【二〇一四年度 駒沢史学会大会発表要旨】

そして秋の見学会の実施、卒業論文発表会の開催が提案され、了
そこで、橘奈良麻呂の変に関する研究史を整理し、事件の概要
をたどることにする。そして、橘奈良麻呂の処罰について考察し
つまり、橘奈良麻呂の処罰は、史料に明確な記述がないことに
より、獄死と判断されているのである。
たい。
る石川名足・淡海三船らの意見の不統一により、表向きは紛失し
字元年紀もその過程で紛失したとある。坂元太郎は、編纂者であ
橘奈良麻呂の変は、『続日本紀』巻二十、天平宝治元年紀に記
述がある。この歴史書は複雑な編纂過程をたどっており、天平宝
二〇一四年度新任の役員は、角道亮介(評議委員)、角道亮介・
佐藤大樹・長瀬光仁(委員)である。 橘奈良麻呂と橘氏
たという説を唱えている。
この点について、橘奈良麻呂をはじめとする関係者の罪が許さ
れた時期と、『続日本紀」編纂の時期とが合致し、興味深いとこ
ろである。
本報告は、橘奈良麻呂の変の検討を通じ、橘奈良麻呂について
考察するものである。
上杉謙信上洛の意義と憲政越後入部時期に関する
再検討
──謙信願文にみる正当性の記述を中心に──
六十七」とあり、橘奈良麻呂が六十七歳まで生存したことを記す
二十二(一五五三)年と永禄二(一五五九)年である。この二度
上杉謙信(当時は長尾景虎。本報告では「上杉謙信」と統一す
る。) は、 そ の 生 涯 の う ち に 二 度 の 上 洛 を 行 な っ て い る。 天 文
長瀬 光仁 史料もある。
橘奈良麻呂の動静について、史料がまったくないわけではない。
た と え ば、『 異 本 公 卿 補 任 』 は「 事 に 坐 し て の ち、 卒 す る 年
れたと考える論者もいる。
獄死したと解説する場合が多い。その一方で、獄死ではなく匿わ
ところで、首謀者である橘奈良麻呂は、「辞屈而服」したとあり、
その後の動静についてはわからない。そのために関係者と同様に
きな政変であったかが分かるものである。
死したとある。そのほかに縁坐者が四百人以上もおり、以下に大
であったが未遂に終り、関係者六人が拷掠窮問題のすえに杖下に
橘奈良麻呂は、橘奈良麻呂の乱を起こした人物として知られる。
この変は、藤原仲麻呂の殺害や孝謙天皇の廃立などを狙った計画
古谷 紋子 【二〇一四年度 駒沢史学会大会発表要旨】 なお、大会の当日配布された発表資料は以下の通りである。
承された。また、本年度の予算案が提案され、了承された。
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解決するための政治的行動であったとされている。
上洛は信濃国や関東への出陣など他国との関係における諸問題を
二十二年の上洛は越後国内の諸問題を解決するため、永禄二年の
いては先行研究においてすでに指摘されている。すなわち、天文
していることが分かっている。また、この両度の上洛の意義につ
の上洛において謙信は、朝廷及び室町幕府より様々な権威を獲得
義について再検討を行なう。
入部時期と上杉謙信の願文の記述から、天文二十二年の上洛の意
進攻における謙信の正当性を読み解く。最後に、上杉憲政の越後
において作成した謙信願文について分析し、そこに書かれた関東
を整理し、その検討の余地について指摘する。そして、関東進攻
について確認する。次に、謙信の上洛の意義についての先行研究
向を踏まえて整理することで、天文二十二年の謙信上洛前の動向
──駿河国安倍郡井川の郷士海野家と
地域における郷士の存在認識と親類大名家
しかし、上杉憲政(本報告では便宜上、「上杉憲政」と統一する。)
が天文二十一年に越後国に入部してきていることを考えると、天
る。加えて、上洛により獲得した権威をどのように利用していっ
武蔵国岡部藩安部家の関係──
文二十二年の上洛の意義については検討の余地があるものと考え
たのか、ということは指摘されておらず、これについても検討を
は、上洛の目的がここにあったと考えることができるであろう。
獲得した権威が関東進攻における正当性となっているということ
攻における謙信の正当性となろうと考える。そして、上洛により
こそ、先の二度の上洛により獲得した権威であり、これが関東進
自身の武威・権威を主張するものとなっている。この謙信の権威
ついて記述されている。ここに書かれている謙信の事績は、謙信
事績や謙信自身の事績、関東進攻の理由、祈願成就の際の奉賽に
る。ここには鶴岡八幡宮の由緒書きを始めとして、謙信の先祖の
進攻で小田原までの道中に作成された鶴岡八幡宮寺宛の願文であ
いう点において参考とすべき山村の研究では、山村は生業や様々
に分かれる。また、本報告の対象が他地域から隔絶されていると
さわしい身分を獲得していく「身上がり運動」であるとする研究
