糖鎖に関するあれこれ六篇

糖鎖に関するあれこれ六篇
目
次
「糖鎖アトラス」という事業
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「糖鎖アトラス」作成のための手法に必要なスペック
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p5
糖鎖研究について
「特殊な構造が特定の機能にリンクしている」という呪縛
p7
学問分野の話から糖鎖生物学の話へ
p9
細胞表層の風景を愛でる:糖鎖の 3D
p 11
p1
「糖鎖アトラス」という事業
(2012-6-29)
「糖鎖アトラス」とは生物体がもつ糖鎖の見取り図です。昔からあった言葉ではなく、私が勝手に名
付けました。「アトラス」は天空を支える神の名であり、地図帳の意味で使われます。私達が使ってい
る糖鎖解析法は糖鎖マップという名前なので、それを個体丸ごと分集めたものという意味で「糖鎖アト
ラス」です。単純な命名です。天空を支える位の力仕事であると同時に基盤的なインフラ整備事業との
含意もあります。
生物体がもつ遺伝子の総体はゲノムと呼ばれ、既に沢山の種でその分子構造が明らかにされています。
それを読みとる事業はゲノムプロジェクトで、ヒトの場合 1990 年に 30 億ドルの予算が組まれ 10 数年
で完成しました。
核酸、タンパク質に続く第三の生命鎖である「糖鎖」で同じコンセプトの事をやろうとするのが「糖
鎖アトラス」プロジェクトです。まだ世界中のどの国でも予算は組まれていません。この先、どこかの
国でやり始めるかどうかも分かりませんが、待っていても埒が明かないので、勝手に始めてしまおうと
いう事です。「鳴かぬなら、自分で鳴こうホトトギス」というわけです。
「それ儲かりまっか」との問いには、「儲かりまっせ」と答えます。少なくとも私はそう信じていま
す。病理病態に関連した糖鎖情報の重要性は今後飛躍的に高まって行くはずですから、様々な特許を抑
えれば「ガッチリ」なのです。「CM2」を挿まずとも、これはもう明らかなのです。先行投資するなら、
まさに「今」です。
実験手法は既に論文やホームページで公開してあります。やろうと思えば誰でも出来るように準備は
整えてあります。ただ、仕事量が多いので片手間でちょいちょいとはいきません。特に、糖鎖の構造を
一つずつ決定する仕事に少なからぬ労力と資金が必要です。もちろん私達は既に始めています。
構造解析の仕事には、そのツールである糖水解酵素の準備も含まれます。以前は試薬屋さんが様々な
糖水解酵素を市販していたのですが、年々販売中止が増え、今では構造解析研究に支障をきたすように
なっています。これも、「作ってくれないのなら自分で作っちゃおう」という訳です。これも、研究費
はまだ付いていませんが、既に取り掛かっています。
ゲノム解析も当初は「意味がない」などの非難が沢山ありました。しかし、今の生命科学はゲノム情
報なしでは成り立ちません。「全面的にゲノムデータベースに依存している」と言っても言い過ぎでは
ないでしょう。「糖鎖アトラス」も将来そのような位置を占めると夢想しています。そんなものが日本
発で作られることに何かを感じて頂ければと思います。投資するなら、まさに「今」です。
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「糖鎖アトラス」作成のための手法に必要なスペック
(2012-7-12)
「糖鎖アトラス」は 2 種類の情報を含む必要があります。
1. 区別して網羅的に図示された個々の糖鎖の定量値
2. 糖鎖の詳細な構造情報
アトラスを構成するのは個々の「糖鎖マップ」で、その作成法は既に論文発表していますし、ホーム
ページに手法のプロトコルを公開しています。解説書も既に出ています。
論文: Shunji Natsuka, Yukiko Hirohata, Shin-ichi Nakakita, Wataru Sumiyoshi, Sumihiro Hase.
