望星学塾創立80年記念 1935年6月8日は何の日? ~学園の母胎・望星

望星学塾創立80年記念
1935年6月8日は何の日?
~学園の母胎・望星学塾創立の原点を探る~
開催日:2015年6月1日~6月12日
ごあいさつ
望星学塾は、1936(昭和11)年に、東京・武蔵野の一角に松前重義が自宅とともに建
てた小さな建物です。松前重義は、ここに青年たちを集め、聖書研究を行い、人生観・
歴史観・世界観について研鑽を積み、デンマーク体操で身体を鍛えました。そして、共
に語り、共に研究し、共に学ぶ中で、大学建設への夢を語り合ったのです。小さな塾舎
は青年教育の道場でした。
当時、玉川上水に沿った周辺は麦畑が広がり、二階の窓からは高くそびえる富士山が見
えました。その田園風景はのどかな一幅の絵を見るようでした。
1981(昭和56)年9月、現建物が落成した際に『望星学塾発祥の地』碑が設置されまし
た。その碑文に、松前重義は次のように記しています。
「今日の東海大学建学の精神はここに発しており、本学塾はまさに東海大学の母胎と
言わなければならない。」
本年、望星学塾は創立80年を迎えます。学園創設(航空科学専門学校)に先立つこと7
年前の1935(昭和10)年6月8日は、「浅野博士奨学記念館」と命名された塾舎が棟上げ
した記念すべき日です。松前重義は、建築の趣旨を板書に記しています(「上棟式の
詞」)。
そこで、上棟の日に合わせて記念展示を企画しました。学園は2017年に建学75周年
を迎えますが、その母胎である望星学塾の活動を振り返ることによって建学の精神を再
認識する一助になれば幸いです。
2015年5月
学校法人東海大学望星学塾
塾長
松前達郎
1.望星学塾上棟の詞【1935(昭和10)年6月8日】
1935(昭和10)年、松前重義の「無装荷ケーブル長距離通信方式」の発明に対して、
電気学会が「第10回浅野博士奨学祝金」を贈りました。それを基金として浅野博士奨学
記念館(現望星学塾記念館)と住居を東京・武蔵野の地に建てました。1935年6月8日
は、上棟式が行われた記念すべき日です。
読み下し文
2.望星学塾のイラスト(想像図)
記念館の建築は、教友大津鉄吉(1885~没年不詳)氏が行った。大津氏は、茨城県
水戸市に生まれ、小学校卒業後大工に弟子入り、25歳で独立。賀川豊彦らと伝道に従っ
た。教会建築、外人別荘、養老院、学校建築などを得意とした。「荻窪のおやじ」「ク
リスチャン大工」と呼ばれた。
3.浅野奨学祝金
浅野博士奨学祝金は、わが国の電気・電子の隆盛の基盤を築いた研究者・浅野応輔
(第4代電気学会長)を記念して設けられた賞である。1925(大正15)年長岡半太郎、
1930(昭和5)年東北帝大の恩師抜山平一、1935(昭和10)年松前重義 が受賞し、
1942(昭和17)年東北帝大同期生の永井健三、1944(昭和19)年篠原登とつづき、現
在は功績賞として継続されている。
無装荷ケーブル研究中の光景
4.無装荷ケーブル長距離通信方式の研究・開発
無装荷ケーブルとは、装荷コイルを挿入しない方式の通信ケーブルで、長距離でも明
瞭な通話ができ、いくつもの通話が同時にできる搬送多重通信が可能となる方式である。
この研究は官民あげてのシステム研究であり、これによって通信機器の国産化への道が
開かれ、今日の技術立国・日本の礎が築かれた。
5.松前重義が画いていた世界有線通信網の理想
人類の平和と国際交流に役立つことを目指していた。
「人類の平和のために、文化の交易のために、神による宇宙創造の厳かなる目的のため
に之等の技術を用ふべきであると確信する」(『無装荷ケーブルによる長距離通信方式
の研究』より)
6.松前重義の心を動かした内村鑑三~思想の確立と使命の発見~
1925(大正14)年に松前重義は東北帝国大学を卒業し、逓信省に入省した。役人生活
は無味乾燥であった。心から語り合える友人もなかなかできず「人生、如何に生きるべ
きか」と悩んでいた松前に声を掛けたのは、同じ下宿に住む吉川良弘だった。誘われて
内村鑑三の聖書研究会に参加した松前は、そこで内村の聖書講義を聴いて心を打たれる。
内村の講義に深く感銘し、人生観の確立、世界観、歴史観の把握の重要性を認識した
松前は、自らの生涯の使命を発見する。それが、「教育」であった。
