浦和市大久保付近の条里水田

浦和市大久保付近の条里水田
籠瀬 良 明
(1977年10月31日受理)
四反田,大字植田谷本の内字古里……」をあげて
1.問題点
その地名から条里水田としている。しかし,町・
埼玉県域の条里 埼玉県全域の条里について
里あるいは反田は,他に有力な傍証がなければ条
は,全国的視野から綿貫勇彦(1933),深谷正秋
里水田の根拠となし得ない・また植田谷本,中野
(1936),竹内理三(1950),日本歴史地図(1956),
林,佐知川にも条里遺構があると記しているが,
谷岡武雄(1964),水野時二(1971)などによって
これは誤りであって,条里水田はここまでは及ん
触れられている。芦田伊人(1919)・埼玉県史・
でいない。何よりも不十分なのは,大久保と付近
三友国五郎の記述は埼玉県に重点をおいているだ
の条里水田について,その証拠を全く示していな
けに詳細である。村本達郎(1958)の報告は,三
い点である。分布を明示するに足る地図も掲げら
友の報告を大幅に補足していて注目に値いする。
れていない。当時としてはわが国最高の水準に達
一地区ずつについては,荒川の上流,秩父盆地
していた本県史ではあっても,考察方法と資料的
赤平川の河岸段丘上,秩父市太田に見事な条里水
制約から,条里水田の細部の分布は確認できなか
田の遺構を残していることを,考古学者吉川国男
ったのであろう。
(1972)が捕らえている。荒川中流域の条里水田
埼玉大学の地理学教授であるとともに考古学者
については,柴田孝夫(1975)の地割に焦点をお
でもあった三友国五郎(1959)は,関東平野全域
いたユニークな研究がある。籠瀬(1958)は熊谷
の条里遺構を網羅する精力的な論文r関東地方の
・行田両市を中心とする荒川扇状地東方地区の条
条里」を発表している。しかし大久保付近の条里
里を,現地踏査と25cmおき等高線を活用しての微
については記述を7行にとどめているのは残念で
地形に,扇端湧水などの灌瀧用水を配して述べた。
ある。そのために地形との関係にも触れられず,
元荒川が古利根川と合流する地区については,飯
分布の細部も不明のままである。このときは恐ら
島(野村)康子(1971)が埼玉県史の記述を発展
く詳細な報告は考古学者や門下生のために保留し
させた。荒川からはずれた県北地域についても柳
たのであろう。
進(1959),その他の報告がある。
県下の発掘調査で名を知られる考古学者柳田敏
浦和市大久保付近の条里 荒川左岸地区には浦
司(1964)は大久保付近における数多くの古墳を
和市と大宮市にまたがって条里水田の遺構があ
図示し,その生産基盤としての条里水田を取上
り,すでに埼玉県史はその第二巻(1931)におい
げ,この土地の知識を飛躍的に向上させた。
て長い記述を行ない注目を払っている。しかし,
大久保付近の条里水田についての問題点 さて
r……北足立郡においては植水村に三条町の大字
筆者はここで次の4点を中心に取上げ,一部解説
名があって条里の遺名を伝えている……」の部分
し,一部仮説を挙げてみることにする。
はよいが,次の記述は批判の余地が大きい。 「三
①大久保並びにその隣接地の条里水田はどの範
条町の内字上敷,鍛冶町,大字島根の内加賀町,
囲に遺構をとどめているか(いたか)。その分布範
1
研究紀要(1978)
欝難
灘鱗
図1大久保付近の条里水田
三条町・島根は現大宮市,在家・宿・塚本は現浦和市(1:2万×2/3 明治14年)
囲を左右した条件は?