Structural analysis of N-glycans of the planarian, Dugesia japonica. FEBS Journal, 278 (3) 452-460
(2011).
HP: http://www.sc.niigata-u.ac.jp/biologyindex/natsuka/method.html
書籍:『ピリジルアミノ化による糖鎖解析―糖鎖多様性の解析に向けて』
(amazon で在庫あり Buy now!)
始めるために取りあえず必要なメソッドは既に揃えてあります。多種多様な糖鎖の構造を一つ一つ決
めて行くのが最も大変な作業なのですが、これも既に在る手法をブリコラージュして対応できます。
具体的には、メチル化分析や部分アセトリシス、スミス分解、部分メタノリシス、各種の糖水解酵素
消化、糖組成分析、還元末端分析、部分加水分解法、質量分析法、核磁気共鳴スペクトル等々、それぞ
れ単独では万能ではありませんが、ケースバイケースで組み合わせることにより全構造を決定できます。
どれも古くから知られている方法です。例えば部分アセトリシスは 1960 年代から酵母マンナンの分
岐鎖構造を調べるのに多用されてきました(Ballou 等 )。70 年代には糖タンパク質に付加したハイマ
ンノース型糖鎖の分岐解析にも応用され(木幡 等 )、80 年代には蛍光標識法と組み合わせて微量化が
図られました(長束 等 )。既にそれから 25 年経っています。
私達が提案している手法以外でも理屈上は可能ですが、「糖鎖アトラス」を築くためのメソッドは以
下のスペックを満たす必要があります。
1. アイソマー構造を含む糖鎖の全構造を決定できること
2. 定量性と再現性に優れていること
3. 糖鎖のタイプに関わらず網羅的に解析できること
4. 分析のダイナミックレンジが 100 より大きいこと
5. 組織切片 10 mg や血清 1 μL の微量で解析できること
私達の手法のダイナミックレンジは 1000 に及ぶなど、現状でもこれらすべての条件をクリアーして
います。さらに現在、これらの条件をすべてクリアーできるのは、恐らく私達の手法だけだと考えてい
ます。ただネックになる問題が一つだけ残されています。それは「迅速性」です。糖鎖の構造決定は、
実はとても労力の要る仕事です。DNA やタンパク質のように便利なシーケンサーがない。すべて手作
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業で、しかも構造によって手法の選択を変えなければならない。端的に云うと「面倒な」「極めて面倒
な」仕事です。
しかし、この点についても既に攻略の道筋は描けています。今、市販で手に入る機器を組み合わせる
だけでも十分に迅速化は可能ですし、将来の技術革新が加われば、それこそ臨床検査と同じレベルで糖
鎖検査が行えるようになるでしょう。
もちろんそこに至るには多大な労力と資金が必要ですが、行程は既に見えています。途中に沼地や山
地が在るだけです。面倒ですが一つずつ越えて行けば良いのです。
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糖鎖研究について
(2012-9-9)
糖鎖研究は、糖質化学と呼ばれていた時代から日本人が世界をリードしてきました。糖鎖の化学合成、
構造解析、生合成遺伝子など基盤的研究は常に日本人がトップでした。では将来もそうかというと、こ
れがかなり心許ない。今のままでは、まず米国に抜かれ、次にヨーロッパそして東アジアの国々にも先
を越されるのはほぼ確実です。
もし糖鎖研究が単なる基礎研究の範疇であれば、さほど大きな問題ではないかも知れません。しかし、
