献六口驀 ( 1 月 1 4 日夜∼1 5 口朝) 八幡官恒例の献灯祭は、江戸時代から行なわれてきた=条 の冬の 風物詩です。巨大な御神灯 (直径 5 0 cm。高さ lm重 き 3 0 kg) の数々は、市民の繁栄 と幸福な前途を照らす灯 りとして、広 く信仰 を集めています。 〇 の成リユちと発展 三条城廃城後、 日まぐる しく領主が変わ りま したが、享保 2年 (1717) に三条町は村上藩領 と高崎藩領に分割されま した。それ以前は、旧三 条町 と 旧裏館村 。旧― /木 戸村を含む地域を三条 と称 していたようですが、三条町 は村上 藩 に、裏館村 ・― ノ木戸村は高崎藩に分けられて しまいま した。 本戌寺節分鬼おどり ( 2 月3 口 ) 法華宗総本山、本成寺の節分会の一大行 事 として行なわれている鬼おどりは、室町 時代の本成寺の古事にならい、豆まき行事 として続け られています。の こぎ りや斧な どの金物を持 つた鬼 どもに年男 。年女が豆 を投げつけ、平和と安全を祈 ります。 二茶祭り (5月 14∼15日) 八幡官の春季大祭 と して催 され る三条 まつ りは、十万石 の格式 をもつ大名行列 で知 られ る伝統行事です。 無事成長の願 いを込 めて 2 ∼ 3 歳 の子 ども を肩 車 し、神 輿 太鼓 とともに神殿 を 3 周 す る 「 舞込」の行事は勇壮 豪華で多 くの観衆で 賑わいます。 二各 爪 合 戦 やがて信濃川の舟運が盛んになると物資の集積場 とな り、多 くの商家が軒 を連ねるとともに、鍛冶屋を中心 と した工業も発達 し鍛冶町も形成され、商 業都市 として発展 し現在のまちの基礎が固まりました。 CD路 の成リユちとヤ 家 川途や水汲み小路は生活を 支えるための重要 な 小路ですが、三条座小路な どはその 場所 へ 至 るた めの小路 と して作 られたものです。 また、宮島小 路 な ど名家に因むものもあ ります。一般 に三 条の 町家の敷地形状 は間口が狭 く、奥 に極 端 に細長い 短冊状の形態 とな つて い ます。佐藤小路はその細 長い敷地を往来す るためにあ つた 屋敷屋内の通 リ 土間を小路 と して転用 し、それに沿 って敷地 を分 割 して宅地 と した例 です。 このよ うに小路は敷地 の分割によって成 り立 った場合もあ ります。 ( 6 月 第 1 ■ ・日曜 日 ) 戦 瘍 :i濫 〔 〔 :[llilil[[ ちが姿を隠 して凧を揚げ、役人の子 どもの凧 糸を空中で切 つて 日c ろの うつぶんを晴ら し たのが始 まりとされています。六角凧の空 中 絵巻が繰 り広げられます。 二荼驚 つり (8月上旬) 「 いい夏ふるさとの夏まつ り」をテーマに、真 夏の 3日 間、華やかに行なわれます。なかでも尺 玉、スターマインの連発で夏の夜空を彩る 「 大花 巨ヨ牧野菜子店 地域で好評を博 しているパンを製造 しています。 つるがや 徳川 時代後期 の文政 年間、初代 「 敦賀屋長吉」 によって創業されま した。 「 味噌まん じゅうJと 「くるみ餅」がおい しくて有名です。 火大会」は圧巻です。 趙後 二各鍛 治まつり (9月 第4日曜日) 三条市の信 続的なものづ くりを体験 して楽 しめる 日本唯― の 「 鍛 冶まつ り」が開催されます。 区コ吉文字屋老舗 寛政 2年 創業です。店内は大正 12年 建築の町屋 造 りです。代表 的な銘菓 「 今朝の霜」「 初もみぢ」 「 庭砂濡」は皇室に献上されま した。 三条産 品の選 りす ぐりの名品も一同 に展示即売されます。 お取起 (11月 5日∼7日 ) 真宗大谷派三条別院で行われる親鸞聖人のご法要 (お 取越 )の期 間に開催される保内特産の植木市は、晩秋の風物詩です。 六斎市 2と アのつ く日は中央市場で、 5と 10 のつく日は四日町市場で開催されます。 地元で採れた新鮮野菜から三条名物まで、 三条ならではのものが手に入 ります。 二各マルシェ 平成 22年 度から始まつた歩行者天国に、三条ならではの農産物 や加工品などがフランス式の市場 として軒を並べ、スィーツフェア も同時間催されます。場所は主に中心市街地で開かれます。 匝ヨ小松烏肉店 焼き立ての焼き鳥がその場でも食べ られます。 酒立 匡]i3顔 三条で唯 一 の蔵元で明治 30年 に創業 しま した。 