国 語 - 西大和学園中学校・高等学校

平成27年度 入学試験問題
( 東 京・東 海・中 四 国・福 岡会場 )
国 語
( 6 0 分)
〔注 意〕
① 問題は 一 ∼ 三 まであります。
② 解答用紙はこの問題用紙の間にはさんであります。
③ 解答用紙には受験番号、氏名を必ず記入のこと。
④ 各問題とも解答は解答用紙の所定のところへ記入
のこと。
⑤ 各問題とも特に指定のない限り、句読点、記号な
ども一字に数えること。
西大和学園高等学校
問題は次のページから始まります。
― 3 ―
一 次の文章を読んで、後の問いに答えよ。
1
ー ム 理 論 を 勉 強 し た く ら い で 恋 愛 上 手 に な れ る の な ら、 ク リ ス マ ス に 学 生 が 大 勢 で ぼ く の 家 へ 押 し か け る こ と も
恋 愛 は 難 し い。 ゲ
a
あるまい︵みんな、来てくれてありがとう。でも、来られる人、もっと少ないと思ったよ︶。ぼくだってそんなマホウの学問があるな
ら知りたいくらいだ。でも、恋愛がなぜ難しいか、ときには学問よりもずっと難しいか、そういう話なら少しはできるかもしれない。
というわけで、恋愛と学問を比べてみよう。どちらも難しいことに変わりはない。たとえば気象学を例にとってみる。この学問、科
b
学技術や観測地点が昔に比べてヒヤク的に改善されたのにもかかわらず、肝心の予報となるとあまり精度が向上していない。長期予報
となると、もう絶望的。正に﹁
A
﹂くらい予報は難しいのである。
それでも学問は﹁進む﹂。少しずつだが、気象現象を読む精度は上がっていく。たとえば、﹁ 年の三日先の気圧配置の数値予報の精
度は、 年以前の二日先の精度と同じ程度﹂らしい。﹁天気予報がよく当たるようになってきたのは、いろいろな分野での努力が積み
2
中略
[
]
②
気予報と恋愛の読み合いには大きな違いがある。天気は自分が﹁相手﹂のことを一方的に読もうとしているのに対し、
ところで、天
恋愛では、自分が相手のことを読もうとしている正にその瞬間に相手も自分のことを読もうとしているからである。相手が自分のこと
愛 嬌 としても︶高校時代や大学時代の恋を成就できない現実を思うとき、学習の大切さにも目が向かざるを得ない。
①
ずつ明らかになっているという。もちろん出会いがしらや相性の大切さは否定しない。しかし、多くの人が︵小学校時代の初恋はご
ェロモンの働きと﹁恋愛遺伝子﹂の配列で決まるのさ、と主
相手を読む?
恋愛は出会いがしらよ、と言われる方もいるだろう。フ
張される方もいるかもしれない。山元大輔﹃恋愛遺伝子﹄によると、DNA解析が進むにつれて、カップルとDNAとの関係も少し
は、恋愛上手になったのであろうか。
になればなるほど、いてもたってもいられなくなる。では、ぼくたちは昔に比べて相手を読む精度が上がったのであろうか。あるい
恋愛はどうか。天気を読むのと同様、恋愛では相手の気持ちを読むことがともかく大切である。相手が自分のことをどう思っている
か。自分のことをきちんと理解したうえでデートに誘ってくれるのか、恋に憧れているだけなのか、単なる遊びか。相手のことを好き
観測データも充実した。しかし、何といっても 中
[略 数
] 値予報の進歩がキヨした部分が大きい﹂とのこと︵アエラムック﹃気象学の
みかた。
﹄
︶
。いつも当たらないと思っている天気予報だが、着実に進歩しているのだ。
c
重ねられてきた結果である。まず大気中で起こるさまざまな現象を扱う気象学の進歩が大きい。気象衛星やレーダー、アメダスなどの
95
を読もうとしているのであれば、そこも含めて読めばいいじゃないか、と言われるかもしれない。しかし、相手もそういう自分︱︱つ
― 1 ―
88
d
まり自分のことを読もうとしている相手のことを読もうとしている自分︱︱を読もうとしているかもしれない。ここまでくるとケンメ
イな読者の方はおわかりであろう。そう、お互いに相手を読もうとする行為がぐるぐると終わりのないサイクルを描き始めてしまう。
こうなると、きりがないのである。