なぜアメリカが、そして新興の東アジア諸国までもが糖鎖研究に力を入れているのでしょうか。それは、
産業に直結する課題の出現が第一の原因です。つまり糖タンパク質医薬品の製造技術の問題です。
糖タンパク質製剤の内、タンパク質部分の製造技術は既に確立しています。一方、糖鎖部分は生理活
性を左右する重要な部分であるにもかかわらず、まだ良い方法がありません。もし、この部分の技術革
新があれば、現行品より優れた性能で価格を 100 分の 1 にすることも可能かもしれません。
第二は、もっと広い医療分野への応用が視野に入ってきた事です。その分野には再生医療や生活習慣
病や癌などが含まれます。期待を込めて云えば、遺伝子だけではどうしようもなかった分野に糖鎖が光
を当てようとしています。
今までリードしていた日本が追い抜かれようとしているのは、分野の環境が変わった事が大きな要因
の一つです。既に書いたように、単なる基礎研究ではなく、産業につながる、しかも大きく発展する可
能性も見えてきたので、諸外国は戦略的に研究をするようになりました。
一方、日本では昔ながらの基礎研究体制、各々が事実上バラバラにそれぞれの目的に向かって研究し
ている状況です。つまり一言で云うと「戦略がない」。
目前に利益がぶら下がっている糖タンパク質製剤の製造技術については、既に日本の旗色はかなり悪
くなっています。現在、このレースはアメリカがリードしたと私は見ています。それでもまだ日本がア
ドバンテージを持っている部分は少なくありませんが、これまでどおり戦略が欠如したままでは逆転は
ありえません。
このレースで勝つ可能性を上げるために差し当たってやるべきは、まだアメリカが攻略できておらず、
日本がアドバンテージをもつ分野にリソースを集中投下する事でしょう。具体例を上げると該当する研
究者を特定できるので上げませんが、個々の研究室がバラバラにやっていてはだめで、研究所を作って
分野の第一人者達をプロジェクトの期間中招聘(拘束)する位でないと勝てないでしょう。
次に第二の原因として上げた、やや照準の遠い方の研究ですが、こちらにはさらに大規模な組織的研
究が必要です。例えば、糖鎖と疾患や疾患リスクとの疫学調査が上げられます。しかしこれには解析法
のハイスループット化と高精度化についてイノベーションが不可欠ですので、まずそれから攻略せねば
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なりません。いずれも個人研究室のレベルで出来る仕事ではなく、チームを研究所に拘束してリソース
を集中投下しないと無理でしょう。
既に糖鎖研究は、牧歌的な単発的基礎研究の時代を過ぎてしまったのかも知れません。今必要なのは
ゲノム計画のようなブルドーザー仕事なのです。
そしてそのような研究をする時、全体からみれば個々の研究者は駒にすぎません。どれだけの駒を集
めるか、駒ごとに能力が異なるのでどう組み合わせて計画のどこに配置するのか、経済的リソースをど
こにどれだけ投下するか、どの部分を切るか等々、様々な戦略が必要です。ちなみにアメリカは日本か
ら駒を調達しています。
十分な駒がまだ日本に残っているかですが、以前に比べると糖鎖や関連タンパク質のプロはずいぶん
と少なくなってしまいました。最大の原因は皆が分子生物学しかやらなくなってしまった事です。酵素
の精製にすら事欠く有様です。しかし今ならまだ間に合うと考えています。まだ争えるだけの戦力は残
っています。
さて、研究者(駒)の前に、先ずは取り仕切る戦略家が、実は必要です。伍長や小隊長クラスの調達
は比較的容易ですが、大将や参謀格が居るかどうか、居たとしても据えられるかどうか。これが一番の
難関かも知れません。