く金納郷士が、領主支配の一端を担う立場として自らの役威にふ
研究と、藩に対して上納金を納めることで武士身分を獲得してい
者層との関係制を主張し生き残りを模索していく様子についての
在村する武士を指す郷士についての研究は、中世以来の由緒を
持つ郷士集団が、近世の社会変動により没落していく中で、支配
配者層や地域社会から認識されていたのかについて検討していく。
本報告は、他地域から隔絶された地域に居住し、大名家を親類
に持つ地域唯一の郷士が、地域社会の中でどのように存在し、支
岡村 龍男 本報告では、まず憲政の越後入部時期について、最近の研究動
この点について考えられる史料として永禄四年二月二十七日付
の上杉謙信の願文がある。これは前年の八月下旬から始まる関東
加える必要があると考える。
彙 報
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最後に、近世後期に海野家が相続の危機に瀕していた際の、支
配役所である駿府代官所と安部家による海野家相続に向けた動き
した。
尾及び井川七か村に対して一定の影響力を持っていたことを指摘
討し、井川七か村と直接支配関係にはない安部家が、海野家相続
村及び海野家の親類大名に当たる武蔵国岡部藩安部家の対応を検
構で会ったと指摘した。次に、海野家の相続を事例に、井川七か
以来の土豪的存在であると同時に支配者層にとっては中間支配機
これらを踏まえ、本報告では駿河国安部郡最奧に位置する井川
七か村と、底に居住する唯一の郷士海野家の概要を確認し、中世
ている。
うな変遷をたどったのかを明らかにするとともに、その性質の変
覧会・博物館が構想される中で、それに関連する事務局がどのよ
んで論証されているものは少ない。そのため、今回の報告では博
いるにすぎない。所管が変わることによって起こる博覧会事務局
事務局の所管の動きは多くの研究史の中で事実として触れられて
しかしながら、多くの先行研究においては博覧会関連部局がた
どった所管の変遷の事実関係を述べるにとどまっており、博覧会
ている。
や博物館の創設は、万国博覧会への参加と連動する動きともされ
先行研究において、博覧会の開催と博覧会関連部局の設置、そ
して博物館設立は常に関連付けて論じられてきた。また、博覧会
する考え方の変化を捉える。
局の変遷と、変遷過程での官省の意見対立や博覧会・博物館に関
を検討し、井川七か村において海野家が存在することが支配の貫
化や政府内意見について触れ、明治政府が博覧会・博物館にどの
な経済活動の中で、外の地域と多様な結び付きを持っていたとし
徹につながることから、海野家の援助をせざるを得なかったこと、
て、地域外の村々では当たり前となっていた広域支配の枠組みの
なお、本報告にて対象とする範囲を文部省が設置された明治四
(一八七一)年七月から明治八(一八七五)年三月の博覧会事務
ような価値を見出していたのかを考察したい。
づけた。
明治零年代における博覧会・博物館
佐々木 優 近代日本の政治制度は、一八八五年に日本独自の政治制度であ
大庭 裕介 内閣期司法省職掌形成の萌芽
本報告では、明治零年代における博物館および博覧会の関連部
──所管の変遷とその性質の変化を中心に──
局の内務省移管までとしたい。
整備が、それまで必要とされてこなかったことに起因すると結論
の性質の変化や、所管の変遷に対する政府内の意見にまで踏み込
こういった関係は、他の地域と隔絶された井川という地域におい
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る太政官制から西洋諸国の政治制度である内閣制へと移行するこ
とで、西洋近代との同質性が強調されていく。しかし、西洋では
国会に与えられていた法典の起草権限が、太政官期の日本では司
法省に委任されており、必ずしも西洋との同質性が念頭に置かれ
後期スチュアート朝イングランドにおける
軍隊と社会
津久井 尚悟 本 報 告 で は 軍 隊 と 地 域 社 会 の 関 係 を、 後 期 ス チ ュ ア ー ト 朝
(一六六〇―一七一三年)イングランドの地方都市ポーツマスに
ていたわけではない。こうした点に対し、法制史研究では、西洋
法制度との同質性を考えるあまり、なぜ日本独自の法制度が形成
お け る 要 塞 守 備 隊(
) に 着 目 し て 考 察 す る。 こ れ ま で
Garrisons
歴史学において軍事史は概して軽視されがちな分野であったが、
されていったのかという根本的な問題がなおざりにされてきた。
日本独自の法制度が企図されていった背景を考察しようとした点
こうした独自の法制度が形成された要因について、報告者はす
でに「明治初期の政局と裁判所設置構想」や「明治初期の法運用
た研究は少なかった。