かと③言って、相手の気持ちを読まなければ、DNAの相性がいくらよくても恋は成就しない。世話の焼きすぎで逃げられるケースな
どは、自分しか目に入っていない典型であろう。相手にプラスになることならば悪く思われるはずがない。尽くすほうはそう思って尽
くすのかもしれないが、尽くされるほうはカゴの鳥のような気分になってしまうこともある。囲碁でいう﹁勝手読み﹂というやつであ
④
る。自分勝手に読めばそのつけは必ず回ってくる。囲碁なら自分が負けるだけですむが、恋愛の場合は相手も傷つける。
手のことを読めなければ﹁忙しい﹂の一言も字義通りにとってしまう。忙しい、という一言をあえて文章化すれば、﹁君に会うよ
相
りも優先順位の高い事柄がある﹂ということになる。時間は作るものである。本当に君のことが大切ならば時間は作れる。南極隊員
じゃあるまいし、二、三か月も好きな人に﹁忙しくて会えない﹂などということがあるものか。まあ、もっとも恋愛は千変万化、決め
つけるのは止めておこう。
目八目という諺があるが、これも囲碁から生まれたものだ。この八目というのは八手先のことらしい。読み合い勝負の囲碁
さて、岡
で相手より八手も先まで読めるとしたら、勝負は目に見えている。岡目とは、傍目、すなわち傍観者として戦況を見る、ということで
ある。傍観者は八手先まで余分に見渡せるくらいいろいろなものに気づく、というのがこの諺が言おうとしていることである。
⑤
囲碁と男女の仲ほどこの諺がぴったりくるものはない。傍目から見れば終わってしまった恋も当の本人はまだ続いていると思ってい
る。いや、思いたがる心が自分をだます。周りも﹁それって終わってるよ﹂とはなかなか言い出せない。たまに野暮な親切心を出して
忠告でもしようものなら、逆に友人としての誠意を疑われる。頭では理解しつつも感情では拒否するのが人情というものだ。
3
岡の上から戦況を眺めるように、離れて人間関係を読むことは大切である。難しいのは、恋愛の場合、離れて読もうと客観視すれば
当事者意識が薄れ、気がつけば﹁負け犬﹂なんてことになりかねない点である。恋愛や結婚には熱い想いと勢いも大切だからだ。
4
e
体離脱じゃあるまいし、と思われる方もおられるであろう。しかし、この幽体離
当 事 者 な の に 離 れ て 見 る。 で も 心 は 熱 い ま ま 。 幽
脱のような離れ技こそ、恋愛だけでなく、ぼくたちが学ぼうとしている社会科学にも必要なものなのである。その昔、﹁熱き心と冷静
⑥
な頭脳﹂と言ったのは マ ーシャルという高名な経済学者であるが、傍観者でいようと思えば熱が冷め、社会の不正にイキドオってわ
れを忘れれば本質を読み誤る。そう、社会科学には恋愛と同じ難しさがあるのである。だから恋愛を通じて学んだことは社会科学の研
松井 彰彦﹃高校生からのゲ︱ム理論﹄による︶
究にも役立つ。
︵
― 2 ―
︵注1︶ゲーム理論
⋮著者は本文の中で人間関係を分析する学問を﹁ゲーム理論﹂と呼んでいる。
︵注2︶フェロモン
⋮体内で生産され、分泌・放出されると他の動物に作用をおよぼす微量物質。
︵注3︶幽体離脱
⋮生きている人間の体から心・意識が抜け出すという現象。
︵注4︶マーシャル
⋮イギリスの経済学者︵一八四二∼一九二四︶。
書で丁寧に書くこと。︶
問一
二重傍線部a ∼e のカタカナを漢字に直せ。︵楷
問二
空欄Aには次のどの諺が入るか。最も適当なものを、次のア∼オの中から一つ選び、記号で答えよ。
の皮算用
イ・来年の話をすると鬼が笑う
ウ・青天の霹靂
エ・果報は寝て待て
オ・石の上にも三年
ア・取らぬ狸
問三
傍線部①﹁学習の大切さ﹂とあるが、その﹁学習﹂とは何を指すのか。傍線部①より前の部分から十一字の言葉を抜き出して答
えよ。
問四 傍線部②﹁天気予報と恋愛の読み合いには大きな違いがある﹂とあるが、その﹁違い﹂とはどういうものか。その説明として最
も適当なものを、次のア∼オの中から一つ選び、記号で答えよ。
ア・天気予報は、天気というある期間内における自然の状態を観測者が推測することが要求されるのに対して、恋愛は人間の
感情の変化を予測するということ。