れないから,条里水田に導き得ないはずである。
②この条里水田では灌涯用水源に何が利用され
④以上のことから,小さくは大久保付近の土地
たか。荒川・入間川などから引水したと考えた場
の微地形・土壌などの地域的特徴,大きくは荒川
合,洪水を受けなかったか。
本支流の流路変遷史が問題になる。
③これに反して,用水源は専らその北隣地域
以下地図を中心に記述する。
の,大宮台地からの谷水であったとしても疑点が
2.大久保付近の条里水田の位置と形態
なくはない。そのうちこの条里水田は僅かな谷水
で足りるような土地条件であったとするのはそれ
行政区画としての条里水田地域 大久保という
ほど困難ではない。これに反して,条里水田と大
のは1900年浦和市に合併されるまで1村であった
宮台地の間に現在もはっきりと流路跡を残してい
旧大久保村である。大久保付近というのは,北に
る荒川クラスの大河川は,当時どのようになって
接する大宮市旧植水村の一部をさす。条里水田の
いたかは大問題である。この流路に水が普通に流
分布区域とその村名は図2とその下欄の記述で示
れていたとすれば,大宮台地からの谷水は越えら
した。より広く分布したかもしれないが,ここで
2
浦和市大久保付近の条里水田
図2 大久保付近における荒川の新流路・連続堤・横堤
数字・ローマは条里水田の部分,下欄の記述および図3と対照のこと
(1:2,5万x5/6大正13年)
条里が行われたと認められる水田地域
大宮市旧植水村
大字:三条町 A松ノ木 B押付田 C宮田大字島根 D渋の谷 E西
浦和市旧大久保村
大字在家 1渋谷 2松ノ木 3油田 4武低 5堀合 6折柳 7
志賀田 8道免 9迎田 10大角 11碇
大字宿 12二重川 13宿 14八貫野 15十一堀 16神子田 17久保堀
18深沢
大字塚本 19神子田 20葭谷 21諏訪木 22歌舞木 23八島
3
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: (1978)
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浦和市大久保付近の条里水田
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1
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1
..陰
図4 大久保付近の地籍図
太線で条里水田の坪を示す(1:12,500)
5
〇 ioOm
研究紀要(1978)
は確かに存在したと考えられる部分に限定した
指扇
(図3)。 調査方法はすでに水戸付近の条里水田
(1971)で行なったものと同じである。すなわち
水田の地割形態と水田の微地形的環境を明らかに
することであり,そのために地籍図のほか,大縮
尺地形図・空中写真を現地踏査と併用,ほかに土
壌図・表層地質図,地質柱状図なども使用した。
条里遺構の残存 大久保とその隣接地の条里水
田の地割(図4)を知るのに,古い地形図(図1
・2),地籍図,米軍撮影の1947年空中写真がある
が,新しい時代の資料ほど原形が変化しているこ
とはいうまでもない。東京に近いだけにその変容
騰鐙縷
契麟欝
’澱愁,㌔..,.
が甚だしいわけであるが,次の2つの場所には,
それぞれ原形の一部をとどめている。1つは大久
懲灘灘
保浄水場の周囲,もう1つは荒川の河川敷である
(図2・3)。1924年に掘られた(完成はその後)
目台 匹
荒川の新河道(荒川治水誌資料1941)は条里水田
を横切っている。この部分については現行の1:
2,500地図(大宮市・浦和市発行)が条里水田の
0
遺構を推測する有力な資料である。
l km
・鰭難
※
羽根倉橋黙浦和市
一一 図5 大久保付近の地形
ここで注目に値するのは,条里の坪の長さが,
A∼1は図7・8の地質資料の位置
平均して112.5m,すなわち61間875である点であ
る。これは60間を普通とする各地の条里よりも長
い。いずれ他の条里と比較したいと考えている。
められ,その水が使用されていたのである。以下
3.条里水田の灌灘用水源についての仮説
北の三条町から南の塚本までの水田(条里水田)
の部分を引用してみる(図2・5)。
大宮台地の谷水が条里水田の用水源であったと
三条町村用水r……関沼の水を分流して当村に
する考え方 大久保付近の条里水田へは灌概用水
引来れり……」
がどこから入っていたかを新しい時代の形から推
島根村r……西は三条町村……用水も前村に同
測する方法をとってみる。ポンプが普及した現在
じ……」
の形は根拠にならないが,江戸時代の状態は古代
在家村r……用水は植田谷本より関沼の水を引
を推測する有力な手掛りにならないであろうか。
