Title Author(s) Citation Issue Date URL Publisher Rights 聖なる見世物のための版画 : ライン・マース地方の聖遺 物展観と「聖遺物版画」( fulltext ) 秋山, 聰 東京学芸大学紀要. 芸術・スポーツ科学系, 57: 69-83 2005-10-00 http://hdl.handle.net/2309/810 東京学芸大学紀要出版委員会 東京学芸大学紀要芸術・スポーツ科学系 57 pp.69∼83,2005 聖なる見世物のための版画 ライン・マース地方の聖遺物展観と「聖遺物版画」 秋 山 聰 美 術* (2005年6月30日受理) 1.はじめに 「隠れたベストセラー」とも呼ばれる展覧会カタログには,普通の書籍にはない幾つかの特別な機能が看て 取れる。展覧会場においては,鑑賞の補助教材になるだろうし,展覧会後には鑑賞体験を一層深化させる手段 にも,また記憶のよすがともなるだろう。また会期が終わってしまうと跡形もなく消え去ってしまう運命にあ る展覧会を,後年になって再構成ないし復元しようとする際には,貴重な基礎史料ともなりうる。しかし実は このような機能を有した印刷物は,展覧会の発展に応じて生まれた展覧会カタログをもって嚆矢をなすわけで はない。我が国では展覧会の源流を,寺社による秘仏の開帳あたりに求めるようだが,西洋においてこの開帳 にあたる催しの一つとして,聖遺物展観Ostensio Reliquiarumと呼ばれる聖遺物の特別公開行事があり,15世 紀後半にもなると活版印刷術の発展と相俟って,今日の展覧会図録と同じ様な役割を果たしたと思われる「聖 遺物版画」や「聖遺物書」と呼ばれる印刷物が各地で版行された。小論では「聖遺物版画」の一例として,ミ ュンヘンの州立版画コレクションに残されている珍しい版画〔図1〕を取り上げたい。展覧会図録と展覧会と の関係に似て,この版画は聖遺物展観という催しと深い関わりを有していたのだが,具体的に版画を分析して ゆく前に,まずは我が国ではまだあまり馴染みがないと思われる聖遺物展観について簡潔に触れておこう。 2.聖遺物崇敬と聖遺物展観 西洋中世において,今日の美術作品のように人々を引き付けてやまなかったものに,聖遺物がある(註1)。 聖遺物とは,聖人の遺体やその一部,あるいは聖人ゆかりの品々を指し,これらには聖人の死後も聖性(=ウ ィルトゥス=神の「力」)が宿りつづけると信じられていた。触ったり,接吻したりすればもちろんのこと, たとえただ一目見るだけでも,聖遺物が放射する聖性のシャワーを浴びることができ,病気や怪我が治癒する と考えられ,身に付ければお守りとして不幸や事故を未然に防げるとされ,さらには死後の救済が保証される とも信じられていた。また典礼上も聖堂の祭壇に聖遺物を納めることが早くから半ば公式化していた。聖堂を 聖堂たらしめていたものは,聖堂特有の建築様式などではなく,聖遺物であったと言っても過言ではない。そ の意味では聖堂建築はハードウェアに,聖遺物はOSソフトに例えることも出来るかもしれない。さらに中世 後期には,聖遺物を見ると,死後の煉獄における罪の償いが一定期間分免れるという「贖宥」が得られるとさ れたことも,膨大な数の善男善女が聖遺物を目指して巡礼する要因の一つとなっていた(註2)。贖宥への疑 念がルターをして宗教改革へと向かわせたことはよく知られているが,その意味では聖遺物崇敬の隆盛も宗教 改革の遠因の一つだったと言えるだろう。 * 東京学芸大学(184-8501 小金井市貫井北町4-1-1) ― 69 ― 東 京 学 芸 大 学 紀 要 芸術・スポーツ科学系 第57集(2005) とりわけ高名な聖人に由来する聖遺物を所有することは,教会や修道院にとって,宗教政治的に極めて大き な意味を有しており,多くの巡礼が参集することによる経済効果は地域にとっても無視しがたいものだった。 近年まで多くのデパートが,上階で展覧会を催すことによって人々を呼び寄せ,会場への往還の際に商品を購 入してもらおうという,いわゆる「シャワー効果」を活用していたが,重要な聖遺物が特別に公開される折に は,これに似て,参集する巡礼を目当てに,遠方からも商人が到来し,大きな市が開かれた。今日の美術作品 が集客のために果たしている役割を,かつては聖遺物が担っていたのである。 人々の聖遺物を希求する念の強さを背景として,高名な聖遺物を所有する教会は,人々の要請に応じてそれ らを適宜公開する必要がある一方で,これらを安全に保存しなければならないという相反する課題を抱えてい た。まるで今日の文化財行政における展示と保護という二律背反に似て,聖遺物はそれが重要なものであれば あるほど盗難の危機にさらされがちで,実際にしばしば「聖なる盗み」として敬虔な信徒や聖職者によって盗 まれることもままあった。これには何かと疑われがちな聖遺物の真正性を証明するには,名のある保管場所か ら盗むのが一番手っ取り早い,という背景もあったようだ。他方,重要な聖遺物には,ご利益を期待する人々 からの「触りたい」,それがだめでも「見たい」という欲求が非常に大きく,教会はその要請に応えなければな らなかった。