イ・天気予報は、観測者が天気という対象に対してその変化する現象を予測するのに対して、恋愛はお互いが相手の心情を推
理しようとしているということ。
ウ・天気予報は、天気という我々の日常生活に密着した外面に現れる現象を予想するのに対して、恋愛は内面を予想しなくて
はならないということ。
エ・天気予報は、天気という気候条件を一回だけ予測するのに対して、恋愛の場合は相手の心情をこちらから予想することが
複数回行われるということ。
オ・天気予報は、天気という対象からの読みはないのに対して、恋愛はお互いが読み合うため、終わりのないサイクルを描き、
困難な状態におちいるということ。
― 3 ―
問五 傍線部③﹁自分しか目に入っていない典型﹂とはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次のア∼オの中から一つ
選び、記号で答えよ。
ア・相手の立場や周囲の状況をまったく考慮せず、自分の考えや都合によって、すべての行動を決定するという特徴的な例。
イ・相手のことは無視して、自分のことばかり考えてものごとを行うため、他人に迷惑をかけてしまうという具体的な例。
ウ・相手の立場を考えて行動しているつもりが、かえって相手に迷惑をかけてしまい、相手に苦痛を与えるという代表的な例。
エ・相手の気持ちを理解できずに自分勝手に判断し行動すると、いかなる時も相手からうとまれてしまうという模範的な例。
オ・相手の心情を理解しようと努力するが理解できず、どうしていいか途方に暮れ、自分で困惑しているという極端な例。
問六 傍線部④﹁相手のことを読めなければ﹃忙しい﹄の一言も字義通りにとってしまう﹂とはどういうことか。その説明として最も
適当なものを、次のア∼オの中から一つ選び、記号で答えよ。
ア・相手が忙しいことも考えずに、自分の思いだけで会いたいと言っても、相手に重要な用事が多いために会うことができな
いとは理解しないということ。
イ・相手が自分と会いたがっているにもかかわらず、それをさとらず忙しいという言葉をそのまま信じ込み、自分と会えない
ものと思い込むということ。
ウ・相手が本心は自分と会いたいと思っておらず、忙しいということを口実にして自分と会わないでいようとしていることを
理解できないということ。
エ・相手は自分と会ってもいいと思っているが、忙しいと言われ、他に優先順位の高い事柄があるということを理解し、会う
のを断念してしまうということ。
オ・相手が自分と会うよりも優先順位の高い事柄があることを理解できず、単に忙しいということを口実にして、会いたくな
いのだろうと思ってしまうということ。
問七
傍線部⑤﹁逆に友人としての誠意を疑われる﹂とあるが、どういうことか。﹁恋愛﹂に即して九十字以内で説明せよ。
問八 傍線部⑥﹁恋愛を通じて学んだことは社会科学の研究にも役立つ﹂とあるが、恋愛から学んだどういうところが役立つのか。そ
の説明として最も適当なものを、次のア∼オの中から一つ選び、記号で答えよ。
ア・恋愛や結婚をしようとする際に、当事者が、自分自身の意識を離れ冷静に相手の心理を読むための傍観者であり続けると
いうところ。
― 4 ―
イ・恋愛や結婚において、自分が当事者として熱意を抱きつつも岡目八目という言葉があるように、離れて物事を見るという
ところ。
ウ・恋愛の当事者である本人が熱い想いと勢いが大切であることを意識し、当事者意識が薄れないように我を忘れて恋愛にの
めりこむというところ。
エ・恋愛や結婚に対して積極的に働き、成功するまであきらめず、その際、他人の意見を参考にしながら物事を進めるという
ところ。
オ・恋愛や結婚において常に当事者であることから離れ、冷静な頭脳を持って、相手に自分の想いが熱いと思わせるというと
ころ。
― 5 ―
問題は次のページに続きます。
二 次の文章を読んで、後の問いに答えよ。
1
絶対安静の時間には、何も考えてはいけないし、厳密に言えば眠ってもいけない、ということになっている。しかし、私は何も考え