来れり,古の領主詳ならず……検地の年代詳なら
新編武蔵国風土記稿は文化・文政年問の農村の
ず……」
現状を知るのに極めて有力な地誌的資料である
宿村r……用水は関沼の水を引用ゆ,古の領主
が,その足立郡之二十には次のような注目すべき
詳ならず……」
記載がある。この記載によれば,大久保付近の水
塚本村r……西北の二方は宿村に界へりン東西
田の用水源は大宮台地からの谷水が鴨川を経て,
五六町,南北十二,三町,村内に溜井を設け天水
関沼(現在の大宮市植田谷本北東部の水田)に集
を湛へて耕植す,御打入の後は御料所なり……」
6
浦和市大久保付近の条里水田
醸甥7、鰯’
、韓野噸饗
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灘舞
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O l80間
〇 300m
算条里遺構
互》等高線(・)
一一河道跡
図6 大久保付近の条里・遺跡・微地形(A∼Zは下表参照)
古墳などの位置
名称・内容
Aかね山古墳 円
C遊び塚古墳
浦和市白鍬字宮腰
B 権現塚古墳 円 l
仁
所在地
浦和市白鍬字仲道
円
D白鍬塚山古墳円
E神明寺古墳 円
F塚山古墳 前
G 円
H 円
1本村遺跡古墳
J天神山古墳
円
K観音塚古墳 円
L庚申塚古墳円
M金剛塚古墳 円
名称・内容
N白鍬遺跡
O
同 上
P川原遺跡
Q
同 上
R道場遺跡
S片町遺跡
浦和市塚本字西
浦和市塚本字内東
浦和市五関字中島
土
瓦
土
瓦
土
土
丁集落跡
同 上
浦和市下大久保字本村
u
v
浦和市上大久保字天神
浦和市大久保領家観音塚
浦和市上大久保字堤根
浦和市下大久保字新田
W宿宮前遺跡
X
Y外東遺跡
Z
瓦
瓦
土
土
土
土
所在地
浦和市白鍬字宮腰
浦和市白鍬字宮田墓地
浦和市領家川原
浦和市大久保領家大泉院
浦和市大久保領家字道場
浦和市大久保領家字片町
大宮市島根
浦和市在家林鐘寺境内
浦和市宿観音寺境内
浦和市宿字宮前
浦和市五関字中島
浦和市塚本字外東
浦和市下大久保羽根倉橋際
資料:浦和市吏第1巻考古資料編 1974年,大宮市史第2巻古代・中世編 1971年,柳田敏明他 大久保総合調査
浦和市教育委員会報告第11集 1965年,文化庁文化財保護部編 全国遺跡地図11埼玉県・国土地理協会 1952年
一7一
研究紀要(1978)
荒川
A
十10
B
0
−10
⑤’
④
−20
石r
、
一
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毎
海
抜
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度
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暗
灰
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砂
9.80
砂
細混
12.60
砂り
腐
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混
り
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暗青 密
や
わらカ
ト
一5
土
質
名
ル
暗灰
シ
ノレ
土粒子組成
シ
細
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・o・70』
・植
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5
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5.10 砂り
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6
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0
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暗灰
シ
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深
度
下
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色
暗
褐
灰
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土也
質
表土 暗褐
o
わら
(m)
土
深
度而
ロ同
4nn
400m
0 ,
ρ.