国民高等学校設立を説いたデンマーク復興の祖
ニコライ・グルントヴィ
7.念願のデンマーク視察~アスコウ国民高等学校を訪ねる~
【1934(昭和9)年1月】
1933(昭和8)年、松前は電話事業研究の目的でドイツに1年間留学した際、デン
マークの国民高等学校に立ち寄り念願の視察をする。理想の教育像に具体的な形を与え
られた松前は「いつの日か私自身もまた、祖国の将来のために、人間教育の場を築きあ
げてみせる」と誓った。
8.内村鑑三記念碑を建立~札幌・東海大学付属第四高校~
1985(昭和60)年、東海大学付属第四高等学校(札幌)正門広場に内村鑑三記念碑
が建立された(制作・新悠喜雄)。東海大学の創設と教育方針(モットー)が内村鑑三
の影響であることが記されている。
読み下し文
9.内村鑑三の墓参り
1930(昭和5)年3月、内村鑑三は永眠した。1936(昭和11)年1月、浅野博士奨学
記念館を建築して望星学塾として活動を始めた松前は、家族とともに多磨霊園の内村の
墓を訪れた。亡き霊に日曜集会を始めたことの報告をしたのだろう。
望星学塾正門
10.望星学塾「開塾の辞」草稿【1940(昭和15)年4月21日】
1940(昭和15年)年、望星学塾にて寄宿塾生の入塾式が行われ、塾主松前重義が
「開塾の辞」を述べた。手記には頼山陽の漢詩やクラーク博士の「Boys, be Ambitious
(青年よ、大志を抱け)」、アメリカの思想家エマーソンの「Hitch Your Wheels to
the Star(汝の車を星に繋げ)」などが書かれている。
11.松前を支えた上司
梶井剛(かじいたけし)
逓信省における松前重義の直属の上司で「無装荷
ケーブル」に理解と期待を寄せていた。松前のドイ
ツ留学、デンマーク視察をすすめた。望星学塾の開
設はもとより、東海大学の建学と発展を支えた。日
本電信電話公社(現在のNTT)の総裁を務める。
12.望星学塾の同志①
篠原登
篠原登は、「無装荷ケーブル」の研究開発の協力
者である。また、松前重義が自宅で開いた聖書研究
会からの参加者で、松前の片腕として望星学塾及び
東海大学創立の同志となった人物。戦後、1956(昭
和31)年に設置された科学技術庁事務次官としてわ
が国の科学技術行政に携わった。
13.望星学塾の同志②
大久保眞太郎
逓信省工務局に勤務していた大久保眞太郎は、松前重義の聖書研究会に参加し、望
星学塾を実務で支える。教育研究会、武蔵野の望星学塾に参加し、やがて学塾の中核
的存在となる。松前の理想実現に向けて献身的な努力を惜しまなかった。松前は大久
保の没後に墓碑を建立している。
14.塾生と家族でデンマーク体操【1940(昭和15)年晩秋頃】
デンマークの国民高等学校を範として開塾した望星学塾では、日曜集会の後は、塾
生と共にデンマーク体操で汗を流すこともあった。塾生だった松前建男は「自由な雰
囲気だったが、塾生達は無意識のうちに松前先生の感化を受けるのである」と語って
いる。(前列左から三男・仰、妻・信子、二男・紀男、長男・達郎、2人おいて松前建
男 ほか寄宿塾生たち)
15.望星学塾塾則制定・寄宿塾生募集開始
1939(昭和14)年11月1日に、望星学塾の寄宿塾生募集が開始された。
16.デンマークを範とした農村教育~英世学園創立(1946年)~
戦後、松前重義は以前にも増して青年教育の必要性を痛感し、教育機関の再建に踏
み出すとともに、デンマークを範とした農村教育に取り組んだ。これが英世学園で、
福島県猪苗代湖畔に日本国民学舎を開校した。入学案内書に、松前は、「国を愛し、
郷土を愛し、人を愛し、世界を愛する若い諸君よ。来って汝の魂に火を点ぜよ。汝の
希望を聖なる天空の星に繋げ」と記している。
17.英世学園から湖岬聖書学校へ
英世学園は短期間で閉校を余儀なくされたが、その活動は遠藤栄牧師によって1948
年から「湖畔聖書学校」として継続された。松前重義は毎年夏、講義を行った。
18.「望星学塾発祥の地」記念碑
碑文の中で松前重義は、望星学塾創立の経緯と当時の活動にふれ、 『国の将来は教育
によって有為なる青年を世に送り出すことにある』との信念と、学塾の信条として
『若き日に』から始まる四つの教育の指針を述べている。また、今日の東海大学が望星
学塾を母胎として生まれたことを明記している。
読み下し文