まいとする状態になることができない。だから、私はいっそのこと、とりとめのないことを考えているようにしていた。
仰 臥している患者の多くは、タオルを細く折りたたんで、両眼の上に載せている。明るい光を遮って、まどろもうとしているため
だ。入院した当初は、その姿態は不吉な予感をただよわせて私を脅かした。
広い病室の隅のベッドを、白いカーテンで仕切って孤立させてある部分がある。その白い幕も私を脅かした。訊ねてみると、その仕
2
切りの中には事故を起した者、たとえば喀血したり発熱がつづいたりしている者が入っているということだった。しかし、私は当分の
間は、その白い幕の隙間から覗いてみたならば、中に人間の形をしていないものがベッドの上にうずくまっているのが見える、という
妄想から脱れられなかった。
れていなかったのだ。小さな会社に勤めて働いていたとき、久しぶりに
要するに、私は療養所というものに、また結核そのものに馴
健康診断を受けてみると、左の肺にかなり大きな空洞が発見された。私は事務の整理をし、引継ぎをするためにさらに忙しく数日を過
①
環に似た形の白い影だけが、自分が病気であることを納得させ、またこの療養所への入院許可証
し、数ヵ月後には療養所へ移ってきた。喀血を経験したこともないし、熱にも咳にも痰にも悩まされなかった。
レントゲン写真にあらわれている指
の役目をするものだった。
その白い影がある以上は、私は誰はばかるところなく入院していればよいわけである。ところが、自分を病人として新しい環境に嵌
めこむことに、私はあまり器用ではなかった。
A
新しく入院した患者は、いろいろな検査を受けなくてはならない。
﹁△△さん、すぐにこっちへ来て﹂
慳貪な大声で私の名を呼んだ。色の黒い、眼の釣り上った、怒ったような顔つきの看護婦であ
病室の入口のところで、看護婦が突
る。そういえば、看護婦も私を脅かしていた。私はこの看護婦に、ことあるごとに虐められる予感に捉えられた。
﹁呼吸停止の検査をするからね﹂
金が剥げてあちこち錆びている大きな目覚時計を、私の手に押しつけた。
看護婦はそう言って、クローム鍍
った青年が並んでいた。彼は、数日後に受ける手術のために検査を受
私の傍に、眼鏡の奥で善良そうな細い眼をしばたたいている肥
けているのだ。
― 7 ―
私は目覚時計を両手で支えて、小きざみに動いてゆく秒針を眺めながら息を止めはじめた。私は自分が二分間は呼吸を止めているこ
とができるのを知っていた。戯れに試みてみたことがあったからだ。そして、二分間という記録は、健康人の世界ではさして長い停止
時間ではなかった。
私と並んでいる肥った青年は、間もなく顔を真赤にして身もだえしはじめ、ふーっと大きく息を吐き出した音がして終りになった。
三十五秒が経っていた。
私は、それほど無理な努力をすることなく呼吸を止めていた。一分を過ぎる頃から、傍の青年がそわそわしはじめた。秒針の動きと
私の横顔とをいそがしく見くらべている様子だ。私はちょっと得意になった。百秒経ったとき、彼が叫んだ。
﹁あんまり、ムリするなよ﹂
おどろいて私は息を吐いてしまった。なぜなら、彼の声には悲鳴にちかい調子が含まれていたからだ。病人の世界では百秒という記
録は、存在する道理のないものなのだ。百秒も息を止めているということは、許すべからざる裏切りだ、と彼の声は叫んでいるように
②
もおもえた。
場券を持たないで劇場の中をぶらついているのを咎められたような気持になった。
私は、入
しかし、この事柄にはおもわぬ副産物がついてきた。無愛想な看護婦が、おもいがけなく笑顔を見せて、こう言ったのだ。
﹁へえ、あんたなかなか頑張るわね。水泳でもやっていたの﹂
気難しそうな人間の笑顔を見ることのできた安堵の気持のために、その笑い顔を美しいとさえ感じたほどだ。色の黒い皮膚に、白い
③
歯並が揃っていて、善良な漁師の娘をおもわせた。
﹁いや、水泳をやったわけじゃない﹂
B
と私は答えたが、一瞬脳裏に空想がふくれ上った。私は潜水の達人で、真青な海の上に浮んだ舟から飛び込んで薄青い水底を自在に
3
泳ぎまわっている。右手は銛を握っている。私は兇悪な海蛇を追いかけているのだ。ついに、銛の先が海蛇のしなやかな胴を貫き通