’砂
−30
4
一10
、
細
砂
し、
図7 条里水田地域の地質断面(図5参照)
上:荒川付近1表土,2シルト,3砂,4シルト,5砂,6シルト,7砂礫,A木片,B貝(カキ),
太線:沖積層・洪積層の境, 下左:図5C点の土質, 右下:C点の土粒子組成(大久保浄水場資料)
大宮市史によれば,江戸時代,以上5ケ村を含
湿ではないが,保水性は十分である。
む8ケ村は関沼用水組合を結成していたという
大久保付近の条里水田の土壌を泥炭土とする有
(第三巻P・401)。関沼の水源が大宮台地の谷水で
力な資料にも触れておきたい。①埼玉県の土壌図
ある,鴨川であることは先に見た通りである。
として最も新しいr埼玉県農業試験場:地力保全
条里水田では谷水程度の水量で足りたか 大久
基本調査 5万分の1土壌図」は,縮尺からもよ
保付近の条里水田地域は比較的少量の用水で足り
い資料であるが,市街地に隣接する大久保地域だ
る性質の土地である。全体としての地形は皿状の
けが抜けているから,何も知ることはできない。
堤間低地であって,水田の地表傾斜はないに等し
②r埼玉県農業試験場(1970):埼玉県主要作物適
いから・一旦入り込んだ水は他に流失し難い。そ
地図 20万分の1」は小縮尺ながら立派な土壌図
の上土壌がシルト質で保水性に富む(図7・8)。
である。しかしこの土壌図では大久保付近の条里
保水性の度合いは図7で示すような割合で,砂・
水田の部分はr強グライまたは黒泥,泥炭土壌,
シルト・粘土が混合している。泥炭地のような過
強粘質」となっている。したがってこの資料から
8
撫
浦和市大久保付近の条里水田
E
D
E +Io
D−
2
3
4
5
シノレト
0
シノレト
一10
一20
6
7
一30
F
G
盛土
H
1−
3翼
蒼隣
0
2 》
0
蒼鷹
lo v
一『0
4
5、=二一
▼
一20
一20
7−
8・o・o’・o=・o■o’
一30
一30
図8 大久保浄水場付近の地質断面
上:1・
粘性土,2・4・6・7 砂質土,下右:1・2・4・6
粘性土,
砂質土,7・8 砂礫土 (大久保浄水場資料)
は3つの土壌のいずれであるかは決められない。
古代にあっては同種であったはずの,前述の鯨井
用水源となる鴨川の谷など,大宮台地の谷地田の
統と異なる点は,泥炭層がないことだけである。
水田土壌はすべて黒色土壌としてある。
新しい荒川は大正期に掘られ,山田統,さらに伊
③r埼玉県(1973):国土調査 大宮 県南開発
佐沼統の水田は,突然そのへりに変って,洪水堆
地域土地分類基本調査 土壌図 5万分の1」に
積物をのせる位置になったことは確かである。し
よると大久保付近は泥炭土壌である。すなわちこ
かし現荒川が掘られる前にも,その500mほど西
の土壌図では浦和市宿に位置する大久保浄水場か
方にはもとの荒川があって洪水堆積物を運び込ん
ら,大宮市島根三条町にかけての条里水田はすべ
でいた可能性がある。「もとの荒川」にしても,
て低位泥炭土壌に属する鯨井統として図示されて
徳川幕府以前からの流路であった可能性が強い。
いる。鯨井統の性質はr表層:腐植層なし,表土
したがって大久保付近の条里水田地域は,地形
強粘質,次層:壌質∼強粘質,泥炭層:50㎝以
的に東・西両側を荒川系統の大河川の自然堤防で
下,黒泥土:なし,グライ層:50㎝以下,砂礫層
はさまれた堤間低地であり,その土壌は地質デー
なし,酸化沈積物:あり,母材:葬固結水成岩
タが示すように,全体的には厚いシルトの粘性土
/ヨシ・マコモ」と記されている。
であり,保水性に富んでいる。
ただし大久保付近の条里水田は・その西半部が
いずれにしても,大久保付近の条里水田は保水
現在は堤外地(大正3年以後の河川敷)に変って
性に富む粘性土地帯であっても,黒泥土または厚
いて,表層に新しい土壌をのせているといってよ
い泥炭土壌ではないし,かつ古代にあっては,恐
い。この広い堤外地の水田の土壌はさらに2つに
らく東側と西側とで,今日鯨井統として両分する
分かれ,荒川寄りが山田統,堤防寄りが伊佐沼統
ほどの地域差はなかったと考えて大きな誤りはあ
であるが,ともに細粒グライ土壌となっている。
るまい。もともと古代における耕地面は,現在の
9