ちなみに私自身は小隊長希望です。サンダース軍曹を部下に付けて頂ければ申し分なしです。
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「特殊な構造が特定の機能にリンクしている」という呪縛
(2012-9-20)
特定の構造をもった生体分子が相補性を介して特異的な受容体に結合し機能情報を伝えるというのが、
分子生物学で通常考えられている情報伝達の方法です。サイトカイン然り、転写因子然り、酵素と基質
然り、抗体と抗原然りです。
このような認識系では、ありふれた一般構造よりも、極微量で特殊な構造をもった分子が重要な機能
を担っていると考えるのが自然です。実際、糖鎖の認識系についても同様に語られる場合が多くありま
す。
しかし、この一般的な方法論は、両者の間に特異的な関係性が結ばれている場合にのみ成立するので
す。何のことか。つまり、関係が多対多の場合、そのような特異的な構造と機能の独占的特異的な結び
つきは成立しません。
タンパク質研究者や分子生物学者にはあまり認識されていないことですが、生体は構造特異性が低い
認識機構も持っています。その代表例が、糖鎖とレクチンによる分子認識系です。
レクチンは糖に結合するタンパク質ですが、その結合特異性は低く親和性も低い、一語でいえば「い
い加減」です。マンノースに結合するレクチンがグルコースに結合したり、果てはフコースや N-アセ
チルグルコサミンにくっついても驚くことではなく、そもそもがそのような「なんとなく」ネチャネチ
ャしている程度の結合なのです。
なぜそのような「いい加減」な特異性しか持たないのかに対しては、その程度が丁度「良い加減」の
認識機構が存在するからだというのが、ありそうな答えです。もう少し詰めると、特異的に特定の構造
を目掛けて結合するのではなく、類似構造の濃淡を認識する機構であるというのはどうでしょう。
笠井献一先生が今年の糖質学会で述べられていた例を拝借しますと「臭いを認識する時、特定のケモ
レセプターへのシグナルの有無で臭いが決まるのではなく、異なる複数のレセプターに入る強度の相対
比によって或る特定の臭いを認識する。」あるいは「光の色を認識する時、個々それぞれの色に対応す
るフォトレセプターが存在するのではなく、3 種のレセプターに入るシグナルの強度比によって何百万
種もの色を識別している。」ということです。
このような濃度比認識による多対多の機構の一つが、糖鎖とレクチンの間でも行われていると考える
のはどうでしょう。妥当性が高いように思います。
その仮説を受け入れるとすれば、糖鎖の構造を解析する場合に何を見るべきかが決まってきます。そ
れは、極微量で特殊な構造をもった糖鎖分子ではなく、その場にあるありふれた糖鎖の濃度比であると
いうことです。どこまで微量成分を分析するかは、レクチンによる濃度比認識の解像度に依存していま
す。
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レクチンの解像度を決めるのはアフィニティーの差です。特殊な微量構造があったとしても、アフィ
ニティーが 2 桁低いありふれた類似構造が 100 倍濃度で存在すると、その両者をレクチンは区別できま
せん。先にも書いた通りレクチンは特異性と親和性が低いので、特定構造に対する解像度は低いはずで
す。
現在進行中の「糖鎖アトラス」ではプラクティカルな理由から存在比 1%までとしていますが、これ
はアフィニティー差 2 桁に対応しています。これでも様々な濃淡の風景が見えてくると思われますが、
レクチンの一価結合のアフィニティーを考えた場合、4 桁あれば原理的にも十分でしょう。
..
以上のような考察は、他分野の生命科学研究者だけでなく、糖鎖やレクチンを実際直接に扱っていな
.
