数学と大規模シミュレーションから読み解く がんの自然史

数学と大規模シミュレーションから読み解く
がんの自然史
波江野 洋
九州大学理学研究院生物科学部門数理生物学研究室
元々正常であった細胞が制御不能になり、異常増殖を始める。それらの細胞は他組織に浸
潤し体中に広がっていく。このようながんの基本的な進展には、突然変異が大きく関わってい
る。毎日億というオーダーの細胞が30億塩基対という長さの塩基配列を複製する。複製の際
のエラーに対する監視機構、修復機構は存在するものの、60年、70年と正常に機能し続け
る事は不可能である。突然変異の起こる場所によっては細胞に影響を与えないが、細胞分裂
の制御などに関わる重要な遺伝子の配列に変異が起こった場合、細胞の制御機構が1つ崩
れる事になる。このような突然変異が細胞に蓄積していく事によってがん細胞が生じる。
組織の中で突然変異が蓄積していく過程を数理モデルで表し、その原理・原則を見いだそ
うとする研究が 2000 年代から急速に発展してきた。数理モデルを用いる利点としては、(i) 現
実には 50 年から 60 年かかるがん発症の過程をコンピュータ上で数秒から数時間という短い
時間で表現することが出来るということ、(ii) 細胞増殖率、突然変異率などの条件を変化させ
て、その影響を簡単に調べられること、(iii) 現実のデータをうまく表す数理モデルを構築でき
れば、その後のがんの動態を予測することが出来ること、などが挙げられる。
私はこれまでに数理解析とコンピュータシミュレーションを用いて、がん細胞が発生・進展す
る過程、転移を起こす過程、投薬の中で薬剤耐性を獲得する過程を研究してきた。未だに克
服が難しいがんという病気に対して、発生からヒトを死に至らしめるまでの過程(がんの自然
史)を明らかにすることで、がん進展の様々な時期における防衛策を提示することを目指して
いる。本講演ではこれまでの研究の中から、臨床データを用いた膵臓癌における転移発生過
程と BRCA 関連癌の進展に関する数理解析研究を紹介する[1,2]。
膵臓癌は年々増加傾向にあり、現在は臓器別がん死亡率で肺がん、胃がん、大腸がん、
肝臓がんに次いで第 5 位である。膵臓癌はその高い浸潤能、転移能のため固形がん最大の
難治がんであり、5 年生存率が 5%程度と予後が極めて不良である。膵臓癌の唯一の根治的
治療法は外科的切除であるが、切除をしても潜在的な遠隔転移を有している事が多く再発す
ることが多い。近年の研究では、p16, p53, smad4 遺伝子が遠隔転移能の獲得に関連するとさ
れており、外科的切除時に変異している遺伝子数と生存予後との相関が報告されている。
今回、これらの遺伝子変異を有するがん細胞、有さないがん細胞を仮定し、各細胞の増殖、
死亡、変異、転移イベントを想定して出生死亡過程によるシミュレーションを行い、膵臓癌の臨
床像におけるがん進展の再現を試みる。また、患者さんが診断された後、外科的切除や放射
線治療、化学療法による治療の介入にて、最も生存予後を良くする方法を考察する[1]。
BRCA の不活性化は卵巣癌や乳癌でよく見られ、DNA 修復に異常をもたらすことによって発
がんの起点になることが知られている。BRCA が不活性化しているがん細胞では DNA 修復機
構が十分に機能しておらず、様々な突然変異が起こり易い。そのことを利用して、DNA に傷を
つけることによってがん細胞を選択的に殺すプラチナ製剤や PARP 阻害薬が治療の選択肢と
して考えられるが、プラチナ製剤の投与後にがん細胞が薬剤耐性を獲得することも報告され
ている。本研究では正常細胞が突然変異の蓄積によって BRCA を欠失しがん細胞として異常
増殖する過程を数理解析し、BRCA 関連癌が発症する過程でプラチナ製剤に対する薬剤耐性
を獲得する仕組みを明らかにし、プラチナ製剤を投与した方が良い条件を提示する[2]。
参考文献
1. Haeno et al. Computational modeling of pancreatic cancer reveals kinetics of metastasis suggesting
optimum treatment strategies. Cell 2012
2. Yamamoto et al. Evolution of pre-existing versus acquired resistance to platinum drugs and PARP
inhibitors in BRCA-associated cancers. PLoS One 2014
略歴
2010 年九州大学大学院生物科学専攻において学位取得。その後、ハーバード大学生物統計学部門・
ダナファーバーがん研究所計算生物学部門において Michor 博士の研究室で博士研究員に従事する。
2013 年 4 月から現職。多種多様ながんについて、がんの一生を数理モデルで理解することを目指して
いる。