す。獲物と一緒に、浮び上る。舟の上には娘が待っている。私はこの素敵な獲物をうやうやしく娘に捧げる。彼女は日焼けした顔をほ
ころばして、白い歯を見せながら私に褒め言葉を与えてくれる。
その娘の顔と、眼の前の看護婦の顔とが重なった。といっても、私がその看護婦に恋着したわけではない。その看護婦にたいしての
脅えが取払われた安堵感の作用なのである。
私は、療養所というものに、従って患者や看護婦に馴れていなかったわけなのだ。
― 8 ―
④
誰しも、新しい環境に置かれると、その中に自分の居場所を作るためにそれぞれ独特の動き方を示すものだ。そして、その新しい環
境にそれぞれの城を築きあげてゆく。その城の形はさまざまだが、この部屋ではどんなに奇妙な形のものでも他の城にたいして甚しい
迷惑をかけないかぎりは、そのまま受容れられている。自分の城に潜りこんでいるかぎりは、﹁あれはああいう人間だ、だから勝手に
やらしておけ﹂という形で、この大きな部屋の一員として認められるのである。
中略
[
]
んだ向い側の四号室の患者が死んだ。
手術を受けて一週間目に、廊下を挟
この療養所には、第四病室も第九病室もある。これらの不吉とされている数字は、とくに病院においては欠番になっていることが多
いのだが。私の入っていた大きな部屋の番号は十三である。付属している個室の番号にも、四の数字を避けてはいない。
撥な靴音をたてて私の個室へ入ってくると、言った。
四号室の患者が死んだのは、夜である。そして、翌朝、主任看護婦が活
﹁今日のベッド交換のとき、向いの部屋に移っていただくことになりますが﹂
﹁ええ、結構です﹂
⑤
姿勢の正しい後姿を見せて部屋を出てゆこうとした主任看護婦は、戸口で立止った。背中の線がふっと崩れて、振りかえった彼女
は、妙にモジモジしながら、
﹁あのう、もしイヤだったら、我慢しないでイヤと言っていいのですよ﹂
然とした態度が不意にくずれて、このように問われると、向い側の部屋に入ることが何やら意味ありげになってきた。
彼女の毅
おバケが出るけど、いいですか、と問われたように背筋がくすぐったくなってきた。大きく笑うと傷にひびいて痛いので、私は注意
して笑いながら、
﹁いいですよ﹂
と答えた。
吊り死体の頸に巻きついていた縄を縁起のよいものとして
私自身は、特定の数字を不吉におもう気持はなかった。またその逆に、首
貰いうける人たちと同じ考え方ももっていない。しかし死体のぬくもりの残っていそうなベッドへの移転とともに、四と十三の数字が
4
身近に迫ってきたのを知ると、いささか刺戟的な気分に陥ちていった。
臥もできぬ状態なので、上へ向いたままの形で四号室のベッドへ置かれた瞬間、私の中に咄嵯に忍びこんできた考えがあった。
横
を置く位置は、おおむね一定している。だ
ベッドというものは、四つの脚で部屋の一隅に固定されている。さらに、ベッドの上に枕
― 9 ―
から、先刻まで死体が人間の形に排除していた空気の隙間の中に、私の軀はすっぽり嵌めこまれてしまった形になるわけだ。
このはげしい可笑しさ、これは何だろう。
ぴったり死体に接触していた空気の壁をいくらかでも向うへ押しやろうとするような具合に、私は軀の痛いのも忘れて身じろぎして
いた。次の瞬間、自分のしていることに気付いた私は、はげしい可笑しさに襲われた。
5
私は、いまの苦しい時間をやり過せば、この世のどこかの岸に行き着くことができると考えている。死ぬとは、少しも考えていな
い。その余裕から出てくる可笑しさだろうか。それは違うようだ。もし私の状態がもっと死に近づいていれば、それだけ余計にその可
笑しさは烈しくなる性質のものと、私は考えている。生命がじりじり限界に追いつめられて行ったとき、不意に飛び出してくるややグ
ロテスクな味をまじえた滑稽感、そのようなものと、私は考えている。
このときの笑いにくらべると、この死体のあった部屋がひき起したもう一つの笑いは、はるかに単純なものだ。
その経緯は、次のようであった。
消灯の時間がきて、部屋の電燈を消しまどろみかかると、ドアを叩く音がして看護婦が顔を出し、