い多くの糖鎖研究者にも、すんなりとは理解いただけないもののようです。
一方、それら分子と直接関わり続けてきた糖屋やレクチン屋には、「当たり前のことを、何を今更」
程度の当然の理屈なのです。しかし、現場分子を直接扱える糖屋やレクチン屋は、糖質学会の中でも少
数派、絶滅危惧種ですから、楽観的な話ではまったくありません。
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学問分野の話から糖鎖生物学の話へ
(2013-1-8)
学問には沢山の分野がありますが、それぞれが世界を眺める独特の視点を有しています。逆に云えば、
固有の世界観を持って初めて分野が成立するとも言えるでしょう。
例えば生物学は、世界を「生き物」と「死に物」に、二値分離するところから始まります。世界をそ
のように二つに分けて視ると、「生きているとは如何なることか?」という疑問が生じます。この問い
に突き動かされ、生き物を片っ端から調べているのが生物学という学問分野です。
生化学では、「生きている」という現象を化学反応で記述します。化学反応は価電子の状態変化のこ
とです。つまり生化学とは生き物を価電子の視点から眺める学問分野です。
という訳で、まず 2 年前期の『生命科学のための基礎化学』で化学反応について、2 年後期の『基礎
生物化学』で生体を構成する分子について、そして 3 年後期(来年度からは前期)の『生物化学』では
生体内での化学反応につて学んでもらうのです。この三講義によって生化学分野の視点を身に付けても
らう事を目的としています。
学問を修めるとは、その学問がもつ独特の視点を身に付けることです。学生の間に出来るだけ多くの
視点を獲得して「百目」になって欲しいと思っています。沢山のモノの見方を持てば、未知の状況によ
り良く対応できる可能性が高くなるからです。(これについては従来から繰り返しブログで述べて来ま
した。)
さらに分野を細かく見ると、分子生物学は遺伝子である DNA 分子の変化から生命を眺める分野です。
その「変化」には、突然変異は勿論、転写因子による DNA の折り曲げや遮蔽も含まれます。この視点
が可能になったのは、DNA の配列に遺伝情報がコードされていることが分かったからです。
一方、構造生物学という分野では、タンパク質の立体構造の変化から生命を眺めます。そのために構
造生物学者は片っ端からタンパク質の立体構造を調べるのです。逆に云えば構造生物学では、タンパク
質の立体構造がどのように変化したかを知る事が最も重要です。X 線回折像や NMR スペクトルを取る
のは手段の一つであって目的ではありません。目的を達せられない手段は不毛であると同時に、目的が
達成できれば手段は何でも良い。この視点が可能になったのは、タンパク質の立体構造に機能情報がコ
ードされているのが分かったからです。
ここでようやく糖鎖生物学です。この分野はどの様な独特の視点で生命を捉えているのでしょうか。
少し前に Twitter で呟いたとおり、分野に共通する独自の生命感をまだこの分野は持っていません。前
述の二分野と同様に云えば、「糖鎖分子から生命を眺める視点」という事に成ります。しかし、分子と
現象を結ぶための暗号解読が糖鎖ではまだなのです。
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従って糖鎖生物学は学問分野未満とも云えるでしょう。分野として確立するには、まず分子情報の解
読が必要です。DNA は配列に、タンパク質は立体構造にコードされていたように、糖鎖分子にどの様
な情報がどの様な形で隠されているのかを見出さなくては始まらないのです。
ここで気付いて欲しいのは、「糖鎖分子が生命情報を持つ確証はあるのか?」ということです。回答
は「確証などない。」です。長年糖鎖分子と付き合った結果として、一部の研究者が在るに違いないと
信じているだけで、その研究を行った者が報いられるかどうかは誰も知らないのです。しかし「発見」
とはそういうもので、予め確かな事柄であれば「発見」ではなく「確認」に過ぎません。
糖鎖の情報を解読するカギは、「微小不均一性」と呼ばれる構造多様性にあると私は考えています。
理由は、それが糖鎖の最も際立った特徴だからです。構造解析屋を悩ませ、糖鎖研究を難しいものにし
ているその性質が、実は謎を解くカギなのではないかと。
そこで、「糖鎖多様性をとことん観察して全体の見取り図を作る」という仕事、つまり「糖鎖アトラ