研究紀要(1978)
“
図9 荒川左岸大久保付近条里の空中写真
A 現在は大久保浄水場, B 堤防, C 荒川, B以西の荒川河川敷に
条里遺構がよく残る(r10,200 1964年 KT−64 C5−5)
一10一
浦和市大久保付近の条里水田
水田面でなく,より下底であり,その後は条里型
高標高であるから,用いられたとすればA川の水
の遺構(つまり田のあぜの区画など)が,地表に
がより多かった可能性が強い。その場合でも,A
向かって踏襲できる程度の洪水にとどまってきた
川は現在の荒川本流クラスの大河川であるから,
土地だったのである。
いくつかの条件を設定しなくてはならない。例え
このような地形と土壌であるから大宮台地から
ば,A川やB川が分流や転流によって,すでに流
の谷水で足りていたのである。但し降雨の少ない
量の一部または大部分を失っていて,洪水はなく
年はかんばつに見舞われたから,農民は自然堤防
なっても大被害を条里水田に及ぼさなくなってい
のへりなどの要所に数坪程度の小溜池を設けてい
た。A川はほぼ自然堤防形成を終り,その上には
たと伝えられるだけでなく,村人の話によれば,
図6で見るように多くの後期古墳をのせている。
この種の小池はごく最近まで残っていた。
このような考え方は,富山県庄川扇状地などの扇
大宮台地の谷水が注がれるためのもう一つの前
央部で,須恵器が表層砂シルト層に覆われている
提 しかし大宮台地の谷水が鴨川をへて関沼に集
ことの説明などには好都合である。
まり,それが水田に配分されるという,江戸時代
これに反してA川などがその全量の水を流下し
から明治時代を経て今日まで継続している形を,
ていたことを否定する根拠がないならば,逆に,
古代にもあてはめるとなると,かなり重大なこと
当時すでにこれら大河川の水を導ける段階にあっ
が確定しなくてはならない。条里水田地帯と大宮
たことになる。意外感はあろうが,この辺りでの
台地との間には,現在も幅100mを越える荒川ク
A川の性質がそれを可能にしたと考えればよい。
ラスの大河川の河道が残っている(図5・6)。こ
A川は流路跡から判断して,川幅は100mまたは
の川を仮にA川と呼ぶ。大宮台地から流出する谷
それ以上の大河川である反面,河床勾配は流路跡
川の水が条里水田へ導かれるには,A川が他へ転
水田面を近似値として1:4,500の緩流である。ま
流した後でなくてはならない。そもそもr関沼溜
たA川はそれを包む自然堤防堆積物が砂層でなく
井は,慶長五年(1600)伊奈備前守によって,古
て,今日,野菜栽培に好適でない程度に泥質であ
荒川,鴨川の合流点に堤塘を築いて造られたもの
る。これらの事実はこの考え方を支持させる。
一」(大宮市史第三巻P・400)であれば,江戸
4.補説・要約
時代にはすでに流水が他に転じた後であって,関
以上,大久保付近の条里水田に関する疑問のう
沼は古荒川(筆者のA川)の河床跡が利用されて
いることになる。これら荒川本支流の流路の変遷
ち,いくつかはこれを解きほごそうと試み,また
については別の機会に述べる。
いくつかは羅列するだけにとどまった。以下若干
大河川の水が条里水田の用水源であったとする
補説しながら要約する。
①大久保付近条里水田の規模 条里水田は現在
考え方 当時A川の水が他に転じていなかったと
すれば,条里水田の用水源は大宮台地の谷水でな
大宮市の西南端を占める,旧植水村の大字三条町
かったことになる。条里水田のどの部分も雨水だ
島根と,その南に接する浦和市旧大久保村の大
けで間に合う適湿地でなかったに違いないから,
字在家・宿・塚本に属する地籍の土地である。数
当然大河川の水が引かれたと考えるほかはない。
詞の得られる坪名はなく,深町のほかには条里水
条里水田地域では東方をA川が,西方を他の河川
田に見られ勝ちな坪名も少ない。それだけに三条
(B川と仮称しよう)が自然堤防を伴って流れてい
町は顕著な地名である。条里水田のひろがりを考
たとすれば,それらの河川が用水源となったはず
察した結果,その面積は図3のとおりで,これま
である。水田地域は全体として東方が僅かながら
での通説の約2倍である。坪の一辺がほぼ112、5
一11一
研究紀要(1978)
