ≠ろ″押し事をる所な 発 勧 ライ 予く 〃″ シ オ ι所 そ 〃々│ま必要とされる一 ψグ プぎ “キスタ 1984年 、中村 医師 はパ PMS活 動 地域 ンの ペ シャワール・ミッション病 院 ハ ンセ ン病 棟 に赴 任 し、医療 事 情 が不 十分 な環 境 の 下 、診 療 活動 に従事。 ペ シャワール の PMS基 地 病 院 を中心 にパ キスタン山岳 部 に 2、 ア フガ ニ スタ ン 東 部 山岳 部 に 3 他 、多 い 時で合 計 10ヵ 所 の 診 療 所 を設 1女 ハ ンセ ン病、アフガン難 民 、貧 困層 の診 療 に取 り組 み 、定 期巡回診療 も行つた。 現地スタッフの育成や女性患者 の 治 療 に も力 を注 ぎ、現 地 の 文 化 慣習 を尊重 して診療 に努め た が、 2001年 か らの戦乱の影響で ダラエヌール診療所 診 療 所 が次 々と閉 鎖 に追 い込 ま エ lヵ れ、現在 はダラ ヌール 所 を残すのみとなつた。 1986年 よ り同 国 内 のア フガ ニ スタン難民 へ の診 療 を本格 的 に開始。 1991年 には、アフガ ニ スタン の ダラ エ ヌール に最 初 の診療 所 を開設 し、 以来両国に跨 り無 医地 区での医療活動 を開始。 現在 、 年 間診療数 は約 55,000名 。 ハンセン病診療は大きな課題だが、 治安悪化などで取り組めないのが実情。 戦乱で諸 団体 が去る 中、同診療所 は地域で更 に重 きをな している。 『PMS基 地病院』ι 2009年 7月 、 ま、 治安悪化で現地 に委譲、 活動基地 をア フガ ニスタン東部のジャララバー ドに移 した。 1993年 、ダラエ ヌール周辺で 悪 性マ ラ リアが大流 行 した折 に は、日本 国 内で の 緊 急 募 金 を呼 び か けた。これで 治 療 薬 の 購 入 ができ、2万 人以上の治療 が行わ れた。 緑 の 大地 計 画 2002年 、 『緑の大地計画』立案。 緊急食料配給実施 (2001年 )の 後 、 旱魃で荒れた農村 の復興 を計画。 1998年 、ペ シャワール にパ キ スタン・アフガ ニ スタン両 国の恒 久 的 な拠 点 とな る『PMS基 地 病 院』を建設。 1970年 代 か ら悪化 の一途 を 辿 る旱 魃 は、2000年 夏 、アフガ ニ スタン全土 で一 挙 に深 刻 化 し た。多 くの 国民 が難民 化 して流 出 が止 まら哄 水不足 が原 因で赤痢 や コレラなどが急 増 した。 飲 み 水・農 業 用 水 の 確 保 が急 務 となり、医療活動 と並 行 して水 源確保事業 を開始。 飲料 用 井戸 約 1,600本 、灌 漑 PMS基 地 病 院 用井戸 13本 を掘 削、カ レーズ (伝 読的な地下水路)38ヵ 所 を再生 し、 多 くの村民の難民化を食 い止めた。 『アフガンいのちの基金 』設立。 2001年 、 旱魃 と戦乱 により、首都カ ーブ ル に集 中する国内避難民 へ 緊急 食糧配給 を実施。 空爆 下 にも続 行 し、2002年 2 月までに 15万 人 に配 給 した。 その 基 金 を もとに後 述 の『緑 の大地計 画』を実施。 PMSは 医療 団体 だ が、今 なお 進行する大旱魃の中、 現在は水利 灌漑事業 に重きが置かれている。 これ は病気の背景 に慢性 の 食 糧不 足 と栄養 失調 があ るか らで、 沙漠化 した農地 の 回復 が急務 だ と判断されたか らである。 医 療 事 業 アフガニスタンは人 口の大半 が 自給 自足の農民である。農業生産 の 回復 は 、死 活 問題 であ り、医療 や治安 にも係わる。 2003年 、マル ワ リー ド用 水路 建 設 を開始 (2010年 竣工)、 更 にナ ンガラハル 州北部 3郡 全体で水 利 工 事 を進 め 耕 地 を復 活・拡 大 し、 多 くの難民 が戻つて来ている。 マルワリー ド取水堰・斜め堰 この経過の 中で、地域共 同体 の 精神 的な拠 り所 として「モス ク、マ ドラサ (伝 統的な付属教育機関)」 、 寄宿舎を建設。 現 在 で はナ ンガ ラハ ル 州 の 中 で 同地 は最 も治 安 の 良 い地 域 に なつている。 カマ第 2取 水門・堰板方式 食糧配給 モスク (イ スラム教寺院 ) 今なお進行する大早魃、 千上がってひび割れた畑 ペ シ ヤワール会報 No 123 2015年 4月 1日 カラー特集】 【 ガンベ リ沙漠 のPMS農 場で初 の黒砂糖 干ばつで次第 に消滅 していった黒砂糖 。 「無 くなったものが大豊作で戻 ってきた」とい う喜びは例 えようがなかった。 PMS農 園。ガ ンベ リ沙漢 の開墾中 (2013年 2月 ) 同上の農場 に初 めて栽培 したサ トウキビ(2014年 7月 ) 2015年 4月 1日 ペ シ ャワール会報 No 123 2月 23日 夜半 か ら翌 24日 朝 にか けて突然土砂 降 りとな り、24日 夜、カブール河 の水位 が遂 に高 さ3mの ベ ス ー ド第一取水 門を30cm超 えて浸水、門番小屋 も破壊。対岸 ジ ャララバ ー ド市 内 も、あち こちで堤 防が決壊 した = 24日 夜 間 に沿水 じ水 門両脇 が流失。門番 の機転 で水 門 は完全 に閉 じて いた。も し水 門が なか った ら激流 が流 れ込 み ベ スー ド地域全体 が冠水す る大被害 とな って いた
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