流れの中でイングランドにおける地域社会と軍隊の関係を考察し
が本研究の出発点である。
と旧刑法編纂の契機」のなかで、西洋化の自明的所産として司法
ジョン・チャイルズ以降、歴史家による近世イングランドにお
ける軍隊と社会の関係を見る研究が増えたが、そこで強調されて
近年「新しい軍事史( New Military History
)」という潮流の中で、
歴史学における「軍隊」の再定義が進められているが、こうした
権・法制度が形成されていったのではなく、政局という流動的要
以上の点を踏まえて、太政官期と内閣期との連続・非連続を問
いつつ、太政官期の司法省の特質を明らかにすることが本報告の
限の確立過程を考察していきたい。
期―近代日本の政治制度のひとまずの完成形―における司法省権
法制度が形成されていく過程を描き出す。この点を通して、内閣
きたい。すなわち、司法省外からの政治行動を受けた結果として
く。とりわけ、政府内における司法省の位置づけを明確化してい
本報告では政局や非西洋的思想との有機的関連のもと、日本法
制度の根幹を形作ってきた司法省の省務の変遷を明らかにしてい
明らかにした。
ンプシャー州南部ソレント海峡地域における要塞守備隊研究から
守備隊でないことを明らかにした。彼は、当時の地域社会におい
)」と、一か所に留まる「要塞守備隊」が存在したことを
Troops
指摘し、社会にネガティブな影響を与えたのが前者であって要塞
ま ら ず 常 に 各 地 を 移 動・ 巡 回 す る「 機 動 部 隊(
ビーはチャイルズの学説を否定し近世イングランドには都市に留
地域社会から隔絶された軍隊の姿であった。アンドリュー・コル
てはむしろ軍隊との関係は恒常的に良好な関係にあることを、ハ
Marching
きたのは、地域社会にとって「異質」な存在で、「他者」として
目指すところである。
素のもと形成された紆余曲折の所産として評価した。
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本報告はチャイルズやコルビーが展開した軍隊がポジティブな
側面を地域社会に与えたのか否かという二項対立的論証を行うの
は地皇元(二十)年と言われ、短命の新王朝の中で更に一時期の
そこで見えてくるのはこれまでの研究で述べられてきたような
単に中央集権的な組織、「社会の屑」といった人々との集団が、
面としての両者の協力関係を考える。
る要塞守備隊や兵士の活動を考察することで社会との関係の一側
維持任務や情報収集任務、またポーツマス治安裁判所録に見られ
は地域における戦闘行為以外での軍事組織の行動、すなわち治安
で考えられてきたような「社会の屑」ではなかった。この報告で
治安維持や犯罪人の逮捕・拘留等も行う重要な組織でありこれま
イングランドにおいて都市に常駐する要塞守備隊は社会にとって
関係にあった極めて身近で、同質的な存在として認識する。近世
たものと推測する。
も日本や朝鮮半島と似通っており、これらが中国国外へと流出し
が指摘できる。この新~後漢前期の窖蔵銭は、銭種構成において
の新~後漢代の墓からの出土銭・窖蔵銭(一括出土銭)の状況を
いて貨泉の供給元である中国の立場から論じることである。中国
本報告の目的は、「中国において短期間に鋳造・流通した貨泉が、
なぜ日本・朝鮮半島に高い割合で伝播したのか」という問題につ
び高い割合で出土する。
泉を含む出土事例が大半を占め、畿内や朝鮮半島でも五銖銭と並
出土が確認できる。出土中国銭における割合は、北部九州では貨
この貨泉について、中国を除く東アジアの出土状況を見ると、
弥生時代から古墳時代の日本列島や同時期の朝鮮半島から多くの
み鋳造された銭貨である。
社会に軋轢をもたらすというネガティブな側面だけでないことが
それでは、新~後漢前期の窖蔵銭はどのように埋められ、どの
ように国外へと流出したのか。報告者はこれらの窖蔵銭を新末後
(少なくとも築こうとする努力をしていた)、彼らの地域社会で
漢初の政情不安の時期に緊急避難として埋められたものと単純に
ら当該時期の流出プロセスについて論じていくものとする。
は捉えておらず、十五世紀の永楽通宝の流出プロセスとの比較か
持つ官職や人員の出自、任務などから住民たちにとって「同質」
東アジアの中の貨泉
貨泉は、中国・新(八~二十三年)の時代に鋳造・流通した金
属貨幣(以下銭貨)である。初鋳時期は天鳳元(十四)年あるい
佐藤 大樹 の存在としての要塞守備隊の姿が明らかになった。
集成すると、貨泉の出土は新~後漢前期の窖蔵銭に集中すること
判明した。彼らは、確かに常にではないにしろ良好な関係を築き
でなく、辻本諭も述べるような、軍隊や兵士を地域社会と密接な
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