mである。これは108∼109mという通例より著し
定の緩流でなくてはならない。減水期に入ってい
く大きいことも注目されてよいが,その意味を解
たり,分流が多かったりで,小流に近ければ問題
く手掛りは得られていない。
はない。それでも洪水が起ったろうが,条里遺構
②用水量が少なくてすむ根拠 この条里水田は
を全く消滅させるようには機能しなかった。
用水量が少なくてすむ土地であることは,江戸時
A川がすでに他に転じていた証拠として,A川
代大宮台地からの谷水(鴨川)をA川の河道跡に
両岸の自然堤防に古墳などが多いことを挙げるこ
設けた溜池(関沼)に集め,これを配分しただけ
とは有力であるが,なお吟味の要はある。初めは
で,こと足りていることで明らかである。このよ
A川などからの河川灌瀧に依存し,後にA川が他
うな水源と水量に頼る形は自然灌海ないし自然灌
転したため,鴨川の谷水に切りかえたとも考えら
溜iに近い段階であることを意味する。自然灌瀧の
れるが,説明が整い過ぎる。後背湿地(堤間低
成立に必要なのは,そこで水が多量に得られるこ
地)は東北方から西南方へ微かに傾斜していて,
とではなくて,少なくてすむ土地条件である。地
用水路はそれにしたがっている。ポンプの使用が
形が自然堤防間の平坦な堤間低地であり,地層が
なければ,僅かの地表傾斜にも従順でなくてはな
河成のシルト層であり,水田の土壌が泥炭土とは
らず,現在(明治初期の地籍図)と極端に異なる
いえないが,粘性土であり,現在でも地下水位が
用水路形態を明治以前に求めることはできない。
0.3∼0.5mで,保水性に富む土地性質を持つこ
端的にいえば,古代における用水路の傾斜の系統
と,これが少ない用水量ですむ理由である。
は大局的には耕地整理まで踏襲されたと見たい。
③用水源についての二つの考え方 甲案:さき
④荒川またはそれ以上の大河川であったことを
にあげた大宮台地の谷水(鴨川一→関沼一→条里
河道跡で物語るA川は,そもそもいずこから流下
水田), 乙案:A川など大河川からの河川灌瀧
していたか。それら荒川本支流の変遷史について
甲案が成立するにはA川が他に転じた後でなく
はさらに稿を新たにしなければならない。本小論
てはならない。乙案を是認するにはA川などが一
竹内常行教授古稀記念論文に加えて頂きます。
AStudyoftheJ6riSystemPaddyFieldsAroundUrawaCity
Yoshiaki KAGOSE
This report deals with some results of the restoration works for the ancient paddy丘eld pattem
developed by the Jori system,a grld−pattem land development,in the southem part of Saitama Prefec−
ture.
1.Jori syste瓢paddy五elds are found around Arakawa river。
2.My oplnion is as follows,
②TheirrigationwaterforthesepaddyfieldsusedtoriseinavalleyinOmiyaupland$,whichare
to the north−east of them.
⑤ The irrigation water for these paddy丘eld used to come from a large river as the Arakawa.
3.The soil in these paddy丘elds is either clay or silty clay,but it contains Iittle peat, It seams that
much irrigation water was not necessary for these paddy五elds。
4.The land form of these paddy五elds is an inter−1efee basin.
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