﹁何の用事ですか﹂
﹁なにも用事はないですよ﹂
﹁だって、ベルを押したでしょう﹂
個室にはベルがついていて、看護婦控室との間に連絡がとれるようになっている。どこの部屋からの信号かを示す豆ランプのうち、
四号室のものが明るくなった、という。
翌日も、その翌日もまったく同じ事柄が起って、私が眠りに入ろうとするとドアが開く。看護婦のうちのコワがりの連中は、深夜の
見まわりのときには二人手をつないで、こわごわ歩いているという話がつたわった。最近の療養所では、以前と違って死者の数が激減
している。人が死ぬことは、刺戟的事件になってきているのだ。
四日目、またもや、私は寝入りばなに起された。顔を出したのは、私が入院したとき呼吸停止の検査をした色の黒い気丈そうな顔を
したあの看護婦である。迷惑な気持と、いたずら気とが一緒になって、
﹁僕はベルを押しはしないけどね、なんだか天井の穴から青い手が伸びてきて、べルを押したようだったよ﹂
言ってしまってから、気の強そうな彼女の顔を見て、﹁これは冗談にもならなかった﹂とおもった。ところが彼女は、
﹁ヘンなことを言うのはやめてください﹂
― 10 ―
翌日、四号室の豆ランプが灯るのは、べルの配線が混線しているためであることが分った。
ぎ
( ょぐ 。)
吉
( 行 淳之介﹃漂う部屋﹄による
彼女は一瞬怯えたのだ。そう分ると、私はほぐれたやさしい気持になって、暗闇の中でしばらく独りで笑っていた。
⑥
と叫ぶように言うとドアを押しつけるように閉めた。私はその烈しい勢におどろいていると、しばらくしてからドアの外側で忍び笑
いをする声が聞えはじめ、その笑いが少しずつ大きくなりながら、廊下を遠ざかってゆく靴音がひびいた。
︵注1︶仰臥
⋮あお向けに横たわること。
︵注2︶喀血
⋮肺・気管支などから出た血を吐き出すこと。
︵注3︶銛
⋮投げたり突いたりして、魚などを刺してとる漁具
︵注4︶横臥
⋮体を横にして寝ること。
︵注5︶グロテスク
⋮異様で不気味な様子。
ウ・わかりやすくはっきりした
ア・やさしく落ち着いた
イ・はっきりせずにあいまいに
エ・とげとげしく無愛想な
イ・気をつかって親切な
エ・人を見下し恩着せがましく
オ・親しく思いやりを持って
ウ・得意になって誇らしく
オ・人を急かせるような
ア・真心を込めて礼儀正しく
問一
・B﹁うやうやしく﹂の本文中の意味として最も適当なものを、次のア∼オの中からそれぞれ一つず
二重傍線部A﹁突慳貪な﹂
つ選び、記号で答えよ。
A
﹁突慳貪な﹂
B ﹁うやうやしく﹂
問二
傍線部①﹁入院許可証の役目﹂とは、この場合、どういうことを指すのか。その説明として最も適当なものを、次のア∼オの中
から一つ選び、記号で答えよ。
ア・自分としては病状をまったく意識していないにもかかわらず、健康診断の検査結果だけが入院を強制しているということ。
イ・数日忙しく事務の整理や引継ぎをすることで、会社の誰に気兼ねすることもなく入院するための準備ができたということ。
ウ・自覚症状がないにもかかわらず、レントゲン写真の示す空洞だけが、仕事を休んで入院することを認めさせるということ。
)
― 11 ―
エ・療養所へ移ってきた際に、健康診断を受けた時の検査結果を書いた診断書だけが、入院するための証明になるということ。
オ・レントゲン写真に現れた白い影だけが、自分を病人として新しい環境にはめこむことに慣れさせる理由になるということ。
問三 傍線部②﹁入場券を持たないで劇場の中をぶらついているのを咎められたような気持になった﹂とあるが、その気持ちの説明と
して最も適当なものを、次のア∼オの中から一つ選び、記号で答えよ。
ア・病院の診察券も持たないままで、肺の手術のために呼吸停止の検査を受けるということを青年から注意されているような
気持ちになったということ。
イ・百秒も息を止められるということは、病人とは思われず、そんな人間が病院に入院していることを青年から非難されてい
るように感じたということ。
ウ・正式な入院許可書も持たないで、病院の中をあたかも実際の入院患者のようにうろついているのを青年から責められてい
