産業の発展

宇和水電本社 明治四三年、 宇和水電株式会社が創立された。資本金40万円当初、 本社は本町にあったが、大正9
年ころ鶴島町 西通りに移転した。そのころの本社である。
明治45年4月野村町に野村水力発電所が完成(出力510kW) 明治45年5月宇和島に初めて電燈が燈る。点灯当
時は、電動機の取り付けはなく、電灯のみの使用で、灯数は八幡浜市、宇和町とあわせて、わずか6,186灯であった。
平成2年4月四国電力株式会社宇和島支店となる
宇和水電大浦火力発電所 大正三年五月宇和島市住吉町に大浦火力発電所(
出力四00kW)
が完成。これ
により、宇和島で初めて工場向け電力(
動力)
が供給された。
煙突の高さ(
地表面上)
四十六 .八五m口径二 .二八m。三相交流発電機で あった。
大正七年に宇和水電御内発電所(
津島町)
が建設された。(
出力七十五kW)
近江帆布宇和島工場 日振新田約四万坪を埋め立て、紡績の大手 メーカー近江帆布宇和島工場設置が決定したの
は、昭和9年6月、埋め立ては、3年越し で完了した。操業を開始したのは、昭和11 年7月15日で800人の女工を使い、
日本 最新の設備を誇った。昭和19年に用地、建物は海軍に買収された。松山海軍航空隊宇和島分遣隊の兵舎と練
兵場に変身した。通称「予科練」と言った。
宇和島抄紙株式会社 江戸時代、宇和島藩は、良質の白蝋と和紙 を産出し、なかでも仙貨紙は有名
であった。 大正時代に入り、和霊町の中間の秋成に、初 めて洋紙製造の会社が創立された。この写
真 は昭和初年のころである。
日本酒類醸造(株) 旧須賀川の川裾にあった。(現在の農協会館)宇和島の日本酒精が大正3年、神戸の鈴
木商店に買収され日本酒類醸造株式会社宇和島工場となった。宇和島出身の大宮庫吉翁(右上)は日本酒
清に入社(明治40年)、大正5年、四方合名(後の宝酒造)に招かれ三代目社長となる。翁は郷土のために
尽力され大宮ホール等を寄贈されたことは周知のことである。 大正7年8月22日、この工場も焼き打ちがあり
当日の午後11時ごろ、群衆およそ500人が押しか け翌朝午前5時ごろまで燃 え続けた。
都築織物会社 丸之内の城山山麓にあった(現在のサブライムホールあたり)
都築織物株式会 社の大正15年ころの写真である。豊田式織 機を使って、主として縞木綿、白木綿を織っ て
いた。左端の建物は第一寄宿舎で近傍の農 漁村から、うら若い女工が出稼ぎにきていた。
石崎忠八商店大正9年の写真である。この他堀部、槇本と江戸時代から醤油醸造をしていた。宇和島
石崎忠八商店
の醤油醸造家は9軒あり製造高は14200余石であった。九州、阪神等、諸県、遠くは台湾、朝鮮こ販
売していた。宇和島の醤油は評判が良く、どこでも歓迎されたそうである。
宇和島市袋町 合名会社 堀部本店 大正時代撮影
赤松製糸工場(佐伯町) 宇和島の昭和5年の製糸工場数35。釜数(繰糸器)は2000余り従業女工員
赤松製糸工場
2500人を越えていた。早朝から工場に通う女工の足音が町々に響きわたり活気に満ちていた。宇和島の
産業の中心であった。昭和17年頃になると製糸業は衰退し鉄鋼業、製材が中心となった。
上水道水源地浄水地 水利補償で柿原と調整、難航するが先人の根気よい交渉の末、大正15年(1926)9月1日,
上水道水源地浄水地
愛媛県で最初に給水開始、総工費90万2千余円。大正15年、昭和2年の干ばつに際し断水のやむなきに至った。
これを解消すべく粗石コンクーリートによる貯水池を建設した。昭和6年9月に朝日町、栄町にも給水されることになっ
た。戦後は急激に需要が増加、昭和21年から毎年のように断水があり給水時間中にバケツ、水瓶等を総動員して
に水を貯めたものである。それも須賀川ダムが完成(昭和51年)されてからは解消され昔の語り草となった。
魚市場 港町にあった宇和島魚市場の昭 和4年ころの写真。後に、ここに は盛運汽船の社屋が建てられ、沿 岸航路の小
型船の発着地となった。
水が浦の段々畑(昭和30年) 段畑の利用は、時の経済・農業事情とともに、地区の漁業の盛衰に伴って変化し
水が浦の段々畑(昭和30年)
てきた。水荷浦はイワシ網が盛んな地区で、17 世紀初めには大網、小網と称すイワシ網の存在が記録されて
おり、食料自給のために段畑が開かれていたとみられる。18 世紀半ばの甘藷の伝来やこの頃からの長い不漁
に伴い、甘藷栽培を目的に本格的に段畑が開発された。昭和40 年ころから養殖の時代に入り、馬鈴薯の栽培、
段畑の利用も減少したが平成12年には、段畑を守り、環境や景観を保全するため、有志により「段畑を守ろう
会」が結成され、平成18 年には約4.0ha が耕作されるまで回復している。