新酒ができたときは店頭に杉玉が飾 られます。 ぼ 屋 Eコかっ 和菓子を得意とする老舗。 「 いちご大福 (季節限定 )」 はお店の看板商品です。 ()の 切姜造姜 入 」の町 家 面影伝える 「 なる人火 O菫 三条町は江戸時代から明治にかけて度重なる大火や大地震に見舞われてい ます。江戸時代の文政 11年 (1828)の 三条地震、明治 13年 (1880)の 糸屋万平火事、明治 30年 (1897)の ランプ屋火事などで多 くの建物が焼失 しています。町家の大半はこれ らの火事の後に建て られたものとされていま す。 この うち歴史的な建物の年代は明治時代にさかのぼるものが 20軒 、大 正時代が 25軒 、昭和戦前が 209軒 で、合わせて戦前までの建物が 254 軒で、商都 として栄え 「 北越の大阪」 と言われた頃の三条町の面影を伝 えて います。 三条の中心市街地は信濃川 と五十副 ‖の合流地に広がつています。 江戸時代か ら三条町 として栄えた この地 域 には 1500軒 もの建物が密集 しています。その うち昭和戦前期 までの歴史的な建物が 254軒 あ ります。 その半分以上の 144軒 が切妻造妻入の町家で、屋根は瓦葺きのものが一番 多 くあ ります。 このように瓦葺きで切妻造妻入 の 町家が 三条の特色ある街並 みを形成 していると言えます。 切妻造 りとは ? ―一 ――― 一 ―― 切妻造 りとは屋根の頂部か ら両側に流れる山形 の屋根を有する町家です。また、妻側 に玄関があ りそこから出入 りしているのが妻入です。 ()家 の移り変わり 明治の ころの町家は軒高が低 く、嬢羽 (けらば )と呼 ばれる妻の出が大き く な つてい ます。 大正の ころの 町家は明治の建物よ り2階 が高 くなつてきます。機械製材に よる材木が用いられ、それを下見板張 りとして用いる工法が出てきます。 昭和の町家はさらに建物が高 くな ります。関東大震災後、関東に出入 りし た金物屋か ら伝わったものか、町家によつては正面妻面軒を入母屋せがい造 りにするな ど、よ り装飾的にな ります。1階 の天丼も高 くな り、明か り窓を 設けた りしています。 く 嬢 羽 (け らば ) 人 2験 套 り O茶商 … 「 入母屋造姜 入セがぃ造り」の町 家 大正の終わ りか ら昭和の初めにかけて 「 入 母屋造妻入せがい造 り」の町家が建て られ ま した。 9軒 あることが確認され、いずれも軒 が高 く、本町通 りに面 して 7軒 が建 っていま す。間口も 3間 以上が大半であ り、他の町家 と比 べ てやや規模の大きな町家 となつていま す。 「 せがい」によ り装飾 的に立派 に見せる 明治のころ ① 効果を意識 しているといわれています。 新潟 県 内に これ だけ集 中す るの は例 がな く、三条の街並みだけにみ られる特色です。 ― せがいとは ?‐ … …… ― ― ―― ―一 ―‐ ― ― 一― 主屋の梁から腕木を突き出 して桁をのせ、この 部分 に天丼を張 り、深い軒先をつ くるための造 り です。もともとは積雪のある地域で軒先が垂れ下 がらないように丈夫にするための工夫だったもの が、三条では家を立派に見せるための飾 りとして 使われるようにな つたようです。和船の両舵にあ る船棚 (船 がい )に似ていることからこの名前になつたといわれています。 道き(か わど )と1ヽ '答 かつて三条町の飲み水は五十嵐川から汲んでいま した。主に土手か ら川に ① 降 りる川途が発達 して、本町通 りと直行 して、街並みを横断するための小路 が数多 くできました。名前が残 つて いる上町水汲小路などがそれです。 大正の ころ 昭和の ころ と町 家 路のようなJヽ路卜 江戸時代に本町通 りの両側を中心に町立てが行われ、間口 3 間 か ら 5 間 程 度の町家が密集 して建てられ ま した。その主要な道をつな ぐように」ヽ 路が幾 筋もできま した。その小路に面 してまた町家が建てられ、大きな通 りの町家 だけでな く、小路に面 した町家が迷路のように広がつているのが三条の街並 みの特徴で、まち歩きな どで思 い がけない風景の出会いがあるのが魅力 と なっています。
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