るように感じたということ。
エ・百秒も息を止められるということは、実際病院に来る必要がなく病院から出ていくように青年から催促されているような
気持ちになったということ。
オ・呼吸停止の検査結果が健康な人のものであるにもかかわらず、病院内を重病患者のように歩く姿を青年から批判されてい
るように感じたということ。
ア・看護婦に対する脅えを少しでも和らげるために、看護婦の黒い皮膚の色と白い歯並の揃った外見を、自分が美しいと思う
問四
傍線部③﹁善良な漁師の娘をおもわせた﹂とあるが、なぜそのような連想が起きたのか。その理由の説明として最も適当なもの
を、次のア∼オの中から一つ選び、記号で答えよ。
漁師の娘の姿に重ね合わせたから。
イ・初めは気難しそうな人間だと思っていた看護婦に対する印象が、笑顔を見ることによって、美しいと思い始め、次第に看
護婦にひかれるようになったから。
ウ・気難しそうな看護婦に対する脅えのなくなった安堵の気持ちが、看護婦の笑顔を美しいと感じさせ、外面の容姿が漁師の
娘を連想させるように働いたから。
エ・看護婦の言葉が空想の中で自分を潜水の達人にし、その中で思い浮かんだ漁師の娘の色の黒い皮膚と白い歯並の揃ってい
る様子が、看護婦に似ていたから。
― 12 ―
オ ・検査結果に感心する看護婦のほめ言葉に対して、想像の中で看護婦に似た色の黒い、白い歯並の漁師の娘を思い浮か
べ、感謝の気持ちを示したかったから。
問五
傍線部④﹁﹃あれはああいう人間だ、だから勝手にやらしておけ﹄という形で、この大きな部屋の一員として認められるのであ
る﹂とあるが、そのためにはどのような行動をしていればよいのか。四十五字以内でまとめよ。
問六
傍線部⑤﹁あのう、もしイヤだったら、我慢しないでイヤと言っていいのですよ﹂という言葉を、なぜ主任看護婦は使ったの
か。その理由の説明として最も適当なものを、次のア∼オの中から一つ選び、記号で答えよ。
ア・不吉な部屋に入りたくないという患者の気持ちは分かるが、それでも主任看護婦という立場上、病院の規則を守らねばな
らないという考えも生じてきて、迷いの中で苦しんでいたから。
イ・亡くなったばかりの不吉な数字を持つ部屋に移ることを指示することで、病院に対して患者に反発心が起こるかもしれず、
主任看護婦として、悪意のないことを示したかったから。
ウ・特定の数字に意味を読む習慣から、亡くなった患者の部屋の番号が不吉とされているものであったため、その部屋への移
動を断る患者が多く、主任看護婦はうまく説得したかったから。
エ・急に新しく患者を迎え入れなければならなくなったため、亡くなった患者のベッドの掃除や取り替えが思うようにできず、
ほぼそのままの状態で使わせることが後ろめたかったから。
オ・仕事上、病院の指示に従わせることが役目であるが、不吉な部屋を気にする事があるならば、患者のことを考え、思い通
りにさせてやろうという人情が先立ってしまったから。
問七 傍線部⑥﹁暗闇の中でしばらく独りで笑っていた﹂とあるが、この時の心情を﹁私﹂の今まで持っていた看護婦に対する心情の
変化を含めて、八十字以内でまとめなさい。
― 13 ―
問題は次のページに続きます。
た。その場面につながる次の文章を読んで、後の問いに答えよ。
三 寺の主である摂政殿は、仏事のため優秀な僧たちを、いろいろな寺から招いた。読経を待つ間、僧たちは御読経所に並んで座ってい
②
こ の 殿 の 木 立 は、 異 所 に は 似 ず か し ﹂ と い ひ
南面の山・池などのいみじくおもしろきを見て、山階寺の僧中算がいはく、﹁あはれ、
①
A
けるを、かたはらに木寺の基増といふ僧ゐて、これを聞くままに、﹁奈良の法師こそなほ疎き者はあれ。物言ひはいやしき者かな。﹃木
立 ﹄ と こ そ い へ、
﹃木立﹄といふらむよな。うしろめたなきのことばや﹂といひて、爪はじきをはたはたとす。中算、かくいはれて、
③
B
﹁悪しく申してけり。さらば、御前をば﹃小寺の小僧﹄とこそ申すべかりけれ﹂といひければ、ありとある僧ども、皆これを聞きて、
声をはなちておびたたしく笑ひけり。