この辺りの事情を見誤ると,時に教会内で死傷者が出るような大混乱が生じたりもしたのである。 群集をいかに混乱無く捌くか,について教会や都市は苦心したようで,14世紀半ばあたりから浸透しはじめ たのが「聖遺物展観」という儀式だった(註3)。これは教会の上階や,教会近くに特設された櫓などから, 野外に参集した群集に向けて,聖職者が聖遺物を個々に説明を加えながら呈示するという公開行事で,各地で 1年もしくは7年に一度催されるものが多かった。その様子を伝える版画の一つを見て置こう。〔図2〕は, ティロル地方のハルで行なわれていた聖遺物展観の様子をハンス・ブルクマイアーが描いた木版画である(註 4)。ここでは,聖遺物展観の舞台となる仮設の3階建て木製櫓が描かれている。2階部分には貴重な聖遺物 を警護するための兵士が詰めており,厳重な警戒態勢を示している。展観の行事自体の舞台は木造櫓の3階部 分で,そこでは数人の聖職者が呈示する聖遺物容器を,説明係が指し棒を用いながら大声で説明している。そ の様子を民衆は地上から見上げているのだが,実際に群集の目線に立ってこの聖遺物公開行事を見たつもりに なってみるとすぐわかることだが,一般の参観者の眼には聖遺物は米粒ほどにも見えなかったにちがいない。 ここで取り上げる聖遺物版画は,こうした儀式を訪れた善男善女にとって,まず何よりも聖遺物を実際に眼に した体験を補完するための記念品として販売されていたものなのである。 3.アーヘンの四大聖遺物 さて,この一見何かの図鑑の1ページを思わせるような,文字と図が交互に配置された版画〔図1〕は,ラ イン・マース地方の三ヶ所の巡礼地マーストリヒト,アーヘン,コルネリミュンスターで呈示される聖遺物を まとめて紹介したものである(註5)。全体は三列のコラムに分かれ,それぞれのコラムは四段に分けられて 各所で定期的に特別公開される聖遺物を説明付きで図示している。 ここではまず三ヶ所の中では最も有名で,膨大な数の人々が押し寄せていたというアーヘンの聖遺物展観に 関わる中央のコラム〔図3〕から見ていこう。まず冒頭に「さてその後で,次の日(=7月10日)にアーヘン において聖遺物が呈示されるが,そこでも数えられない程の沢山の贖宥を得ることが出来る」という文言が置 かれ,次いで四種類の聖遺物が図示されている。最上段に描かれているのは,袖を棹に通された状態で示され たビザンチン風の長衣であり,「これは我らの愛しの貴婦人の衣」,つまり聖母マリアの着衣であるという説明 が付されている。そのすぐ下には,広げられたタオルのようなものが描かれているが,その上部に「次に我ら の主が十字架から召された折に身を包まれていた布である」という文章があることから,これが磔刑時のキリ ストの腰布であることがわかる。三番目にも見た目には同様の布が描かれているが,これは「洗礼者聖ヨハネ がその上で斬首された布」なのだという。最後に異なる彩色を施された筒状の袋のようなものが二つ描かれて いるが,これには「次にイエスがそれに身を包まれ,飼葉桶に横たえられたヨセフのズボンである」と説明が 加えられている。つまりこれらは,急の出産の折柄,急場しのぎに父親のズボンを裁断して間に合わせたむつ きだというのである。 これら四点はアーヘンにおいて「四大聖遺物」と通称される重要な聖遺物であり,今日なお現存し,7年に ― 70 ― 秋山:聖なる見世物のための版画 一度展観に供されている。現存する聖母の衣は,黄味がかった白色をした東方特有の長衣であり,首の部分は 四角に穿たれ,その縁はメアンダー文で装飾されている。袖はかなり短く,元来はもっと長かったものと推測 されている。高さ約1.55m,幅は裾で1.20m,腕で1.40m。由来については議論があり,カール大帝の聖遺物コ レクションに含まれていたという推測もあり,それ以前はコンスタンティノポリスのブラケルネ教会にあった とする説もある。新たに制作されたマリア・シュラインへのトランスラティオ(奉遷)を契機に作成された 1239年のアーヘン大聖堂の宝物目録には,「聖なる処女の衣,キリストを産んだ折に,彼女はこれを着ていた」 とある(註6)。 キリストが磔刑時に身に付けていた腰布とされる布は,1239年の目録には「十字架の上で主が身を包んでいた, 血の染みた布」と表記されており,現存するものは白色のリネン製の布で,もっと大きな布から切り取られた ものと思われ,血の痕跡と解釈される汚れが数多く認められるという。布の形状は不規則な形をしており,上 部はいい加減な三角に切られており上端は14cm,下部の幅は約1.50mで,高さ1.30mの大きさがあり,糸によ って十字に縛られている(註7)。 洗礼者ヨハネの頭部を包んだ布は,長方形をした薄手のリネン製の布で,血の染みとも取れる汚れがあると いう。現在では,長辺に平行に一度,短辺に沿って二度たたまれ,紐で結ばれているが,これは状態が良くな いためで,もはや広げられることはなく,正確な寸法はわからないという(註8)。1239年の目録には「洗礼 者ヨハネの血の染みのある着衣」とあり,後の伝承と少し異なる(註9)が,1400年頃になって,ヨハネの切 断された頭部を包む布として定着したらしい(註10)。 