英霊に続く次世代の集い 2015 年 5 月 10 日開催 <ご案内> 大東亜戦争時に、知覧から飛び立つ帝国海軍特攻隊の直掩機(直接援護機)を務めた戦 闘機搭乗員の数少ない生き残りの方を囲んで当時のお話を伺う会です。 大東亜戦争の当事者として、 ・当時の時代状況 ・どのような思いで戦いに望まれていたか ・いまの日本をどう見ているか? ・私たち世代に何を期待するかなど、 忌憚なくお話をお伺いしたいと思います。 講師 北島令司氏 現在:鵠沼地区社会福祉協議会会長 静岡県の川根出身。逓信講習所を卒業後、藤沢の郵便局に配属。その後、パイロット養 成所に入るものの、行く先は戦場。爆撃機のパイロットとして、ジャワ、マニラ、沖縄、 そして九州へ。友人、先輩、後輩、数多くの仲間から遺書を預かり、見送った。 北島さん自身も追撃され、海の上に 4 時間彷徨って助けられた経験があり、その時は 何度も眠くなるのと闘いながら、眠くなる度に北島さんのお母さんが呼びかけている声 が聞こえて、 目を覚まして⇒眠くなり⇒目を覚ましての中で助けられたという事です。 彼らが生きていれば、今の日本はもっと良くなっていた。心底そう思っている。 好きな言葉は「一隅を照らす、これすなわち国宝なり」 「一人の力は小さいけれど、小さな灯りをみんなで灯していけば町が明るくなるはず」。 特攻隊で亡くなられた方の遺書をご家族にお届けした時のエピソード 飛行学校同期の相花信夫少尉が、出撃間際に北島さんに託した遺書を読んだ時、現代人 が忘れかけている母への感謝や思いを感じさせてくれます。 そこには幼い頃に来た継母を、最後まで「お母さん」と呼べなかったことを後悔し 、詫 びている言葉が綴られていました。 母を慕ひて 母上お元氣ですか 永い間本當(ほんとう)に有難うございました 「我六歳の時より育て下されし母 継母とは言へ世の此の種の女にある如き」 不祥事は一度たりとてなく 慈しみ育て下されし母 有難い母 尊い母 俺は幸福だつた 遂に最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺 幾度か思ひ切つて呼ばんとしたが 何と意志薄弱な俺だつたらう 母上お許し下さい さぞ淋しかつたでせう 今こそ大聲(おおごえ)で呼ばして頂きます お母さんお母さんお母さんと。 相花信夫 少尉 陸軍特攻第77振武隊 昭和 20 年 5 月 4 日 特攻戦死 18 歳 これを読んだ相花少尉のご両親は号泣したそうです。 それを見ていた北島さんはかける言葉もなく、ただ立ち尽くしていました。その後 、北 島さんは、この尊い犠牲と死んでいった仲間たちの思いを残そうと、戦場で無念に散っ ていった特攻隊の遺品集めに奔走します。 そして 11 年にもおよぶ歳月を費やし、遺書、写真など 4,500 点の遺品を集め、昭和 60 年に設立された知覧特攻平和会館に収めるのです。 改めて今ある日本は、戦争で亡くなった多くの人たちの犠牲の上に成り立ているのだと 考えさせられました。
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