⑥
事を笑ふぞ﹂と問はせ給ひければ、僧どもありのままに申しければ、殿、﹁これ
その時④に、摂政殿、この笑ふ声を聞き給ひて、﹁何
⑤
は中算がかくいはむとて、基増が前にていひ出したる事を、いかでか心を得ずして、基増が、案に落ちてかくいはれたるこそつたな
⑦
けれ﹂と仰せ給ひければ、僧どもいよいよ笑ひて、それより後、小寺の小僧といふ異名は付きたるなりけり。﹁あぢきなく物とがめし
A﹁疎き者はあれ﹂
ウ・おろか者であってくれ
オ・あまり親しくない者だ
ア・考えが足りない者だ
エ・何があったのか
イ・笑ってはいけない
イ・すばらしい者であってくれ
エ・関係の薄い者であってくれ
。 ︵
﹃今昔物語集﹄による︶
て、異名付きたる﹂とてなむ、基増くやしがりける 問一 二重傍線部A﹁疎き者はあれ﹂
・B﹁何事を笑ふぞ﹂の現代語訳として最も適当なものを、次のア∼オの中からそれぞれ一つず
つ選び、記号で答えよ。
B﹁何事を笑ふぞ﹂
ア・誰が笑っているのか
ウ・何を笑っているのか
オ・笑うとは何事だ
問二
傍線部①﹁﹃木立﹄とこそいへ、﹃木立﹄といふらむよな﹂は﹁木寺の基増﹂を﹁小寺の小僧﹂と呼ぶ原因を作った部分だが、ど
う解釈したらよいか。その解釈として最も適当なものを、次のア∼オの中から一つ選び、記号で答えよ。
﹁木立﹂は、﹁こだち﹂というべきなので、﹁こだち﹂というのは良いね
ア・
﹁木立﹂は、﹁きだち﹂というはずなのに、﹁こだち﹂というよ
イ・
﹁木立﹂は、﹁きだち﹂と必ずいいなさい、﹁こだち﹂というなよ
ウ・
― 15 ―
﹁木立﹂は、﹁こだち﹂というべきなのに、﹁きだち﹂というとはね
エ・
﹁木立﹂は、﹁こだち﹂というのも、﹁きだち﹂というのも悪くないよ
オ・
問三
傍線部②﹁爪はじきをはたはたとす﹂とは、どういうことを表しているか。その説明として最も適当なものを、次のア∼オの中
から一つ選び、記号で答えよ。
ア・中算の言葉づかいが悪かったので、基増たちが中算をあなどっているということ。
イ・中算のつまらない間違いに対して、基増たちが中算を仲間はずれにしているということ。
ウ・中算がふさわしい言葉を使わなかったので、基増が中算に怒っているということ。
エ・中算が適当な言葉を使ったので、基増が中算をほめたたえているということ。
オ・中算のくだらない間違いに対して、基増が中算を馬鹿にしているということ。
問四
傍線部③﹁笑ひ﹂とあるが、場の僧たちはなぜ笑ったのか、四十五字以内で説明せよ。
問五 傍線部④﹁かく﹂は﹁このように﹂と現代語訳をするが、﹁かく﹂の指す内容を二十一字で抜き出し、はじめと終わりの三字ず
つを答えよ。
問六
傍線部⑤﹁いかでか心を得ずして﹂の解釈として最も適当なものを、次のア∼オの中から一つ選び、記号で答えよ。
エ・中算は何とかして、基増の誠意を知ろうとしないで
ウ・どういうわけか、基増は中算の気持ちに納得して
ア・中算は基増の心がどこにあるかを理解しないで
イ・中算は何とかして、基増のことをもっともだと認めて
オ・基増は中算の真意がどこにあるかを理解せずに
問七
傍線部⑥﹁いよいよ笑ひ﹂を説明した以下の文に合う言葉を十字以内で答えよ。
基増が、中算の
十字以内
ことが分かり、その場の僧たちはいっそう笑ったということ。
問八 傍線部⑦﹁基増くやしがりける﹂とあるが、その理由として最も適当なものを、次のア∼オの中から一つ選び、記号で答えよ。
ア・中算を馬鹿にしたことで、まわりの人々に馬鹿にされる結果になったから。
イ・馬鹿にしていた中算の方が利口だと、摂政殿に知られることとなったから。
ウ・中算の示した言葉づかいの方が、基増よりもその場にふさわしかったから。
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オ・中算のように、自分の間違いを後から取りつくろうことができなかったから。
エ・摂政殿の悪意によって、小寺の小僧というあだなを付けられてしまったから。
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