キリストのむつき(あるいは産着)は,黄褐色をした気泡の多い海綿状のフェルト製で,ルカ伝で言及され ているキリスト生誕時に用いられた産着であるとみなされてきた(註11)。中世後期のドイツ語圏やネーデル ラントでは,キリストがくるまれていたむつきが,元来父ヨセフの「ズボンHose」(今日で言うところのレッ グウォーマーにあたるもの)であったという見方が普及していた(註12)。例えば,マルガレーテ・エプナー は幻視の中で幼子イエスに「幼少時,貧乏だったのか」と訊ねたところ,キリストは,ヨセフの靴下から急造 されたこのむつきを例に挙げて,実際に貧乏であった旨,返答している(註13)。初期ネーデルラント絵画や 中世末期のドイツ絵画中には,キリスト生誕場面中に,レッグウォーマー・タイプのヨセフの靴下が描きこま れている事例が少なからずあることは,デ・コーが纏め上げた作品リストに一目瞭然である。なお1239年のア ーヘンの聖遺物目録には,「我等の主が飼葉桶の中で巻きつけられていた二枚の布」とある(註14)。 ところで,これらアーヘンの四大聖遺物に共通しているのは,いずれも布からなる聖遺物であるということ である。普通聖遺物といえば,どちらかというと聖人の遺体や遺骨が連想されがちだが,キリストはその死後 復活して,昇天したし,聖母マリアも帰天(もしくは被昇天)したとされている。つまり通常の聖人のように 遺体や遺骨が残ってはいないことになっている。生前地上に残していてもおかしくない身体の一部や分泌物, つまり聖母については毛髪や母乳,キリストについては血や歯,毛髪,さらには割礼時に切り取られたという 包皮などは,各地に残っていることになってはいたが,これらの怪しげな聖遺物については,既に中世におい ても厳しい批判がなされていた(註15)。こうした身体の一部に比べてすんなりと普及したのは,キリストや マリアが生前身に着けたり,触れたとされる事物,いわゆる「コンタクト聖遺物」だった。中でもマリアにつ いては身に着けた衣や帯が,キリストについては十字架などの受難具に加えて,着衣や磔刑時の腰布,聖骸布, 聖顔布などが珍重された。そして中世後期にはこれらキリストやマリアが身に着けたとされる聖遺物は,聖人 たちの遺体そのものよりも,価値が高いものとして崇敬されるようになっていたのである。 4.アーヘンにおける聖遺物展観 今日でも海外からの貴重な美術コレクションの展覧会に際しては,「門外不出」,「今世紀最後」などの文言 が飛び交い,人々の興味関心を掻き立てようとしている。とりわけ貴重な聖遺物も,常時一般公開されること は少なく,1年ないし7年に一度という間隔で展観に供されることが,神聖ローマ帝国内では各所で行なわれ ていた。アーヘンにおいては,1312年以降(他に確実に展観が催されたことがわかっているのは1329年1344年) 屋外の群集に対する聖遺物展観行事が行なわれはじめ,遅くとも1349年以降ほぼ7年に一度という公開のリズ ムが確立した。 ― 71 ― 東 京 学 芸 大 学 紀 要 芸術・スポーツ科学系 第57集(2005) アーヘンはかのカール大帝ゆかりの地として歴代神聖ローマ皇帝が戴冠式を行なう場所であった上に,カー ル大帝がもたらしたとされるキリストと聖母ゆかりの「四大聖遺物」が所蔵されていたために,巡礼地として の声望の低かろうはずがなかったが,加えてこのような聖遺物の隠蔽と開示との巧みな操作によって,一層強 く人々の関心を引き付けることになったようで,アーヘンはまもなくエルサレム,ローマ,サンチャゴ・デ・ コンポステラといったいわゆる三大巡礼地に次ぐドイツ語圏最大の巡礼地としての地位を確固としたものとす るに至った。7年ごとに廻ってくる聖遺物公開の年には膨大な数の巡礼が各地からアーヘンを目指して殺到し た。1340年にアーヘンで戴冠式を行なうべくケルンまでやってきたルクセンブルク家のカール4世ですらも, ケルンから先へ進むに進めず何日も足止めを余儀なくされたと伝えられているほどであった(註16) 。 では,聖遺物の公開行事である聖遺物展観は,具体的にどのように執り行われたのだろうか(註17)。7年 ごとに聖母教会の献堂記念日にあたる7月18日の前後の2週間(行事開始は7月11日)に亘って四大聖遺物が 特別に公開されることになっていた。通常は「マリア・シュライン」と呼ばれる聖遺物函〔図4〕に厳重に納 められていた聖遺物は,展観期間中きらびやかに着飾った聖職者たちによって,聖母教会の八角堂と塔との間 に渡された橋上をはじめとする数箇所から,教会の周囲に参集した人々に呈示された〔図5〕。展観の様子に ついては,1510年にライン・マース地方の一連の巡礼地を周遊し,各地の聖遺物展観行事を参観したメッス市 民フィリップ・ヴィニュールの手記が生き生きと伝えている(註18)。展観前夜にマーストリヒトからアーヘ ンに到着したヴィニュール一行は,苦労の末どうにか宿を取ることができ,翌日からはじまる展観に備えた。 展観当日も朝から町はあまりの人出で大混乱し,ミサを受けようと教会に入ると,すし詰め状態で跪くことす らできなかったという。