ス」の作成に思い至った訳です。地図が有れば分野の見通しは随分と良くなるはずです。
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細胞表層の風景を愛でる:糖鎖の 3D
(2013-2-8)
30 代半ば、京都市内の北に位置する単科大学に赴任した頃、金も物もなくて時間ばかりがあふれてい
た。ボロボロの実験室は居るだけで気が滅入るので、よくベランダに出て外の風景を見ながらタバコを
くゆらせていた。そんな時、ボーっとしながらも考えていたのは、糖鎖の謎をどうやって解くのかだっ
た。
目の前には比叡山があり、季節と共に姿を劇的に変える。もっと短い時間でも、天候の変化で見てい
るうちに景色が一変する事もある。樹が入れ替わるのではない。骨格は同じであるが、文字通り枝葉が
違う。またその枝葉の風へのなびき方で、同じ組成なのに見る者に与える印象が丸で異なる。そんな山
の風景を見ながら、細胞上の糖鎖もこんな風に変化してるのかなと思ったりした。
じゃあそれを観測して記号化された情報に落とし込むには、どの様にすれば良いだろうと考えは進む。
糖鎖の風景を愛でるためのパラメータとして最近提唱されているのが「糖鎖の 3D」だそうだ。多様
性、深さ(高さ)、密度の頭文字を取って 3D となる。上手い要約だと思う。さすがアメリカさんだ。
造語能力に長けている。
それら三つのパラメータを得る手段は、これまた 3 種に分類できる。一つ目は糖鎖の化学構造解析。
二つ目は構造相補性プローブを使った解析。プローブとして最も有力なのはレクチン。三つ目は直接細
胞表面の形をスキャンする方法で、原子間力顕微鏡や波長の短い光(電磁波)による観察が主なものと
して上げられる。
3 つ目の手段は魅力的だが、現時点ではまだ解像度や非侵襲性、情報の意味付けなど多くの技術的課
題が残されている。2 つ目の手段は「密度(Density)」を見るのに特に適している。何故ならレクチンは
リガンドの密度を敏感に察知するプローブだから。このことは同時に、レクチンの結合は特定の化学構
造よりも類似物の密度により強く依存することを意味する。
実はその性質が故にレクチンは、糖鎖の構造解析ツールとしては限定的な位置付けであり続けてきた。
私ははっきりと覚えてる。レクチン研究の大家である故 大沢利昭先生が「レクチンで糖鎖の構造決定
は出来ない」と仰ったのを。
さて、一つ目の化学構造解析で何が見えるのだろうか。得意とするのは云うまでもなく「多様性
(Diversity)」である。これはもう「糖鎖アトラス」そのもので、最も基盤的な情報が得られる。いわ
ば「3Dプロジェクト」のインフラである。
それだけではなく、糖鎖の構造解析は「深さ(Depth)」にも威力を発揮する。ただしこの場合は、
糖鎖構造だけではなく、タンパク質上の糖鎖結合位置情報も大切である。
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ここで糖鎖情報における「深さ」の意味を考えてみよう。あなたは今、ミクロの決死圏で細胞に向か
って近付いて来たとする。細胞の表層には脂質とタンパク質が重量比 1:1 程度の割合で存在している。
しかしあなたの目に見えるのは、それらを覆っている糖鎖である。
何故、可視光で分子が見えるかといえば、小さくなったあなたに見える光の波長も短い方にシフトし
ているからである。
良く見ると、糖鎖には色々種類があり、脂質膜(地面)の近くにコケのように密生している糖脂質も
あれば、タンパク質の突き出た突端でユラユラとたなびく大きな N-結合型糖鎖もある。タンパク質の
幹に絡み付いたツタのような O-結合型糖鎖も見えるだろう。
さらに、N-結合型糖鎖でもタンパク質の根元に付いたものと頂端に付いたものでは構造が異なる事も
分かるだろう。目を凝らして N-結合型糖鎖を見ると、外に突き出たもの(表層糖鎖)は外来者との相
互作用(trans 結合)を、根元のもの(深部糖鎖)はタンパク質の横のつながり(cis 結合)を仲介して
いる事に気付くかも知れない。
これが糖鎖の「深さ」情報である。化学構造情報とそれぞれの構造のタンパク質結合位置情報があれ
ば、「見る」事が出来る風景である。
そんなこんなの糖鎖の風景を見たいと思いませんか。僕は見たいのです。
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