賽銭を喜捨するにも一苦労の人出のため,聖職者が賽銭袋を棒の先につけて集金して いたとも伝えている。やがて聖遺物展観の時間が迫ってくると,人々は聖母教会の周辺に集まり始めた。「そ こに居合せなかった人には信じられないほどの大変な数の群衆が,かの聖遺物を一目見ようとしていた。誰も が可能な限り良い場所を得ようとして,教会の周辺のあらゆる家屋は群集で溢れ返り,頑丈な木材で補強され ていたとはいえ,それは驚くべき光景であった。我々は金銭の力により,聖遺物を眺めるに好適な家屋の屋根 に場所を得ることができた」とヴィニュールは記している。さて,鐘の音により展観の開始が告知され,聖職 者により説教や祈りが唱えられた後,聖遺物が順次行列を組んだ聖職者たちにより運ばれ,呈示された。行列 の中心には「美しい金銀の縫い取りのある衣装に身を包み,肩に純金で鍍金された槍状の丸棒を担いだ二人の 聖職者」がおり,「その棒の上にはわれらの聖母の,高価にして気高い衣が置かれて」いた。「それは幾重にも 折りたたまれて,あたかも聖遺物函であるかのように運ばれ」た。そして所定の呈示場所にくると,聖母の長 衣が広げられて,展観に供されたのだが,その際人々は大変な興奮に見舞われ,角笛を吹き鳴らしたり,「ミ ゼリコルディア」と大声で叫び,「大地が揺れるかのように思われるほど」だったという。もっともヴィニュ ール自身にはかなり冷静なところもあったようで,この衣が「一般の女性の衣よりは遥かに長いもの」であり, 「両袖が短く」,また「開口部が広い」ことを指摘しているし,「他の衣の上に着ていたのであろう」と推測し ている人々もいたと記している。聖母の衣が呈示された後,同じ要領で残りの三点の聖遺物も呈示され,最後 に主への祈りや君公への執り成しが唱えられ,展観行事は幕を閉じた。 5.マーストリヒトとコルネリミュンスターにおける聖遺物 ここで,アーヘンの聖遺物の左右に図示されたマーストリヒトとコルネリミュンスターの聖遺物についても 簡単に見ておこう。左側のコラム〔図6〕にはマーストリヒトの聖セルウァティウス(=セルファース)教会 の所有する聖遺物が列挙されている(註19)。最上段には,聖セルウァティウスの遺体を包むために天使が天 上からもたらしたとされる白い布2枚と赤い布1枚,第二段には聖セルウァティウスの司教杖と巡礼杖,第三 段には聖セルウァティウスの肖像型聖遺物容器と聖杯・聖皿,第四段には復活したキリストの胸の傷に指を指 し入れるまで主の復活を信じなかったとされる聖トマスの,キリストの傷口に触れたということによって聖遺 物の価値が倍加したであろう右腕の骨が収められた腕型聖遺物容器と聖母マリアが生涯身に付けていたという 聖ルカによって描かれた十字架の入ったガラス製の円盤が描かれている。マーストリヒトでは,聖セルウァテ ィウス教会の東側内陣上階のツヴェルク・ガレリー上から,屋外の群集に向かって聖遺物が呈示された。その 呈示の様子は,1460年ごろに刊行された木版本『聖セルウァティウス伝』中の四点の挿絵〔図7∼10〕に描か ― 72 ― 秋山:聖なる見世物のための版画 れている(註20)。 右側のコラム〔図11〕に列挙されているのは,アーヘンから南西へ10キロほどの距離にあるコルネリミュン スター修道院所有の聖遺物である(註21)。最上段は,最後の晩餐の後にキリストが弟子の足を洗った際に用 いたというタオルで,ユダの足跡が残っているという代物である。二段目も同じような布だが,これはキリス トが墓に埋葬された折にその顔にかぶせられた布だという。次いで第三段には,修道院ゆかりの聖人聖コルネ リウスの肖像型聖遺物容器と腕型聖遺物容器,最下段はまたしても白い布だが,これはアリマタヤのヨセフが キリストの遺体を包んだという屍布である。 マーストリヒトとコルネリミュンスターは,ケルンと並んで14世紀半ば以降,アーヘンの7年周期の聖遺物 展観に合わせて,自らも聖遺物公開行事を催すようになっていた(註22)。アーヘンに往来する人々を自らの 教会や修道院に所蔵される聖遺物へと引き寄せることによって,宗教上の権威の確立はもとより,多大な経済 的効果をも期待できたからである。同様の措置を取る巡礼地は,15世紀後半から16世紀初等にかけて更に増え, クザンテン,デューレン,トリーアなどが加わり,ライン・マース地方では他所では見られないような聖遺物 公開行事の一大連携が実現した。なおマーストリヒトは展観初日をアーヘンの初日より一日早い7月9日に, コルネリミュンスターは一日遅い7月11日に設定していた(註23)。この版画の配列が左からマーストリヒト, アーヘン,コルネリミュンスターの順となっているのは,恐らく展観初日の順に合わせたからであると思われ る。 6.巡礼記念品 さて,こうした聖遺物展観に殺到した人々を目当てにして,様々な記念品や土産物が作られ,売り捌かれた ようだ。アーヘンについては,最大の目玉聖遺物であった聖母の衣をあしらった「巡礼瓶」や,聖遺物が呈示 される際にみんなで吹き鳴らしたという「アーヘンの角笛」,さらには巡礼記念メダルや聖母子像を焼き付け たパンなどが知られている。また錫と鉛の合金で作られた「巡礼の徴」と呼ばれるブローチ状の巡礼記念バッ ジも数多く作られた。活版印刷術の父と言われるあのヨハンネス・グーテンベルクも,活版印刷の原理を発明 する以前に,アーヘン巡礼に販売するための鏡付き巡礼記念バッジを作っていたらしい。1439年の特別公開で の販売を想定して,巡礼記念バッジを大量生産すべく知恵を絞ったことが,金属活字考案の土台となったとも 推測されている(註24)。 当時,シュトラスブルク在住だったグーテンベルクが,遥か遠方であるアーヘンの巡礼記念品を制作するこ とが出来たのは,ヴィニュールの手記にも見られるように,押し寄せる群衆があまりに膨大なため,その需要 にアーヘン市内の手工業者だけでは供給が追いつかなかったからであった。7年おきの聖遺物展観の折には, 特例としてアーヘン市外の人々にも記念品の作成と販売が特別に認められていたのである。我々の聖遺物版画 も,聖遺物の説明文の方言からみて,やはりアーヘンからは遠く離れた中・上部ライン地方,恐らくシュトラ スブルクかマインツあたりで制作されたものと推測されている(註25)。この聖遺物版画は,グーテンベルク の巡礼記念バッジ同様,アーヘンの聖遺物展観における販売特例を活用して,遠隔地で制作されたものだった ようだ。 7.版画における類似事例との比較 ここで我々の聖遺物版画と,類似する諸例を比較しておこう。まずこの聖遺物版画のように聖遺物展観に供 される聖遺物を列挙した一枚刷り版画は,中世末期のドイツ語圏においては,決して珍しいものではなかった。 ニュルンベルク〔図12,13〕やアウクスブルク〔図14〕,ミュンヘン南方のアンデクス修道院〔図15〕などで も,聖遺物を列挙した一枚刷り版画が制作されている(註26)。しかしこれらの一枚刷り版画の制作年代は, いずれも我々の聖遺物版画よりも下る。またどれも一修道院ないし一都市が所有する聖遺物を図示したものに 過ぎず,我々の聖遺物版画のようにライン・マース地方の連携巡礼地を背景として,一度に三ヶ所もの巡礼地 の聖遺物が併置されているという事例は見当たらない。この聖遺物版画は,一枚刷り版画としては,現存する 作例を見るかぎりにおいて,前例を有さないユニークな構図と内容を持つものと言えるだろう。 ― 73 ― 東 京 学 芸 大 学 紀 要 芸術・スポーツ科学系 第57集(2005) 一枚刷り版画と並んで,聖遺物展観の折に販売された印刷物としては,聖遺物カタログがあった。これはド イツでは「聖遺物書Heiligthumsbuch」と通称されてきた印刷本の一ジャンルであり,15世紀後半から宗教改 革初期にかけての短い期間に主としてドイツ語圏で流行した書物の一形態であった。展観に供される聖遺物を 網羅的にカタログ化した冊子本で,個々の聖遺物が図と文字によって列挙され,今日の展覧会カタログと似た 様相を呈したものが多い(註27)。ニュルンベルク(1487,1493年),バンベルク(1493年),ヴュルツブルク (1493年)などの聖遺物展観を扱ったものが時期的に早く,次いでウィーン(1502年),ヴィッテンベルク (1509年),ハッレ(1520年)などの聖遺物展観についても刊行された(註28)。アーヘンに関連するものとし ては,いずれも1517年の聖遺物展観の折に刊行された可能性が推測されている二冊の聖遺物カタログが存在す る。一つはケルンの印刷業者ノイスによって刊行されたアーヘンの聖遺物を網羅したラテン語によるカタログ (以下,ノイス本と表記)である(註29)。助祭服を付けた二人の天使が棹を使って聖母の衣を呈示する様子 (図16),同様に二本の棹を用いてキリストのむつきを呈示する様子(図17),斬首されようとする洗礼者ヨハ ネの前に布を広げて立つ天使(図18),磔刑のキリストの前に腰布を広げて展観に供する二人の天使(図19) といった四大聖遺物を表したページに加えて,聖母の帯,キリストの鹿革の帯,逮捕後のキリストの手首を縛 っていた紐を収めた三点のモンストランス型容器(図20)の計五点の版画が含まれている。これに対してアー ヘン出身でケルンにおいて活動していた印刷業者アルノルト・フォン・アイヒの刊行になるもう一つのカタロ グ(以下,アイヒ本と表記)は,我々の聖遺物版画と同様に,ライン・マース地方特有の連携巡礼地に対応し たもので,マーストリヒト,アーヘン,コルネリミュンスターに加えて,デューレン,ケルン,トリーアの聖 遺物までもが図示された,総計28葉からなる当時にあってはかなり大部なフランス語による聖遺物カタログで あった(註30)。アーヘンに関しては5ページが割かれているが,冒頭の版画(図21)はアーヘンゆかりの聖人 としての聖母子とカール大帝を表したもので,それに続いて四大聖遺物が図示されている(図22∼25)。 四大聖遺物の表現については,ノイス本,アイヒ本ともに相当に似通っており,少なくとも共通の手本にあ たる図像が存在していたことが想像される。とりわけ洗礼者ヨハネの頭部を包んだ布とキリストの腰布につい ての構図や表現は,15世紀後半の作と見なされている四大聖遺物の板絵連作(図26∼29)の同一場面(註31) とほぼ共通していることから,これらの表現がアーヘンにおいて普及していた四大聖遺物表現の典型に基づい ていたことが推測される。また例えばキリストの腰布上に表現された血の滴に着目すると,アイヒ本(図19) がその本来の意図を正しく理解しているのに対して,ノイス本(図25)では血の滴についての理解が十分に及 ばず,劣悪な形式的模倣に陥っていることが明らかに看取される。表現技術の優劣とも相俟って,アイヒ本に 比べてノイス本の方が,挿絵に関しては質が劣ることは明らかだが,或いはこれはノイス本がラテン語である ことから,聖職者を専らの対象としており,図よりも内容を重視するという背景があったからかもしれない。 アイヒ本はフランス語で書かれていることから見て,フランスから到来する一般信徒を対象としたもの(註32) であり,その点,テクスト以上に図が人々の購買意欲を刺激し得たとも考えられるが,力点が挿絵に強く置か れている点が大きな特徴である。 アイヒ本は,アーヘン以外にも連携巡礼地の聖遺物を多く掲載しているが,ここでは我々の聖遺物版画との 関連で,マーストリヒトとコルネリミュンスターの部分のみを見ておこう。マーストリヒトの聖遺物は,我々 の聖遺物版画と同様に,冒頭に置かれており,4ページが割かれているが,最初のページ(図30)には聖遺物 ではなく,マーストリヒトゆかりの聖人としての聖セルウァティウス像が描かれている。次いで聖セルウァテ ィウスの胸像型聖遺物容器と聖杯,聖皿(図31)が,さらに聖トマスの腕型聖遺物容器と聖セルウァティウス の司教杖と龍を退治した杖(図32)が,そして最後に聖セルウァティウスの埋葬時に天使がもたらしたとされ る三枚の布(図33)が表現されている。コルネリミュンスターについては5ページが割かれ,アーヘンやマー ストリヒトと同様,冒頭にゆかりの聖人としての聖コルネリウス像(図34),次いで聖コルネリウスの胸像型 聖遺物容器と腕型聖遺物容器(図35),そしてキリストが弟子の足を洗った布(図36),キリスト埋葬時に頭部 を覆った布(図37),アリマタヤのヨセフとニコデモがキリストの遺体を包んだ布(図38)が描かれている。 後二者においては,アーヘンのキリストの腰布の表現と同様に,血の滴が過度に強調されている。 アイヒ本は,ライン・マース地方の連携巡礼地の聖遺物をまとめているという点において,我々の聖遺物版 画と共通点を有するが,フランス語テクスト版しか現存していないため,その受容層がかなり限定されていた であろう点が大きく異なる。シュミットは,フランス語版しか刊行されなかった事情を推測し,当初その後に ― 74 ― 秋山:聖なる見世物のための版画 予定されていたドイツ語版の刊行が,宗教改革の勃発と浸透により阻まれたのではないかと述べている(註33)。 我々の版画以降,アーヘンの四大聖遺物に関しては,ドイツ語による聖遺物版画も聖遺物カタログも制作され ていない点は,その他の地域の事例と比較しても,不思議なことであり,今後の解明が期待される。それはと もかく我々の聖遺物版画は,聖遺物展観に関する印刷物としては,確たる先例も見当たらない,1486年という 極めて早い段階での特異な作例であることには疑いの余地がない。 8.本作品の特性 従来の巡礼記念品は,巡礼や聖遺物展観への参画を記念し,追憶のよすがにすると同時に,僻邪のためのお 守りとしての性格が強いものであった。例えば,グーテンベルクも製造したという鏡付き巡礼記念バッジは, 展観される聖遺物をその鏡に写し取ることによって,聖遺物が放射する聖性を持ち帰ることが出来ると信じら れていた。そのため巡礼記念バッジは,故郷の教会の鐘に鋳込まれたり,祈R書に貼りこまれたり,副葬品と して埋葬時に遺体とともに埋められたりしたのである。 これに対して,我々の聖遺物版画は,かなり近代的な側面を強めているように思われる。もちろん聖遺物展 観参加者にとって,このような版画は,実際には米粒程度にしか見えない聖遺物や,ほとんど雑音に掻き消さ れてしまった聖職者による聖遺物の説明を補完する格好の「鑑賞教材」となっただろう。また帰郷後に展観参 加の記憶を保持するにも,郷里の知人に説明するにも便利な記念品であったであろうし,日々の信仰実践のた めの補助にもなりえた。しかし同時にまた,聖遺物を有する教会や自治体にとっては,絶妙な宣伝媒体でもあ りえた。例えば,アーヘンの聖遺物展観を訪れた人がこの版画を手に入れ眺めたとしてみよう。当初そのつも りがなくても,この聖遺物版画を手にすると,マーストリヒトとコルネリミュンスターにも出かけてみようと いう気になる者も出てきたことだろう。またマーストリヒトでこの版画を手に入れた人は,同様にアーヘンと コルネリミュンスターの聖遺物展観に一層の興味をそそられることだろう。この三つの巡礼地にとって,この ようにお互いの聖遺物が列挙されていることは,潜在的な来観者への宣伝として極めて効果的な手段であった ものと思われる。また,版画を制作した人物にとっても,このように三ヶ所の聖遺物を列挙しておくと,それ だけ多くの需要が見越せる,という利点があった。通有の聖遺物版画がその土地以外ではそれほど売り捌けな かったであろうけれども,この版画は少なくとも三ヶ所においてかなりの売上を期待できたものと思われる。 この版画を制作し,販売した人物には,それまでにはない巧みなビジネス・センスが備わっていたと言えるだ ろう。グーテンベルクが巡礼記念バッジ事業に参画する契機を作ったアーヘンの聖遺物展観は,この版画の作 者にも,大きなビジネス・チャンスと映ったに違いない。実際に,複数の巡礼地の聖遺物を同時に扱うという 路線は,聖遺物版画や聖遺物カタログといった印刷物以外のジャンルにも,採用されている。16世紀初頭の事 例だが,アーヘンで販売されたと思われる巡礼瓶には,表(図39)にアーヘンの聖遺物として聖母の衣とヨセ フの靴下が,裏面(図40)にマーストリヒトとコルネリミュンスターの聖遺物として聖セルウァティウスと聖 コルネリウスの胸像型聖遺物容器などが表されている(註34)。他に巡礼記念バッジの中にも,アーヘンとケ ルンのモティーフを併置した事例もある(註35)が,こうした他ジャンルの事例と比べても,我々の版画の制 作年代は早く,複数の巡礼地の聖遺物を一度に表現したものとしての先駆けを為した可能性もある。 ちなみに,我々の聖遺物版画が制作されたと推測されている1468年は,グーテンベルクの没年でもあった。 グーテンベルクが印刷革命のヒントを得るきっかけとなったのがアーヘンの聖遺物展観であったことを顧みる と,偶然とはいえ,興味深い符合ということが出来るかもしれない。 ― 75 ― 東 京 学 芸 大 学 紀 要 芸術・スポーツ科学系 第57集(2005) 註 1 聖遺物崇敬全般についてはA.Angenendt, Heilige und Reliquien, München 1994が簡便。巻末文献目録も充実している。 2 N. Paulus, Geschichte des Ablasses am Ausgang des Mittelalters, Paderborn 1922. 3 A.Legner, Reliquien in Kunst und Kult zwischen Antike und Aufklärung, Darmstadt 1995, pp.88-119; H.Kühne, Ostensio Reliquiarum, Berlin/New York 2000. 4 J.Garber, Das Haller Heiltumbuch mit den Unika-Holzschnitten Hans Burgkmair d. Ä., in: Jarbuch der königlichen Sammlungen in Wien 32(1915), pp.I - CLXXVII. 5 Legner, op.cit., p.96f. 6 H.Schiffers, Der Reliquienschatz Karls des Grossen und die Anfänge der Aachenfahrt, Aachen 1951, p.55f. ; D.P.J.Wynands, Geschichte der Wallfahrten im Bistum Aachen, Aachen 1986, p.62. 7 Wynands, op.cit., p.63. 8 Wynands, op.cit.. p.63. 9 Schiffers, op.cit., p.54f. 10 Wynands, op.cit., p.63. 11 Wynands, op.cit., p.62f. 12 J.de Coo, In Josephs Hosen Jhesus ghewonden wert. Ein Weihnachtsmotiv in Literatur und Kunst, in: Aachener Kunstblätter 30 (1965), p.144ff. 13 de Coo, op.cit., p.154. 14 Schiffers, op.cit., p.52f. 15 K.Guth, Guibert von Nogent und die hochmittelalterliche Kritik an der Reliquienverehrung, Ottobeuren 1970. 16 Wynands, op.cit., p.64. 17 S.Beissel, Die Aachenfahrt, Freiburg 1902; Wynands, op.cit., p.68ff. ; D.P.J.Wynands, Zur Geschichte der Aachener Heiligtumsfahrt, Aachen 2000, p.6ff. ; Kühne, op.cit., p.153ff. 18 H.Michelant(Hg.), Gedenkbuch des Metzer Burgers Philippe von Vigneulles in in den Jahren 1471-1522, Stuttgart 1852; E.Teichmann, Zur Heiligthumsfahrt des Philipp von Vigneulles im Jahre 1510, in: Zeitschrift des Aachener Geschichtsvereins 22 (1900), pp.121-187; U.Scholten, >Zu Ach hab ich gesehen die proportionriten seulen, die Carolus von Rom dahin hat bringen lassen<. Die Aachener Marienkirche im Spiegel der Heiligthumsfahrten, in: G.Kerscher(Hg.), Hagiographie und Kunst, Berlin 1993, p.195ff. 19 P.C.Boeren, Heiligdomsvaart Maastricht, 1962; Kühne, op.cit., p.208ff. 20 A.M.Koldeweij/P.N.G.Pesch, Het Blokboek van Sint Servaas, Utrecht 1984, Abb.21-24. 21 Kühne, op.cit., p.198ff. 22 E.Stephany, Der Zusammenhang der Grossen Wallfahrtsorte an Rhein-Maas-Mosel, in: Achthundert Jahre Verehrung der Heiligen Drei Könige in Köln(=Kölner Domblatt 23/24), Köln 1 964, pp.163-179.; Wolfgang Schmid, Wallfahrtpublizistik am Niederrhein am Vorabend der Reformation, in: Dieter Geuenich(Hg.), Heiligenverehrung und Wallfahrten am Niederrhein, Essen 2004, pp.71-98. 23 Boeren, op.cit., p.115. 24 K.Köster, Gutenbergs Strassburger Aachenspiegel-Unternehmen von 1438/1440, in: Gutenberg-Jahrbuch 1983, p.24ff.; 秋山聰, 「どのように複製品に聖性が宿りうるのか」,『西洋美術研究』11(2004), pp.94-107. 25 Schmid, op.cit., p.74. 26 ニュルンベルクでは,帝国宝物を一枚に網羅的に図示した大,小二点の聖遺物版画が制作されている。制作年代はお よそ1480年前後(秋山聰,「如何にしていとも気高き帝国の聖遺物が呈示されたのか」,『西洋美術研究』10(2004), pp.9-35.)。アウグスブルクのウルリヒ・アフラ修道院教会の聖遺物版画はおよそ1500年ごろ,アンデクス修道院のもの は1496年の制作。 27 F.Falk, Die Druckkunst im Dienste der Kirche, Köln 1879. ― 76 ― 秋山:聖なる見世物のための版画 28 F.Machilek, Die Heiltumsweisung, in: Nürnberg. Kaiser und Reich, Nürnberg 1986, 57ff. 29 ウィーン,オーストリア国立図書館蔵(A.Huyskens, Ein bei der Krönung Karls V.(1520)gekauftes Aachener Heiligthumsbüchlein, in: Zeitschrift des Aachener Geschichtsvereins 58(1937), pp.104-120)。 30 Stephany, op.cit., p.163ff. ; Schmid, op.cit., p.75ff. 31 Wallfahrt kennt keine Grenzen. Katalog der Ausstellung im Bayerischen Nationalmuseum München, 1984, p.148f. A.Läpple, Reliquien. Verehrung. Geschichte. Kunst, Augsburg 1990, p.60ff. 32 Schmid, op.cit., p.89f. 33 Schmid, op.cit., p.90. 34 Wallfahrt kennt keine Grenzen...cit., p.153f. 35 秋山前掲論文(註24をみよ)を参照のこと。 [付記]本稿は平成16−19年度科学研究費補助金(基盤研究(C))による研究成果の一部である。 ― 77 ― p.78∼83 掲載の図 1∼40 は、電子化及び インターネット上での公開の許諾が得られ なかったため、掲載しておりません。 冊子体をご利用になるか、著者にお問合せ ください。 (附属図書館)
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